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それで、引き続き、皆川と堂島和男に関する捜査が行なわれることになった。
すると、興味深い証言を入手することが出来た。その証言をしたのは、「森田荘」206室に居住してる大沢守男という三十歳の会社員であった。大沢は滝川に、
「実は、刑事さんに話すべきだと思うことがあるのですよ」
と、「森田荘」206室に姿を見せた滝川に、大沢はいかにも神妙な表情を浮かべては言った。
そんな大沢に滝川は、
「それ、どんなことですかね?」
と、いかにも興味有りげに言った。
「実はですね。一ヶ月位前のことでしたが、隣室、つまり207室から女の人が出て来る場面に出交わしたことがありましてね。
で、その女の人は六十位だったのですが、僕の知らない顔でした。そんな女の人は僕と顔を合わすと、さっと僕から眼を逸らせ、まるで僕から逃げるようにして去って行ったのですよ。
それはそれとして、僕はその女性は一体誰だろうと思ったのです。というのは、隣室、つまり207室は五十位の男性が住んでることを僕は知ってるんですが、その年齢からして、その女性はその男性の母親にしては、年齢が近過ぎるような印象がしましたし、また、妻にしては年上過ぎるというわけですよ。でも、僕は207室の居住者とは言葉を交わしたことのない間柄ですので、その女の人のことは、今までは僕一人の胸の内に留めていたのですよ。ところがですね」
と、大沢は言っては大きく息をつき、そして、再び些か興奮気味に話し始めた。
「ところがですね。その二週間後に僕はその女の人が誰だったのか、知ったのですよ」
と言っては、大沢は眼を大きく見開き、そして、大きく肯いた。
そんな大沢に、滝川は、
「それ、誰だったのですかね?」
と、いかにも好奇心を露にしては言った。
「その女性は、何と『森田荘』の管理人の奥さんだったのですよ!」
と、大沢は甲高い声で言った。その大沢の様から大沢は今、かなり興奮してることが自ずから察知出来た。そして、大沢は更に話を続けた。
「で、僕は管理人に用があったので、管理人の家に行ったのですが、その時に奥さんが出て来たので、そのことを知ったのですよ。ところが……」
そう言っては、大沢は大きく息をつき、そして、更に話を続けた。
「ところがですね。先日、僕は刑事さんから妙な話を聞かされました。その妙な話とは、僕が室を留守にしてる時に、何者かに忍び込まれたような事実はないかと訊かれたことです。僕は今までにそのようなことを感じたことはなかったのですが、その話を聞いて僕はピンと来たというわけですよ」
と大沢は言っては大きく肯いた。
滝川は、大沢が言わんとすることは、凡そ察知出来たが、とにかく更に大沢の話に耳を傾けることにした。
「ピンと来たとは、どういうことですかね?」
すると、大沢は、
「ですから、『森田荘』の居住者に無断でその室に忍び入ってる者が誰だかということですよ」
と、正に滝川のことをとろいなと言わんばかりに言った。
そう大沢に言われ、滝川は正に渋面顔を浮かべた。その大沢の推理は今までに滝川たちが思いも寄らなかったものだったからだ。
それで、滝川は正に渋面顔を浮かべては言葉を詰まらせてしまったのだが、大沢は、
「ですから、管理人の妻なら、当然、『森田荘』の全室の玄関扉の鍵を自由に扱えますよ。それ故、管理人の奥さんがその鍵を使って、居住者に無断で密かに『森田荘』の室に侵入していたというわけですよ。そして、僕は偶然、その場面を見てしまったというわけですよ。
でも、僕は面倒なことに関わりを持ちたくないので今までこのことを自らの胸の内にだけに秘めていたのですが、今、刑事さんにどんな些細なことでもよいからと言われ、話してみる気になったという次第ですよ」
と、いかにも滝川に言い聞かせるかのように言った。そんな大沢は、今まで自らの胸の内に痞えていた痞えを話し終え、安堵してるかのようであった。
そう大沢に言われ、滝川はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべた。というのは、この時点で新たな容疑者が浮上したからだ。
その容疑者とは、無論、「森田荘」の管理人の妻である皆川町子だ。今の大沢の証言から、どうやら滝川たちは今まで誤った推理を行なっていたようだ。つまり、「森田荘」の居住者の室に密かに侵入していたのは、管理人の皆川ではなく、どうやら、その妻である皆川町子であったようなのだ。
となると、今まで皆川に当て嵌めていたケースを全て町子に置き換える必要が生じるであろう。即ち、町子が堂島正行の室に密かに侵入した時に、堂島が戻って来た為にトラブルが発生し、その口封じの為に町子が堂島を殺したというわけだ。どうやら、この可能性が最も高い! 滝川は、その実感せざるを得なかった。
そして、この大沢の証言により、早速、皆川町子に対する訊問が行なわれることになった。
町子は署の取調室で訊問を受けなければならないことに、甚だ不服そうではあったが、とにかく滝川のまるで命令と言わんばかりの要求に従い、署の取調室にやって来た。そして、早速、滝川と来生刑事の訊問を受けることになった。
「実は妙なことが分かりましてね」
かなり緊張したような表情を見せてる町子に対して、滝川は冷ややかな表情を見せては言った。
滝川にそう言われても、町子は緊張した様を見せては言葉を発そうとはしなかった。そんな町子は滝川の出方を窺ってるかのようであった。
「実はですね。『森田荘』の住人が留守にしてる時に、何者かがその室に無断侵入したのではないかという情報を入手してましてね。で、奥さんはそれに関して何か思うことがあるんじゃないかということですよ」
と、滝川は町子の顔をまじまじと見やっては言った。そんな滝川は、町子に嘘はついても無駄だよと、町子を威圧してるかのようであった。
滝川にそういわれると、町子は、
「特に思うことはないですがね」
と、小さな声で言った。だが、そんな町子の様はかなり自信無げであった。
「そうですかね? それは間違いないですかね?」
と、滝川は町子をまじまじと見やっては、唇を歪めた。そんな滝川は、警察のことを甘く見ては駄目ですよと、町子を諌めてるかのようであった。
だが、町子は、
「間違いないですよ」
「では、五月三十日の午前十一時頃、奥さんは『森田荘』の207室に用はなかったですかね?」
滝川は既に「森田荘」207室の居住者である松山正樹に皆川町子がその日、即ち、五月三十日の午前十一時頃、松山の室に用があったのか、訊いてみた。すると、松山はそのようなことは有り得ないと断言した。
それ故、大沢の証言から、町子はその時、松山の室に無断侵入したことは間違いないと思われた。それで、滝川はそれを町子に確認してみたのである。だが、町子はあからさまにそれを否定したのである。
それで、そんな町子の嘘を町子に認めさせる為に、滝川は大沢の証言を町子に話した。すると、町子は、
「それは、人違いですわ」
と、大沢の証言を否定した。そんな町子は薄らと笑みを浮かべさえしていた。そんな町子は大沢の証言は馬鹿馬鹿しくて話にならないと言わんばかりであった。
そう町子に言われてしまえば、正に滝川たちは苦しいというものだ。正子が松山の室に無断侵入したことが事実だとしても、それを裏付ける証拠がなければ、証明出来ないのである。
それで、今回は一旦、町子に帰ってもらうことにした。とはいうものの、町子の指紋の採取は出来た。
だが、いくら町子とて、町子が侵入したと思われる「森田荘」の室に町子の指紋を遺すというへまは行なわないであろう。
とはいうものの、一応、「森田荘」の各室から指紋を採取し、町子の指紋との照合は行なわれた。だが、その捜査は成果は得られなかった。
それで、滝川たちの表情は一層曇った。滝川たちの推理では、やはり町子が堂島正行殺しの最有力容疑者であった。何しろ、町子は管理人の妻という立場から、「森田荘」の各室の合鍵を自由に取り扱えるし、また、実際にも「森田荘」207室の松山正樹の室に無断侵入した場面を206室の大沢に目撃されてるのだ。そして、町子はそのことをあからさまに否定した。それは、正に町子が後ろ暗い何かを持ってるからに違いないのだ。そして、その後ろ暗い何かとは203室の堂島正行殺しに他ならないのだ!
それ故、町子の嘘を暴かなければならない。それで、「森田荘」の各室に遺された指紋を採取し、町子の指紋と照合されたのだが、その結果は見事に空振りに終わったというわけだ。
だが、指紋照合捜査は、思ってもみなかった朗報を滝川たちにもたらした。というのは、堂島正行の室で見付かった百五十万入りの封筒の中に入っていた一万円札から、何と町子の指紋が見付かったのだ。百五十万入った封筒には、正行の指紋しか付いてなかったのだが、その中に入っていた一万円札に町子の指紋が付いていたのだ。町子は町子がその封筒の中に入れた一万円札の指紋までは注意が及ばなかったのである!
この事実を受けて、再び町子が署に呼び出され、訊問が行なわれることになった。そんな町子は正に不満そうであった。
だが、堂島正行の室で見付かった百五十万入りの封筒の中に入っていた一万円札に付いていた町子の指紋について言及されると、町子の元気は急に衰えた。そんな町子は正に予想だにしてなかった災厄に見舞われ、意気消沈してしまったかのようであった。
それで、滝川は町子が密かに合鍵を使って堂島正行の室に侵入し、その封筒に入っていた百五十万を盗もうとしたところ、正行が戻って来たのでトラブルとなり、町子が正行を殺したのが真相なので、町子を殺人容疑で逮捕すると、町子を脅すと、町子は、
「違います!」
と、正に必死の形相を浮かべては、滝川の推理を否定した。
そんな町子に、
「何が違うんだ! 状況証拠は、奥さんが堂島さんを殺したことを示してるじゃないですか!」
と、滝川は、あっさりと自らの犯行を認めようとしない町子の姿勢を糾弾した。
「本当です! 私は堂島さんを殺してません!」
町子は再び必死で弁解した。
「だったら、何故堂島さんの室で見付かった百五十万入りの封筒に奥さんの指紋が付いていたんだ?」
滝川は、いかにも不満そうに言った。
すると、町子はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべながら少しの間、言葉を詰まらせていたが、やがて、
「実は、私、堂島さんにゆすられていたのです」
「ゆすられていた?」
滝川は、いかにも厳しい表情を浮かべては言った。
「ええ。そうです。実は私……」
と、町子はいかにも言いにくそうに言っては、言葉を詰まらせ、俯いた。
「やはり、奥さんは合鍵を使って、『森田荘』の住人の室に無断侵入してたんだな?」
「ええ。実はそうなんですよ」
と、町子は力無く言っては、いかにも決まり悪そうに言った。そして、少しの間、言葉を詰まらせたが、再び話し始めた。
「ここしばらくの間、愉しいことが何もなくて……。それで、『森田荘』の住人たちの暮し振りを覗き見することを思いついたのですよ。何しろ、うちは『森田荘』の管理人をやってますから、『森田荘』の各室の合鍵は全て保管してありますので」
と、町子は俯きながら、小さな声で言った。
「成程。で、奥さんは203室の堂島さんの室にも侵入したんだな?」
「ええ。そうなんですよ。『森田荘』の住人は昼間はいないことは分かってましたから、その日もいつも通り午前十一時頃に密かに侵入したのです。そして、いつものように、部屋の中をそっと覗き見してたのですが、すると、その時、何と堂島さんが部屋の中に戻って来たのですよ」
と、町子は俯きながら、いかにも決まり悪そうに言った。
「それで、堂島さんにゆすられたのか?」
「そうです。私がこんなことをやってたことを知られてしまえば、正に私はもうこの辺りでは生きていくことは出来ません。それで、私は必死に謝ったのです。すると、堂島さんは口止め料を払うのなら、見逃してやると言ったのです。私は、堂島さんがサラ金で働いてることを知ってましたから、元々堂島さんは金さえ払えば何とかなると読んでいたのですが、私のその読みは当たったというわけですよ」
と、町子は早口で捲くし立てた。
すると、滝川は、
「ちょっと待ってください」
と言っては、眉を顰めた。というのは、滝川は今までは、町子をゆすっていた相手は殺された堂島正行だと思っていたのだが、実際にはそうではなく、それは堂島和男の方であったのだ。それ故、何だが話がややこしくなりそうな雲行きとなって来たのだ。
それで、滝川は、
「奥さんをゆすったのは、殺された堂島正行さんではなかったのですかね?」
と、改めて確認した。
すると、町子は、
「そうですよ。私をゆすったのは、堂島和男さんの方ですよ」
と、神妙な表情を浮かべては言った。
そう町子に言われ、滝川は戸惑ったような表情を浮かべた。何故なら、町子の嘘は暴いたものの、そうだからといって、堂島正行の事件解決に至るかというと、そうはいかないような雲行きとなって来たからだ。
それで、滝川は思わず言葉を詰まらせてしまったのだが、そんな滝川に町子は、
「ですから、私はそれ以降、つまり、堂島さんにゆすられてからは無論、『森田荘』の住人の室に忍び入るということは止めましたよ」
と、渋面顔で言った。
「じゃ、何故、奥さんの指紋がついた一万円入りの封筒が堂島正行さんの室で見付かったんだ?」
滝川はいかにも納得が出来ないように言った。
すると、町子も渋面顔を浮かべては少しの間、言葉を詰まらせていたのだが、やがて、
「それなんですがね。私、失敗をしてしまったのですよ」
と、些か顔を赤らめては、言いにくそうに言った。
「失敗? それ、どういうことなんだ?」
滝川は些か納得が出来ないように言った。
「ですから、間違えてしまったのですよ」
「間違えてしまった? それ、どいういうことなんだ?」
滝川は、些か納得が出来ないように言った。
「つまり、堂島和男さんと堂島正行さんとを間違えてしまったのですよ」
と、町子はいかにも決まり悪そうに言った。
そう町子に言われ、滝川は渋面顔を浮かべては言葉を詰まらせてしまった。というのは、滝川は町子の言わんとすることが分かったようでもあり、また、分からないようでもあったからだ。
だが、町子はそんな滝川に構わず、更に話を続けた。
「つまり、堂島和男の後に、堂島和男が住んでいた室に入居したのが、堂島正行さんだったのですよ。室の前にあるネームプレートには堂島という姓しか書いてなかったから、私はまさかその室に堂島和男ではなく、堂島正行さんが住んでいたなんて、夢にも思わなかったのですよ。それで、203室に私は堂島和男の要求通り、百五十万を封筒に入れて放り込んだのですよ。最初から、堂島和男から要求された三百万は堂島の室の玄関扉の新聞入れに入れることになっていたのですよ。
そして、その百五十万を入れた三日後に私は再び百五十万を茶色の封筒に入れては、203室の玄関扉の新聞入れに入れたのです。堂島がゆすったお金は三百万でしたが、私は一度に三百万払えなかったので、二回に渡って三百万を払おうとしたのです。ところが……」
と町子は言っては、表情を一層曇らせた。そんな、町子は、これから話すことが、もっとも話しにくいことだと言わんばかりであった。
「ところがですね。私が二回目に百五十万入れたその日の午後八時頃に堂島和男が家に電話して来ては、急に『森田荘』から引越したと言うのです。それを聞いて、私はびっくりしました。何しろ、私はつい先程『森田荘』203室に百五十万を入れたばかりでしたからね。
私はその旨を堂島に話すと、堂島はその百五十万を受取ってないことは無論、私が三日前に入れた百五十万も受取ってないと言うじゃないですか。
それで、私は何故ネームプレートが堂島となっていたのか、訊いたのですが、すると、堂島は『そんなことは知らない』でした。
そして、私は後になって、堂島と同姓の者が堂島和男の後に入居したことを知ったのだが、それはともかく、堂島は既に私が203室に入れた三百万はもう戻って来ないかもしれないと言うのです。
それで、私は堂島に何故そう思うのかと訊いてみました。すると、堂島は、
『今時、何もせずに手にした金を返す殊勝な奴がいるものか!』
と、吐き捨てるように言ったのですよ」
と、町子はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては、いかにも言いにくそうに言った。そんな町子は、これでもう何もかもを話したと言わんばかりであった。そして、案の定、町子はそう言ったのであった。
そして、滝川もその町子の言ったことを信じた。即ち、その供述によって、町子は今まで滝川たち警察に隠していたことを何もかも話したと理解したのである。
そして、町子の供述が真相を述べたとなると、どうなるだろうか?
それに関して、思いを巡らせてみると、改めて堂島和男の存在が浮かび上がって来た。堂島は先日の滝川の聞き込みに対して、堂島正行の事件には何ら関係がなかったことを力説した。だが、その和男の主張はてんで出鱈目である可能性が改めて浮上したのである。
そして、これによって再び堂島和男に対する訊問を行なう必要が生じ、滝川は再び和男の携帯に連絡を取った。だが、今度はその携帯に連絡が取れなかったのである!
これによって、堂島和男に対する容疑は一層高まった。何しろ、和男は町子に言ったように、堂島正行に三百万の返還を求めても意味はないと看做し、自らが所持していた203室の合鍵を使って203室に侵入した。だが、その時、何故か堂島正行が戻って来た為にトラブルが発生し、事件は発生したのだ。これが、事件の真相なのだ!
滝川はそう看做したのだが、その警察に察知される前に、和男は姿を晦ませたのだ! だから、和男とは連絡が取れなくなったのだ!
とはいうものの、和男の勤務先は分かっていたので、そこに電話を入れた。すると、和男は先日、会社を辞めたとのことだ。
これによって、和男はいよいよ警察から逃亡する為に姿を晦ましたと滝川は看做した。
だが、その滝川の読みは誤りであったことが、早々と明らかとなった。というのは、和男は何と滝川の前に姿を現したのである。これには、滝川はびっくり仰天した。
和男は堂島正行の事件の捜査本部が置かれてるS署に姿を見せては滝川を呼び出した。そして、滝川に話したいことがあると言うので、滝川はとにかく和男を小さな取調室に連れて行った。すると、和男は待ってましたと言わんばかりに話し始めた。
「刑事さんに是非言っておかなければならないことがありましてね」
そう言った和男の表情は些か真剣味あるものであった。そんな和男に滝川も些か真剣味ある表情を浮かべては、
「それ、どんなことかね?」
すると、和男は一気にそのことを話し始めた。滝川はその和男の話にじっと耳を傾けていた。だが、その和男の話は滝川にとって真新しいものではなかった。何故なら、その和男の話は既に皆川町子から聞かされた話しと同じものであったからだ。即ち、和男は町子が和男の室に忍び入った時に町子と鉢合わせをしてしまった為に、和男が町子をゆすり、町子に三百万を支払うように要求した。それで、町子はその和男の要求を呑み、三百万払うことを同意した。だが、和男はその三百万を受取れなかった。何故なら、和男は急に「森田荘」から引越し、その情報が町子に伝わらなかった為に手違いが生じ、町子は和男に渡す筈であった三百万が堂島正行という人物に渡ってしまったということを和男は些か興奮しながら話したのである。
そんな和男の話に特に言葉を挟むことなく、じっと耳を傾けていた滝川の表情は芳しいものではなかった。何故なら、何だか話がややこしくなって来たからだ。
和男が再び滝川の前に姿を見せるまでは、堂島正行殺しの犯人は堂島和男で決まりだと思っていた。即ち、和男は町子が誤って「森田荘」203室に入れてしまった三百万を取り返す為に堂島正行の室に無断侵入し、その結果、203室内で正行と和男は鉢合わせをしてしまい、事件は発生した。これが、真相だと今までは推理していたのである。
だが、その推理に亀裂が発生してしまった。何故なら、和男に捜査が及ぶのを恐れた為に逃亡したと思われていた和男が何と滝川の前に姿を見せたかと思うと、何と自らの町子へのゆすりをあっさりと認めたのである! もし、和男が正行殺しの犯人なら、このような告白を敢えて行なうだろうか?
もっとも、町子の証言と和男の証言には食い違いが見られた。というは、町子は和男が正行に渡った金は返してもらえないと言ったと言ったにもかかわらず、和男はそのようなことは言ってないと証言したのだ。
さて、どちらの証言が正しいのだろうか?
この点は、正に重要なことであった。というのは、町子の証言が正しければ、堂島正行の室に忍び入った和男が正行殺しの有力な容疑者となるのだが、和男の証言が正しければ、和男は正行の事件には無関係ということになるからだ。
さて、困った。和男の証言を受けて、一層事件解決に遠ざかったかのような状況になって来たからだ。
それで、滝川は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたのだが、そんな滝川の脳裡に和男の証言は出鱈目という思いも過ぎった。即ち、和男は正行殺しを誤魔化す為に、正行の事件には関係のないゆすりの方を自供し、それで正行殺しを逃がれようとしてるというわけだ。
しかし、その推理も決めてがなかった。何しろ、それを証明する証拠はないのだ。
さて、困った。事件は一層混迷を深める様相を呈して来たのだ。
捜査は正に迷走し、事件解決に至るのかという焦りが捜査陣の中に漂い始めていた。
だが、捜査は正に救いの手が差し伸べられたかのような有力な情報提供を受けることになった。その情報提供を行なったのは、202室の横山正美という二十四歳のフリーターであった。正美は突如、捜査本部が置かれたS署を訪れ、堂島正行の事件を捜査してる刑事に会いたいと言った。そんな正美の様はとても真剣で、また、正美はかなり緊張してるかのように見受けられた。そんな正美の様からして、正美は何だか重要な証言を行ないそうな塩梅であった。
それはともかく、正美は程なく小さな取調べ室に通され、滝川と話をすることになった。まだ、二十四歳の正美はとても緊張してるように見受けられたので、滝川は、
「まあ、楽にしてください」
と、穏やかな表情と口調で言った。
そんな滝川に正美は、
「刑事さんに話さなければならないことがあるのです」
と、表情を強張らせては言った。
「それ、どんなことですかね?」
「実は、僕は見てしまったのです」
正美は、表情を強張らせたまま、言った。
「何を見てしまったのかな?」
「堂島さんを殺した犯人をですよ」
正美は、声を震わせては言った。
すると、滝川の表情は、一気に真剣なもとなった。何故なら、滝川は正にこのような情報を欲していたからだ。
それで、いかにも真剣な表情を浮かべては、
「それ、誰ですかね?」
と、正美の顔をまじまじと見やっては言った。
「それは、皆川さんです。『森田荘』の管理人の皆川肇さんです!」
と、いかにも力強い口調で言った。そんな正美の表情と口調は、その自らの言葉には嘘、偽りはないと言わんばかりであった。
だが、滝川はその正美の言葉は意外であった。何故なら、今までに皆川肇が犯人と疑ったことはあったものの、皆川は早々と捜査圏外の人物となってしまったからだ。
それで、滝川は些か怪訝そうな表情を浮かべては、
「どうして、そう思うのですかね?」
「ですから、僕はその場面を見てしまったのですよ。皆川さんが堂島さんの部屋から出て来るのを見てしまったのですよ。そして、僕はその時間が後で、堂島さんが死んだ時間のすぐ後だったことを知ったのですよ。それで、僕は皆川さんをゆすったのですよ。このことを警察に内緒にしてもらいたければ、口止め料を払えと!」
そう言い終えた正美の表情はいかにも決まり悪そうであった。また、そんな正美はそのゆすりの件は見逃してくれと言わんばかりであった。
そう正美に言われ、滝川の表情は俄然、生気を帯びた。何故なら、今度こそ、事件解決に導く証言だと思ったからだ。
そんな滝川に対して、正美は更に証言を続けた。
「そして、僕の要求通り、皆川は三百万を持って僕の部屋を訪れる筈だったのですが、皆川はその約束を破り、三百万の受け渡し場所を夜の人気の無い公園に指定して来たのですよ。
僕はそんな皆川の行為を胡散臭いと思っていましたが、やはり僕の勘は当たってました。何故なら、皆川は僕の隙を見ては、僕を殺そうとしたからです。だが、僕はその皆川の行為を察知してましたから、難を逃れたというわけです。
だが、僕は皆川の裏切りを許すことは出来ません。だから、こうやって真相を話す為に警察にやって来たというわけですよ」
と、いかにも険しい表情を浮かべては、決意を新たにしたように言った。
その正美の証言を耳にして、滝川は納得したように肯いた。何故なら、今度こそ、やっと真相に行き着いたと思ったからだ。しかし、証拠がない。正美の証言は出鱈目だと、皆川に反論されたら、それまでだ。
それで、滝川はその旨を正美に話した。
すると、正美は、
「大丈夫ですよ。僕はこういうこともあろうかと思って、皆川との電話の遣り取りをちゃんと録音してますから」
と、勝ち誇ったような表情を浮かべては、にやっと笑ったのであった。
その正美が録音したテープを耳にした滝川は、これによって皆川の逮捕は可能だと判断し、来生刑事たちと共に直ちに皆川宅に向かい、皆川に訊問することになった。
すると、皆川は最初の内は、正美の証言は出鱈目だと、正美の証言をてんで相手にはしなかった。だが、正美の録音したテープを聞かされると、皆川の表情はみるみる内に蒼ざめた。そんな皆川のことを滝川は更に追及すると、皆川はもうしらばくれることは出来ないと観念したのか、いかにも悔しそうな表情を浮かべては真相を話し始めた。
「僕は妻からとんでもない話を聞かされてしまったのですよ」
と、いかにも言いにくそうに言った。
「奥さんが『森田荘』の住人の室内に無断侵入したことかい?」
そう滝川に言われると、皆川は開き直った表情を浮かべては、
「そうです。そう妻に言われ、僕はもうびっくり仰天してしまいました。だが、僕の驚きはそれだけでは済まされなかったのです。何故なら、妻が無断侵入したその室の住人に、妻は見付かってしまったと言ったからです。更に、その口止め料として、三百万ゆすられたと妻は言ったからです。
そう聞かされ、僕は正にとんでもないことになってしまったと、戦々恐々としたのですが、僕のその恐れはそれだけには留まりませんでした。何故なら、妻はその三百万を渡した相手を間違えたようだと言ったからです。
即ち、妻がゆすられた相手は、203室の堂島和男だったのですが、その堂島和男は何故か妻をゆすった後、すぐに引越してしまい、その数日後に堂島正行さんが入居したのです。そして、その事実を妻は知らずに、妻は堂島正行さんの室に三百万を入れてしまったのですよ。僕はその事実を聞かされ、正に困惑してしまいました。というのは、堂島正行という人物がどういった人物なのかは分からなかったのですが、何ら労することなく手に入れた三百万を簡単に返してくれるとも思えなかったし、また、何故三百万を203室に入れたのだと訊かれてしまえば、その返答に窮すると僕は思ったのです。
それで、僕は管理人という立場を妻と同様、悪用することにしました。そして、堂島さんが外出したと思われる頃、密かに忍び入り、妻が入れた三百万を捜していたのですが、すると、程なく堂島さんが戻って来たのです。それで、僕は慌ててもう一つの部屋に移動したのですが、僕が立てた物音を不審に思ってか、堂島さんは僕の方にやって来たので、焦った僕は予め所持していたハンマーで犯行に及んでしまったのですよ。
その後、僕は僕の失敗を妻に話し、その結果は、堂島さんの前の居住者、つまり、堂島和男の犯行と思わすような証言を警察にしようということになったのですよ」
と、皆川はいかにも悔しそうに言ったのだ。そんな皆川は、まさかこんなに早く犯行が暴かれるなんてことは思ってもみなかったと言わんばかりであった。
そして、これによって、安アパートである「森田荘」を舞台にした殺人事件はやっと解決した。
因みに、203室の堂島和男が急に引越したのは、性質の悪い客とトラブルが発生し、一時的に身を隠す必要が生じた為だとのことである。
また、殺された堂島正行は元はといえば、ピッキング犯であった。だが、その犯行は暴かれることはなかった。だが、正行は死に至る直前にふと天罰が当たったという思いが正行の脳裡を過ぎったということをこの時点で言い添えておく必要があるであろう。
(終わり)