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 この結果を受けて、熊沢紀行は熊沢宅の近くにあるS署内で、夏木たちから訊問を受けることになった。
 熊沢紀行は、最初の内は、その夏木たちの捜査結果は出鱈目だと言っては相手にはしなかったが、そんな言い分は通用しないと夏木たちから説き伏せられると、もう誤魔化しは通用しないと悟ったのか、徐々に真相を話し始めたのだ。
「正に、あれはアクシデントだったのです」
小さな取調室内にあるテーブルを挟んで、紀行は夏木とS署の前川警部(50)と向かい合いながら、小さな声で呟くように言った。
「アクシデント? それ、どういう意味だい?」
 夏木は、興味有りげに言った。
「僕と妻は、あの夜、夜の大島の海岸から海を見たかったので、ホテルを午後七時半頃後にし、元町港の方から海岸沿いの道に入り、そのまま車を走らせました。そして時々車を停めながら、海岸に佇み、大島からの夜景を愉しんでいたのです。
 で、時間はまだまだあったので、その道の終点にまで車を走らせようということになり、僕は妻を助手席に乗せては、そのまま車を走らせました。そして、やがて、道は行き止まりとなりました。
 で、その行き止まりの辺りが野田浜ということは、後で分かったのですが、そこには駐車場があったので。僕はその駐車場に車を停めました。その駐車場にはかなりの車を駐車出来るみたいでしたが、夜だということもあってか、その駐車場に停められた車は、僕の車だけでした。
 で、僕と妻はその道と海岸を隔てている柵に手をつきながら、少しの間、海の方に眼をやっていたのですが、やがて、妻は用を足す為に、駐車場の端の方にあるトイレに向かいました。僕はといえば、そのまま、その場からの夜景見物を続けていました。
 そして、その二、三分後でしょうか。
 突如、『キャー』という妻の叫び声を僕は耳にしたのです。
 僕は、その妻のただならぬ叫び声を耳にし、トイレに向かって走り始めました。そして、程なく、女子トイレの前に来ました。
 すると、その時、妻が、
『この人、痴漢よ!』
 と、叫びながら、一人の男性を振り払うかのように女子トイレから出て来たのです。
 その男性は、妻から振り払われたものの、再び妻に抱きつこうとしました。
 それで、僕は思わずかっとし、僕のズボンのベルトを外しては、その男性に襲い掛かるかのように飛び付いては、そのベルトでその男の首を思い切り絞めたのです。
 僕は日頃のエネルギーが溜まっていたのか、正に滅多に使ったことのないような渾身の力を込めて、男性の首を絞めました。
 男性は最初の内は抵抗を見せたのですが、僕は渾身の力を込めて男性の首を絞めた為か、男性の抵抗はさ程、長く続きませんでした。男性はやがて頭を垂れ、ぐったりしてしまったのです。
 だが、僕はその時、僕が仕出かしてしまったことの深刻さを認識出来ませんでした。
 だが、僕が男性の首から僕のズボンのベルトを外しても男性がいつまで経っても反応を見せないのを見て、事の深刻さを認識したのです。
 それで、僕はいかにも深刻そうな表情をしては、ぐったりと地面に横になってる男性を見下ろしてたのですが、そんな僕に、妻は、
『死んだの?』
 と、僕と同様、いかにも深刻な表情を浮べては訊きました。
 それで、僕は、
『分からないよ』
 僕は、十中、八九、男性は死んだと思ってはいましたが、万一ということもあるので、そう言ったのです。
 それで、僕はとにかく、男性の脈を見てみました。 
 すると、脈は打ってませんでした。即ち、男性は僕によって殺されてしまったのです。
 この三十分前まではまるで思ってもみなかった出来事が発生してしまったことを目の当りにして、僕たちは正に気が動転してしまい、平静を失ってしまいました。これが、昼間なら、恐らく僕たちはこのまま、まるで逃げるようにしてはその場から去って行ったことでしょう。
 しかし、その時はそうではありませんでした。辺りには誰もいない夜だったのです。
 そのことが影響してか、僕と妻はすぐに平静を取り戻しました。そして、この男性をどうするか、思いを巡らせました。
 その思いを巡らせた時間は五分位でしたが、その結果、男性の死体を女子トイレの中に入れておこうということになったのです。というのは、この事件が発生したのは、元はといえば、その男性が女子トイレに入って来たからです。妻が言ったように、恐らく男性は妻に痴漢をしてやろうとしたのだと思います。男性は酒臭かったから、そのことも男性が痴漢を行なおうとしたことに影響したのかもしれません。
 とにかく、男性が女子トイレに入って、痴漢を行なおうとしたことは事実なんですから、その結果、トラブルが発生し、男性は死に至ったで事を片付けようとしたのです。
 で、僕たちは男性の死体を女子トイレに遺棄すると、その場を後にし、ホテルに戻ったというわけです」
 と、紀行はさも話し辛そうに言った。
 その紀行の供述を聞き、夏木はいかにも納得したように肯いた。正に、今の紀行の供述は、事件の真相そのものだと思ったからだ。
 そんな夏木は、
「で、十五日の宿泊をキャンセルし、東京に戻ったのは、やはり気が動転したからですかね?」
 と、いかにも真剣な表情を浮べては、紀行の顔をまじまじと見やっては言った。
 もし、紀行たちが十五日の宿泊をキャンセルせずにいたら、紀行たちの存在は浮かび上がらなかったというわけだ。それ故、紀行と妻のその行動が夏木たちに幸いしたというわけだ。もっとも、そのようなことは夏木は口には出さなかったが。
 そう夏木に言われると、紀行は、
「正にその通りです。あんなことを仕出かしてしまって、落ち着いて大島観光を続ける気にはなれませんからね」
 と言っては項垂れた。
 この紀行の供述によって、事件は解決した。
そして、大島署に設けられていた橘伊佐夫の事件の捜査本部は解散されたのであった。

 だが、その翌日、新たな事件が発覚した。というのは、大島公園から三原山に向かうあじさいレインボーライン沿いの茂みで男性の遺体が発見されたからだ。その男性の身体は巧みに茂みの中に隠されるような恰好になっていた為に、男性の発見は遅れたのだ。また、その男性の遺体が見付かった場所から百メートル程離れた所に、男性の遺体と同じように茂みの中に隠されてるかのような自転車が見付かった。そして、その男性の恰好がツーリングを行なう時のようなスタイルであったことから、その自転車はその男性のものと自ずから推察された。 
 その男性の遺体は直ちに大島内にあるK病院に運ばれ、司法解剖された。
 その結果、男性の死因は脳挫傷によるものであることが判明した。また、男性の傍らで見付かった自転車には、大きな破損が見られ、また、その自転車には自動車の塗膜片と思われるものが付着していた。それらのことから、男性は自転車で走行中、自動車にぶつかり、その結果、死に至ったと推測出来た。
 また、男性の死亡推定時刻も凡そ明らかとなった。それは、六月十四日の午後八時から十時頃であった。
 その捜査結果を受けて、夏木は自ずからある人物のことを思い浮かべてしまった。
 それは、高遠親子だ。高遠親子は十四日の夜、Pホテルを午後八時頃に外出し、午後十時頃戻って来たとのことだが、その時の様が尋常ではなかったとPホテルのフロントマンが証言した。それで、夏木はそのことを高遠に確認してみたところ、高遠は、「元々、高遠親子はせっかちな性質で、また、慌しい雰囲気を持ち合わせてるので、フロントマンは勘違いしただけだ」と、夏木の疑惑を一蹴した。しかし、その高遠の説明は嘘で、実は高遠親子はあじさいレインボーラインで車を走らせていた時に、その自転車に乗った男性を撥ねてしまったのではないのか? だが、その事故を警察に届け出ることを拒み、その事故を闇に葬る為に、その男性の死体とその男性が乗っていた自転車をあじさいレインボーライン沿いの茂みの中に隠したのではないのか? だが、Pホテルに戻った時にはその動揺を隠すことが出来ずに、その動揺した様をフロントマンに見られてしまったのではないのか? その可能性は十分にある。
 その夏木の推理に基づいて、直ちに十四日に高遠がレンタカーを借りていた会社が調べ出され、そして、高遠が借りていたレンタカーを突き止めた。そして、それは程なく明らかになった。高遠はNレンタカー社で白のカローラを借りていたことが明らかとなったのだ。
 それを受けて、夏木は直ちにNレンタカー社に行っては、高遠が借りたというカローラについて問い合わせをしてみた。
 すると、高遠を接客したというその三十位の松山という係員は、
「確かに高遠さんがお使いになったカローラには傷が付いてましたね」
 と、事の深刻さを知らない為か、笑みを浮かべては言った。
 松山にそう言われ、夏木の表情はみるみる内に険しくなった。その夏木の表情は正に松山とは対称的であった。何故なら、今の松山の証言は、正に夏木の推理を裏付けるに十分なものであったからだ。
「で、どのような傷が付いていたのですかね?」
 夏木は眼を大きく見開き、キラリと光らせては言った。
「バンパーの左側がへっこみ、また、左前方のヘッドライトも少し破損してましたね」
 松山は、眼を大きく見開いては言った。
「で、高遠さんは、その理由を話しましたかね?」
 夏木はいかにも興味有りげに言った。
「話しましたよ。何でも、余所見をしてた為にうっかり岩にぶつけてしまったんだと、言ってましたね」
 と、松山はその高遠の説明に何ら疑いを持ってないかのような口振りで言った。
「松山さんは、その説明に疑問を持ったりはしませんでしたかね?」
 夏木は眉を顰めては言った。
「いいえ。特に疑問には思いませんでしたね。で、その修理費は保険で賄えるものでしたので、高遠さんにはその修理費を負担してもらわなかったのですが、それが何か問題だったのでしょうか?」
 と、松山は今更ながら、夏木の来訪の目的を探るように言った。
 そんな松山に、夏木は、
「そのカローラは、もう修理しましたかね?」
 と、いかにも真剣な表情を浮べては言った。
 すると、松山は、
「いいえ。明日、修理する予定です」
 その松山の言葉を受けて、早速、高遠が十四日に利用したカローラの捜査が行なわれた。
即ち、そのカローラにあじさいレインボーラインで見付かった自転車の痕跡が残ってないかの捜査が行なわれたのだ。
 そして、その結果は程無く出た。そして、その結果は夏木たちを喜ばせた。何故なら、高遠が利用したカローラの前部の傷は、確かにその自転車にぶつかった為によるものという鑑定結果が出たからだ。とはいうものの、そのカローラからは、その自転車の塗料とかいった決定的な証拠は得られなかった。
 だが、その決定的な証拠は自転車の方から見付かった。その自転車の前部から白のカローラの塗膜片が見付かっていたのだが、それが、高遠が利用したカローラのものと一致したからだ。
 この決定的な証拠を突きつけられると、高遠は観念したのか、いかにも決まり悪そうな表情を浮べては真相を話し始めた。
「僕は、つい油断してしまったのです」
「油断してしまった? それ、どういうことですか?」
 夏木は、眉を顰めては言った。
「息子に車の運転を任せてしまったのです。息子はまだ免許を持ってないにもかかわらず……」
 そう高遠に言われ、夏木は険しい表情を浮べながらも、小さく肯いた。何故なら、今の高遠の説明により、凡その事の次第を察知出来たからだ。
 だが、その思いを夏木は口に出さずに、高遠の供述に引き続き耳を傾けることにした。
「大学生の息子は近々車の教習所に通い、車の免許を取ることになってたのですが、車に乗りたくて仕方なかったのです。
 それで、あじさいレインボーラインに入った時に、僕はつい息子にせがまれてしまい、息子に運転を任せてしまったのです。
 といっても、僕は特に心配はしてませんでした。何故なら、夜の九時を過ぎていたということもあってか、その時のあじさいレインボーラインを走ってる車はまるで見かけませんでしたからね。
 とはいうものの、結構カーブがあったので、僕は息子の運転には眼を離せませんでしたが、息子は車を運転することに快感を覚えたのか、つい速度を上げたのです。
 それで、僕は、
『あまりスピードを出すなよ』
 と、息子を諌めたのですが、息子は、
『大丈夫だよ。こんな時間にドライブする者なんていないよ』
 と、笑いながら言ったのです。
 だが、その時、左前方に突如、自転車に乗った男性の姿が眼に入ったのです。その男性は、正にツーリングをしてるという感じでした。
 で、その辺りはかなり道幅が狭くなってたので、僕は息子に注意を促そうとしたのですが、その時、息子は何を思ったのか、アクセルを強く踏んだのです。僕はその時、ブレーキとアクセルを間違えたのではないかと思いました。
 だが、僕の思考はそれ以上、続きませんでした。何故なら、息子はその五、六秒後位に、何とその自転車の男性を撥ねてしまったからです。息子は、その自転車の男性を眼にして、アクセルとブレーキを踏み間違えてしまい、また、ハンドル捌きを誤ってしまったのです。
 その自転車の男性は、息子が運転した車に撥ねられ、その衝撃でその身体は五、六メートル位、宙を舞ったのではないでしょうか。そして、その時、頭部をコンクリートに叩きつけられてしまったみたいです。
 男性の死が車にぶつかった時の衝撃でもたらされたのか、あるいは、コンクリートに叩きつけられた時にもたらされたのかは分かりませんが、僕と息子は男性の死を確認しました。
 しかし、息子が男性を撥ねた場面を眼にした者がいないのは、明らかでした。
 それで、僕たちは魔が差したのです。即ち、男性の死の真相を闇に葬ろうとしたのです。
 それで、男性の死体を傍らの茂みの中に隠し、また、男性の自転車を、その少し先の茂みの中に隠したというわけです」
 と、高遠はまるで胸の痞えを吐き出すかのように言った。
 更に、
「で、僕たちは何とかその興奮を抑えながら、Pホテルに戻ったのですが、息子の興奮はなかなか収まりませんでした。その場面をPホテルのフロントマンに見られてしまったのでしょうね」
 そう言い終えた高遠の様は、幾分か悔しそうであった。そんな高遠は、その場面さえ、フロントマンに眼にされなければ、息子が仕出かした災厄は誤魔化し通せたのにと言わんばかりであった。
 更に、先日、夏木に指紋提出を拒んだのは、その男性の身体とか自転車に高遠親子の指紋が付いていたのではないかと、それを恐れたからだとのことだ。その時は、その男性の身体とか自転車に指紋を残してはならないということまで、考えが及ばなかったのである。
 因みに、高遠春樹の運転ミスによって命を落とした自転車の男性の身元は、まだ分かってなかった。その男性の死が報道され、それを受けて警察に問合せて来た者はいたのだが、まだ身元判明には至らなかったのだ。
 そして、夏木としては、身元判明に至るには、まだしばらく時間が掛かるという気がしたのであった。

     (終わり)

この作品はフィクションであり、実在する人物、団体とは一切関係ありません。また、風景や建造物の描写が実際の状況とは多少異なってる点があることをご了解してください。
      

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