第九章 愛の終わり

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 話は少し前に戻るが、みちると優は、雲仙で思わぬ事件を引き起こしてしまった。思わぬ事件とは、無論万造を殺してしまったことだ。みちると優が雲仙に来るまでは、果してこのような事態に陥ってしまうなんて、夢にも思わなかったことであろう。正に、それはみちると優にとって、天国から地獄に落ちてしまったかのような災難に見舞われてしまったのだ。
 そして、今、優とみちるは、東京に戻って来ていた。そして、新聞でさ程大きな見出しではなかったものの、雲仙で身元不明の若い男の惨殺死体見付かるという記事を眼にするに至った。
 その記事を眼にして、優とみちるは、正に生きた心地がしなかった。
 そんな優とみちるは、みちるの部屋で今後の善後策についての相談をした。
 即ち、自首するか、しらを切るかを相談したのだ。
 そして、その結果、当分の間、しらを切り、様子を見ようということになった。
 というのは、雲仙で優とみちるが宿泊したホテルには優の名前で予約した。優と万造は何ら無関係な者であった為に、その線から足がつく心配はなかった。
 更に、凶器となった包丁は、雲仙の温泉街から少し離れた山の中に埋めた。その場所に優とみちるが再び行ってみろと言われても、それは不可能と思われる場所であった為に、その場所を掘り起こしたりする物好きはまずいないことであろう。それ故、凶器の線から、優とみちるが浮かび上がる可能性もまず有り得ないであろう。また、優とみちるが宿泊したホテルの従業員たちも、優とみちるの挙動に何ら不審な思いを抱いていなかったようだ。
 それらのことから、優とみちるが捜査線上に浮かぶ可能性は極めて小さいと優とみちるは看做したのである。
 それ故、優とみちるが、敢えて自首という破滅への道を進む必要はないという意見が二人から出たのである。
 だが、二人が自首を拒んだのは、それだけの理由ではなかった。
 二人は、やっとお互いに愛する者を見付けたのだ。二人は、二人で時間を過ごすにつれて、お互いの思いを痛感したのだ!
 それ故、自首し逮捕されたとなれば、優とみちるは、一緒にいられなくなる。
 優とみちるは、それを拒んだのだ! 
 そんな優とみちるではあったが、みちるの表情は日が経つにつれて、生気のないものへと変貌して行った。
 そんなみちるに、優は、
「そんな元気のない表情をしてちゃ駄目だよ。それじゃ、怪しまれてしまうよ」
 と、みちるを窘めた。
 すると、みちるはぎこちない笑みを見せたのであった。
 そして、そんなみちるの前に警官が現れることはまだなかったのであった。
 それはともかく、一体何故、万造が、優とみちるが九月一日に雲仙に来ていたことを知っていたのか、それに関してみちるは何度も思いを巡らせ、また、優と論議してみた。
 そして、その結果、万造がみちるの部屋に盗聴器をセットし、密かにみちるの会話を盗聴していたという結論に達した。
 とはいうものの、みちるはみちるの部屋を隈なく探してみたのだが、万造がセットしたと思われる盗聴器を見付けることは出来なかった。
 その点に関して優は、
「ひょっとして、万造はみちるちゃんの部屋の合鍵を持っていたのじゃないのかな」
 と、渋面顔で言った。
 そう優に言われ、みちるの言葉は詰まった。
 そして、その点に関して思いを巡らせてみたのだが、心当たりはなかった。
 しかし、万造がみちるの部屋にいた時に、みちるの眼を盗んでみちるの物入れの中に仕舞ってあったスペアキーを盗んでは、合鍵を作り、後日みちるの部屋に来た時に、そのスペアキーを元の物入れの中に仕舞ったという可能性がないこともない。
 そして、その合鍵を使い、優とみちるが雲仙に向かった日にみちるの部屋に入り込み、盗聴器を回収して行ったのかもしれない。
 その可能性は、万造の性質からして、充分に有り得ると、みちるは看做したのであった。
 それはともかく、万造が死んで、一ヶ月が経った。
 一ヶ月も経って、みちるの前に警察が現れないとなると、ひょっとしてみちると優は警察から逃れられるかもしれない。そう二人が思うのも、当然のことのように思われたのだ。
 そんな折に、みちるの前に現れたのが和美であった。
 みちるは和美と会うのは、三ヶ月振りであった。
 三ヶ月前までは、みちると万造と茂と和美の四人で美人局といった悪事を行なう為に、よく四人で集まっていたものだが、今ではみちるはすっかりその悪事からは手を引いていたので、悪事仲間であった和美との関係も自ずから疎遠になり始めていた。
 そんな折に、何の連絡も無く、突如、和美がみちるの室にやって来たのだ。そして、その時はタイミング悪く、優もみちると共にいたのである。
 和美は優のことは知らないとみちるは思っていた。何故なら、みちると優がいた歌舞伎町のラブホテルに侵入して来たのは、万造と茂であったので、万造と茂なら優の顔を知っているだろうが、和美は優の顔を知っている筈はないのだ。
 とはいうものの、みちるが美人局で引っ掛けた男が今のみちるの彼氏だということを和美に知られるのには、みちるは気が退けた。
 それで、とにかくみちるは優に押入れの中に隠れるように言った。
 和美はやがて、リビングの中に入って来ると、辺りの様子をさっと見回しては、部屋の中央辺りに置かれている肘掛椅子に腰を下ろした。その肘掛椅子には万造もよく腰を下ろしたものであった。
 それはともかく、和美は、
「久し振りね」
 と、薄らと笑みを浮かべては言った。そんな和美の唇には紅色の口紅が鮮明に塗られていて、また、両手の爪にはマニキュアが施されていた。そんな和美の様は、今からクラブとかバーに出勤するホステスであるかのようであった。
 和美にそう言われると、みちるは、
「そうね」
 と、当たり障りのない言葉で応じた。
 そんなみちるに、和美は、
「最近は、万造と会っていないの?」
「そうね。最近は会っていないわ」
 みちるは、素っ気無く言った。
「全く会っていないの?」
「そうじゃないよ。一ヶ月位前にも、この部屋に来たわ。でも、すぐに帰ってもらったけど」
 みちるは和美から眼を逸らせては、決まり悪そうに言った。
「どうして? どうしてすぐに帰ってもらったの?」
 和美は些かみちるの胸の内を探るかのように言った。
「どうしてって、最近、何となく気分の優れない日が多くてね」
 と、みちるは和美から再び眼を逸らせては言った。
 すると、和美は、
「それは、嘘だわ」
 と言っては、にやっとした。その和美の笑みは、何となく嫌な感じの笑みであった。
 すると、みちるは眼を大きく見開き、そして、和美をまじまじと見やっては、
「嘘? どうして嘘だと言うの?」
「だって、万造がこの部屋に来て、みちるが気分が悪いと言って、万造に帰ってもらったのは、その時だけではないでしょ。それ以外にも、そのようなことが、三回程あったんじゃないかな。つまり、万造がこの部屋に来て、立て続けに四回もみちるが気分が悪かったということを信じろと言われても、それは無理よ」
 そう和美に言われると、みちるは決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせた。
 そんなみちるに、和美は、
「ひょっとして、みちるに新しい彼氏が出来たのじゃないかしら」
 そう和美に言われると、みちるは和美から眼を逸らせたまま、言葉を発しようとはしなかった。そんなみちるの表情は、決まり悪そうなままであった。
 そんなみちるを眼にして、和美は薄らと笑みを浮かべた。そんな和美の笑みは、面白いから、愉しいから浮かべた笑みではなく、正に嫌味のある笑みであった。
 和美の問いになかなか言葉を発しようとしないみちるを眼にして、和美は、
「図星ね」
 と言っては、唇を歪めた。そんな和美からは、既に笑みは消失していた。そして、
「みちるの新しい彼氏って、どんな男?」
 と、みちるの顔をまじまじと見やっては、いかにも興味有りげに言った。
 そう和美に訊かれても、みちるは和美から眼を逸らせては、決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を発そうとはしなかった。
 それで、和美は些か険しい表情を浮かべては、
「万造を裏切っていいと思ってるの?」
「……」
「みちるは万造の恩を忘れたの? みちるが高校一年の時に、身体を犠牲にして暴走族からみちるを守ってくれたのは誰だと思ってるの? あの時万造がいなければ、みちるは暴走族に輪姦され、みちるの人生は滅茶苦茶になっていたのよ! みちるはそのショックで自殺していたかもしれないのよ! 今、みちるがこうしていられるのも、万造のお陰なのよ! みちるは、その恩を忘れたの?」
 と、和美はまるでみちるを鞭打つかのように言った。
 すると、みちるは眼を大きく見開き、
「忘れてなんかいないわ!」
 と、些か声を荒げては、和美に反発するかのように言った。
「だったら、どうして万造を裏切ったの?」
 和美は、みちるを睨み付けては言った。
 そう和美に言われると、みちるは渋面顔を浮かべては、少しの間言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「私、もう万造について行けなくなったのよ!」
 と、沈痛な表情を浮かべては言った。
「ついて行けなくなった?」
「そうよ。だって、万造は悪いことばかりするから。私、万造の女だったから、万造がやれと言ったことに率直に応じていたけど、心の中では徐々に不満が大きくなって行った……。あんな悪いことばかりやっていれば、私たちいずれ警察に捕まっちゃうよ。
 それに、今度は中国人と組んでピッキング強盗なんかを行なおうとしてるんだもの。
 それでも、私、万造の女になってなければならないの?」
 と、みちるはいかにも憤懣やるかたないと言わんばかりに、些か声を荒げては言った。
 そうみちるに言われると、和美の表情は険しくなり、そして、少しの間、言葉を詰まらせていたが、やがて、
「九月一日から二日にかけて、みちるは何処で何をしてたの?」
 と、みちるの顔をまじまじと見やっては言った。そんな和美は、和美の問いに対するみちるの表情の一挙手一投足を注視してるかのようであった。
 そう和美に言われると、みちるの言葉は詰まった。何故なら、和美からまさかそのような質問を受けるとは思ってなかったからだ。
 とはいうものの、その質問を刑事から発せられれば、どのように返答するかは予め考えてあった。何故なら、九月一日はみちるにとって生涯忘れることの出来ない日であったからだ。何しろ、その日にみちると優は万造を殺してしまった最悪の日であったのだから。
 だが、その問いをまさか刑事からではなく、和美から発せられるなんて、みちるは夢にも思ってなかったのだ。
 みちるの沈黙は十五秒程で終わった。何故ならみちるはその問いに対してあまり長く沈黙を続けると、みちるにとって何かと不利になると判断したからだ。
 それで、みちるは予め用意してあった返答を返した。
「その頃は、友人の家にいたわ」
「友人? 友人って、それ、誰?」
 和美はみちるの顔をまじまじと見やっては、眉を顰めて言った。
 すると、みちるは、
「誰だっていいじゃん!」
 と、和美に抗うかのように言った。
 すると、和美は先程見せたような不敵な笑みを見せた。そして、
「友人って、みちるの新たな彼氏のこと?」
 そう和美に言われると、みちるは和美から眼を逸らせては、言葉を発そうとはしなかった。
 みちるは、もし今の和美の問いが警察のものであったのなら、そのように答えようと思っていた。というのは、優が住んでいるアパートは軽量鉄骨二階建ての203号室なのだが、その両隣の室は現在空室で、しかも、そのアパートは通りに面していない為に、203号室に人がいるかどうかは、通りからは窺うことは出来ない状況であった為に、そのみちるの嘘は充分に通用するとみちるは看做していたからだ。
 とはいうものの、和美にそう言うのは、何となく気後れした。何故なら、彼氏と共にいたと和美に答えれば、和美はその彼氏のことに言及して来るに違いなく、みちるはそんな和美の問いを巧みにかわす自信がなかったのである。
 それで、みちるはその和美の問いに言葉を詰まらせたのである。
 そんなみちるを見ると、和美は表情を険しくさせたまま、
「今、万造が行方不明になっていることをみちるは知っているかしら」
 と、みちるの顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、みちるは眼を大きく見開き、
「知らないわ」
 すると、和美は眉を顰め、
「万造は九月一日頃から行方不明になってるみたいなのよ。茂が万造に連絡が取れなくなったのは、九月一日からなのよ。
 八月三十一日には、茂は万造と電話で遣り取りをしてるのよ。そして、九月一日以降、茂は万造と連絡が取れなくなってしまったというわけなのよ」
 と、みちるの顔をまじまじと見やっては言った。
「……」
「で、みちるは万造が今、何処で何をしてるのか知らないかしら」
 と、和美はいかにも興味有りげな表情を浮かべては言った。
 すると、みちるは、
「知らないわ」
 と、和美から眼を逸らせては、素っ気無く言った。
「本当に知らないの?」
 和美は、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「本当よ!」
 みちるは、今度は和美の眼を見やっては、甲高い声で言った。
「そう……。でも、万造と連絡がとれなくなって一ヶ月も経つなんて、とても尋常とは思えないのよ。ひょっとして万造は今、この世にいないのかもしれないと思ったりしてるのよ」 
 と、和美は神妙な表情を浮かべては言った。
 そう和美に言われると、みちるは、
「この世にいない?」
 と、眉を顰めた。
「そうよ! つまり、万造は死んでしまったのではないかというわけ」
 そう言うや否や、和美の表情は甚だ険しいものへと変貌した。そんな和美はまるで万造を殺したのはみちるではないのかと、みちるに無言で圧力を掛けてるかのようであった。
 そう言われると、みちるは和美から眼を逸らしては、
「まさか……」
 と、呟くように言った。
「まさか、じゃないよ。ひょっとして、みちるはそれに関して何か詳しいことを知っているんじゃないかしら」
 と、和美はまるでみちるを睨み付けるようにして言った。
「どうして私が知っていると思うの?」
 みちるは、些か納得が出来ないように言った。
「どうしてって、大体万造が行方不明になる原因は、みちるのこと以外は考えられないからよ」
「どうして、そう決め付けるの?」
 みちるは、和美に反発するかのように言った。
「万造は、みちるに男が出来たんじゃないかと、万造の悩みを茂に打ち明けていたのよ。それを受けて、茂は万造に策をもたらしたのよ。その策って、どういったものなのか分かる?」
 和美は些か表情を険しくさせては、みちるの顔を食い入るように見やっては言った。
「さあ……。分からないわ」
 みちるは、そう言っては首を傾げた。
「そう……。じゃ、それを説明するわ。
 実は、茂は万造にみちるの部屋に盗聴器を仕掛けるように言ったのよ」 
 そう和美に言われると、みちるは表情を険しくさせては、言葉を詰まらせた。みちるは、何故万造が、優とみちるがあの日に雲仙に来ていたことを知っていたのか、その理由が分からなかった。しかし、みちるはそれに関して優と何度も話し合った結果、万造がみちるの部屋に密かに盗聴器を仕掛け、みちるの会話を盗み聞きしてたのではないかという結論に達した。
 しかし、それを裏付ける証拠は、みちるの部屋からは見付からなかった。
 しかし、今、和美のその言葉によって、それが裏付けられたのだ!
 すると、その時、様々な思いがみちるの脳裏に押し寄せて来た。
 というのは、そもそも、あの時に万造が雲仙に来さえしなければ、優とみちるの悲劇は発生することはなかったのだ! 万造が優とみちるがあの日に雲仙に来ることを知らなければ、万造は雲仙に来はしなかったのだ!
 即ち、盗聴器さえみちるの部屋に仕掛けられなければ、悲劇は発生することはなかったのだ! となると、茂が万造にみちるの部屋に盗聴器を仕掛けるという入れ知恵を与えなければ、みちるたちの悲劇は発生しなかったのだ!
 そう思うと、みちるの脳裏には自ずから茂に対する怒りが込み上げて来た。もし眼前に茂がいれば、みちるは茂を何度もぶん殴ってやったことであろう。
 そんなみちるは、みるみる内に興奮してしまい、その興奮を抑えることが出来なかった。
 とはいうものの、みちるの胸の内を和美にぶち明ける程、冷静さを失っているわけでもなかった。
 和美の言葉に、みちるが甚だ動揺を見せたので、和美は思わず笑みを見せた。その笑みは、正に嫌味のある笑みであった。その和美の笑みは、正に嘗ての仲間に対して見せるような笑みではなかった。それは、正に裏切り者という敵に対して見せるかのような笑みであった。
 みちるは、和美の言葉に平静を失ったかのような表情を浮かべては、言葉を発そうとはしなかった。
 和美はそんなみちるに追い討ちを掛けるかのように、
「それからなのよ! 茂が万造と連絡が取れなくなったのは!」 
 と、声を荒げて叫んだ。その和美の様は、正に嘗ての仲間に対して見せるものではなく、甚だ非情なものであった。
 すると、みちるは、
「そんなことを言われたって、私、本当に知らないのよ!」
 と、和美に懸命に弁解するかのように言った。
「嘘! 絶対に嘘だわ! みちるは絶対に万造がどうなったかを知ってるわ!
 さあ! 話して頂戴! 
 万造は、生きているの? 死んでいるの? どっちなの?」
 和美は正に真剣な表情を浮かべては、みちるの顔をまじまじと見やっては言った。
「だから、知らないのよ!」
 しつこい位、みちるを問い詰めようとする和美に腹が立ったのか、みちるは和美を突き放すかのように強い口調で言った。
「そう……。だったら、私の知っていることを警察に話していいかしら」
 そう言っては、和美はいかにも澄ました表情を浮かべた。
「警察?」
 和美にそう言われ、みちるは眼を大きく見開き、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。
「そうよ。警察よ。つまり、万造がみちるの部屋に盗聴器を仕掛けて以来、万造の行方が分からなくなったということをよ!」
 と、和美はみちるに詰め寄るかのように言った。そんな和美は、まるでみちるに拷問を加えては愉しんでいるかのようであった。
 みちるはといえば、警察と言われ、またしても言葉が詰まってしまった。何故なら、優と共に万造を殺してからは、正に警察のことを甚だ恐れていたからだ。
 しかし、そんなみちるに救いの手が差し伸べられたかのように、警察はみちると優の前には姿を見せることはなかった。
 それで、みちるは最近では万造を殺した当初よりは警察アレルギーが去ってはいた。
 そんな頃に和美が現れ、万造がみちるの部屋に盗聴器を仕掛け、それ以降に万造が行方不明になってることを警察に話すと言ったのだ。
 その和美の行為は、正にみちるにとって、危険な行為だ。そのようなことをされてしまえば、警察はみちるに疑いの眼を向けることは必至であろう。
 雲仙で見付かった万造の事件は、既に新聞等で報道はされてはいたが、まだ身元判明には至っていないようだ。しかし、日本の警察は優秀だから、いずれ万造の身元は判明するだろう。
 そんな折に、万造がみちるの部屋に盗聴器を仕掛け、その後、万造が行方不明になってるという情報を警察が耳にすれば、雲仙の男と万造とを関連づけ、雲仙の男は万造であったと判明することであろう。そうなってしまえば、みちるの身の破滅となることは必至であろう。
 そう思うと、みちるは正に引き攣った表情を浮かべては、言葉を発することは出来なかった。
 そんなみちるを眼にして、和美はにやっとした。和美は自らの推理が正しかったということを察知したからだ。
 しかし、和美の表情はすぐに険しいものへと変貌した。何故なら、嘗ての和美の仲間であったみちるが、その仲間であった万造を殺してしまったという災厄に直面してしまったからだ。そして、それは和美にとって、信じられないことであったのだ!
 しかし、みちるの表情から察して、それはやはり事実に違いない!
 それ故、和美は一体どのような経緯で万造が死に至ったのか、それを知りたいという欲求に捕われてしまった。
 それで、
「何処でどうやって、万造を殺したの? さあ! 話して頂戴!」
 と、これ以上和美が見せることは出来ないという位、和美は険しい表情を見せてはみちるに詰め寄った。
 本来なら、和美は万造が行方不明になった頃、みちるが何処で何をしていたかを確認するだけに留めておこうと思っていたのだが、みちると話をするにつれて、みちるが万造の失踪に関わっているだけではなく、みちるは万造を殺したという感触を得てしまった為に、和美はつい我を忘れてしまって、本来なら言うべきことではないこと、即ち、みちるの万造殺しまで言及してしまったのだ。
 そう和美に詰め寄られてしまったみちるは、何と和美に応えればよいのか分からなかった。
 とはいうものの、もしみちるが万造の死には関わりがないということを強く和美に訴えれば、和美は先程のように、万造がみちるの部屋に盗聴器を仕掛けた以降に万造が行方不明になってることを警察に話すと出て来るに違いない。
 何しろ、みちるは和美という女のことをよく知っていた。即ち、和美はみちるとは違って、根っからの悪女なのだ! 人間の性質は性善説と性悪説の両面で説明出来ると言われているが、和美は性悪説しか通用しないかのような女であったのだ。
 そんな和美に詰め寄られてしまい、みちるはどうにもならないような窮地に追い詰められてしまった。それは、まるで蛇に睨まれた蛙のようであった。
 すると、その時である!
 優が突如、鈍器を和美の脳天へと振り下ろした。その鈍器とは、銅製のソクラテスの塑像であり、その塑像の台座は鉄で出来ていた。そして、みちるは装飾品として、その塑像を六畳の和室に置いてあったのだが、優が密かに押入れから抜け出してはみちると和美の遣り取りを耳にし、もうこれ以上みちるが和美に追い詰められるのは我慢出来ないと思ったのか、そっとその塑像を手にしては、和美の背後に忍び寄り、突如その塑像の台座の部分を和美の脳天に振り下ろしたのである!
 その一撃を受けると、和美はまるで壁にぶつけられたボールのように背後を振り返った。そんな和美は恨めしそうな表情で優を見やった。そんな和美は、和美の息の根を止めようとした者が一体誰であったのか、確認しようとしたかのようであった。
 だが、その和美の表情を見ると、和美はその者が誰であったのか、確認出来なかったかのようであった。
 しかし、それも当然のことであろう。優と和美は何ら面識がないのだから。
 そんな和美は少しの間、恨めしそうな表情を浮かべたが、程無くガクンと頭を垂れ、床に崩れ落ちるように倒れてしまった。そして、和美はピクリともしなかった。
 そんな和美を眼にして、優は塑像を手にしたまま、大きく息をついていた。そんな優は正に激しい興奮を隠すことは出来なかった。
 みちるはといえば、正に優と同様、激しい興奮を隠すことは出来なかった。優と同様に大きく息をついていたのだ。
 そんなみちるは、まるで何かに憑かれたかのように、和美の心臓に自らの掌を持って行った。即ち、みちるは和美が魂切れたのか確認しようとしたのだ。
 みちるはしばらくの間、和美の心臓の鼓動を確認しようと、みちるの掌を和美の心臓の上に置いていたのだか、和美の心臓の鼓動を感じ取ることは全く出来なかった。
 それで、念の為に脈をみてみた。
 しかし、脈も打ってなかった。
 これによって、間違いはなかった! 和美は優の一撃によって、呆気なく魂切れてしまったのだ!
 みちるは優を見やっては、いかにも深刻そうな表情を浮かべては、頭を振った。
 すると、優の表情も正に深刻なものへと変貌した。
 果して優は、和美を殺そうとして殺してしまったのか? それとも、殺す気はなかったのだが、和美は死んでしまったのだろうか?
 優の表情を見る限りでは、そのどちらなのか、推察することは出来ないように思われた。
 しかし、和美が魂切れたことは間違いない。
 それで、優とみちるは、抱き合った。そして、唇を重ねた。そして、その優とみちるの抱擁はしばらくの間続いた。
 そんな優とみちるの眼からは、涙が流れ落ちていた。そして、その涙はまるで和美を殺したという悲劇を洗い流そうとしてるかのように熱いものであった。
 やがて、優とみちるの抱擁は終わったのだが、みちるは優が和美の脳天にソクラテスの塑像を振り下ろしたことには言及しようとはしなかったし、また、優の責任を問おうともしなかった。そして、それはまるで、優の意思はみちるの意思であると言わんばかりであった。
 そして、優もみちるに対して、和美の脳天にソクラテスの塑像を振り下ろしたことに関して、何ら言及しようとしなかったのだ。
 そんな優の口からは、
「この死体をどうしようか」
 という言葉が自ずから発せられた。だが、その優の表情は、甚だ神妙なものであった。そんな優には、今更ながら、優が仕出かしてしまった突発的な衝動を肯定する気持ちと、否定する気持ちが、激しく交錯しているかのようであった。
 そう優に言われても、みちるはすぐにはそれに対して応えることは出来なかった。みちるは、和美の遺体を遺棄するのに相応しい場所をすぐに見出すことは出来なかったのだ。
 だが、やがて和美の遺体は、東京湾に遺棄されることが決まった。また、東京湾といっても、それはお台場周辺のであった。優はお台場周辺には何度もドライブに行ったことがあり、お台場周辺には詳しかった。それで、その辺りの海に和美の遺体を遺棄することに決まったのだ。
 優とみちるは、人が寝静まったと思われる深夜の一時頃、密かにみちるの部屋を和美の遺体が入った布団袋を手にしては抜け出し、和美のアパートの近くに停めてあった優の車のトランクに和美の遺体の入った布団袋を入れた。そして、優とみちるが優の車に乗り込むと、優はまるで何かに憑かれたかのように、車をお台場へと向けたのであった。

     2

 長崎県警からの依頼を受けて、雲仙地獄で見付かった権田万造の事件を捜査している警視庁捜査一課の古川たちは今、正に思い掛けない情報を入手してしまい、捜査は一気に進展すると確信していた。
 というのは、船の科学館近くの海で若い女の他殺体が見付かり、その女の身元が程無く判明したのだが、それは村木和美という台東区に住んでいた二十二歳であった。
 しかし、村木和美という名前だけなら、別に古川たちが捜査している権田万造の事件に関係してるとは思いもしなかったであろう。
 だが、その和美の彼氏が小山田茂という名前で、また、和美は学生時代からの不良で今も不良から抜け出してなかったという情報を入手すると、古川たちはその情報に飛び付いた。何故なら、万造の部屋の中で見付かったメモには、和美という名前が記されて、また、万造の手帳には、小山田という名前も記されていたからだ!
 即ち、村木和美と小山田茂は、権田万造の美人局仲間であった可能性が、一気に浮上したのである!
 それを受けて、小山田茂が署で訊問を受けることになった。それは、任意出頭という形ではあったが、強制的みたいなものであった。また、小山田茂の連絡先は、和美の部屋にあったアドレス帳に記されていたので、茂を呼び出すことは容易いことであった。
 茂は、古川たちから執拗な訊問を受け、遂に万造たちと美人局を行なっていたことを自白した。
 もっとも、万造と和美が健在なら、茂はいかに古川たちから執拗な訊問を受けようと、茂たちの犯行を自供しなかったことであろう。しかし、今や茂にとって最も大切であった友人を一気に二人も失ってしまった。それ故、茂はもうどうにでもなれというやけくその気持ちを抱いてしまってたのだ。そんな茂の精神状態が茂の自供へと繋がったのであろう。
 そして、茂の自供により、万造殺し、和美殺しの有力な容疑者として、改めて仲村みちるという女が浮上した。
 もっとも、茂の自供から、みちる単独の犯行と看做すのには無理があるようだ。みちるには新たな彼氏がいて、その新たな彼氏が共犯と思われたからだ。
 それはともかく、万造の事件の捜査に当たっている古川と和美の事件の捜査に当たっている皆川は、直ちにみちるのアパートへと向かった。みちるのアパートの所在地は、茂から入手していた。
 丁度その頃、優とみちるはどうしていたかというと、和美の死がTVや新聞で報道されたのを知ると、生きた心地がしなかった。雲仙で見付かった若い男の身元も既に権田万造であることも明らかになっていた為に、みちるに警察の捜査の手が伸びて来るのは時間の問題であることは間違いないとみちるは看做していた。
 もっとも、優は万造や和美とは面識の無い者であった為に、優の存在はみちるとは違ってすぐに警察の捜査に浮かぶとは思えなかった。しかし、優の存在も遅かれ早かれ警察の捜査線上に浮かぶことであろう。それ故、優の胸の内も、みちると似たようなものであろう。
 そんなみちるは、警察から訊問を受ければ、しらを切る自信がないということを優に話した。
 だが、優はまるで蛇に睨まれた蛙のようにおどおどとした状態に陥っているみちるにどのような言葉を掛けてよいのか分からなかった。
 それで、優は険しい表情を浮かべては、少しの間言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「こうなったら、逃げるしかない!」
 と、決意を新たにしたように言った。
「逃げる?」
 みちるは蚊の鳴くような声で言っては、優を見やった。
「ああ。そうだ。逃げるんだ!
 俺たちはもう二人も殺し、その死体を遺棄したんだ! いくら正当防衛といっても、俺たちに重罪が下されることは、間違いないよ!」
 優は険しい表情で、声を荒げては叫んだ!
「……」
「俺たちは、まだ二十五歳にもなってないんだぜ! 今は、人生の真っ盛りなんだ!
 そんな時に、十年も、二十年も刑務所に入らなければならないのかい? 冗談じゃないぜ!」 
 優は眼をギラギラさせては、怒りを露にした表情を浮かべて言った。そんな優は正に刑務所暮らしは真っ平だと言わんばかりに言った。そして、
「それに、刑務所に入ってしまえば、僕とみちるちゃんはもう会えなくなるんだ。何十年も会えなくなるんだ……」
 そう言い終えた優は正に寂しげであった。正に、優はみちると会えなくなるのが最も辛いと言わんばかりであった。
 そう優に言われると、みちるは、
「そんなの、嫌!」
 と、いかにも悲愴な表情を浮かべては言った。
 そんなみちるを眼にして、優は、
「そうだろ! だから、逃げるんだ! 逃げるしかないんだ!」
 と、険しい表情で、声を荒げて言った。
 すると、みちるは、
「でも、逃げるって、何処に逃げるの?」
 と、再び蚊の鳴くような声で言った。
 すると、優は険しい表情を浮かべてはみちるから眼を逸らし、少しの間言葉を詰まらせていたが、やがて、
「長崎さ! 長崎に逃げるんだ!」
「長崎? どうして長崎なの?」
 みちるは些か納得が出来ないように言った。何故なら、優とみちるが最初に仕出かした災厄は、雲仙地獄でだ。そして、長崎はその雲仙地獄の近くに位置している。それ故、みちるは何故そのような場所に逃げなければならないのか、納得が出来なかったのだ。
 すると、優はそのみちるの問いに言葉を発そうとはしなかった。そして、少しの間何やら考え込むような仕草を見せていたが、やがて、
「僕は、長崎を気に入ったんだ。だからさ」
 そう言っては、優はにやっとした。そして、みちるの顔をまじまじと見やっては、みちるの手を自らの手で握った。そんな優は自らを信じろとみちるに言い聞かせているかのようであった。
 今や、優に全幅の信頼を置いているみちるは、そんな優の思いに反対はしなかった。
 そして、優とみちるの逃亡先はあっさりと決まった。何しろ、警察が今すぐにでもやって来ては、みちるを訊問する為に署に連行して行くかもしれないのだ。それ故、事は急がなければならないのだ。
 みちるは有り金を全て持ち、身支度を整えるや否や、優と羽田空港へ向かった。そして、長崎空港行きの次の便の航空券を購入することが出来た。
 やがて、出発時間に近付いたので、優とみちるは飛行機に乗り込み、やがて飛行機は離陸した。
 飛行機はぐんぐんと高度を上げ、やがて大東京の光景を眼下に出来るようになった。その光景を眼にして、よくぞ日本人はこれだけの都市を構築したものだと、みちるは今更ながら感動した。そんなみちるは、じっと大東京の光景に見惚れるかのように見やっていたのだが、飛行機は既に横浜を眼下にしていた。横浜ベイブリッジ、横浜ランドマークタワーなどが見られるようになったのだ。
 しかし、横浜を眼に出来たのは短い時間であり、今度は富士山が否応なく眼につくようになった。今日は快晴であった為に富士山、そして、その辺りの様とか、その遠くにあるアルプスの山並みまでを眼に出来、みちるは改めて日本の国土の美しさを実感出来た。
 そして、みちるはしばらくの間、その光景に目を凝らしていたのだが、その一方、みちるはこの先どうなるのかという不安も隠すことは出来なかった。
 そんなみちるの心配を他所に優は眼を閉じていて、眠っているかのようであった。
 そんな優にみちるは頼るしかないと思った。何処までも優について行くしかない。みちるは、そう思った。
 今や、みちるの運命は、優に掛かっている!
 みちるは、そう実感したのであった……。

     3
 
 優とみちるを乗せた飛行機が羽田空港を離陸した頃、古川たちはみちるのアパートに向かっていた。
 そして、やがて、みちるのアパートに着き、みちるの室の前に来た。すると、表札は仲村となっていた為にその室にみちるが住んでいることは確認出来たのだが、玄関扉には鍵が掛かっていて、室の中にみちるがいる気配はなかった。
 また、茂から入手したみちるの携帯電話には、既に何度も電話してはいたが、電源が切られていて、みちるへの連絡はつかなかった。
 とはいうものの、今は昼前であったので、みちるがいないのは当然であったかもしれなかった。というのは、みちるは仕事しているかもしれないからだ。だが、茂はみちるの仕事に関して情報を持っていなかった。
 また、もしみちるが仕事を持っていたとしても、万造と和美の事件の最有力容疑者であるみちるが、安穏と仕事に携わっていられるだろうか?
 茂によると、みちるは繊細な神経の持ち主で、犯罪に手を染めるのを好まない性質であったとのことだ。
 そんなみちるであるから、既に警察から逃れる為に、姿を晦ませている可能性もある。
 それで、古川はアパートの管理会社に事情を話し、みちるの室の鍵を開けてもらっては、室の中を捜査してみることにした。
 すると、早くも成果を得られたかのようであった。というのは、冷蔵庫の電源のコンセントが抜かれていたからだ。これは、長期間みちるがこの室に戻らないということを意味しているのではないだろうか。
 更に、押入れが開けっ放しになっていた。これも妙だ。正に、繊細な神経の持ち主であるというみちるには、考えられない行為とも思われる。
 これらの状況からして、みちるは警察から逃れる為に既に姿を晦ませた可能性が高いと看做した。それも、慌ててこの室を後にした可能性が高い。何しろ、船の科学館近くの海で見付かった若い女の身元が村木和美だと報道されたのは、一昨日のことだ。それ故、みちるはもたもたしてられないと、まるで飛び出るようにこの室を後にしたのかもしれない。
 それが事実だとすると、みちるの逃亡先は何処であろうか? そして、みちるの逃亡に連れはいるのだろうか?
 それを明らかにする為の捜査がみちるの部屋の中で行なわれたのだが、成果を得ることは出来なかった。
 とはいうものの、みちるに連れがいるとすれば、その連れはみちるの新たな彼氏だと古川たちは看做した。何しろ、権田万造が死に至ったのは、そのみちるの新たな彼氏を巡る三角関係の縺れだと思われたからだ。それ故、その新たな彼氏が、みちると共に逃亡している可能性は充分にあるであろう。
 だが、みちるの部屋の中を捜査した限りでは、その新たな彼氏に関する手掛かりはまるで得られなかったのだ。
 それはともかく、雲仙地獄で見付かった権田万造の事件は元はといえば、長崎県警が担当している事件だ。警視庁の古川たちは、長崎県警からの依頼を受けて、捜査協力してるだけなのだ。
 ところが、今では警視庁の古川たちが、捜査の主役で、長崎県警の熊沢たちが脇役のような塩梅となっていた。
 では、そんな熊沢たちが今、どうしてるかというと、熊沢たちは実のところ、パッとした捜査は行なっていなかった。というのは、権田万造が東京の人間であり、万造を殺した犯人も東京の人間と思われたことから、捜査の主導はどうしても警視庁に移らざるを得なかったからだ。
 そうかといって、熊沢たちは何もしてなかったわけではなかった。熊沢たちは万造の遺体が見付かったその日に、雲仙地獄周辺のホテルや旅館に宿泊していた観光客たちにコンタクトを取り、不審な人物や場面を眼にしなかったか、聞き込みを行なっていたのだ。
 しかし、その捜査は成果を得ることは出来なかった。万造殺しが夜の遅い時間に行なわれた為か、不審な場面を眼にしたと証言した者は誰も現れなかったのだ。また、その時に、熊沢は実のところ、優と電話で話をしていた。優は当初はまさかこのような事件が発生してしまうなんて夢にも思ってなかった。それ故、宿泊先のホテルには、本名と優が実際に住んでいたアパートの連絡先を記したのだ。また、みちるに関する記述箇所はなかった。それ故、宿泊カードには、みちるという名前は記されなかったのである。
 そして、熊沢からの電話を受けて、優は無論雲仙地獄で見付かった男に関して、何ら情報を持ってないことを熊沢に話した。熊沢は、その優の話に何ら疑いを抱くことはなかったのである!
 それはともかく、万造の事件の捜査は、正に警視庁の古川たちが主導権を握ったかのような状況となっていた為に熊沢たちは警視庁からの捜査報告を正に首を長くして待っているかのような状況となっていたのだが、その熊沢たちの期待に応えるかのような情報が古川からもたらされた。
 そして、その情報は万造を殺した容疑者が見付かったというものであった。
 そして、その容疑者は、仲村みちるという万造の彼女であったという女だ。そして、みちるの部屋から入手したというみちるの顔写真と全身の写真が、熊沢に送られて来たのだ。
 それを受けて、万造の事件の捜査に携わっている熊沢たちは、仲村みちるの容姿を頭の中に叩き込んだ。そんな熊沢たちは、まだみちるを実際には一度も眼にしたことはないものの、みちるを実際に眼にすれば、それがみちるだと分かる自信があった。
 また、古川によると、みちるはどうやら警察から逃がれる為に、みちるの新たな彼氏と共に逃亡してる可能性があるとのことだ。だが、その彼氏に関しては、今のところ、情報はないとのことだ。
 それはともかく、仲村みちるという万造殺しの有力な容疑者が見付かったことを受けて、捜査は一気に進展したことは間違いなかった。
 しかし、みちるを逮捕しないことには、事件は解決にはならない。しかし、みちるの行方はまるで闇の中とのことだ。
 とはいうものの、みちるの写真を手に出来たことで、熊沢たち長崎県警は、新たな捜査に入った。その新たな捜査とは、万造の遺体が見付かった九月二日頃、みちるが雲仙地獄周辺のホテルや旅館に宿泊していた可能性は充分にあった。古川によると、万造は三角関係の縺れにより、みちるの部屋に盗聴器をセットし、密かにみちるの会話を盗聴していたとのことだ。そして、それによって、みちるが新たな彼氏と雲仙に来るという情報を摑み、それを受けて万造も雲仙にやって来た可能性が高いとのことだ。
 それ故、みちるも新たな彼氏と共に、九月二日頃、雲仙地獄周辺のホテルとか旅館に宿泊していた可能性は充分にあるというものだ。
 そして、その捜査は早くも成果があった。
 新湯にある某ホテルで九月一日から万造の遺体が見付かった九月二日にかけて、みちると思われる女性が宿泊していたという証言をそのホテルの関係者から入手出来たのだ。
 もっとも、そのホテルの宿泊カードからは、仲村みちるという名前は見付からなかった。
 だが、みちるとその彼氏の宿泊カードと思われるものは見付かった。そして、その宿泊カードには、凡そこのように記されていた。
<東京北区K町三丁目×××
麻生優、その他一名
03―××××―×××× >
 それを受けて、熊沢は直ちにその電話番号に電話をしてみた。その麻生優なる男がみちるの新たな彼氏で、また、万造殺しに関わってる疑いがあったからだ。
 だが、呼び出し音が鳴るばかりであった。
 しかし、それは当然なのかもしれない。何故なら、麻生優もみちると共に警察から逃れる為に行方を晦ませてる可能性があったからだ。
 結局、優への電話は繋がらなかった。だが、みちるの新たな彼氏の姓名が明らかになったことは一つの収穫といえよう。それで、そのことを熊沢は直ちに警視庁の古川に伝えたのであった。

     4

 優とみちるを乗せた飛行機はやがて長崎空港に着いた。それで、優とみちるはバスで長崎市内に行くことにした。
 みちるは長崎に向かっている飛行機の中でも、長崎駅に向かうバスの中でも、何故優が優とみちるの逃亡先に長崎を選んだのか、その理由が分からず、それに関して思いを巡らせていた。何しろ、長崎は優とみちるが万造を殺した雲仙に近い所にある。それ故、優とみちるは、本来なら長崎から遠ざからなければならない筈なのだ。
 それ故、その思いをみちるは優に話した。
 だが、優は単に長崎が好きだからとかいうみちるが納得の出来ないような返答をした。だが、みちるには、それが優の本心とは思えなかったのだ。
 それで、みちるは再びみちるのその疑問を優に話したかったのだが、飛行機の中とか、バスの中では、そのようなことを口にすることは出来なかった。
 そうみちるが思っている内に、優とみちるを乗せたバスは、長崎駅前にあるバスターミナルに着こうとしていたのだ。
 そして、程無くバスはバスターミナルに着いてしまったのだが、みちるは実のところ、長崎に着いてからどうするのか、それに関して何も分かっていなかった。
 警察から逃れる為に長崎に来たわけだが、長崎に優とみちるが住む家があるわけでもない。それどころか、優とみちるが今夜泊まる宿すら確保して無い有様なのだ。
 それに、みちるが今所持している所持金は、五十万程だ。五十万ともなれば、一ヶ月は暮らせるかもしれないが、それから先は全く目処がたってないのだ。それにもかかわらず、長崎に来たのである。
 みちるはそんな状況だったのだが、優には何か当てがあるのかもしれない。それ故、優は逃亡先に長崎を選んだのであろうから。
 しかし、優はその思いをみちるに話すまでに長崎に来てしまったのだ。
 みちるは長崎に来るのは、二度目であった。一度目は忘れもしないあの憎き万造の事件が発生してしまった一ヶ月程前で、今回が二度目だというわけだ。
 もっとも、前回はバスターミナルに着いた後、すぐに雲仙に向かったので、長崎市内をじっくりと見物したわけではなかった。ただ、雲仙に向かうバスの車窓から、長崎の街並みを眼にしただけなのである。
 とはいうものの、その車窓から見ただけでも、長崎市という街全体が観光地化しているという思いをみちるは抱いたものであった。市内の幹線道路には路面電車がレトロな雰囲気を醸し出し、また、人口は五十万を超えてるだけあって、その街並みは近代的な面も多分に持ち合わせている。
 更に長崎を特色付けているのは、その山の斜面に立ち並ぶ民家だ。長崎市は平地が乏しい為に、山の斜面を削って住宅地を造り、そこに家を建てて住んでいるのだ。
 みちるは、長崎程山の斜面に民家が立ち並んでいる街を見たことはなかった。そして、その光景が鮮明にみちるの印象に残っていたのである。
 それで、今度来る時は、長崎をじっくりと見物したいと思っていたのだが、今回はそのみちるの思いが実現するのだろうか?
 みちるの脳裏にふとその思いが過ぎったのだが、そんなみちるに、優が、
「じゃ、行こうか」
 と言ったので、みちるは優のその言葉に小さく肯くと、バスターミナルから出ては、バスターミナル前の歩道橋を上がり始めた。その歩道橋は長崎駅へと続き、更に路面電車乗り場、バス乗り場にも続いている。更に歩道橋の先はかなり広い広場となっていて、所々にベンチが置かれている。
 また、その歩道橋からは稲佐山を眼に出来、また、稲佐山山頂にある展望台も眼に出来た。
 それはともかく、歩道橋の広場に着いた頃、優が定期観光バスに乗って長崎市内見物をしてみないかと言ったので、優とみちるは、長崎市内巡りの定期観光バスに乗車することになった。定期観光バスは、平和公園、出島、孔子廟、グラバー園とかいった長崎市内の代表的観光スポットを三時間半程かけて巡るとのことだ。そして、出発時間は午後一時だったので、まだ少し時間があった為に、優とみちるは近くの喫茶店で軽い昼食を済ませた。
 昼食を食べながら、みちるの心情は実のところ、揺れ動いていた。というのは、定期観光バスに乗って、長崎見物を行なうのは、無論望むところであった。だが、その反面、優とみちるは既に警察のお尋ね者になってるかもしれないのだ。それ故、警官が優とみちるを捕まえる為に眼を光らせ、たとえ定期観光バスで観光するといえども、そんな警官に出交してしまわないかと警戒したのだ。
 だが、ここは長崎だ。東京ではない。
 もしここが東京なら、警官の眼を警戒する必要はあるだろう。しかし、警察もまさか、優とみちるが長崎に来てるとは思ってはいないだろう。
 そういった見方も出来ないわけでもない。
 みちるは元々長崎に来るのは反対であった。
 だが、警察の裏をつくという手段も可能だ。 
 そう! 長崎に来たというのは、警察の裏をつく手段なのかもしれない! 東京の人間である優とみちるが、まさか万造の遺体が見付かった雲仙の近くの長崎に来る筈は無いと思い、長崎県警では優とみちるのことに何ら情報を持ち合わせていないかもしれないのだ。そして、それを狙って、優は逃亡先に長崎を選んだのかもしれない。
 そう思うと、みちるは何だか優のことを見直してしまった。
 だが、そんなみちるの思いが言葉として発せられることはなかった。というのは、昼食を食べてバス乗り場に着てみたら、バスは既に待機していたので、すぐに切符を買って、バスに乗車したからだ。
 そして、バスは程無く出発し、バスガイドの魅力ある解説に耳を傾けながら、長崎の代表的観光スポット観光を満喫することが出来た。そして、それは正にみちるにとって忘れ難い思い出となったのである。
 定期観光バス観光を終えると、優とみちるは、再び長崎駅前にある歩道橋の広場にやって来た。そして、長崎駅を見渡せるベンチに座った。
 すると、みちるはこの時を待ってましたとばかりに、
「私たち、これからどうするの?」
 そう言ったみちるの表情は、とても真剣なものであった。そんなみちるは、今のみちるの問いに対する優の返答が、今後のみちるの人生を決すると言わんばかりであった。
 みちるの問いに、優の表情は険しいものへと変貌し、なかなか言葉を発しようとはしなかった。そんな優の様は、正に今、優とみちるが置かれている状況の深刻さを如実に物語っているかのようであった。
 優は険しい表情を浮かべては、なかなか言葉を発しようとはしなかったのだが、やがて、言葉を発した。そして、その優の言葉はこうであった。
「僕は、みちるを失いたくないんだ!」
 優はそう言ったものの、優の表情は深刻なものであった。本来なら、今や優にとって最も大切な宝物となったみちると共に時を過ごしているのだから、優の表情にもう少し明るさが見られてよい筈なのだが、そのような表情はまるで見られなかった。
 優にそう言われると、みちるは、
「私も、優を失いたくないわ!」
 と、眼を大きく見開き、そして、輝かせては言った。そんなみちるの表情は、正に真剣なものであった。
 そうみちるに言われ、優は些か表情を綻ばせた。そんな優は、まるでみちるにそう言われ、感動したかのようであった。
 しかし、優はすぐに表情を険しくさせては、
「でも、日本の警察は、優秀だからな」 
 と、呟くように言った。
「だったら、もっと違う場所に逃げようよ。警察は、まさか私たちが長崎には来てないと思ってるかもしれないけど、その考えは甘いかもしれないわ。私たちの顔写真が、交番なんかに貼り出されてしまうかもしれないからね。こんな都会なら、その私たちの写真を眼にする人も多い筈。だから、こんな都会はやばいと思うんだけど」
 と、みちるはいかにも渋面顔で言った。
 優はみちるにそう言われても、ぼんやりとした表情を浮かべては、言葉を発そうとはしなかった。
 そんな優にみちるは、
「どうして、私たちの逃亡先を長崎に選んだの? 何か意味があるの?」 
 みちるは、何度もそれに関して、あれこれと思いを巡らせてみたのだが、結局、優の真意が分からなかったのだ。
 まるで少女のような純朴な表情を浮かべてそう訊いたみちるの方に、優は眼を向けようともせずに、気難しそうな表情を浮かべては、しばらくの間言葉を詰まらせていたのだが、やがて、優は、
「僕の高校時代の修学旅行は、この長崎だったんだよ」
 と、まるで、呟くように言った。  
 そう優に言われると、みちるは、
「私たちは、鹿児島だったわ」
 と、まるでその時に思いを巡らすかのように言った。
「そうか……。愉しかったかい?」
 優は、みちるを見やっては言った。
「まあね。でも……」 
 と言っては、みちるは表情を曇らせた。何故なら、みちるは万造のことを思い出してしまったからだ。
 みちるは、高校一年の時に、暴走族に輪姦されそうになった。そんなみちるをその身体を犠牲にして助けてくれたのが万造であった。
 そして、その時からみちると万造の交際は始まったのだ。
 そして、高校二年時の修学旅行時には、みちるは万造と肉体関係があった。そして、その鹿児島への修学旅行時にもみちると万造は人眼を忍んでは、ペッテングを経験したのだ。
 そして、そのことは、みちるにとって、良い思い出として残っていた。
 だが、今では万造とあのような形で縁が切れてしまったとなれば、その思い出が良い思い出であるわけがなかった。そして、今では万造との身体の交わりは、みちるにとって決して消えることの無い醜い痣のようにみちるは思ってしまうのであった。
 みちるは、そう思ったのだが、みちるにそんな思いを続けさせることを優の言葉が断ち切った。優はみちるにこう言ったのである。
「僕たちは、その修学旅行時に長崎港内を巡る遊覧船に乗ったんだよ。その遊覧船からは、三菱重工の造船所で建造中の大きな船とか、海上保安部の巡視船なんかが見えたんだが、正に長崎は港町だと思ったものだよ。
 それに、山にへばりつくように建っている家々を眼にして、何だか異国情緒を感じてさ。正に、長崎は日本なのに、ここは日本ではないような気がしたんだよ」
 と、優は正にその時を思い出すかのように言った。
 みちるはといえば、優にそう言われても、優の言葉に耳を傾けているだけで、特に言葉を発しようとはしなかった。
 すると、優は、
「僕はその時、こう思ったんだよ。僕は死んだら僕の骨を粉々にして、長崎港内にばら撒いて欲しいと!」
 そう言った優の表情は、とても穏やかなものであった。
 しかし、その優の表情を具に見たとすれば、その優の眼に強い決意を読み取ることが出来たであろう。
 だが、みちるはそんな優の表情を具に見ようとはしなかった。
 すると、優は更に話を続けた。
「この長崎には原爆が落とされ、七万三千八百八十四人の尊い命が失われたのだ。何の罪もない人たちが死んでいかなければならなかったんだ。
 それに対して、僕とみちるちゃんは人を殺した。いくら正当防衛といっても、僕とみちるちゃんが人を殺したという事実を消し去ることは出来ないんだ。
 そうだろ!」
 優は眼を大きく見開き、野獣のようにギラギラと光らせては力強い口調で言った。
 そんな優を眼にして、みちるはびっくりしてしまった。みちるは、優が突如何を言い出したのかと思ったのだ。
 それと共に、みちるは周囲の人の眼を気にした。何故なら、優は人を殺したと口走ったからだ。その優の言葉を他人が耳にすれば、びっくり仰天し、優とみちるに、甚大な関心を払うことであろう。
 とはいうものの、幸運にも辺りには他人はいなかった。ただ、今の優の言葉を耳に出来ない位の所に、通行人がただ通り過ぎて行くのを眼にするばかりであった。
 それはともかく、まるで思ってもみなかったような優の言葉を耳にし、みちるは啞然とした表情を浮かべては、言葉を詰まらせてしまったのだが、そんなみちるに言い聞かせるかのように、優は更に話を続けた。
「僕が言いたいのは、何の罪も無い人が何故死ななければならず、罪を犯した者がその罪に服さずに生きていていいのかということなんだ!」
 と、優は些か声を荒らげては、些か険しい表情で言った。
 すると、みちるは、
「違うよ! 私たちは被害者よ! あいつは、私たちを殺そうとしたのよ! 私たちは、正当防衛よ!」
 と、ヒステリックに言った。
「だが、社会はそれを認めないさ! 僕らを人殺しとして、僕らを社会から葬ろうとするのさ! 僕らは社会に背を向けて生きて行くしかないんだ!」
「……」
「そんなの、僕は真っ平だ!」
 優は野獣のように眼をギラギラとさせては言った。
 すると、みちるはいかにも深刻そうな表情を浮かべては、
「だったら、どうするの?」
 と、優の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、優はそんなみちるの問いに応えようとせず、また、みちるの問いをはぐらかすかのように、
「路面電車に乗ってみたいな」
 そう優が言ったので、みちるはとにかく小さく肯いた。優とのこの白熱した論議はそろそろ潮時にした方がいいのではないかとみちるは思っていたので、今の優の言葉はまさにタイミング良い言葉となったのである。
 優とみちるはベンチから立ち上がり、路面電車乗り場へと向かった。歩道橋からは路面電車乗り場と階段で繋がっていて、その階段を降りた先が路面電車乗り場だというわけだ。
 そんな路面電車は五系統あり、うっかりしていると乗り間違えてしまう。
 それで、優は何系統の路面電車に乗れば良いか、路面電車の停留所を記したボードでそれを確認した。そして、確認を終えた優は、ボードに背を向けた。
 そんな優に、みちるは、
「何処まで行くの?」
「大波止さ」
「大波止? 大波止に何があるの?」
 長崎に詳しくないみちるは、興味有りげに訊いた。
「大波止には、港があるんだよ。五島方面とか、伊王島、高島とか、長崎港巡りの遊覧船が発着する港があるんだよ」
 その優の言葉を聞いて、みちるは優が長崎港巡りの遊覧船に乗ろうとしてるのではないかと思った。
 そうみちるが思っていた頃、路面電車がやって来た。その路面電車の行く先は正覚寺であった。即ち、1系統の路面電車だ。
 ここで気を付けなければならないのは、2系統の蛍茶屋行き乗ってしまうことだ。2系統の路面電車は、大波止には行かないからだ。
 それはともかく、路面電車は停留所に停まったので、優とみちるは、乗車した。路面電車は一両編成の可愛らしいものであったが、結構混んでいて、長崎の路面電車に初めて乗車した優とみちるを些か驚かせた。
 路面電車は長崎の繁華街に沿ってゆっくりとした速度で走り、程無く大波止に着いた。大波止は長崎駅前から二駅めであり、五分も掛からない位であった。
 優とみちるは路面電車から降りると、信号を渡っては、大波止ターミナルに向かって歩き始めた。
 それはともかく、時間は少し前に戻るが、長崎県警の若手の長谷刑事は、実のところ、権田万造の事件に携わっていた。そして、先程、長崎署内の会議室で万造の事件に対する捜査会議が行なわれたばかりであり、そして、その時に万造殺しの最有力容疑者である仲村みちるの顔写真が長谷刑事たち捜査陣に配られたばかりであったのだ。それ故、長谷刑事は、仲村みちるの顔を頭の中に叩き込んでいた。それ故、長谷刑事は仲村みちるに今まで一度も顔を合わせたことはないものの、仲村みちるを見れば、それがみちるであると見抜く自信があった。そして、その自信は長谷刑事だけでなく、万造の事件に携わっている長崎県警の捜査陣の誰もが持っていたのである。
 とはいうものの、みちるが長崎市内で見付かる筈はなかった。何しろ、みちるは東京の人間であり、また、万造も東京の人間だったのだ。
 それ故、捜査は警視庁が担当すべきなのだが、万造の遺体が雲仙で見付かってしまったので、長崎県警が担当することになってしまったのだ。
 そんな状況であったのだが、十人位の体制が組まれていた。だが、みちるが今、何処にいるのか全く分からない状況であったので、今のところ、捜査陣は開店休業といった塩梅であったのだ。
 といっても、何もしないわけにはいかないので、若手の長谷刑事たちは、長崎駅周辺の見回りを行なっていた。無論、私服姿であったが、長崎駅周辺の見回りを行なっても、万造の事件に関して、成果を得られる筈はなかった。雲仙で殺人を犯した東京の犯人が長崎に戻って来る筈はないのだ! そんなことは、子供でも分かるというものだ!
 しかし、何か情報が入って来るまで、署の中で事務作業をするわけにもいかないのである。
 それで、長谷刑事は長崎駅周辺の見回りを行なうことになったのだが、とにかく駅前にある歩道橋に上がって、通行人の様でも眼にしてみようかと思ったその時である。
 長谷刑事は思わず自らの眼を疑った。何故なら、長崎駅に近い所にあるベンチに座っていた男女が立ち上がり、長谷刑事の方に向かって歩き始めたのだが、その女の方が何と長谷刑事の脳裏に叩き込まれている仲村みちるにそっくりであったからだ! 
 だが、そんな馬鹿なことが有り得るのだろうか? それで、長谷刑事は自らの眼を疑ったのである。
 長谷刑事がそう思っている内に、長谷刑事はその女の顔を眼にすることは出来なくなってしまった。何故なら、その女は連れの男と共に長谷刑事に背を向けて、バスターミナルの方に向かっていたからだ。だが、とにかく長谷刑事はその男女の後を尾行することにした。
 その男女は、路面電車乗り場に続く階段を降りて行ったので、長谷刑事もそれに続いた。
 やがて、路面電車は停留所に着いた。それは、正覚寺行きであった。
 そして、その男女はその正覚寺行きの路面電車に乗車したので、長谷刑事もその後に続いた。そして、密かにその男女の様を窺っていたのだが、やがてその男女は大波止で降りようとし、実際にも降りた。それで、長谷刑事もその後に続いた。
 そして、その男女は信号を渡り、大波止ターミナルの方に向かって歩き始めた。
 この時点で、長谷刑事は事の次第を熊沢警部に連絡した。
 熊沢はその長谷刑事からの報告を信じる気にはなれなかった。熊沢も当初、長谷刑事が思ったように、まさか仲村みちるが長崎に来るなんてことは有り得ないと思ったのである。それ故、長谷刑事は見間違いをしたのだと思った。
 とはいうものの、万一ということもある。
 それで、急遽、長谷刑事と同様、若手の野々村刑事を現場に急行させることにした。
 仲村みちるに酷似しているその女は、やはり仲村みちるである可能性が高いと長谷刑事は改めて思った。というのは、みちるは身長が162センチで体重は46キロと聞いていたが、長谷刑事の少し向こうを歩いているその女の身体つきはそれ位だし、また、みちるは男と共に逃げていると聞いていた。そして、その女には男の連れがいるのだ。そして、その男女の様からして、その男女は恋人関係にあると思われた。
 そう長谷刑事が思っている内に、その男女は刻々と大波止ターミナルに向かっていた。
 やがて、男女は大波止ターミナルの中に入った。それで、長谷刑事もその後に続いた。すると、その男女は、長崎港巡りの遊覧船の切符を買っていた。
 それを眼にした長谷刑事は些か安堵したような表情を浮かべた。長崎港巡りの遊覧船の出港まではまだしばらく時間があったので、男女のことをじっくりと眼に出来ると思ったからだ。そして、その女がやはり仲村みちるである可能性が高いと看做せば、遊覧船から下船した後、職務質問してみようと長谷刑事は思っていたのだが、そんな長谷刑事の許にやがて私服姿の野々村刑事がやって来た。そんな野々村刑事に長谷刑事は仲村みちると思わしき女のことを密かに話した。
 みちると思われる女とその女の連れの男は、長谷刑事と野々村刑事に背を向けては、長椅子に座っていた。
 それで、野々村刑事は一旦大波止ターミナルから外に出ては向こう側の出入り口に回り、その出入り口から中に入っては長谷刑事の方に向かって歩き始めた。そして、その途中でその男女の顔を眼に出来るというわけだ。
 そんな野々村刑事の頭には、長谷刑事と同様、仲村みちるの顔がしっかりと叩きこまれていた。
 野々村刑事はゆっくりとした足取りで長谷刑事の方に向かって歩き始めた。そして、程無くその女の顔を眼にするに至った。女は連れの男を見やっては何か話をしていて、野々村刑事の視線にはまるで気付かなかったようだ。
 だが、野々村刑事はその女の顔を鮮明に眼に捕らえた。そして、確信したのだ。
 野々村刑事は程無く長谷刑事の許に来ては、
「あの女は絶対に仲村みちるだと思うな」
 と、長谷刑事の耳元で囁くように言った。そんな野々村刑事は、その事実が信じられないと言わんばかりであった。野々村刑事も熊沢から長谷刑事の報告を聞いて「そんな馬鹿な……」と、長谷刑事に失笑を浴びせた位であった。それ故、その事実は正に野々村刑事を驚かせたのである。
 そして、遊覧船の出発時間まで後十分となっていた。
 それで、野々村刑事は一旦ターミナルの外に出ては、野々村が眼にしたことを熊沢に報告した。
 二人の刑事がそう看做したとなれば、熊沢自身が動かざるをえなくなった。
 そんな熊沢は制服姿でパトカーに乗って大波止ターミナルに向かった。
 熊沢としては、制服姿の熊沢を見て、みちると思われる女がどのような反応を見せるか、それに興味があった。
 即ち、制服姿の熊沢を見て、みちると思われる女が逃げるような様を見せれば、それで万造の事件は解決したみたいなものだと、熊沢は判断したのである。
 それはともかく、遊覧船の乗船時間が近付いたので、優とみちるは長椅子から立ち上がり、遊覧船乗り場の桟橋に向かった。桟橋には既に長崎港巡りの遊覧船が横付けされていた。
 といっても、今日の最終便であった為か、乗船客は優とみちる以外は誰もいないかのようであった。それで、今、桟橋に横付けされている二百人は乗れそうなこの船が本当に長崎港巡りの遊覧船なのかと、優とみちるは疑った位であった。
 だが、制服姿の係員が「いらっしゃい」と言っては切符の改札を行なってくれたので、この船が長崎港巡りの遊覧船であることを確認した。
 それで、優とみちるは遊覧船に乗船し、そして、二階のデッキに向かった。二階デッキには屋根はあったものの窓はなかったので、季節柄心地良い潮風が感じられそうであった。
 みちるは今、長崎に来て良かったと思っていた。平和公園、出島、孔子廟、グラバー邸などを見物出来て良かったと思った。それらを見物して、長崎はみちるが今までに訪れた街の中では有数の観光地であり、また、長崎程異国情緒を感じさせた街もなかったのである。
 そして、その最後の仕上げがこの遊覧船による長崎港内巡りというわけだ。
 そんなみちるは今、警察から追われている存在であるということを忘れてしまっているかのようであった。正に万造と知り合う前のみちる、即ち、小中学校時代のみちるに戻ったかのようであった。今夜何処に泊まるのか、それすら決まっていない警察のお尋ね者であるみちるであることを忘却してるかのようであり、実際にもみちるはそれを忘却してしまっていたのだ!
 みちるの心境はそのようであったのだが、では優の心境は今、どうなっているのかというと、みちるの心境とは正反対であった。何故なら、優の心境は今、深刻そのものであったからだ。何故なら、優は今、死を決意していたからだ。
 優は定期観光バスで長崎見物を終え、長崎駅前にある歩道橋の広場のベンチに座っていた時に、みちるに自らが死ねば、遊覧船に乗ってその骨を粉々にして長崎港内にばら撒いて欲しいとかいうような話をみちるにした。
 しかし、その話は嘘ではなく、優の本心であったのだ。
 そして、何の理由もなく、その話をみちるにしたわけではなかった。優はそれとなく遊覧船に乗って長崎の海で死のうとみちるに仄めかしたのである。
 だが、みちるはその優の意思を汲み取ることは出来なかったみたいだ。何故なら、みちるの表情を見ていると、優の思いはまるで伝わっていないかのような表情を浮かべていたからだ。
 もっとも、その時優は特に深刻な表情を浮かべてはいなかった。それ故、みちるが優の意志を汲み取れなかったのは、やむを得ないことだったのかもしれない。
 しかし、優は心の中では泣いていたのだ。
 優はみちるに度々話したように、日本の警察は優秀だと思っていた。それ故、警察から逃れることは出来ないと思っていた。いずれ、優とみちるは逮捕され、重罪が下されると思っていた。まだ二十五歳にもなっていないのに、優とみちるは刑務所で人生の最も華やかな時期を過ごさなければならないのだ! 
 無論、優とみちるが離れ離れになるのは必至であろう。そんな人生を送らなければならないのなら、いっそのこと死んでしまった方が良いと優は思っていたのだ。
 もっとも、みちるが優と同じ思いを抱いているとは限らないであろう。それで、優が死を決行するまでの後二十分の間で、優の思いをみちるに力説してやろうとしたのだ。
 やがて、遊覧船は桟橋から離れようとした。
 すると、その時である。
 パトカーが岸壁沿いの道を走って来ては、遊覧船乗り場に近付いて来るのを優は眼に留めた。
 それで、優は思わずみちるに、
「パトカーだ!」 
 と、いかにも深刻そうに言った。そして、その優の声はかなり甲高いものであったが、辺りには誰もいなかったので、その優の声を耳にしたのはみちる以外にはいなかった。
 優にそう言われ、みちるは優が視線を向けてる方にみちるも視線を向けた。
 すると、みちるも確かにパトカーを眼に留めた。パトカーはサイレンを鳴らしたり、赤色灯を点滅させてはいなかったが、確かに遊覧船乗り場の近くにまで来ては、そこで停車し、制服姿の警官が一人パトカーから降りて来たのだ。
 すると、その制服姿の警官の傍らに私服の男が二人やって来ては、その二人の男の内、
一人がその指を優とみちるが乗船している遊覧船の方に向けたのをみちるははっきりと眼にしたのだ! そして、優もそれをはっきりと眼にしたのだ! 
 この事実を目の当たりにして、みちるの顔は忽ち蒼白となった。何故なら、その警官たちは優とみちるを捕える為に姿を見せたのに違いないと理解したからだ。
 それ故、みちるは、
「だから、私は長崎には来たくなかったのよ!」
 と、蒼白な表情のまま身体を小刻みに震わせながら、些か声を荒げて言った。
 みちるは既に何度も何故長崎に逃げなければならないのかという疑問がみちるの脳裏に渦巻いたものであった。何しろ、長崎は優とみちるが万造を殺した雲仙の近くの街だ。そんな街に万造が死んでまだ時間がさ程経過していないにもかかわらずに訪れることは、やはり火の中に飛び込んで行くようなものであったからだ。
 それ故、みちるは何度その疑問をみちるの脳裏に巡らせたことか!
 そして、そのみちるの疑問に対して、優は適切な返答を返さなかったのである。
 それはともかく、みちるにそう言われると、優は表情を甚だ険しくさせては、言葉を詰まらせた。そんな優の眼は遊覧船の進行に伴って移り変わって行く光景に向けられてはいたが、まるでその光景は優の眼には映っていないかのようであった。
 そして、そんな優の状態は二、三分は続いたと思われた。
 優の沈黙を受けて、みちるも沈黙せざるを得なかった。今の優にはみちるが何を言っても反応しそうにもないと思われたからだ。
 それで、みちるは優の次の言葉を待とうとしていると、優は程無く話し始めた。
「実はね。僕は今まで人を一人殺しているんだよ」
 そう優に言われて、みちるは呆気に取られたような表情を浮かべた。何故なら、それは正にみちるが想像すらしたことのない言葉であったからだ。また、今の優の言葉は冗談ではないかとも思った。
 だが、優はそんなみちるに構わず、更に話を続けた。
「僕が七歳の時だったんだ。つまり、小学校二年の時だったんだ。その事件が起こったのは。
僕が四歳の時に親父が僕の母と別れ、別の女と結婚したんだが、親父とその女の間で女の子が生まれたんだ。僕にとっては異母妹というわけで、僕より四つ年下だったんだよ。
そんな異母妹のことばかり親父も義母も可愛がり、僕のことは可愛がってくれなかったんだ。だから、僕はそんな異母妹に嫉妬し、殺してしまったんだよ」
優は眼を遊覧船から移り行く光景に向けながら、まるでみちるに言い聞かせるかのように、淡々とした口振りで言った。
みちるはといえば、正に信じられないような衝撃的な優の告白に、ただ呆気に取られたような表情を浮かべながら、正に固唾を呑んで優の言葉の一言一句をも聞き漏らすまいと言わんばかりに耳を傾けるばかりであった。
そんなみちるの方に優は眼を向けようとはせずに、更に話を続けた。
「でも、僕の犯行は発覚しなかったんだよ。
 僕は僕の家の近くの小川に異母妹を突き落として殺してやったんだが、実際には異母妹は事故死ということでけりがついたんだ。その小川の土手周辺には菜の花やタンポポが咲き乱れていたので、菜の花やタンポポを異母妹が摘んでいる時に小川に落ちて死んでしまったんだろうとけりがついたんだ。何しろ、異母妹はその頃、三歳だったからね。
 でも、それは真実ではなかったんだよ。異母妹は僕に小川に突き落とされて死んだんだよ!」
 と、優は力強い口調でみちるに言い聞かせるかのように言った。そんな優は正に今まで長年優一人の胸の内に秘めていた痞えを吐き出そうとしてるかのようであった。
 そう優に告白されても、みちるはそんな優に何と言えばよいのか分からなかった。みちるにとって、優の告白はあまりにも想像を絶するものであった為に、みちるは思考能力を失い呆気に取られたような表情を浮かべるだけであった。
 そんなみちるに構わず、優は更に話を続けた。
「僕が異母妹を殺したことは、親父も義母も知らなかった。しかし、義母は僕のことを多少は疑っていたみたいであった。
 しかし、証拠がなかった為に強く出ることは出来なかったんだ。また、異母妹が死んだからといっても、親父は僕のことを可愛がってはくれなかった。親父も心の底では、僕のことを疑っていたのかもしれないな。
 それはともかく、異母妹が死んで二年後にまた妹が生まれてしまった。その時、僕は小学校四年になっていた。
 その異母妹が生まれて、親父も義母もとても喜んでいた。そして、義母は無論、親父も僕のことを放ったらかしにして、可愛がった。でも、僕はそんなことは、もう慣れっこになっていた。そして、もうその異母妹を殺そうとは思わなかった。
 そして、僕は高校を卒業すると、家を出た。親父と義母と異母妹との生活は、僕にとって居心地の良いものではなかったからね。
 そして、僕はフリーターなんかをやりながら、何とかやりくりしていたんだ……」
 と、優は今度はみちるを見やりながら、みちるに言い聞かせるかのように言った。
 だが、みちるの口からは言葉が発せられることはなかった。みちるは正に何と言ってよいのか分からなかったのだ。
 そんなみちるに構わず、優は更に話を続けた。
「で、みちるちゃんに言わなければならないのは、僕が歌舞伎町でナンパしたのは、みちるちゃんが初めてではないんだよ」
 そう言い終えた優の表情は何となく決まり悪そうであった。みちるは優のことを純朴で誠実な男と思っているのかもしれないが、それは優の実像ではなく虚像なんだよと、みちるに言い聞かせているかのようであった。
「……」
「僕は今までに五人の女の子を歌舞伎町でナンパしホテルに入ったことがあるんだ。いわば、僕はナンパ師さ!」 
 そう言っては、優は微かに笑った。そんな優の笑いは、些か自嘲めいたものであった。
 みちるは、その優の言葉に大いに動揺した。何故なら、優が思ったように、みちるは優という男は純朴で誠実だと思っていたからだ。そして、その性質は万造とは対称的であった。
 更に、優は万造よりかなりの美男子であった。
 そんな優であった為に、みちるは優に惹かれてしまい、万造を裏切ったのだ。
 しかし、そのみちるの判断に亀裂が生じてしまった。今の優の告白を耳にすれば、みちるがそう思うのは当然のことと言えるかもしれない。
 そんなみちるに構わず、優は更に話を続けた。
「つまり、僕がみちるちゃんを巧みにホテルに誘い、セックス出来たのは、僕の今までのナンパによって培われたテクニックが実を結んだというわけなのさ!」
 そう言っては、優は険しい表情を浮かべた。そんな優の表情からは、今の優の言葉に対する優の思いを窺うことは困難に思われた。
 そして、優は更に話を続けた。
「つまり、僕は寂しかったんだ! だから、歌舞伎町で女をナンパし、その寂しさを紛らわしていたんだ!」
「だったら、どうして彼女を作らなかったの?」
 みちるはそう訊いた。今の優の言葉を耳にすれば、みちるはそう言わざるを得なかった。
 すると、優は、
「定職がないフリーターの僕に一体誰が彼女になってくれるって言うんだ?」
「そんなことないわ。優はカッコいいから、彼女は出来るわ」
「そうかもしれない。でも、僕が人殺しをしたことがあることを知れば、彼女は去って行くよ。だから、僕はその時限りの彼女を必要としていたんだ! そして、みちるちゃんもその一人だったというわけさ!」
 と、優は力強い口調で言った。そして、その優の言葉は正に優の本音だと言わんばかりであった。
「だったら、どうして私との付き合いを続けたの?」
 みちるはいかにも納得が出来ないように言った。
「そりゃ……。そりゃ、みちるちゃんだって、後ろ暗い部分があったからね。みちるちゃんだって、僕を美人局のカモとしてナンパされたわけじゃないか! そして、みちるちゃんは今までに何度も美人局をやって来たと僕に告白した。
 つまり、みちるちゃんは僕の同類なんだよ。僕もみちるちゃんも過去に傷がある。そういった者同士はその関係を長続き出来ると僕は思ったんだよ」
 と、優はみちるから眼を逸らしては、決まり悪そうに言った。
 そんな優に、みちるは、
「それだけ?」
「そりゃ、みちるちゃんを好きにはなったさ。もしみちるちゃんでなければ、交際は続けなかったさ」
 そう優に言われて、みちるは救われたような気がした。
 優とみちるがそういった遣り取りを交わしている内に、遊覧船は予定通りの航路を進み、やがて妙な島を優とみちるは眼にするに至った。
 その島は小さな島なのだが、鉄筋の高層アパートが処狭しと立ち並び、また、その高層アパートには誰も住んでないみたいで、まるで廃墟と化しているのだ。そして、優もみちるも今までにこのような島を見たことはなかった。
 その島は、端島という島で、軍艦島とも呼ばれていた。軍艦島は、1890年に三菱が採炭を開始し、また、埋め立てをしたので、周囲1・2キロの島となった。そして、1916年には高層鉄筋アパートが建設され、最盛期には5300人程の人が住み、その人口密度は世界一と言われた。
 だが、1974年に閉山され、今は廃墟となっている。
 それが、軍艦島のあらましであった。
 正にその妙な光景を見せ付けている軍艦島を眼に出来てる間は、その妙な光景に圧倒されてしまったのか、優とみちるの口は閉ざされてしまっていた。今、正に今まで生きて来た人生上、最も重大な告白をしている優、そして、その告白に耳を傾けているみちるの言葉をも失わさせてしまう位、その軍艦島の光景は異様で、見る者の関心を奪ってしまうのだ!
 だが、遊覧船が軍艦島手前でUターンし、軍艦島から遠ざかり始めた頃、優は再び話し始めた。
「ごめんね。妙なことを話してしまって……」
 と、優はみちるを見やっては、些か申し訳なさそうに言った。
 そう優に言われても、みちるは優に対して返す言葉がなかった。
 とはいうものの、今の優の告白によって、みちるの優に対する思いが揺らいだことは間違いなかった。
 何故なら、みちるは優を純朴、誠実でカッコいい男として見ていたからだ。しかし、今の優の告白によって、そのみちるの判断が誤ったものであったことが決定的となったのだ! 優は正に純朴な男ではなく、それは正に優の虚像であったのだ!
 もっとも、カッコいいという点に関しては、変化はないだろう。しかし、優は何と小学校二年の時に人殺しを行なったというのだ! ここまで告白されれば、そのカッコよさも吹き飛んでしまうというものだ。
 それで、みちるはいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を発することは出来なかった。そんなみちるを眼にすれば、今まで優と行動を共にしたことを後悔してるかのようであった。
 そんなみちるの心情を察したのかどうか分からないが、優はみちるに、
「何故僕がこんな打ち明け話をしたのか分かるかい?」
 と、みちるをまじまじと見やっては、いかにも真剣な表情を浮かべて言った。
 すると、みちるは、
「分からないわ」
 と、優を見ようともせずに、小さな声で言った。
 すると、優は表情を険しくさせては、
「前にも言ったが、日本の警察は優秀なんだ! そんな日本の警察から僕らは逃げ切ることは出来ないんだ!」
「……」
「だから、僕はもう死のうと思っているんだ! それしか、僕の残された道はないんだ!」
 そう言い終えた優の表情は悲愴感に満ちていた。また、優の強い決意も見ることが出来た。そして、
「さっき、みちるちゃんは言ったよね。何故長崎に来たのかって。で、僕はその問いに正確には答えなかった。
 でも、その問いに今から答えるよ。
 つまり、僕は死ぬ為に長崎に来たんだよ。僕は高校時代の修学旅行で長崎にやって来た。そして、この遊覧船に乗った。その時に僕が死ねば、僕の骨を粉々にして、この遊覧船からばら撒いて欲しいと思った。こんな素晴らしい光景に包まれて眠れるのは幸せだと思ったんだ。
 そして、今、その思いを実行する時が到来したんだ!
 もっとも、遊覧船からばら撒かれるのは骨ではない! 僕はまだ死んでないからな。
 しかし、僕の肉体がこの海、そして、長崎の光景と同化し、そして、長崎という街の細胞の一つとなるんだ!」 
 と、優はまるで阿修羅のような表情を浮かべては、力強い口調で叫んだ。そんな優はまるで、革命によって、政権を強奪した過激派の党首が大衆を前にして演説してるかのようであった。
 その今までみちるが思ってもみなかった優の一面を見せつけられ、ただみちるは啞然とした表情を浮かべるばかりであった。
 だが、みちるがそのような表情を浮かべたのは少しの間だけであった。何故なら、優がみちるの手を握っては遊覧船の前方へと移動し始めたからだ。
 遊覧船の前方は開放式の展望デッキとなっていた。そして、その開放式の展望デッキには、今、誰もいないことは明らかであった。
 優とみちるは、程無く展望デッキに来たのだが、展望デッキからは正面に女神大橋を眼にすることが出来た。女神大橋は全長1289メートルの斜張橋で2006年に出来た長崎の新名所になっている橋だ。
 そんな女神大橋を正面に眼にすることが出来たが、優の眼には女神大橋は映ってないかのようであった。
 優はこの時、
「さあ! 行くぞ!」
 と、声を荒げた。
「何処に行くって言うの?」
 みちるは、怯えたように言った。
「天国に決まってるじゃないか! 僕らは今から天国に行くのさ! でも、僕は一人で行くのは嫌だ! みちるちゃんと一緒だ!」
 優はそう言うや否や、みちるを手摺り越しに海へと突き落とそうとした。
 すると、みちるはそんな優に抵抗する姿勢を見せた。
 優はそんなみちるに構わず、みちるを眼下の海に突き落とそうとした。
 すると、みちるの眼は自ずから眼下の海へと向かった。眼下の海は遊覧船の立てる波で白く渦巻いていた。そんな海に落下すれば、遊覧船のスクリューに巻き込まれ、みちるの身体はスクリューによってギザギザに破壊されてしまうかもしれない。
 それで、みちるはその恐怖から逃れようとし、
「止めて!」
 と、金切り声で叫んでは、優に強く抵抗した。
 だが、優はそんなみちるの抵抗を無視し、阿修羅のような表情を浮かべては、みちるを眼下の海に突き落とそうとした。
 みちるは必死に抵抗しようとしたのだが、所詮、男の力には敵わなかった。
 みちるは程なく、遊覧船から海へと落下してしまったのだ! 
 その衝撃でみちるは海の中に落ちて行く自分を感じた。正に奈落の底に落ちて行くようであった。
 しかし、みちるは何としてでも、生きようとした。
 それで、必死で海面へと浮上し、やがて、みちるのその思いは遂げられた。
 そんなみちるの眼は、遊覧船を捕えていた。だが、遊覧船はぐんぐんとみちるから遠ざかって行く。
<もう駄目だ……>
 みちるはそう思った。
 みちるが今、いる場所から確かに陸は見えた。しかし、そこまでの距離は一体どれ位あるのだろうか? 二、三百メートルか? あるいは四、五百メートルはあるかもしれない。そして、服を着たままのみちるが、それだけの距離を泳ぎ切れるとはとても思えなかった。
 この時、みちるの脳裏には自ずから「地獄からの使者」という言葉が過ぎった。
 そう! 麻生優という男は、正に「地獄からの使者」だったのだ!
 麻生優とさえ出会わなければ、みちるはこのような形で死を迎えなくてよかったのだ! 麻生優とさえ出会わなければ万造を殺さずに済んだのだ! 万造ともっとうまく別れられた筈だったのだ! だが、麻生優と出会ってしまった為に万造の怒りを買い、それが万造の死、更に和美の死、更にみちるの死に繋がってしまったのだ!
 そう思うと、みちるは麻生優に出会ってしまった運命の非情を呪った。だが、今となっては、後の祭りだ。
 だが、この時である。
 遊覧船が何故か向きを変えたのだ!
 そして、デッキには制服姿の係員たちが立ち並んで、何とみちるの方を見やっているのだ! そして、従業員は手を振っているではないか!
 その光景を目の当たりにして、みちるの表情に思わず笑みが浮かんだ。
 そう! 気付いたのだ! 遊覧船の係員たちがみちるが海に落ちたことに気付いてくれたのだ!
 そう理解したみちるの表情に改めて笑みが浮かんだ。
 だが、そんなみちるの眼、鼻、口に容赦なく波がぶち当たって来た。
 みちるは思わず呼吸が出来なくなり、激しくもがいた。そんなみちるの体力、気力は、もはや限界に近付いていた。
 しかし、みちるは何としても生きようとした。そんなみちるの脳裏には今や優のことなど、全くなかった。ただ、何としてでも生きたいという思いしかなかった。
 そんなみちるには、もはや遊覧船がみちるのすぐ近くにまでやって来ては、救命浮環が落下されたのに気付く気力もなかった。
 だが、程無く誰かがみちるの身体に触れては、みちるを抱き抱えた。 
 そして、その時、みちるの意識はなくなった。
 だが、この時、みちるは自らが助かったことを理解したのであった。

          (終わり)


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