第五章 そして春
     1

 雪解け水が心地良い音を立てて、小川や飯倉川に流れ込むようになった。長かった冬は雪解け水の音と共に終わりを告げ、若築村に春が訪れたのだ。
 田の畦道、土手、畑、野山などには、色とりどりの花の姿が見られるようになった。
 そうなって来ると、若築村は子供たちにとって天国と化す。
 和也、美幸、雄介は、野原を駆け回るようになった。とりわけ、レンゲソウが咲き乱れてる場所へは、頻繁に足を運んでいた。
 雄介は咲き乱れるレンゲソウを眼にしては、やっと故郷に戻って来たと実感した。
 勿論、若築村は雄介にとって、本当の意味での故郷ではない。
 しかし、雄介は若築村にやって来て、レンゲソウを眼にして、徐々に心を開いて行ったではないか。弘行に対する蟠りを捨て、弘行を父と認めたではないか!
 即ち、雄介の新しい人生は、若築村のレンゲソウと共に始まったのだ。
 そういったことから、レンゲソウの咲き乱れる若築村は、雄介にとって故郷みたいなものであった。
 若築村でレンゲソウを見て以来、雄介の心の中からは、レンゲソウが消え去ることはなかった。田畑や野原からレンゲソウは消えても、雄介の心の中からは、レンゲソウが消え去ることはなかった。田畑や野原からレンゲソウは消えても、雄介はレンゲソウの映像を心の中で見ていたのだ。
 そして、それは殊に雄介が苦境に陥ってる時に現われた。雄介が孤立していた時、恐怖に怯んでいた時、死が眼前に迫った時などだ。だが、レンゲソウを見ると、雄介はそういったものを払い退けることが出来たのだ! 即ち、レンゲソウは雄介にとって心の支えだったのだ。
 そんな風であったから、雄介は今やレンゲソウの咲き乱れる野原を、毎日のように駆け回っていたが、雄介は若築村にやって来て、初めて別れの辛さというものを経験することになってしまった。四年の時に、雄介たちのクラスの担任であった小山先生が若築村を去ることになったのだ。
 もっとも、小山先生は三月末で教員生活に終止符を打っていたので、いずれ若築村を去るだろうと、人々は噂していたのだが、雄介は信じていなかった。
 というのも、小山先生は四月になっても、時々学校に姿を見せていたからだ。雄介は何故小山先生が教員を辞めたのかは分からなかったのだが、小山先生の顔はこれからも見れると思っていたのだ。
 雄介は小山先生に対しては、特別な思いを抱いていた。
 雄介が若築小学校に転校して来た時は、とても親切にしてくれたし、それ以外にも何かと世話になってるからだ。正に雄介にとって優しいお姉さんだったのだ。
 だが、雄介はやがて、小山先生が若築村から去ってしまうという決定的な情報を入手することになった。
「どうするんだよ……。小山先生がいなくなっちゃうよ……」
 と、雄介は和也や美幸に文句を言ったが、どうにもならなかった。

      2

 遂に小山先生との別れの日が来た。小山先生は下宿先の荷物の整理を既に済ませ、午後一時のバスで若築村を去ることになっていた。
 若築村のバス停には、和也、美幸、雄介は無論、学校関係者、生徒の父兄たちが集まっていた。小山先生は一人一人に微笑みながら、別れの挨拶を交わしていた。
 小山先生はやがて、雄介の前にやって来た。そして、
「中道君とも今日でお別れね。元気でね」
 と言った。雄介はそんな小山先生に黙って肯いた。そして、
「先生、これ、贈り物です」
 と言っては、ビニール袋を差し出した。
「何、これ?」
 小山先生は訊いた。
「中を見てください」
 雄介は言った。
 小山先生はビニール袋の中を見た。
 すると、そこには紅紫色のレンゲソウが入っていた。
「僕の一番好きな花なんです。先生は僕の知らない土地に行って、もしレンゲソウを眼にしたのなら、僕を思い出してください」
 雄介は言った。
「分かったわ」
 小山先生は微笑みながら、雄介と握手を交わした。
 すると、治子が近付いて来ては、
「こら! 雄介! 先生の荷物を増やしては駄目だよ」
「いいですよ。これ位」
 小山先生がそう言った時に、バスが見えて来た。バスはどんどんと近付いて来ては、やがてバス停に停まった。
 小山先生は一同に、
「さようなら! 皆さん!」
 と言っては、バスに乗り込んだ。そして、バスは程なく動き出した。
 バスはどんどんと遠ざかって行った。小山先生は窓から手を振ってるようであったが、それもやがて見えなくなった。
 雄介の眼には、涙が溜まっていた。
 そんな雄介を見て、美幸は、
「雄介たら、泣くかなくてもいいのに」
 と言っては、笑った。
「泣いてなんかいないさ。眼にゴミが入っただけさ」
 雄介はそう言っては、空を見上げた。
 空はとても青く澄み切っていた。空の青さを遮るものは、何もないように思われた。
 だが、雄介は一瞬ではあるが、レンゲソウを手にしては微笑んでいる小山先生の姿を眼にしたのであった。

     〈終わり〉

目次