第四章 再会、そして、別れ
1
弓子はその日、久し振りにS大に向かった。S大は弓子の以前の職場だったからだ。
弓子が働いていた事務室は、1号棟の一階にあった。
弓子は早速1号棟に行き、事務室の窓から中を覗いたのだが……。
すると、
「弓子!」
と、その人は言った。もっとも、声は聞こえなかった。弓子はその女性がそう言ったように見えたのであった。
そして、その女性が立ち上がり、弓子に近付いて来ては、
「弓子じゃないの。久し振りね」
と、高遠香織は言った。
「そうね」
と、弓子は薄らと笑みを浮かべた。
香織は弓子と同い年であり、また、独身であった。
そんな香織は、弓子の縁談が破談したことを聞いて、
「まあ!」
と、叫び声のような声を出したのだが、しかし、その顔はいかにも嬉しそうであった。つまり、香織は他人の不幸を喜んだというわけだ。
恐らく、香織は弓子が医者と婚約したことに嫉妬していたのだろう。何しろ、香織にとって医者と結婚するなんてことは、叶わぬ夢であったからだ。
そんな香織が弓子に電話を掛けて来たのだ。是非、話したいことがあるというのだ。しかも、電話では話せない内容だとのことだ。それで、弓子は香織に連絡することなく、突如、S大にやって来たのだ。
香織は弓子の傍らにまで来ると、弓子に、「立ち話も何だから、近くの喫茶店に行きましょう」
仕事中にそのようなことをやっていいのかどうか、弓子には分からなかったのだが、とにかく、二人は大学の近くにある喫茶店に行くことになった。
席につくや否や、香織は、
「実はね。町田俊行さん、今、休職中なのよ」
と、話を切り出した。
「えっ!」
弓子は思わず甲高い声で言ってしまった。それは、弓子が思ってもみない言葉であったからだ。
それで、
「何? もう一度言って」
と、弓子は眼を大きく見開いては言った。
「だから、町田俊行よ。あの町田俊行が休職してるのよ!」
そう言われ、弓子は言葉を詰まらせてしまった。それは、正に弓子が思ってもみない言葉であったからだ。
そんな弓子を見て、香織は眼を大きく見開き、
「つまり、弓子と婚約していた町田俊行が、今、病院を休んでるのよ。噂では、神経症らしいよ」
「まさか!」
と、弓子は素っ頓狂な声を出してしまった。それは、正に予想だにしない言葉であったからだ。
何しろ、医師とは、他人の病を治す仕事だ。その医師が病気、しかも、神経症で休職中だとは!
「噂では、女のことで、ノイローゼになってしまったらしいのよ」
香織は眼を輝かせながら言った。
「詳しく話してよ」
と、弓子は言った。
「何でも、町田さんが夢中になっていた女、つまり、弓子を振ったことになった原因の女には、男がいたそうなのよ」
「男?」
「そうよ。確か秋山由香里と言ったと思うけど、その由香里は、モデルをする前は水商売をしてたらしいの。その時に知り合った男がいて、その男との関係は、まだ切れてなかったそうよ。そして、その男は随分と性質の悪い男だったというわけ。つまり、その筋の男だったとのことよ。
その男が、町田さんが由香里をものにしたということを知り、凄く怒ったらしいの。そして、町田さんに嫌がらせをしたらしいのよ」
と、香織はいかにも声を弾ませては言った。
弓子はその香織の話を一言も聞き漏らすまいと言わんばかりに耳を傾けていた。
「その男がどんな嫌がらせを町田さんにしたかまでは分からないけど、とにかくそのことで町田さんはノイローゼになってしまったらしいの。何しろ、町田さんは苦労知らずのおぼっちゃまでしょ。そういったことは、苦手なのね。それで、仕事が手につかなくなってしまったらしいのよ」
と、香織はいかにも眼を爛々と輝かせては言った。
そう香織に言われ、弓子は俊行ならそうなるだろうと思った。つまり、俊行は香織が言ったように、苦労知らずのおぼっちゃまで、やくざ相手の駆け引きなど、正に苦手だろうと思ったのだ。だからこそ、そんな俊行のことを、弓子は信じていたのだが……。
「私は、弓子を振った天罰が当たったのだと思うな」
と、香織は正に勝ち誇ったかのように言った。
すると、弓子は、
「私もそう思う」
と、まるで香織に相槌を打つかのように言った。
そんな弓子は、思い出していた。昨日、由香里のマンション近くで、秋山由香里と共に歩いていた人相の悪かった男のことを! その男が、今、香織が語った男ではないのか。
「今、話したことは、弓子の耳に入れておいた方がいいと思ったのよ」
と、香織は正に神妙な表情で言った。
「確かにその通り。話してくれて、ありがとう」
と、弓子は正に貴重な情報を話してくれてありがとうと言わんばかりに言った。
すると、香織は小さく肯き、
「で、弓子は今、何をしてるの?」
「今は何もしてないわ」
と、弓子は冴えない表情で言った。
すると、香織は、
「羨ましいな。私は働かないと食べていけないのよ」
と、いかにも決まり悪そうに言った。
そう香織に言われ、弓子は薄らと笑みを浮かべた。
今、何もしてないと言ったのは正しくなく、実は博一と同棲していた。しかし、そのことを香織に言う必要はないだろう。
言ってしまえば、何故知り合ったのか、香織に訊かれるに違いない。弓子はそれが嫌だったのだ。
それはともかく、弓子は、
「渡辺さんたちはどうしてるの?」
と、弓子は嘗ての仕事仲間の名前を挙げた。
だが、その時、香織は、
「その話はまたいずれするよ。そろそろ戻らなければならないから」
と言っては、弓子に軽く挨拶をし、弓子の許から去って行ってのだった。
2
〈後少しで六時だ。急がなくては!〉
博一は、アーケードの商店街の中を急ぎ足で歩いていた。〈サンシロウ〉に行く為だ。〈サンシロウ〉で小学校時代の同級生たちと会うことになっていたのだ。
〈サンシロウ〉の中に入ると、三四郎は中にいた。
三四郎は博一の顔を眼に留めると、
「星野さん。よくぞ、来てくれましたね。お待ちしてましたよ。さあ、こちらへ」
と言っては、博一を奥のテーブルに案内した。
博一はテーブルについてる面々を眼にして、納得した。それは、年月を経て、容姿は変貌してるが、明らかに昔の面影を遺してる顔振れたちが集まっていたからだ。
「星野博一さんですよ」
三四郎は、テーブルについている面々に博一のことを紹介した。
テーブルについていた面々は、立ち上がり、博一に握手を求めた。
「僕は村山です」
背が高く、日焼けした村山明夫は口元に笑みを浮かべた。
「僕は高野です」
高野正明は中肉中背で、銀縁の眼鏡を掛け、いかにも知的面立ちをしていた。
「私は、山際です」
それは、決して美人とはいえなかったが、好感を持てる女性であった。
博一は、小学校時代に記憶を遡ばらせた。
村山は小学校時代から背が高く、スポーツマンで、また、ガキ大将だった。博一は、村山から虐められたことがあった。しかし、決して憎めない男だった。
高野は勉強がよく出来た男だった。クラスの中で、いつもトップだった。しかし、運動は苦手なひ弱な少年だった。
山際小百合は、博一と中が良かった女生徒だった。村山たちに虐められた時に、よくかばってくれた女生徒だった。
この三人の小学校時代の思い出といえば、このようなものであった。
博一は中学校は私立に進んだということもあり、この三人とは、縁がなくなってしまった。そして、今日はその時以来の再会だったのだ。正に、二十何年振りの再会だったのだ。
「まあ、ゆっくりと昔の思い出話に花を咲かせてくれよ。僕はまだしばらくお客さんの応対をしなければならないから」
と、三四郎は席を外してしまった。
そんな三四郎のことを見届けると、村山が、
「久し振りですね。星野さん」
と、博一に言った。
「あなたは、本当に村山明夫さんですか」
と、博一は言った。確かにそうだとは思ったが、やはり、身体も大きくなっていたので、そう訊かざるを得なかったのだ。
「そうですよ。僕は間違いなく、村山明夫ですよ」
と、村山は笑いながら言った。そんな村山は、日焼けした肌に、白い歯が印象的であった。
「随分と日焼けしてますね。海にでも行ったのですか?」
という言葉が、博一の口から自ずから出た。
「いや。建築関係の会社で働いてましてね。その関係で、外で仕事をすることが多いのですよ。その為に、日焼けしてるのですよ」
と村山は言っては、再び笑った。
「星野さんは、どんな仕事をしてるのですかね?」
そう言ったのは、高野正明だった。
「僕ですか。僕は小さな電気関係の会社で働いてますよ」
と、博一は決まり悪そうに言った。その会社は、正に名前はまるで知られていない会社だったからだ。
「じゃ、エンジニアですかね?」
高野は眼を輝かせては言った。
「いいや。営業をやってるんですよ。口下手な僕がどうして営業をやらなければならないのですかね」
と博一は言っては、唇を歪めた。
「それは、謙遜ですよ」
と言ったのは、山際小百合だった。
そんな小百合を見やっては、博一は、
「山際さんは、どんな仕事をしてるのかな?」
「美容師をやってるのよ。青山通りの〈Pキャット〉というお店でね。芸能人もやって来るの。この前は、歌手の高原ひろみがやって来たよ」
「ふーん。山際さんは、いつからその店で美容師をやってるんだい?」
と、博一は訊いた。
「私は短大を卒業すると、上京しては、美容師の専門学校に入ったのよ。そこで資格を取り、まずは渋谷の店で働いたの。そして、今の店に移ったのは、二年前。私は手先が器用だから、美容師には向いていたのかな。その手腕を買われたのよ。今のお店の経営者に」
と、小百合は自慢げに言った。
「なるほど。そういうわけだったのか」
と、博一はさも感心したように言った。そして、
「高野さんは、どんなお仕事でしたかね?」
「僕は車のセールスをしてるのですよ」
と、高野は小さな声で言った。
それを聞いて、意外に思ったのは、博一だった。高野は小学校の時は成績優秀で、今も色が白いインテリ然とした感じだった。そんな高野が、車のセールスをしてるようには見えなかったのだ。
「日産系の販売会社なんですがね」
と、高野は呟くように言った。そして、
「この辺りを僕のテリトリーにしてるんですが、たまたま訪問したのが、松山三四郎さん宅だったのです。僕たちは最初はお互いに分からなかったのですが、少し話をすると、やはり気付きましてね。全く、僕と松山さんは、妙な再会でしたよ」
と、高野は淡々とした口調で言った。
「なるほど。そういうわけだったのですか……」
と、博一はさも感心したように言った。
「で、結局、車は買ってもらえなかったのですが、その代わり、僕は時々このスナックに飲みに来るようになったというわけですよ」
と、高野は再び淡々とした口調で言った。
すると、小百合が、
「私は、高野さんから、車を買いましたよ」
「山際さんには、随分と助けていただきましたよ。あの月は僕はノルマをこなせなくて、ミーティングの時に課長から怒鳴りつけられ放しでしてね。車を売れないのなら、会社を辞めてしまえという具合に。僕は随分落ち込んでいて、この、店に憂さ晴らしをしに来ましてね。その時に、山際さんがやって来た」
「私は美容師仲間と共に、この店に飲みに来たのよ。美容師仲間の一人がこの近くに住んでいたので、来たというわけ。そして、二度驚いてしまった。一つは、この店のオーナーが、小学校の時の松山三四郎さんだったこと。そして、後一つは高野さんと顔を合わせてしまったということ。世の中には、偶然というものがあるものなのね。それが分かったわ。そして、同窓会みたいな感じになってしまったのね」
「へぇ! そんなことがあったのか」
と、博一は正に感心したように言った。
正に博一が知らない所で、色んなドラマがあったというわけだ。もっとも、それは当り前のことだが。
「で、結局、その月は山際さんとその友人の美容師さんの二人に車を買ってもらったんだ」
と、高野はいかにも嬉しそうに言った。
「僕も高野さんから、車を買ったんだよ」
と言ったのは、村山明夫だった。
「といっても、僕たちは社会人になってからも付き合いがあったからね。それで、高野さんが車のセールスをやっていたことを知っていたのさ。それで、買ったんだけどね」
と、村山は淡々とした口調で言った。
「要するに、僕が車のセールスをやってた関係で、繋がりが出来たのさ。そして、僕等は、時々この店で飲むようになったのさ」
と、高野はいかにも嬉しそうに言った。
「しかし、驚きましたね。高野さんが車のセールスをやってたなんて」
と、改めてその言葉が博一の口から発せられた。博一の頭に中には、高野の小学校時代の印象しか残っていなかったからだ。小学校時代の高野と車のセールスのイメージが博一には合わなかったのだ。
すると、高野は、
「それは、仕方なかったんだよ」
と、眉を顰めた。そして、
「二度目の会社なんだよ。前の会社は大手だったんだけど、人間関係のトラブルに巻き込まれ、退職してしまったんだ。しかし、この不況下、希望した会社に入ることが出来ず、今の仕事に転職したというわけさ。しかし、意外と僕の几帳面な性格が功を奏してか、まずまずの営業成績を遺しているんだよ」
「そうでしたか……」
と、博一は呟くように言った。
「まあ、セールスをするような人は、エンジニアのように陰気ではないからね。まあ、面白い人が多いというか……。その点は助かってるんだ。もっとも、上司は嫌だけどね」
と、高野は苦笑いした。
すると、今度は村山が、
「僕の仕事も大変なんだよ」
と、口を挟んだ。
「建築の仕事だから、建築中のビルの中を行ったり来たりするんだ。時には10階建てのビルに上ったり下りたりしなければならないこともあった。それに、危険な事故にも巻き込まれないように注意を払わなければならないんだ。正に大変ですよ」
と、村山は言った。
「あら。私の仕事も大変ですよ」
と、山際小百合は言った。
「少しでも髪を短く切ってしまったりすれば、難癖をつけて来るお客さんもいますからね」
すると、博一が、
「僕の仕事も大変さ」
と、言ってしまった。
しかし、そう言ってしまった博一は、〈しまった!〉と思ってしまった。というのは、博一は既に今の会社に辞表を出そうと思っていた。というのは、明日にでもリストラされそうな感じだったからだ。それ故、その前に辞表を出そうというわけだ。しかし、その経緯を話すのには気が引ける。
それで、博一は素早く話題を変えた。
そして、それは、とんでもない言葉であった。
「皆さんはいくら仕事が大変だといっても、まさか、自殺したいと考えたことはないですよね」
と、博一は突如、真剣な表情を浮かべては言った。
すると、一同はシ―ンとしてしまった。博一の今の言葉が、この場に似合わなかったのかもしれない。
すると、小百合が、
「星野さんは、自殺しようと思ったことがあるのですか?」
と、些か真剣な表情を浮かべては言った。
すると、博一は、
「えっ! まあ……」
と、いかにも決まり悪そうに言った。
「聞かせてよ。どうして自殺しようと思ったのかを」
と、小百合は今度はいかにも興味有りげに言った。
「失恋ですよ。失恋のショックで自殺しよう思ったことがあるのですよ」
と、博一は些か決まり悪そうに言った。
「プッ!」
その博一の言葉を聞いて吹き出したのは、高野であった。高野は、さもおかしそうに大声を上げては笑ったのだった。
「高野さん。笑わなくてもいいじゃないですか」
博一は、些か脹れ面であった。
「だって、本当におかしいじゃないですか」
「じゃ、高野さんは、恋愛をしたことがないのですかね?」
と、山際小百合は言った。
「恋愛? そんなもの、したことないさ」
と、高野は平然とした表情で言った。
「あら、随分と覚めてるのですね」
と、小百合は高野に冷ややかな眼差しを投げた。
「そういえば、皆、独身なのですかね?」
と、博一は訊いてみた。
「そうですよ。皆さん、独身なんですよ」
と、小百合は当然だと言わんばかりに言った。
「何だ。恋位、してみろよ」
と、博一はまるで高野たちを窘めるかのように言った。博一は、大分酔いが回って来たようだ。そうでなければ、言わないような言葉を発してしまったようだ。
博一が〈サンシロウ〉を後にしたのは、午後十一時に近い時間だった。その時の博一は、かなり酔いが回っていた。
アパートに戻ると、博一は服を着替えるや否や、すぐに眠りに落ちてしまった。弓子が何か言っても、答えることなく、すぐに眠りに落ちてしまったという塩梅であった。
3
少し時間は前に戻るが、弓子はS大で香織と話した後、一旦、弓子のマンションに戻った。やはり、ここが一番落ち着くのだ。
そして、しばらく寛いでいたが、やがて、電話の呼出音が鳴った。
「もしもし」
―秋月さんですか。
電話の声は言った。
〈誰だろう……。何処かで聞いたことのある声だが……〉
―私、笠原と申します。
「笠原?」
―そうです。町田俊行さんの友人の。
弓子は思い出した。そういえば、そのような名前の友人がいたような記憶があった。
「笠原さんですね。思い出しましたよ」
―思い出してくれましたか。
「ええ。で、私に何か?」
弓子はそう訊いた。笠原から、電話されるような覚えがなかったからだ。
―実は、秋月さんにお願いがありましてね。
「お願い? それは、何ですかね?」
―言いにくいことですが、もう一度、町田俊行さんと縒りを戻してもらえないかと思いまして。
と、笠原は何となく言いにくそうに言った。
それを聞いて、啞然とした表情を浮かべたのは、弓子だった。それは、正に信じられない言葉であったからだ。
それで、弓子が絶句していると、
―誠に申し訳ないとは思うのですが、それを敢えて電話させていただいたのも、実は、俊行は今、入院していましてね。本来なら、俊行自身が秋月さんに電話すべきなのでしょうが、何しろ、今、病気なものですから、思ってることをはっきり言えるかどうか分からないから、本人の代わりに僕が電話した次第ですよ。とにかく、俊行の気持ちだけでも伝えなくてはと思いましてね。
と、笠原はいかにも言いにくそうに言った。
〈全く馬鹿にしてる! 私のことを何と思ってるのだろう。好きな女が出来たからといって、私を捨て、その女との関係がうまく行かなくなれば、私と縒りを戻そうとする。冗談じゃない! 私は使い捨てライターではない!〉
弓子は、憤慨極まりなかった。
それで、即座に電話を切ってしまった。
〈ガチャン!〉
という無情の音が笠原の耳に届いた。
笠原は、弓子が怒ったのだと思った。そして、〈仕方ないな〉と思ったのだった。
4
翌朝、九時を過ぎても、博一は起き上がろうとはしなかった。
そんな博一を横目に弓子は、
〈外出します〉
というメモを遺し、博一のアパートを後にした。
弓子は、今日は予定があった。あの荒唐無稽な男、畑野雄二と初めてデートすることになっていたのだ。
今、〈ゴッホ展〉という催しが、上野の美術館で開催されていたが、弓子がそれを見に行かないかと雄二を誘ったところ、雄二は飛び付くように応じたのであった。
しかし、展覧会は盛況で三十分も待たなければならなかった。
何しろ、ゴッホの代表作が展示されるとなれば、多くの絵画ファンが集まって来るのも当然というわけだ。
館内に入ると、雄二は、
「いやぁ、大変な人ですな」
と、眼を丸くしては言った。
「噂には聞いていたけど、これ程とは思わなかったわ」
と、弓子も眼を丸くしては言った。そして、
「ごめんなさいね。このような場所に連れて来たりして」
と、些か申し訳なさそうに言った。これほど混むのなら、別の場所に誘った方がよかったと弓子は思ったのであった。
「とんでもございません! 弓子さんとなら、たとえ火の中でもお伴しますよ」
と雄二は言っては、眼を輝かせた。
そう言われ、弓子は思わず笑ってしまった。
全く、畑野雄二という男は、大袈裟な表現をする男だ。しかし、そんな雄二のことを弓子は悪く思うことはまるでなかった。
弓子が今日〈ゴッホ展〉に誘ったのは訳があった。
笠原という男から電話が掛かって来て、町田俊行と縒りを戻してもらえないかと、言って来た。
弓子はそれをきっぱりと断った。それによって、俊行にしっぺい返しが出来た。
俊行にしっぺい返しが出来たとなれば、弓子は博一のことが、妙に色褪せたように思えたのだ。
恋人岬で出会った星野博一と同棲を始めたのも、俊行との確執があったからだが、俊行との確執が消えた今、博一は弓子にとって、影の薄い存在となり下がってしまったのだ。博一への思いは、所詮、俊行のことを忘れる為に燃やした情熱に過ぎなかったのだ。
そうなると、弓子はまるで鳥籠から放たれた鳥のように、本来の自分を取り戻したような感触に浸ることが出来た。恋愛ももっと自由に出来ると思った。そう! 博一以外とも!
それで、雄二を誘ってみたのだ。
弓子は雄二と共に絵画を鑑賞しながら、何かにつけて、弓子の機嫌を取ろうとする雄二に、惹かれて行く自らを感じないわけにはいかなかった。
美術館を後にすると、雄二は、
「凄い人でしたね」
と、溜息をつきながら言った。
「ごめんなさいね。こんな人が多い場所に誘ったりして」
と、改めて弓子は申し訳なさそうに言った。
「弓子さんが謝ることはないですよ。来てよかったですよ。あんなに素晴らしい絵を見ることが出来て」
と雄二は、いかにも機嫌良さそうに言った。
「何処かで休憩しませんか」
弓子は待ち時間を含めて、かなり立ちっ放しだったので、少々疲れてしまったのだ。
「じゃ、喫茶店でも入りましょうか」
ということになり、大通に出ては、手頃な喫茶店に入った。そして、二人とも、アイスコーヒーを注文した。
「畑野さんは、高校の数学教師を目指してるのでしたね?」
「ええ。まあ、そんなところです」
「じゃ、日頃は勉強ばかりされてるのですかね?」
「いや。そうじゃありません。塾のアルバイトもしてます。もっとも、小学生相手ですがね」
と、雄二は些か顔を赤くさせては小さく笑った。
「そうですか。でも、小学生相手なら、楽でいいですね。むずかしくなく」
「いや。そうでもありませんよ。最近の小学生は勉強熱心で、むずかしいしい質問をして来るので大変ですよ」
と、雄二は決まり悪そうに言った。
そんな雄二に、弓子は、
「隠さずに言わせてもらいますけど、智子から畑野さんのことを紹介してもらった時に、高校の数学教師と聞かされてたのですよ。私、何だか騙されたみたいです」
と、弓子は淡々とした口調で言った。
すると、雄二は思わずむせてしまった。
だが、雄二は弓子を見やっては、
「僕は今度こそ、合格すると思ってるのですよ。それで、僕は智子さんに、僕のことを高校の数学教師だと秋月さんに言ってくれるように言ったのですよ」
と、何ら悪びれた様は見せずに、淡々とした口調で言った。
「しかし、嘘をつくなんて、いけないですよ。本当のことを言ってくれればいいじゃないですか」
と、弓子は口を尖らせた。
「それでは、弓子さんが会ってくれないのではないかと思いまして」
と、雄二は決まり悪そうに言った。
「そんなことないよ。嘘をつく方が、余程後味が悪くなるというものですよ」
「悪気はなかったのですよ。ただ、弓子さんに会いたいが為に……。本当なんですよ」
と、雄二は眼に涙を溜めてしまった。そして、ハンカチを取り出しては、眼頭に当てたのであった。
これには、弓子は大層驚いてしまった。別に大したことを言ったわけではないのに……。そして、この畑野雄二という男の純情さに心を動かされたのであった。
5
博一はやっと上半身を起こした。すると、もう十時に近かった。
博一は起き上がり、弓子は何処にいるのかと辺りを見回したが、弓子はいなかった。その代わり、テーブルに置かれたメモを見付けた。メモには、外出の旨が書かれていた。
博一は冷蔵庫からウーロン茶を取り出しては一口飲んだ。すると、少し頭がすっきりとし、昨夜の出来事のことを思い出した。
村山、高野、山際、それに、三四郎。皆、それぞれの道を歩んでいた。小学校の時の面影からは考えられない程、皆、成長していた。
博一は服を着替えると、アパートを出た。街をぶらつきたいと思ったからだ。
今日は日曜日という為か、正午に近付くと、繁華街はかなりの人が見られた。それは、日頃の疲れを吹き飛ばそうとしてるかのように博一には思えた。
買い物袋を抱え込んだご婦人たち。子供の手を引いているパパやママの姿。どの人の顔も生き生きしてるように博一には見えた。
しかし、博一は虚ろな表情を浮かべながら、当てもなく、ただ、悪戯に歩いていたのだが……。
ふと、前方に見覚えがある顔が眼に留まった。
あれは……。あれは、河野美幸だった!
そして、美幸は男の連れと共に歩いていた。
その男の顔にも、博一は見覚えがあった。
それは、勝野だった。曙商事の次長の勝野弘明だった。博一の商談相手であり、博一が頭をぺこぺこ下げた相手だった! それを眼にして、博一はまるで稲妻に打たれたような衝撃を受けたのであった。
博一に死を決意させた女、河野美幸。博一を翻弄した男。勝野弘明。博一にとって、所詮、手の届かない男と女であった。
この二人が笑みを浮かべながら、繁華街を闊歩していたのだ!
博一はその光景を見て愕然とした。
しかし、博一はへこたれなかった。何故なら、博一は新しい人生に踏み出していたからだ。
博一と弓子が同棲生活に終止符を打ったのは、必然的だったのかもしれない。二人は、現実に眼覚めたのだ。
博一は自らの手で死を決意し、弓子は自らの手で殺しを決意した。
この二人が、恋人岬で偶然に出会い、二人の決意は雲散霧消した。
二人はまるで決められていたかのように同棲を始めた。しかし、それは、所詮、砂上の楼閣だったのだ。
エピローグ
その日、博一と弓子は、恋人岬に向かった。
恋人岬に着いた頃は、地平線に夕陽が沈む頃であった。大海原は、夕陽によって、茜色に染まっていた。
博一と弓子は、真正面から向い合った。
「短い時間だったけど、愉しかったわ」
と、弓子。
「僕もさ」
と、博一は肯いた。
「もう会うことはないでしょうね。私たち」
「ああ」
と、博一は軽く笑った。
二人は軽く握手を交わした。
「さようなら」
弓子は言った。
「さようなら」
博一も言った。
弓子は右に歩き出した。博一は左に歩き出した。
博一も弓子も、晴れ晴れとした気持だった。新しい息吹を胸中に感じていたのであった。
〈終わり〉
この作品はフィクションで、実在する人物、団体は一切関係ありません。また、風景や建造物の描写が実況とは若干異なってることをご了承ください。