エピローグ
村山は、今夜の七時に弁護士と会う予定になっていた。
来週からは、仕事に復帰する予定なので、忙しくなるかもしれない。そうなるまでに行動を起こそうと思っていたのだ。
既に十月に入り、過ごし易い季節になっていた。
直行は、今日もサンタクロースの衣装を付けては、はしゃぎ回っていた。そして、
「ママは、いつ帰って来るの?」
と、村山に訊いた。
村山は直行に嘘をつくのは苦痛だったが、
「しばらくすれば、ママは戻って来るよ」
と言う言葉を返した。
すると、直行は、
「パパ。どうしてサンタクロースは、街にいなかったの?」
と訊いて来た。
村山は先程まで、直行を連れて街に出掛けていた。そして、昨年、直行がサンタクロースに出会った通りを歩いたのだが、サンタクロースはいなかったというわけだ。
「サンタクロースというのは、クリスマスにしか現れないんだよ」
村山は笑いながら言った。直行は、まだクリスマスという意味が分かっていないのだ。
「クリスマスって、いつなの?」
「十二月二十五日さ。後、二ヶ月位かな」
「ふーん。クリスマスになれば、サンタクロースに会えるの?」
「そうだよ。クリスマスになれば、サンタクロースに会えるんだよ」
「わあ! 愉しみだな」
直行は眼を輝かせては言った。
この時、村山は、直行がサンタクロースに熱中して、智子のことを忘れてくれないかなと思った。直行が我を忘れて夢中になれる存在。それが、直行から智子の面影を追い払うことが出来るのだ。そして、それは直行にとって、サンタクロースだったのだ!
クリスマスよ! 早くやって来るんだ!
クリスマスになれば直行をサンタクロースに会わせることが出来る! 村山はそう心の中で叫んだ!
やがて、村山は直行に外出する旨を伝え、家を出た。
村山は駅への道を歩いていた。弁護士の事務所は、村山が利用してる駅から、四つ目の駅にあるのだ。
村山は駅に行くには、公園の中を抜けて行くことにしていた。その方が近道だったからだ。もっとも、その公園には、池とか噴水とか花壇があり、所々には薄暗い茂みになってる部分もあった。
既に午後六時を過ぎたということもあり、公園では水銀灯が薄暗い明かりを投げていた。昼間なら、子供たちの歓声が聞こえてるだろうが、今は静寂に包まれていた。
村山は、村山の後から一定の間隔を空けて歩いてる二人の男の存在に気付いていた。その二人の男の存在には、村山が家を出て少し歩いた頃から気付いていたのだが、村山宅辺りの住人であれば、駅に出る場合には、村山と同じルートを取るであろうから、村山はその二人の男たちのことを特に気にしてはいなかった。だが、その二人の男は、まるで村山に足並みを合わせるかのように、歩いているのだ。
それで、村山はふと振り返り、さりげなくその二人の男に眼をやったのだが、何となく人相の悪い男だと感じた。高価そうな背広を身に付けてはいるものの、怪しげな雰囲気が漂ってるのだ。
村山は歩みを速めた。というのも、公園内の薄暗い部分に差し掛かったからだ。そこは、以前、痴漢が出たこともあり、「痴漢に注意!」という立て看板が立てられたりしていた。そんな場所であるから、男の村山とて、本能的に早く通り過ぎたかったのだ。そして、その部分を通り抜けてしまえば、見通しの良い広場が開けていたのだ。
そして、その薄暗い部分を半分程歩いた時である。
村山はその時、急に背後に人の気配を感じた。
それで、村山は咄嗟に振り返った。
すると、その時、村山の後を翳のように尾いて来る二人の男の存在を認めた。
そう村山が思った時に、一人の男が急に村山の前に来ると、村山の鳩尾に鉄拳を喰らわした。
「うっ!」
村山はその苦痛に思わず呻き声を上げ、膝を折った。それは、正に不意を突かれた急襲であった。
村山の背後にいた男が、村山の口にハンカチを当てた。
村山は大声を出して助けを呼ぼうとしたが、ハンカチを口に当てられた為に、声を出すこと出来ない。また、逃げようとしても、鳩尾に喰らった一撃が利いて、思うように動くことが出来ない。
そんな村山に、男は再び鉄拳を喰らわした。
村山の眼に火花が散った。
この時、村山は夢を見てるのではないかと思った。今、村山が遭遇して出来事が現実のものとは思えなかったのだ。
そんな村山の思いを蹴散らすかのように、男たちは村山の髪を鷲摑みにしては、村山を茂みの中に引っ張って行った。
そこは、今や真っ暗闇に近かった。その場所までは、水銀灯の明かりは届かず、人の顔は殆ど見分けられない位だった。
だが、そんな中でも、村山は一人の男が手にした物が何であるか、凡そ分かった。
それは、柳刃包丁のようなものであった。
〈殺される……〉
村山はそう思った。
〈何故? 何故、殺されなければならないんだ? 俺が一体何をしたっていうんだ?〉
〈智子、助けてくれ! 直行、俺は死なないぞ!〉
様々な声が、村山の脳裏の中で飛び交った。
だが、その柳刃包丁が、村山の心臓の近くに突き刺さるのに、さほど時間は掛からなかった。
柳刃包丁が村山の体内に突き刺さった時、村山の体内に電流が走った。
村山は吹き出す血潮に、手を当てた。
すると、それは即座に村山の手を赤く染めた。
〈俺が死ねば、直行はどうなるんだ? 直行の面倒を誰が見るんだ?〉
村山は直行のことが心配だった。智子を失い、村山まで失えば、直行はどうやって生きて行くのだろうか?
クリスマスだ! そうだ! クリスマスが来るまでは、俺は死ねないんだ! サンタクロースが直行から智子のことを忘れさせてくれるんだ! 俺は直行をサンタクロースに会わせなければならないんだ!
しかし、それは、幻として終わるのだろうか?
村山はいつの間にか草の上に仰向けになっていた。あの怪しげな男たちは、いつの間にか、姿が見えなくなっていたが、村山から流れ出る血潮の勢いは、止まることはなかった。
夜空はいつも通り、星を見ることは出来なかった。
その光景は、いつも通りだった。
だが、村山はいつも通りではなかった。
村山は薄れて行く意識の中で「幻のクリスマス、幻のクリスマス……」と、呟いたのであった。
〈終わり〉