第六章 永遠の眠り
分厚いカーテンから、薄らと差し込む陽光を感じ取った八代は、朝の到来を感じ取った。
そう! 朝が到来したのだ!
それで、八代は腕時計に眼をやった。
すると、午前七時を少し過ぎた頃であった。
しかし、八代はこの時、<おかしいな>と思った。何故なら、八代は腕時計をしたまま、眠りはしないと思ったからだ。
それ故、八代は昨夜は余程、疲れていたのではないかと思ってみた。
それはともかく、八代は上半身を起こしてみた。
すると、八代は怪訝そうな表情を浮かべた。何故なら、部屋の中の様子が、八代が記憶していたものとは、違ってたからだ。八代が宿泊していたホテルとは違ってるように思ったのだ。
それで、八代は窓際に行っては、分厚いカーテンを開けた。
すると、そこからは、確かに真白な平原と化してる阿寒湖を眼にすることは出来た。
だが、八代が記憶してる八代が宿泊していた暁ホテルからの光景とは、やはり、違っていた。
それで、八代は改めて部屋の中を見回してみた。
そんな八代は、頭を左右に振った。
そして、自らの右腕をつねってみた。
すると、痛いという思いが過ぎった。
そう! 八代は夢を見てるのではないのだ!
それで、八代は改めて、部屋の中を見回してみた。
すると、八代の記憶は忽ち戻った。
即ち、八代は今、何処にいるのかを思い出したのだ!
この部屋は、長崎弥生という女性の部屋だったのだ!
それで、八代は記憶を遡らせた。すると、八代の記憶は、徐々に蘇って来た。
この室の主の長崎弥生は、オンネトートレッキングの帰り路で足を挫いてしまった。その為、八代はこの室まで弥生を送ってやったのだ。
そして、八代はこの室の前で弥生と別れようとしたのだが、弥生が室の中に入ってと言ったので、八代は弥生と共に中に入った。この辺りのことまで、八代はあっさりと思い出した。
となると、八代はこの部屋の中で、眠りこけてしまったのであろうか?
そう思うと、八代は思わず赤面してしまった。何故なら、八代の行為によって、弥生に迷惑を掛けてしまったと思ったからだ。
そんな八代は、とにかく弥生の姿を探してみた。
しかし、何故か弥生の姿は見当たらなかった。
部屋の中には、ベッドが二つ置かれていた。だが、弥生が眠ったと思われるベッドは、綺麗に整頓されていて、弥生が眠ったのか、眠ってないのかは、よく分からなかった。
そして、八代はこの時、
<朝風呂か……>と思った。
そして、その可能性は、十分にあると思った。
室内にユニットバスはあるものの、このホテルは大浴場が自慢であるに違いない。それ上、弥生は朝風呂に行ったのではないかと思ったのだ。
それで、八代はこの室の中で、しばらく弥生を待ってみることにした。
そんな八代は、窓まで行っては、阿寒湖に眼をやったのだが、程なく、今になって、自らがトランクス一枚しか身につけてないことに気付いた。室の中は暖房がきいてたので、寒くなかったのだが、今になって、浴衣を着てないことに気付いたのだ。
そう思うと、八代は改めて赤面してしまったのだが、この時、八代の脳裏にとんでもない記憶が蘇って来た。
それは、素っ裸同士の八代と弥生が、身体を絡ませていたということだ。そして、八代の男のシンボルが弥生の女の部分に挿入され、弥生は激しく腰を律動させた為に、八代は男の液体を弥生の女の部分に放出させてしまったという記憶であった。
とはいうものの、八代はそのことが、果して現実の出来事であったのか、断定する自信はなかった。それ程、その記憶は朧気であったのだ。八代はそれは、やはり、夢ではなかったのかと思うのだ。
それで、八代は昨日の記憶を今一度、思い出した。
すると、八代は弥生からもらったコーヒーを飲んだ後、眠気に襲われ、眠りに落ちてしまったということを思い出した。
となると、コーヒーを飲んだ為に、疲れが押し寄せ、眠りに落ちてしまったのだろうか?
そう思うと、八代は思わず険しい表情を浮かべ、腕組みをし、そして、考えを巡らせた。
しかし、深く考えるまでもなかった。何故なら、コーヒーは眠け覚ましの為に飲むものであり、コーヒーを飲んで眠くなったという経験は、八代にはなかったのだ。
となると……。
八代は更に考えを巡らせた。
その結果、弥生が淹れたコーヒーの中に、睡眠薬が入っていたのではないかという思いに至った。
勿論、睡眠薬を入れたのは、弥生だ。
しかし、一体何故?
その理由が、八代には分からなかった。
それで、八代は更に考えを巡らせてみた。
すると、自ずからある考えが浮かび上がって来た。
それは、八代との性交のことだ。
弥生は八代と性交をする為に、八代のコーヒーに睡眠薬を入れたのではないのか?
初対面の相手に、身体を与えるというのは、女性の体面上、許されないことなのかもしれない。それ故、八代に睡眠薬を飲ませては、弥生の思いを成し遂げたのかもしれない。
しかし、この推理にも、欠点が無いわけではない。
というのは、八代は髪の毛が半分程、白くなってる中年男だ。また、実際の年齢以上に老けて見えるのだ。
それに、八代はお世辞にもカッコイイ男とはいえない。それ故、そんな八代を性欲の対象として選ばなくてもよいのではないのか?
そう思うと、弥生の行為は、八代にとって、理解出来るものではなかった。
しかし、世の中には色んな女がいるものだ。相手が男なら、容姿年齢は問わないという女はいるのかもしれない。
とはいうものの、八代は、弥生はそのような女には見えず、やはり、理解出来ないというのが、本音であった。
それはともかく、弥生は一体どこに行ってしまったのだろうか?
何しろ、時刻は既に八時を過ぎてしまったのだ。
この時間になっても戻って来ないというのは、朝風呂に行ったというのも、無理があるのではないのか?
それで、八代は部屋の中に眼を光らせた。置き手紙のようなものがないかと思ったのだ。
だが、そのようなものは、まるで見当たらなかった。
それで、改めて室内に眼を光らせたのだが、すると、八代の表情は忽ち険しくなった。というのは、弥生のザックが見当たらなかったからだ。弥生はオンネトートレッキングに行った時、確かにザックを持っていたのだ。そのザックが見当たらないのだ。更に、弥生の衣服、オーバーも……。
<そんな馬鹿な!?>
八代は、この事実が信じられなかった。
しかし、八代はこの時、とんでもない思いが過ぎった!
そう! 長崎弥生という女は、とんでもないペテン師ではなかったのか!
八代は弥生と出会う前日に、国道240号線で拾った森田という男に引っ掛かり、あっさりと有り金を奪われてしまった。弥生も、その森田と同じではなかったのかという思いが、八代の脳裏を過ぎったのだ!
それで、八代は直ちに、八代の傍らに置かれていた八代のズボンのポケットを調べてみた。
だが、八代の表情は、忽ち安堵したものに変貌した。何故なら、財布は確かにあり、また、お金は何ら盗まれてなかったことを確認出来たからだ!
とはいうものの、弥生が何処に行ったのかという手掛かりを摑めたわけではなかった。
しかし、弥生のザックとか衣服が、更に、オーバーもなかったとなれば、既にこのホテルから去ってしまったという可能性も高い。弥生は、八代とのアバンチュールを愉しんだ後、あっさりとこのホテルを後にしたのかもしれない。
そう思うと、八代は少しの間、窓際に置かれてる椅子に座っては、阿寒湖に眼をやってたのだが、やがて、もうこの部屋にいる必要はないと察した。
しかし、帰り際にとにかく、フロントに行っては、弥生のことを訊いてみた。
すると、まだ二十代と思われる若いフロントマンが、
「まだ長崎さんは、チェックアウトなされてませんが」
と、笑顔を浮かべては言った。
「そうですか……」
八代は呟くように言っては、ロビーのソファに腰掛けた。
そんな八代は、呆気に取られたような表情を浮かべていた。弥生は既にホテルを後にしたものとばかり思っていたからだ。
しかし、実際はまだチェックアウトしてなかったのだ。
<一体、どうなってるんだ?>
八代は渋面顔を浮かべては、少しの間、腰を下ろしていたのだが、やがて、フロントマンに一声かけて、ホテルを後にすることにした。フロントマンに対することづけは、<室を後にします。八代>であった。
八代がホテルを後にしたのは、午前九時前のことであった。
ホテルの外に出ると、そこは正に別世界であった。
ホテルの中で、オーバーは必要なかったが、外ではオーバーを身に付けていても、寒さが骨身にこたえる位であった。
早く、八代の宿泊先のホテルに戻らなければ……。何しろ、昨日は暁ホテルに戻らなかったのだ。また、電話も入れてなかった為に、ホテルも心配してることだろう。
そう思いながら、八代は近くにある暁ホテルに足早で向かったのだが、そんな八代の眼は、妙な光景を眼に留めてしまった。
妙な光景とは、パトカーが二台、赤色灯を点滅させては、阿寒湖畔に停まっていたからだ。
<一体、何事が起こったのだろうか?>
八代は思わず野次馬根性を発揮してしまい、パトカーに近付いて行った。
するとパトカーの周辺には、七人程の人が姿を見せていた。
八代は野次馬と思われる五十位の黒いオーバーを着てる男性に、
「何か起こったのですかね?」
と、好奇心を露にしては言った。
すると、男性は、
「阿寒湖上に、女性の死体が発見されたそうですよ」
と、今まで阿寒湖の方に向けていた眼を八代に向けては、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「女性の死体ですか」
八代も神妙な表情を浮かべては言った。
「何でも、湖岸からかなり離れた場所で、仰向けになって死んでいたそうです。今朝、ヤイタイ島の方に向かって歩くスキーを行っていた観光客が見付けたそうです」
男性は再び神妙な表情を浮かべては言った。
「そうですか……。でも、その女性は、どうして亡くなったのでしょうかね?」
八代は眉を顰めた。
「さあ……。どうしてでしょうかね」
男性も眉を顰めた。
そのような会話を八代と男性は交していたのだが、やがて、五人の警官と思われる人物たちが、橇のようなものを引いて湖岸に向かってるのを八代は眼に留めた。そして、その者たちの歩みは、とても緩やかなものであった。
その者たちを指差し、八代は、
「あの人たちが引いてる橇に、女性の遺体が載ってるのでしょうかね?」
と、神妙な表情で言った。
「そうだと思いますよ」
男性も神妙な表情で言った。
女性の遺体と思われるものを橇に載せてる警官たちは、やがて、湖岸に近付いて来た。
そして、八代たちがいる場所に後少しという所になると、八代は女性の遺体が載せられてると確信した。その橇には、毛布が被せられ、その膨らみ具合から、八代はそう確信したのだ。
やがて、橇を引いている五人の警官たちは、湖岸に着いた。
そして、その頃には、救急車が現場に到着していた。
警官たちの到着を待ってましたと言わんばかりに、救急隊員たちが警官たちに、担架を差し出した。即ち、女性の遺体を橇の上から担架の上に移し替えるというわけだ。
警官たちは、毛布を被せられた女性の遺体を抱え上げ、担架に移し替えようとした。
だが、その時、女性の顔の部分の毛布がまくれてしまった。それで、女性の顔が晒されてしまった。
すると、その女性の顔をはっきりと見てしまった八代の表情には、驚愕の色が走った。何故なら、その女性は何と、長崎弥生であったからだ!
あまりにもショッキングな光景に、八代は思わず言葉を失ってしまった。
だが、警官たちは、手際よく弥生の遺体を担架に移し替えた。そして、救急隊員たちが、担架を救急車の中に入れるようとしていた。
それで、八代は思わず救急隊員たちの方に駆け寄っては、
「ちょっと待ってください!」
と、甲高い声で言った。
そんな八代の表情は、とても殺気立って、そして、激しく息をしていた。
そんな八代を眼にして、救急隊員は八代のことを何者なのかと思ったに違いない。
それはともかく、八代は、
「その女性は僕の知ってる女性かもしれないので、顔を確認させてもらえないですかね」
と、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。
すると、五十位の救急隊員は、
「いいですよ」
と言っては、女性の顔の部分だけ、毛布をめくった。
それで、八代はその顔に眼をやった。
しかし、やはり、間違いなかった。その女性は、やはり、長崎弥生であったのだ! 昨日、八代と共に時を過ごした長崎弥生であったのだ!
その弥生が、今、八代の眼前で、既に還らぬ人となって、担架の上に横たわってたのだ!
この事実を目の当たりにして、八代はまるで大波が押し寄せて来たかのように、寂寥感が押し寄せて来た。八代は正に引き攣った表情を浮かべては、言葉を発することが出来なかった。
そんな八代を見て、その救急隊員は、八代がその女性のことを知人だと察知した。
それで、
「お知り合いですかね?」
と、神妙な表情を浮かべては言った。
すると、八代は黙って肯いた。
「では、警察にそのことを話していただけますかね。我々はとにかくこの方を病院にまで運ばなければなりませんので」
と、救急隊員は渋面顔で言った。
「でも、生き返りはしないのですね?」
八代は、それは分かり切ったことではあったが、そう訊いた。
「ええ。そうです」
救急隊員は、神妙な表情で言った。
「女性は何故死んだのでしょうかね?」
「まだ、分かっていないみたいですね。
でも、この方の遺体の傍らには、睡眠薬の小瓶が置かれていたそうですよ」
救急隊員がそう言った後、救急隊員と八代との遣り取りを傍らで聞いていた制服姿の警官が、
「じゃ、あなたの話を聞かせてもらいましょうかね」
と、八代に言った。
それで、八代はその警官と共に、阿寒湖畔駐在署に行くことになった。
その警官、即ち、北海道警の宗方警部(50)と共に、駐在署の中に八代は入った。駐在署の中は、暖房が利いていて、とても暖かかった。
八代は、テーブルを挟んで宗方と向い合うと、宗方は、
「あなたは、あの女性のことをご存知だとか」
と、何となく冷ややかな口調で言った。
そう言われ、八代は黙って肯いた。
「そうですか。で、あの女性は、どういった女性なのですかね?」
宗方は、興味有りげに言った。
「長崎という方です」
八代は弥生という名前まで知らなかったので、姓だけ言った。
「長崎さんですか。で、長崎さんは、あなたにとって、どういった関係なんですかね?」
宗方は些か興味有りげに言った。
「それが、単なる行きずりの知人という関係なんですよ」
と、八代は何となく決まり悪そうに言った。
「単なる行きずりの知人ですか……。もう少し詳しく話していただけないですかね」
八代の返答が、宗方の期待していたものではなかったのか、宗方は些か不満そうに言った。
それで、八代は昨日の出来事、即ち、阿寒ナチュラリストが主催したオンネトートレッキングで知り合い、そして、弥生が捻挫したので、八代が弥生の宿泊先のホテルまで送って行ったという経緯を説明した。
そんな八代の説明を、宗方は渋面顔を浮かべては耳にしていたのだが、八代の説明が一通り終わると、
「八代さんが長崎さんを長崎さんのホテルまで送って行ってから、どうされたのですかね?」
と、些か冷ややかな眼を八代に向けた。
そう宗方に言われ、八代の言葉は詰まった。何故なら、弥生の部屋で八代が経験したことを話しても、信じてもらえないのではないかと、八代は思ったからだ。
とはいうものの、下手な誤魔化しをすれば、その方がかえって怪しまれるのではないかと思い、八代は昨夜の出来事を率直に話すことにした。もっとも、弥生との交わりに関しては、話さなかったが。
宗方は、八代の顔をまじまじと見やりながら、八代の話を黙って耳を傾けていたが、八代の話が一通り終わると、
「信じられませんね」
と、八代の話はいかにも信じられないと言わんばかりに言った。
しかし、そのように言われることは、八代は予め予想してはいた。しかし、そう言われるのは、やはり、いい気分はしなかった。
それで、八代は、
「でも、それが本当のことなんですよ」
と、些か顔を赤らめては言った。
すると、宗方はそんな八代をせせら笑うかのように、
「コーヒーは、眠気覚ましに飲むものですよ。それなのに、コーヒーを飲んで、眠りに落ちてしまうなんて……。
それをあっさり信じろと言われてもねぇ」
「ですから、僕はコーヒーの中に、睡眠薬が入っていたと思うのですよ」
と、八代はそうに違いないと言わんばかりに言った。
「睡眠薬? 長崎さんが八代さんが飲むコーヒーに睡眠薬を入れたというのですかね?」
「そうです」
「どうして、そのようなことをする必要があるのですかね?」
宗方はいかにも納得が出来ないように言った。
すると、八代は言葉を詰まらせてしまった。そのように言われてしまえば、返す言葉がなかったからだ。
しかし、実際のところ、八代は何故弥生がそのようなことをしたのかは、凡そ推測は出来ていた。
それは、八代との交わりの為だ。弥生は、八代と性交を行なう為に、八代を眠りに陥らせたというわけだ。
しかし、そのようなことを、この感性の鈍そうなごつい感じの警官に話しても、信じてもらえるだろうか?
それで、八代は言葉を詰まらせてしまったのだ。
すると、宗方は、
「その女性が、長崎という姓であることは、間違いないみたいですね。何故なら、女性のオーバーの中に免許証が入っていましたからね。
で、長崎さんの遺体の傍らには、睡眠薬の小瓶が置かれていましてね。
で、長崎さんは、その睡眠薬を飲んで自殺したというのが、どうやら長崎さんの死の真相であるかのようなのですよ。
しかし、捜査は慎重に行なわないとね」
と言っては、唇を歪めた。
すると、八代は眉を顰めては、
「それは、どういうことですかね?」
と、些か納得が出来ないように言った。
「つまり、長崎さんは、死ぬ直前に自殺しなければならないような理由を抱えていたかということですよ。それを確認出来ないとねぇ」
と、冷ややかな眼差しを八代に向けた。
「じゃ、僕のことを怪しんでるというわけですかね?」
と、八代も冷ややかな眼差しを宗方に向けた。
「そういった可能性もあると思いますね。
例えば、長崎さんは八代さんに無理矢理身体を奪われてしまったということですよ。
もし、長崎さんが、結婚を前にした女性だったとするじゃないですか。そして、独身時代の思い出として、阿寒湖に一人で旅行に来たとします。
ところが、行きずりの男に無理矢理身体を奪われてしまえば、どうなると思いますかね? 自殺したとしても、それは、決して不思議ではないと思いますね」
と、宗方は八代を見やっては、にやっとした。その笑みは嬉しくて笑った時に見せる笑みではなく、正に嫌味のある笑みであった。
すると、八代の表情は、見る見るうちに険しくなった。何故なら、宗方は八代が弥生を手込めにした為に、弥生が自殺したと疑ったみたいだからだ。
それで、八代は険しい表情を浮かべては、
「僕はそのようなことは、やってませんよ!」
と、宗方に喰って掛かるかのように言った。
すると、宗方は些か表情を和らげては、
「例えばの話ですよ。飽くまで、可能性の話ですよ」
と、今度は八代を宥めるかのように言った。
すると、八代は平静を取り戻したような表情を浮かべた。
そして、二人の間で、少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、八代は、
「それに、刑事さんの推理には、欠点があると思いますね」
と、いかにも勝ち誇ったように言った。
「欠点? それは、どういったものですかね?」
宗方は八代を見やっては、興味有りげに言った。
「もし、長崎さんが結婚を前にして、独身時代の思い出を作る為に、一人で阿寒湖にやって来たとしますよね。
すると、そんな長崎さんが、僕を長崎さんのホテルの部屋に入れますかね? 常識的にそのようなことはやりませんよ」
そう言った八代の表情には、笑みは見られなかった。
更に、八代は宗方には言ってないものの、弥生は八代相手に性の欲望を果した。しかし、もし弥生が結婚を前にした女性なら、そのような行為は絶対に行なわないと、八代は確信していたのだ!
八代のその主張を耳にして、宗方は気難しげな表情を浮かべた。そして、少しの間、言葉を発そうとはしなかったのだが、やがて、
「長崎さんが八代さんを部屋に入れたというのは嘘で、八代さんが長崎さんの部屋に無理矢理入ったのではないですかね?」
そう言っては、宗方はにやにやした。そんな宗方は、八代の欠点をついたと言わんばかりであった。
すると、八代は、
「僕はそんなことをやりませんよ! それに、もし僕がそのようなことをやれば、長崎さんの衣服とか身体に抵抗した痕が残ってる筈ですよ。そのような痕がありましたかね?」
と、語気を荒げては、依然として八代のことを疑ってる宗方を非難するかのように言った。
すると宗方は表情を和らげ、
「ですから、例えばのことですよ」
と、些か八代を宥めるかのように言った。
そして、二人の間に再び少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、宗方は、
「とにかく、長崎さんの連絡先はもう分かってますので、長崎さんの家族の者とか友人だった者から、話を聞いてみますよ。そうすれば、長崎さんの死は自殺によるものか、そうでないのかが分かりますよ」
と言っては、小さく肯いた。
そう宗方に言われると、八代も些か納得したように肯いた。確かに宗方が言ったことは、もっともなことだと思ったからだ。
そして、この時点で八代は一昨日の森田の事件のことを話した。
そんな八代の話に、宗方はいかにも気難しげな表情を浮かべては、黙って耳を傾けていたのだが、八代の話が一通り終わると、
「八代さんもその被害者の一人だったのですか……」
と、渋面顔を浮かべては言った。
すると、八代は眉を顰めた。その宗方の言葉の意味が分からなかったからだ。
「つまり、八代さんと同じような被害に遭った人が、屈斜路湖の方で二人いるのですよ。そして、その犯人は、被害者が証言した人相風体から、同じ人物である疑いがあるのですよ」
と、宗方は渋面顔で言った。
すると、八代は、
「そういうわけだったのですか……」
と、些か納得したように、また、呟くように言った。即ち、あの森田という男は、やはり、窃盗犯に違いなかったからだ。
そんな宗方に、八代は、
「で、その犯人は、まだ、捕まらないのですかね?」
と、宗方の顔をまじまじと見やっては言った。
すると宗方は、八代から眼を逸らせては、
「正にそうなんですよ」
と、いかにも決まり悪そうに言った。そして、
「でも、八代さんは、正にとんでもない事件に立て続けに遭遇してしまったのですね。一昨日はとんでもない窃盗犯に引っ掛かってしまい、そして、昨日は偶然知り合ったばかりの人の奇妙な死に遭遇してしまうなんて」
と、渋面顔で言った。
すると、八代はやっと表情を和らげた。どうやら、宗方は八代が被った災難のことを理解してくれたみたいだと思ったからだ。
そして、二人の間にまたしても、沈黙の時間が流れたが、その時、宗方の携帯電話の呼出音が鳴った。
「宗方だが」
宗方はいかにも部下と話をするかのような調子で言った。
そして、少しの間、何やら話をしていたようだが、やがて、宗方は電話を終えた。そして、八代に、
「今、長崎さんの家族の者から話を聞いた僕の部下から電話が入りましてね」
宗方がそう言うと、八代は緊張したような表情を浮かべた。何故なら、宗方に入った電話は重要な内容ではないかと思ったからだ。
そんな八代に、宗方は、
「やはり、長崎さんの死は、自殺である可能性が高いと思われますね」
と、神妙な表情を浮かべては言った。
すると、八代も神妙な表情を浮かべては、
「どうして、自殺だと思われるのですかね?」
と宗方をまじまじと見やっては言った。
「失恋ですよ。長崎さんは失恋して、随分と落ち込んでいたみたいですよ。
で、三週間前にも、手首を切って、自殺未遂を起こしたそうですよ」
そう宗方に言われ、八代もやはり、弥生の死は、自殺によるものだと思った。
それと同時に、八代は自ずから弥生が死ぬ直前の出来事、即ち、弥生との性交のことを思い出さずにはいられなかった。
八代は今でも、八代の男のシンボルを弥生の女の部分に挿入させたという出来事が、現実の出来事であったと断言する自信がなかった。
しかし、今の宗方の話を聞いて、やはり、現実の出来事であったと、八代は思い直したのである。何故なら、弥生はその時、死を決意していたのだから!
弥生はこの世の最後の思い出として、八代との性交を実行したのだ!
死を前にしていた弥生には、もはや男を選り好みしている時間はなかった。それで、阿寒ナチュラリストが主催したオンネトートレッキングで知り合った手頃な男と性交し、あの世に往こうと最初から目論んでいたのだ。
すると、そんな弥生に、手頃な男が現われた。それが、八代であったのだ!
となると、弥生がオンネトーで捻挫したというのは、嘘であった可能性が高い! オンネトーから雌阿寒温泉までは、かなりの距離があるのだが、今、思えば、あれだけの距離を捻挫した弥生が歩けたというのも、何だか妙な気がする。しかし、捻挫してなかったのなら、弥生の行為はうまく説明出来るのだ!
そう思うと、八代は何だか、改めてとてつもない寂寥感が押し寄せて来た。
それで、八代は甚だ険しい表情を浮かべてしまった。
すると、そんな八代を眼にして、宗方は、
「どうかしましたかね?」
と、眉を顰めた。
そのように言われたので、八代は平静を繕い、
「何でもないですよ」
と、さりげなく言った。
そんな八代を眼にして、宗方は、
「とにかく、八代さんに対する疑いは晴れましたよ」
と、渋面顔で言った。
すると、八代はむっとした表情を浮かべては、
「やはり、僕のことを疑っていたのですね?」
「そりゃ、全く疑ってなかったわけではありませんよ。紳士然としていた人物が犯人であったケースは、今までいくらでもありますからね」
と言っては、宗方は些か納得したように肯いた。
しかし、これによって、弥生に対する八代の疑いが晴れたことは間違いなかった。
それ故、八代は安堵したような表情を浮かべた。
すると、そんな八代に宗方は、
「とにかく、八代さんの連絡先を知っておきたいのですよ」
「どうしてですかね?」
「八代さんのお金を盗んだ犯人が見付かれば、弁償させなければならないですからね」
それで、八代はそれを話した。もっとも、八代の連絡先は、既に昨日、話してあるのだが。
そして、この時点でやっと駐在署を後にすることになった。
駐在署を後にすると、そこは正に凍りつくような世界であった。駐在署の中が快適な温度で保たれていた為に、そのギャップが甚だ大きかったというわけだ。
それはともかく、八代は一旦、宿泊先のホテルに戻り、今日一日、どうやって過ごそうかと、改めて思案した。
これが、雪の無い季節なら、何処にでも行けるのだが、これだけの雪であれば、八代の行き先は限られているというものだ。
そこで、八代が行き着いたのは、今日も阿寒ナチュラリストが主催するコースに参加するということだった。阿寒ナチュラリストは、冬期はオンネトートレッキングだけではなく、他のコースも行なっていたからだ。
それで、八代は八代が宿泊してるホテルから阿寒ナチュラリストに電話してみては、問い合わせてみた。
すると、白湯山トレッキングを勧められたので、八代は午後一時からの白湯山トレッキングに参加することにした。
白湯山トレッキングは、スノーシュ―で国設阿寒湖畔スキー場を登り、阿寒の森を通り、白湯山展望台の近くに行くというもので、時間は約三時間半であった。
もっとも、オンネトートレッキングと同様、一人しか集まらない場合は、中止となるとのことなのだが、中年の夫婦が一組、参加するとのことなので、八代はその中年の夫婦と共に白湯山トレッキングに参加することになったのだ。
やがて、午後一時となり、八代たちは阿寒ナチュラリストを出発することになった。そして、今日のガイドは昨日の長田ではなく、永山という髭を生やした三十台半ば位の男性であった。
そういった具合であったので、永山と八代との間には、長崎弥生の話は出なかったし、また、八代も話そうとはしなかった。
そして、白湯山トレッキングは、結局あっさりと終わったという感じだった。昨日のように、弥生が捻挫するというようなトラブルもなく、あっさりと終わったという感じであった。
八代はといえば、今朝の出来事があった為に、いつもより気分が落ち込み、寡黙になってしまっていて、永山に話し掛けようとはしなかったし、また、八代と共に白湯山トレッキングに参加していた中年の夫婦は、随分と話し好きで、永山との話に夢中になっていたようだ。
そういった状況の為に、八代は何だか孤立してしまったような状況だったのだ。
しかし、八代はそれで十分であった。何故なら、八代の気分は相当に落ち込んでいたからだ。それ故、阿寒の厳しい自然に接するだけの方が、その時の八代の気分に合致していたからだ。
そして、八代が宿泊先のホテルに戻ったのは、午後五時頃のことであった。
すると、実家から、現金書留で二十万が届いていた。
それで、八代は「やれやれ」と、大きく息をつき、そして、これによって、余裕を持って東京に戻れると思った。
そんな八代は窓際に行っては、カーテンを開け、阿寒湖を見やった。
すると、阿寒湖は既に闇に沈んでいて、シルエットさえ見えなかった。
それで、八代は窓際の椅子に腰を降ろすと、大きく息をついた。
正に今回の旅は色々のことがあった。
そう思うと、一気に疲れが押し寄せ、ベッドの上に大の字になると、いつの間にやら、眠りに落ちてしまったのだった。
<終わり>
この作品はフィクションで、実在する人物、団体とは一切関係ありません。また、風景とか建造物の描写が実況とは多少異なってることをご了解ください。