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 今までの捜査から、川田を殺した犯人は、上階の小笠原正子である可能性が高まっていた。
 しかし、今の時点では、正子を逮捕することは出来なかった。川田が被害に遭ったS公園の近くで、正子らしき女性が目撃されたという情報はもたらされたが、それは正子逮捕の決め手とはならなかったというわけだ。
 そこで、改めて捜査会議が行なわれたが、その席で正子に的を絞って捜査するのはいかがなものかという意見が出された。確かに、川田は正子と騒音トラブルを抱えてはいたが、それが起因して殺人事件が起こるのかということだ。何しろ、正子は三人の子供の母親だ。そんな正子が、殺人事件を起こせば、子供がどのような思いをするか分からない程馬鹿ではないのではないかということだ。即ち、正子がいくら育児に悩み、また、階下の居住者と騒音トラブルを抱えていたとしても、殺しまでは行なわないのではないかというわけだ。
 もし、そうだとすると、一体誰が川田を殺したのか?
 可能性としては、倉吉豊子の線の方が高いのではないかと主張する刑事もいたのだ。
 何しろ、川田は襟裳岬近くで倉吉豊子を撥ね、豊子の遺体を襟裳岬の断崖下に遺棄した疑いをもたれてる人物だ。そんな川田に、豊子の遺族が殺してやりたい位の思いを持ち、その思いが現実と化してもおかしくはないというものだ。その線をもう少し捜査してみてはどうかという刑事もいたのだ。
その刑事は、秋元豊警部補(37)であった。
そんな秋元は、豊子の遺族のアリバイを全て捜査してみてはどうかと言った。
それで、その捜査を北海道警の竹之内たちに行なってもらうことにした。 
その依頼を受け、竹之内たちは早速、豊子の遺族のことを捜査してみた。豊子には、正成をはじめとして、子供三人、更に孫七人がいた。川田に対して、殺意を抱いたとすれば、この十人の内の誰かであろう。そして、その十人の内、まだ正成以外のアリバイは確認出来てないのだ。
そして、早速、その残りの九人に対して捜査を行なってみたのだが、その結果は思わしいものではなかった。その九人の全てが、アリバイがありそうだったからだ。
その一方、「栄光ハイツ」の管理人の広瀬から、興味ある情報を入手していた。
というのも、竹上は広瀬に、川田が襟裳岬の事件で犯人として疑われてたという旨を話したところ、
「そういえば、204室の菊川里美さんも、お母さんが轢き逃げに遭ったと言ってましたね」
 と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「204室の菊川里美さん?」
「そうです。川田さんの隣に住んでいる方ですよ。それに、菊川さんも確か襟裳岬の方の出身ではなかったですかね」
 と、広瀬はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「その菊川さんの母さんは、いつ轢き逃げに遭ったのですかね?」
「三年前だそうですよ。でも、未だに犯人が見付からないそうですよ」
 そう広瀬に言われ、菊川里美の母親が倉吉豊子でないことは確実だ。しかし、出身が襟裳岬の方で、母親が轢き逃げによって死亡したということから、竹上は何となくその菊川里美という女性が、川田の事件に関係してそうな気がした。
 それで、直ちに浦河署の竹之内の電話をして、その思いを竹之内に伝えた。 
 すると、竹之内も同感だと言い、菊川里美のことを捜査してくれないかと言った。
 それを受けて、竹上は早速菊川里美と会って、話をしてみることにした。
 竹上はそんな菊川里美を一眼見て、正木正也が語ったような女性だとぴんと来た。髪がおかっぱで、慎重163センチから165センチ、そんな里美が黒の上着とズボンをはけば、正木正也が語った女性とぴったりなのではないのか? その思いが竹上の脳裏を過ぎった。
 それはともかく、竹上は、
「菊川さんに少し訊きたいことがあるのですがね」
 と、里美の顔をまじまじと見やっては言った。
「私に訊きたいこと?」
 と、里美は怪訝そうな表情を浮かべては言った。そんな里美は、刑事から訊かれるようなことは何もないと言わんばかりであった。
「菊川さんは、隣室の川田さんが、先日、この近くのS公園で他殺体で発見されたのをご存知ですよね?」
 と、竹上は里美の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、里美は、
「ええ」
 と、素っ気無い表情と口調で言った。そんな里美は、その件が何か関係あるのかと言わんばかりであった。
 そんな里美に竹上は、
「その事件で、菊川さんは何か心当たりありませんかね?」
 と言っては、眉を顰めた。
 すると、里美は、
「何もないですね」
 と、平然とした表情で言った。
「そうですか。で、菊川さんのお母さんさんは、轢き逃げによって、お亡くなりになられたとか」
 そう竹上が言うと、里美は、言葉を詰まらせた。そんな里美は、その件に関しては、何も語りたくないと言わんばかりであったが、やがて、
「警察はまだ母を殺した犯人を捕まえてくれないのですか」
 と、竹上のことを非難するかのように言った。 
 そんな里美に、竹上は、
「どこで被害に遭われたのですかね?」
「北海道の帯広の方です」
 と、里美は憮然とした表情で言った。
「そりゃ、申し訳ありません。北海道警としても全力で捜査していると思います」
 と、言うしかなかった。
「で、菊川さんは、襟裳岬の方の出身そうで」
「そうですよ」
「正確には、襟裳岬の方のどの町ですかね?」
「浦河町です」
  と、里美は神妙な表情で言った。
「浦河町ですか……」 
 と、竹上は呟くように言った。
 何しろ、隣室の川田は、浦河町辺りで老婆を轢き逃げしては死に至らしめた疑惑を持たれていた男だ。そんな男がこの菊川さんの隣室に住んでいたことが、偶然といえるだろうか?
 その思いが、改めて込み上げて来た。 
 そして、その思いを竹上は、竹上の胸の内に留めるだけではなく、里美に言った。
 すると、里美は、
「それは偶然ですね」 
 と、憮然とした表情で言った。
「しかし、こんな偶然が起こり得るものでしょうかね?」
 と、竹上は怪訝そうな表情で言った。
「起こったから、仕方ないですわ」
 と、里美は再び憮然とした表情で言った。
 そして、竹上はこの辺で菊川里美に対する捜査を終えることにした。別に菊川里美という女性が、川田が起こしたと思われる事件の近くの出身で、また、里美の母親が轢き逃げによって死亡したからといって、里美が川田の事件と関係してると決め付けるのは早合点かもしれないと思ったかった。 
 そう竹上は思ったのだが、その竹上の思いは早々と間違っていた思いということが分かったのだった。何故なら、川田の机の中から、菊川里美に関することを記したメモ書きが見付かったからだ。そのメモ書きには、
〈明日の午後八時に隣室の菊川という女から会いたいと言われ、俺は会うことになった。菊川里美という女は、俺の重大な秘密を握ってるから、もし会わなければ、俺の重大な秘密を警察に言ってやるとか吐かしやがった。全く、禄でも無いことを吐かすあばずれ女だ。菊川里美は〉
 と、記されていたのだ。 
 このメモ書きを発見すると、直ちに、このメモ書きが川田自身の手によって書かれたメモ書きだったのか、筆跡鑑定が行なわれることになった。このメモ書きは手書きで書かれていたのだ。
 そして、川田の部屋にあったノートに記されていた川田の自筆で書かれたノートなどから、そのメモ書きは川田自身の手によって書かれたものであったことが、早々と明らかになった。
 これを受けて、直ちに菊川里美を署に任意出頭させては、訊問を行なうと言いたいところだが、このメモ書きのことをあっさりと否定されてしまえば、それまでだ。
 もっとも、このメモ書きから、川田殺しの犯人として、菊川里美への容疑が一層高まったのだが、後一歩決め手に欠くといえるだろう。
 しかし、菊川里美宅の家宅捜索の礼状が出たので、里美宅の家宅捜索が直ちに行なわれた。里美は猛烈に抗議したのだが、どうにもならなかった。
 すると、成果があった。里美と川田との会話を録音したICレコーダーが見付かり、その会話から、里美が川田を殺したのが決定的となったのだ。また、このICレコーダーを突きつけられ、里美は川田殺しを認めたのだ!
 では、里美に自白をもたらしたそのICレコーダーには、どのような内容が録音されていたのかを以下に記す。

「私、昨夜、とんでもないことを耳にしてしまったのよ!」
「とんでもないこと?」
「そうよ。とんでもないことよ。あんたは、昨夜の夜の二時頃、随分とうなされていたのよ。そのことが私の耳に聞こえたのよ!」
「どんなことが、聞こえたって言うんだ!」
「あんたは、先日の北海道旅行の時に、婆さんを車で撥ねてしまったのよ! そして、その事実を闇に葬る為に、その婆さんの死体を襟裳岬の断崖下に遺棄したのよ!」
「……」
「私は、先日、あんたの部屋に警察がやって来て、あんたとの会話を盗み聞きしてしまったのよ。あんたは、そのことを否定していたけど、あんたのうわ言から、どうやら警察が言ったことが正しかったようね」
「……」
「私、あんたを許せないから、あんたのうわ言のことを警察に話してやるわ!」
「馬鹿馬鹿しい! うわ言なんか、信頼出来るものか」
「でも、私が言ったことが、警察の捜査の役に立つかもしれないわ」
「そんなもの、役に立たないさ。それに、あんたは部外者なんだから、余計なことをやらないでもらいたいな」
「いいえ。私は部外者ではないわ!」
「それ、どういう意味なんだ?」
「私の母は轢き逃げに遭い、死んだの。犯人はまだ見付からないの。だから、あんたのように轢き逃げをし、白を切ってるような人間を許せないのよ」
「だから、俺はそんなことをやってないんだよ」
「その話は明日、S公園で聞くわ。もし、明日の午後八時にS公園に来なければ、私は私の知ってることを警察に話すからね」
 〉
 これが、ICレコーダーに録音されてる内容だった。
 更に、里美の自供によると、先述されてるように、里美の母親は、車の轢き逃げによって死亡し、その犯人はまだ明らかになっていない。それ故、里美は轢き逃げ犯に強い憎悪を持っていた。そんな折に、川田のうわ言を耳にし、更に川田と刑事との会話を盗み聞きしてしまった。その内容は、川田が襟裳岬近くの道路で老婆を轢き逃げし、その事実を闇に葬る為、老婆の死体を襟裳岬の断崖下に遺棄したであった。 
 川田のうわ言だけなら、それを信じはしなかったが、刑事と川田の会話を耳にした里美は、川田のうわ言が真実だと看做した。
 そして、そのうわ言を耳にし、里美は刑事の推理が正しいと看做した。
 轢き逃げ犯に強い憎悪を持ち、更に川田の事件が発生したのは、里美の生まれ故郷の浦河町だとのことだ。これを単なる偶然と片付けてよいのだろうか? いや。そうではない。里美の母が川田の犯行を許すなと、里美に告げたのだ! 
そう理解した里美には、躊躇いはなかった 里美は川田を巧みにS公園に呼び出すと川田の背後にそっと近付き、タイガーナイフで心臓に近い辺りを渾身の力を込めて一突きしたのだ! その結果、訪れたのが、川田の死であったのだ!
 因みに、川田が死んだ今となれば、倉吉豊子の事件の真相は謎として終わったのだ。
 しかし、警察の推理通りであったことは、多くの人が認める次第だ。
 

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