10
その翌日の一時間目の授業が終わると、和郎は直子に、
「花井さんは、昨日の午後六時半頃、何してた?」
と、直子の傍らに何気なくやって来ては、そう訊いた。
すると、直子は、
「どうして、そんなことを訊くの?」
と、笑いながら言った。
「どうしてと言われても……」
和郎は顔を赤らめては、言葉を詰まらせてしまった。
和郎は昨夜、小山田神社の境内で北野太郎と抱き合っていた女が直子であったのかどうか、確かめたくて仕方なかったのだ。しかし、その思いをまさか直子に言うわけにはいかなかったのだ。
そんな和郎を見て、直子はそれ以上、その点に関して和郎に訊こうとはせずに、
「その頃は、家にいましたよ」
と、笑いながら言った。そんな直子は、どうしてそのようなことを訊くのかと改めて言わんばかりであった。
そして、直子は席を立ち、教室から出て行った。
和郎はこの時、思った。直子は嘘をついている、と。
それは、和郎の直感といってもよかった。
というのも、直子は和郎の問いに対して、笑顔を見せていたものの、俯いていたからだ。そして、和郎の眼を見ようとはしなかったのだ。そして、そう言った和郎から逃げるかのように、席を立ち、教室から出て行ったのだ。
即ち、直子は和郎に嘘をついたのだ。だから、和郎から逃げるようにして、教室から出て行ったのである! そう理解した和郎は、自らの席に戻った。
そして、ふと、太郎に眼を向けた。
太郎は、中村五郎と話をしていた。何の話をしてるのだろうか……。
太郎の眼鏡の奥の細い眼は、相変わらず笑っていた。その眼は、相変わらず他人のことを嘲ってるかのようであった。
こんな男と直子は抱き合っていたのだろうか?
それは、和郎にとって、信じられず、許されないことであった。
和郎に何かにつけて嫌がらせを行ない、他人のことを嘲るかのように見下す男。
この世で、最も愚物であるかのような存在。
それが、北野太郎であったのだ。
この北野太郎観は、太郎を毎日見てる内に、和郎の胸の中で自然と確立された。
その太郎と、和郎が思いを寄せ、神聖な存在と看做してる直子が抱き合う筈はない。しかし、先程の直子の様が、その和郎の思いを否定したのだ。
そう思うと、和郎は今の和郎の思いが事実なら、和郎は太郎のことを殺してやってもいいと思った位であった。
良子は一日寝込んだだけで、幸にも熱が引き、元気さを取り戻した。
だが、大事をとって、今日一日、仕事を休むことになった。
しかし、元気な姿の良子を見て、和郎は一安心した。
和郎は学校から帰って来ると、服を着替え、畳の上に寝転がった。すると、否応が無く、黒ずみ古びた天井が眼に留まった。
そんな和郎に良子は、
「お茶、飲む?」
「うん」
そう和郎が言うと、良子はやがて、盆にお茶が入った湯呑茶碗を和郎の許に持って来た。
それで、和郎は起き上がり、湯呑茶碗に口をつけた。そして、
「母さん、お金、大丈夫なの?」
和郎は実のところ、このことを口にするのは、嫌だった。三万下ろして来てと言われ、二万しか残金がなかった時の失望、不安、情けなさ、やるせなさ。
そのことを思い出すのが嫌だったのだ。
しかし、良子の稼ぎに和郎一家は依存してるだけに、和郎としては、このことを確認しておく必要があったのだ。
すると、良子はそんな和郎の胸の内を察してか、笑顔を見せては、
「お前は、お金のこと心配しなくてもいいよ」
「でも、母さんの郵便局の口座には、もう残金が残っていないんだよ。昨日、二万下ろした結果、もう残金が残っていないんだよ」
和郎がそう言うと、良子は和郎から眼を逸らせ、黙ってしまった。
そんな良子を見て、和郎はやはり、このことは口に出さなければよかったと思った。
それと同時に、良子の給料日が、三日後であったことも思い出した。
それで、そのことを和郎は良子に言った。だが、良子は和郎から眼を逸らせたまま、何も言おうとはしなかった。
そんな良子に、和郎は、
「俺、アルバイトでもしようか。新聞配達位なら、出来ると思うんだよ」
と、些か笑顔を見せては言った。
すると、良子は眼を大きく見開き、
「何を言うの。母さん、まだまだ元気だよ。お前は余計なことに気を使わなくていいんだよ」
「母さん。いっそのこと、父さんと別れなよ。俺、父さんなんていらないよ。母さんと二人の方がいいんだよ!」
和郎は今まで何度このことを口にしようと思ったことか。何度、口元まで出掛かっては、抑えたことか!
今や、大造は一家にとって、悪害をもたらすだけの、無用の長物と化していた。和郎は強くそう確信していた。
それなのに、母は何故父と別れないのだろうか? 和郎の心の中では、この疑問が大きく渦巻いていたのだ。
和郎はもはや、大造のことを父とは思ってはいなかった。何の役にも立たない汚物としか見えなかった。
和郎の父は既に死んだ。平野大造は、もはや和郎の父ではなくなったのだ!
それなのに、何故母は大造と別れないのだろうか? その疑問は、和郎の脳裏に今や大きく伸し掛かっていたのだ。
和郎がそう言うと、
「子供のお前が、そんなことを口にするものじゃないよ!」
良子はそう言うと、腰を上げ、台所に行った。
和郎はその時、時計に眼をやった。すると、午後六時であった。
和郎は忘れはしなかった。午後七時に、太郎と直子が小山田神社の境内で会う約束をしてることを!
和郎はジャンバーを着ると、アパートを後にした。良子には、「少し散歩して来るよ」と言って。
和郎は小山田神社へと足を向けた。
和郎の頭の中は、直子と太郎のことで一杯であった。
二人の逢瀬。それは、和郎にとって、許し難いものであった。
それ故、今の和郎はとても興奮していた。眼は血走り、和郎が今まで見せたことのないような険しい表情をしているに違いなかった。正に、戦を前に戦場に出向く武士であるかのようであった。
やがて、小山田神社に着いたが、和郎は素早く杉並木の中に身を潜めた。幸にも、小山田神社に来る途中に、太郎にも直子にも出会わなかった。もし、出会ってしまえば、和郎の立場は苦しいものになったことは必至であろう。
それ故、和郎は早目に家を出たのだ。
そんな和郎は、家から持って来たスーパーのレジ袋に入れてあった鬼の面を被った。それは、小学校の時に、祭りの露店で買ったもので、プラスチック製のシンプルなものであった。しかし、それを被れば、素顔が分からないのは、歴然としていた。
腕時計を見ると、七時まで後五分に迫っていた。
本殿にある薄暗い裸電球と、参道の所処にある薄暗い明かりだけが、辺りを照らしてるだけであった。しかし、近くに行けば、人の顔位は見分けられる位の明るさはあった。
和郎は杉並木の中を進み出した。太郎や直子よりも先に本殿の近くに行こうと思ったからだ。
だが、本殿が見える所にまで来ると、どうやらその和郎の思いは失敗であったことに気付いた。何故なら、本殿の前には、既に女が姿を見せていたからだ。
それは、確かに昨夜の女であるようであった。昨夜と同じ服装であったので、和郎はそう看做したのだ。
だが、明かりの関係で直子なのかどうかまでは、確認出来なかった。
しかし、この時、和郎は踵を返し、鳥居の方に向かって杉並木の中を歩き始めた。それは、太郎を待ち伏せする為だ。和郎は太郎が女と会う前に、太郎を急襲してやろうと目論んだのである。
程なく、太郎の姿が見えた。太郎は鳥居に向かって、一歩一歩、歩みを進めていた。
そんな太郎の様は、何処となく浮き浮きしてるように和郎には思われた。
そんな和郎は、太郎が鳥居を通り過ぎるのを固唾を呑んで待っていた。何故なら、鳥居を通り過ぎた頃が、和郎の急襲場所だと、和郎は理解していたからだ。
程なく、太郎は鳥居を通り過ぎ、参道に踏み出した。
そして、杉並木に潜んでいる和郎の前を通り過ぎようとしたその時である!
和郎はさっと杉並木から抜け出し、太郎に襲い掛かった。
太郎は正に恐怖に引き攣った表情を浮かべた。
しかし、それは当然であろう。鬼の面を被った得体の知れない曲者が襲い掛かって来たのだから!
和郎はそんな太郎の様をはっきり眼に捕えたのである!
そんな太郎には、いつもの他人を嘲るような細い眼は消え失せていた。和郎はそんな太郎を見るのは、初めての経験であった。
そんな太郎に和郎は頭突きを喰らわした。
その一撃を喰らい、太郎の眼鏡が太郎の顔から落ちた。それは、太郎のトレードマークの代物だ。
和郎はそんな太郎の眼鏡をスニーカーで踏み付けた。スニーカーの下で、和郎は太郎の眼鏡が砕ける感触をはっきりと感じた。
和郎は今や、鬼と化していた。
太郎への怒り、大造への怒り、貧困、直子への思慕。それらの感情が一気に爆発し、太郎襲撃へと転化したのだ!
太郎は、「わ!」という叫び声を上げ、一目散にその場から去って行った。そんな太郎は、後ろを振り返ろうともしなかった。
和郎は太郎が和郎の視界から消え去ったのを確認すると、本殿へと向かった。本殿の前には、太郎を待っていた女がいる筈であった。
杉並木の中を進み、やがて、和郎は本殿近くにまでやって来た。そして、改めて、女を見やったのだが、女がやはり、直子なのかどうかは、分からなかった。明るさの関係で、どうしても、それが確認出来ないのだ。
しかし、和郎には躊躇いはなかった。和郎は忍び足で女に背後から近付くと、背後から一気に女に抱きついたのだ!
女は、不意の襲撃を受けて、咄嗟に振り向いた。すると、そこには、鬼の面を被った得体の知れない曲者がいた。
「ぎゃ!」
女は叫んだ。
和郎はその恐怖に歪んだ女の顔を、後々まで決して忘れはしないだろう。
和郎は女を見て、その女が直子でないことを理解した。それは、和郎の見知らぬ女であったのだ。
しかし、今や、和郎は女が直子であろうと、見知らぬ女であろうと、それは問題ではなかった。
和郎は今や、鬼と化していたのだ! 鬼の面を被った身も心も鬼と化していたのだ!
今まで積もりに積もっていた鬱憤が、この女を抱き抱えることによって、和郎は吹き飛ばそうとしたのだ!
そんな和郎は、女の肌の感触を感じ取ろうとした。
しかし、それは分厚いオーバーで阻まれた。それで、和郎は女を抱き抱えたまま、女を組み倒そうとした。そして、それは、成功した。それで、和郎は女の上に伸し掛かり、和郎の唇を女の唇に押し付けようとしたのだ。
女は、そんな和郎に必死に抵抗した。顔を激しく左右に振り、和郎の行為を阻止しようとしたのだ。
そんな女は、和郎の一瞬の隙を突き、和郎の顔を隠してる鬼の面のゴム紐を引っ張った。
すると、「パチン!」という音と共に、和郎の顔を隠していた鬼の面があっさりと和郎の顔から外れてしまったのだ。
〈しまった!〉
和郎は、和郎の顔を女に覚えられることを恐れた。それと同時に、自らが犯してしまった狂った行為に気付いたのだ!
和郎は自らの顔に両掌を当て、「わあ!」という叫び声を上げては、杉並木の中に向かった。そして、女から逃げるようにしては、杉並木の中を走った。
そして、程なく鳥居の傍らを過ぎ、小山田神社を後にしたのだ。
そして、それからどれ位の時間が過ぎたのか、和郎には分からなかった。しかし、和郎は再び小山田神社へと向かったのだ。
何故そのようなことをやったのかというと、和郎は本殿近くに和郎のズボンのポケットに入れてあったハンカチを落としたような気がしたのだ。
和郎は杉並木の中を進み、程なく本殿近くにやって来た。
そして、辺りを見回したのだが、やはり誰もいないことは間違いなかった。
それで、和郎は本殿の前にやって来たのだが、本殿の前には、和郎と女の格闘の痕跡が残っていた。本殿前の玉砂利が、引っ掻き回されてるようになっていたからだ。
和郎はそんな玉砂利周辺に隈なく眼をやったが、ハンカチは見付からなかった。ということは、ハンカチは元々和郎のズボンのポケットに入っていなかったのではないのかと思ってみた。
それはともかく、辺りはとても静かであった。そんな静まり返った中で、小山田神社の本殿が厳かに和郎の眼前に鎮座していた。
すると、その時、雪が落ちて来た。今夜はまだ、雪は降ってなかったのだが、今、やっと、雪が落ちて来たのだ。
和郎は空を見上げた。
だが、雪はそんな和郎にお構いなしに、しんしんと落ちて来るのだ。
雪に音はなかった。たとえ、どんな大粒の雪が落ちて来ようと、雪に音など存在しないのだ。
だが、この時、和郎は雪の音を耳にしたのである!
それは、和郎のことを嘲る声であり、父と母の喧嘩の声であり、直子を思う和郎の声であった。天から降って来る雪は、そういった声を、今、和郎の脳裏に一気に駈け巡らせたのである。
それ故、和郎にとって、雪の音は存在するのだ。雪は、和郎の情熱を激しく駈け巡らせ、それが、雪の音として、和郎には聞こえるのだ! 和郎は降り落ちて来る雪を、自らの心の叫びとして捕えたのだ!
和郎はこの時ジャンバーを脱いだ。
すると、寒さが一層、肌に染みた。セーターを通して、寒さが一層素肌に染み込んで来た。
和郎は大きく息を吸い込み、そして、吐き出した。吐き出された息は、広く空間に拡がって行った。
雪は次第に降る勢いを強めていた。
和郎は自らの先程の行為に、悔恨の念を抱いた。何という狂態を演じてしまったのだろう……。だが、悔恨しても後の祭りだ。
和郎はしばらくの間、降り続く雪に身を任せていたが、やがて、本来の和郎が戻って来たような感じがした。
和郎はこの時、ただひたすら、雪を見入っていた。
すると、雪は誰に対してでも平等に降り注ぐことを、今更の如く実感した。北野太郎のような醜悪な心を持った男にも、和郎のように、無垢なのに恵まれない男にも……。
それなら、今夜の和郎の行為も許されていいのではないだろうか……。その平等たる慈悲深い精神で……。
たった一度の過ち……。それを慈悲深い雪が許してくれるだろう。
和郎はそう心の中で雪に祈った。
そして、雪に問い掛けた。
しかし、雪は何も答えてはくれなかった。ただ、しんしんと降り注ぐばかりであった。
雪に音なんてない。
しかし、雪は人間の感情を掻き立てるのだ!
それは、時には怒りであり、哀しみであり、また喜びであったりするのだ。正に、雪は人間に様々な感情を誘発させるのだ!
それ故、雪に音はなくても、雪が起因して、音が生成されるのだ! 人間の感情という音が!
それ故、雪には音が存在するのだ!
和郎は再びジャンバーで身を包み、ゆっくりと参道を歩き始めた。
雪に音なんてない。
しかし、人間の感情を誘発させるのだ。
それ故、雪は、正に音を立てるのだ!
人間の感情という音を!
(終わり)