第二十二章 予期せぬ死
「一体、いつ実行するんだ?」
と、赤松に言われ、由加は、
「再来週の木曜日がいいわ」
と、真剣な表情で言った。というのは、その日は鬼頭が休暇日であり、由加に何処かに行かないかと、由加に言って来ているのだ。そして、その日、赤松も休暇日ともなれば、その日は正に早々とやって来たチャンスといえるだろう。
そして、これによって、赤松が考え出した鬼頭殺しが行なわれる日が決まったのだ。
そして、やがて時間は経過し、木曜日となった。その日は、正に赤松と由加の計画を実行する日であった。正に、赤松と由加にとって、その人生において、最も重要な日となる筈であった。
そんな由加の思いなどつゆ知らない鬼頭は、正にご機嫌であった。
鬼頭が運転するBMWは、今、熱海市街を抜けては、伊豆半島に乗り出したところであった。
首都高速や東名高速道路で何ら渋滞に巻き込まれることなくすんなりと走り抜けた鬼頭は「今日はついてるよ」を、連発していた。そして、熱海に着いた頃には、鬼頭は助手席に座ってる由加の肩を右手で抱え込むといったご機嫌振りであった。
鬼頭は車を運転しながら、その一方の手で由加の肩を抱え込むといった仕草を見せたことは今までに一度もなかった。
それ故、そのことは今の鬼頭のご機嫌振りを象徴してるといえよう。
しかし、由加の表情には幾分か硬さが見られていた。しかし、それは当然だといえよう。何しろ、これから由加は鬼頭を石廊崎の断崖から突き落とし、鬼頭を亡き者にしようと目論んでいるのだから。
そんな由加であったから、平静を保とうとしても、それは困難というものであろう。それ故、由加の表情は自ずから硬くなってしまっていたのだ。
そんな由加の異変に鬼頭は気付いたのか、
「何処か、身体の具合でも悪いのか?」
と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
すると、由加は、
「何でもないわ」
と、笑顔を繕った。
そして、その後、鬼頭と由加は他愛ない会話を交わしながら、車は快適に進んでいた。
網代を過ぎ、伊東を過ぎ、伊豆高原を過ぎ、やがて、熱川も過ぎた。
今日は曇天であり、太陽は雲に隠れて、見えない時が多かった。そういった状況であったから、海は鉛色に見える時が多かった。
だが、鬼頭は始終ご機嫌であった。
鬼頭は、正に今や金も由加も掌中に収めたことを認識していた。そんな鬼頭は今や、鬼頭の人生の頂点に達してるのではないかとも思ったりしていた。
そんな鬼頭に熱川を過ぎた頃、由加は、
「富子はもう何も言って来ないの?」
そう由加に言われ、鬼頭の表情から突如、笑みが消えた。由加のその問いが、鬼頭に嫌なことを思い出させたからだ。
その嫌なこととは、先月、世良という警官が鬼頭の許にやって来ては、富子に関して何だかんだと訊いて来た。富子が二月の半ばに失踪し、その失踪に鬼頭が関係してるのではないかと、鬼頭は疑われてしまったのだ。鬼頭が富子と共に二月の半ばに網走に行ったことを突き止められてしまったのである。そして、何故最初にそのことを世良に話さなかったのかと、詰め寄られてしまったのだ。
もっとも、鬼頭としては、そうなった場合、どのように対処するかは、ちゃんと考えてあった。即ち、ウトロで富子と喧嘩をし、別れ、その後の富子のことは知らないで押し通す算段であったのだ。また、富子が行方不明になってることに言及されれば、富子は鬼頭に対する失恋の結果、姿を晦ましたと主張しようと思い、そして、その主張を鬼頭は世良に力説したのだ。
すると、鬼頭のその作戦は功を奏したようであった。というのは、鬼頭のその主張に世良は反論することが出来なかったからだ。
鬼頭としては、流氷上から鬼頭が富子を突き落とした場面を眼にした者は誰もいないということに自信を持っていた。更に、あの時、鬼頭と富子が流氷の上を歩き出した場面を眼にした者は誰もいないという自信も持っていた。
それ故、鬼頭の行為は絶対にバレないという自信を持っていた。
それ故、世良が鬼頭に何だかんだと訊問を行なってから二十日過ぎても世良が何も言って来ないとなると、鬼頭は世良が鬼頭のことを追い詰めるのは無理だと理解したのだ。そう理解すると、今や世良のことなどすっかり忘れていたのだ。
だが、由加の口から富子の名前が発せられた為に、鬼頭は世良のことを思い出してしまったのである。
由加はといえば、富子が行方不明になってることなど、まるで知らなかった。
とはいうものの、以前は鬼頭の口から度々富子の話が出ていた。全く、鬼頭にとって疫病神のような女だという具合に。
しかし、最近では全くといっていい位、鬼頭の口から富子の話は出ないのだ。
そのことと、今、鬼頭と由加との間で、丁度話題が途切れていた。それで、由加は手頃な話題を出すかのように、富子の話題を発したのである。
由加にそう言われ、鬼頭の言葉は詰まってしまった。何しろ、由加は鬼頭にとって最も触れられたくない部分に言及したからだ。
だが、鬼頭はやがて、
「ああ。そうなんだよ。それに、俺は今、富子がどうなったのか知らないんだよ」
と、些か笑みを浮かべては言った。
「どうなったか知らない?」
「ああ。そうだ。以前も言ったように、俺は富子に、『もうお前のことは好きじゃない!』と、富子を突き放すように言ってやったんだ。すると、それ以降、富子は何も言って来なくなったんだよ」
と、鬼頭は不敵な笑みを浮かべては言った。
すると、由加は鬼頭が以前そのように言ったことを思い出したのか、
「そうだったね」
と、些か笑みを浮かべては言った。
由加は今まで男から「もう、お前のことは好きじゃない!」なんてことは言われたことはなかった。即ち、由加は今まで男に振られたことは一度もなかったのだ。それが、由加であったのだ。
そんな由加は、改めて女としての自信を痛感した。何しろ、由加は富子のように男から軽んじられたことはなかった。それ故、由加は今まで一度も眼にしたことのない富子という女に対して、大いに優越感を感じたのである。
それはともかく、今日はウィークディの為か、車の渋滞はまるで見られず、車は快適に疾走し、やがて、ガードレール下に断崖が見られるようになった。
既に正午を過ぎていたが、石廊崎で昼食を食べることになっていたので、石廊崎に着くまでは、鬼頭は車を停めないで走り続けるつもりであった。
そんな鬼頭の右手は、程なく、由加の乳房の上に置かれた。そして、由加の乳房をブラジャーの上からではあるが、少し揉んだのである。
そのような行為を鬼頭が由加に対して車の中で行なったのは、初めてのことであった。
しかし、由加はそんな鬼頭の手を払い除けようとはしなかった。
そんな由加のことを鬼頭は横眼でちらちらと眼にしながら、いかにも卑猥げな笑みを浮かべていた。
二人は既に何度も身体を交わらせた間柄であった。それ故、鬼頭のその行為は鬼頭にとって当然の行為だと、鬼頭は言いたげであった。
由加はといえば、鬼頭に乳房を揉まれ、薄らと笑みを浮かべていた。そんな由加を他人が見れば、由加は正に鬼頭の女に違いないと看做すことであろう。
だが、由加に言わせれば、それは間違いであった。由加の男は赤松弘信であり、鬼頭は由加にとって単なる金蔓に過ぎなかったのだ。
だが、その金蔓に過ぎない男に、これ程まで図々しくされたのでは、堪らないというのが、由加の本音であった。
だが、ここで、由加の本音を見せては駄目だ。飽くまで由加は鬼頭の女になったんだと、鬼頭に思わせておくことが肝心なのだ。
そして、鬼頭に油断させ、そして、鬼頭を死に至らしめるのだ!
そう思わなければ、今の鬼頭の行為は由加にとって決して許すことの出来ない位のものであったのだ。
そのように由加が思った時に異変が起こった。何故なら、その時、鬼頭は急ブレーキを掛けては、急にハンドルを左に切ったからだ。
その弾みで、鬼頭と由加を乗せたBMWは、あっさりとガードレールを突き破り、断崖下へと落下して行った。そして、それは正に二人にとって死の扉となったのである!
このような事態が起こるなんて、果して鬼頭と由加は予期していたであろうか?
そのような事態が起こるなんて、鬼頭も由加も全く予期してなかったであろう。何しろ、鬼頭は五万キロ以上もの走行歴のあるドライバーであり、また、今まで全くの無事故者であったのだ。また、由加も車の運転に関しては、鬼頭には全幅の信頼を置いていたのだ。
そんな鬼頭であったにもかかわらず、一体何故鬼頭は急ブレーキを掛け、急ハンドルを切ったのであろうか?
それを説明出来るのは、鬼頭自身と、鬼頭と共に鬼頭が運転するBMWに同乗していた由加しかいないであろう。
では、その時、二人に何が起こったのかを説明する。
実はその時、二人にとって予期せぬ出来事が発生してしまったのだ!
その予期せぬ出来事とは、鬼頭は時速八十キロというその道の制限時速を遥かに超える速度でBMWを走らせていた。何しろ、今日はウィークディで車の往来は少なく、また、見通しの良い道であった為に、スピードを出せる条件が揃っていたのだ。
だが、その時、突如、八十位の年老いた男がガードレールを乗り越え、鬼頭のBMWの五メートル程前で仁王立ちしたのである!
<危ない!>
そう思った鬼頭は、思わず急ブレーキをかけ、急ハンドルを切ってしまったのだ!
だが、その弾みで鬼頭が運転するBMWは、ガードレールを突き破り、断崖下へと落下し、二人は還らぬ人となってしまったのである。
すると、その老人は、いつの間にやら、その姿がすっと消えてしまったのである。
しかし、そんな馬鹿なことがあるであろうか? その老人は今までガードレールの傍らに身を潜め、車が通り掛かるのを見て、飛び出してやろうと目論んでいたのであろうか? ということは、その老人は自殺志願者であったのであろうか?
また、その老人は、鬼頭と由加を乗せたBMWがガードレールを突き破っては、断崖下へと落下して行くと、その姿がすっと消えてしまったというのは、どういうことなんだろうか?
それは、正に不可解な出来事としか言いようがないであろう。
しかし、その不可解な出来事の謎を説明しようと思えば、説明出来ないこともないのだ。
とはいうものの、その前に、鬼頭と由加を乗せたBMWの前に突如現われた老人の正体を明らかにしておく必要があるであろう。そして、その正体を明らかにすることが出来る人物がいるとしたら、それは岡野富子なのだ。
岡野富子とは、鬼頭辰五郎によって、流氷の海に突き落とされ、僅か二十九歳であの世に逝った岡野富子のことであろうか?
そう! 正にその岡野富子のことなのだ!
その岡野富子が、鬼頭と由加を乗せたBMWの前に現われた老人が誰なのか言い当てることが出来るのだ。そして、その老人の正体は、何と村木藤次郎であったのだ!
そんな馬鹿な! 村木藤次郎は昨年の六月に、阿寒湖で岡野富子の手によって、命を断たれたのではないのか? そして、七十六年の生涯を終えたのではなかったのか?
その村木が生き返り、鬼頭と由加を乗せたBMWの前に突如現われるなんてことが起こり得るのだろうか?
しかし、現実ではそんな馬鹿なことが起こってしまったのである!
幾ら科学が発達したとはいえ、この世のあらゆる現象を説明出来るわけでもないであろう。
とりわけ、生命に関しては未知な部分が多く存在している。幾ら科学が発達したといえども、蟻一匹とて作ることは出来ないのだから。
従って、この世に未練を遺してあの世へと逝った者の怨念が人間の形となって再び世人の前に現われるといった心霊現象が起こったとしても、それはまか不思議ではない!
それ故、死んだ村木が再び村木の姿となり、この世に現われたということは、その心霊現象が発生したということなのだろう。
しかし、ちょっと待ってくれ!
村木は富子によって殺された人物だ。その村木が何故、村木とは何ら面識のない鬼頭と由加の前に現われたのだろうか? その事実は何だか矛盾してるのではないだろうか? もし、村木が再び村木の姿となり、この世に現われるとすれば、それは富子の前ではないだろうか? それが、事の道理というものではないのだろうか?
ところが、そうではないのだ! 村木に言わせれば、その事の道理は誤ってるのだ!
では、何故そうなのか?
村木に言わせれば、村木は確かに富子によって殺されたのだが、そうだからといって、村木は富子のことを決して恨んではいないのだ!
村木は二十年前に妻に先立たれ、とても寂しい思いをしながら毎日を送っていた。
そんな村木の前に現われたのが、富子であった。そんな富子はやがて村木にとって天使のような存在となったのだ。それ故、村木は富子に五千万もの金を使ったのである。
しかし、それは村木にとって何ら惜しくはなかった。富子に言われれば、村木の全財産を富子の為に使ってもよかったのだ。それ程、村木は富子に心酔し、また、富子が村木の前に現われたことに感謝していたのだ。
更に、村木はもう七十六歳であった。それ故、残りの人生が長くないのは、当然であった。
そんな村木は身体が動かなくなる前に死にたいと思っていた。そして、その村木の思いを富子が叶えてくれたことを村木は知っていたのだ!
そう! 村木は自らが富子に殺されたことを知っていたのだ!
そして、富子の村木殺しの目的が金であり、その金が富子の為に使われるのなら、それは村木にとって願ったり叶ったりだったのだ!
だが、実際はそうではなかった。
村木の金は富子によって使われるのではなく、富子を殺した鬼頭辰五郎なる男によって使われることになったのだ!
その事実は村木にとって許すことは出来なかった。
それ故、村木は鬼頭を許すことは出来なかった。
それ故、村木は鬼頭の人生に終止符を打ったのであった……。