1 死体発見
正に霧多布という名前の通り、霧多布地方は霧が多い。海はすぐ近くなのに、霧が蔽い、海がまるで見えないのだ。霧多布湿原に向かう道を車で走っている森正雄(33)はそう思わざるを得なかった。
森は東京でサラリーマンをしてる独身者なのだが、この五月の終わりに休暇が取れたので、二泊三日の予定で北海道旅行にやって来た。そして、昨日は釧路湿原を巡り、そして、幣舞橋近くにあるホテルに泊まった。そして、今日は北海道旅行の二日目で釧路から根室に向かう予定になっていた。
そして、朝の八時半頃、釧路のホテルを後にし、厚岸まで行き、そこから、右折し、霧多布湿原目指して、車を走らせているという次第だ。そして、今日、最初に訪れた場所は国泰寺跡だ。そして、次に向かったのが、愛冠岬だ。愛冠岬は、国泰寺跡から近い所にある。
愛冠岬は、厚岸の代表的見所で、「出来そうもない困難を乗り越え愛の栄冠を得る」という思いで名付けられた。愛冠岬の展望台にはベルアーチがあって、これを二人で鳴らすと、愛が実るとのことなのだが。
森はまずその愛冠岬に行ってみることにした。愛冠岬へは、国泰寺跡からすぐ近くにあったので、今日、根室にまで行くことになってたのだが、森は何ら躊躇いはなかった。
やがて、森は愛冠岬の駐車場に着いた。愛冠岬の展望台までは、この駐車場から三、四百メートル程歩かなければならない。
森が駐車場に車を停めると、駐車場には、森の車以外に、一台も停まっていなかった。
正に辺りは森閑とした場所で、また、愛冠岬に行くには林の中の道を歩かなければならず、熊が出て来ないか、森は些か気にはなったが、折角ここまで来たからには、愛冠岬の展望台にまで行かないわけにはいくまい。
そう思い、森は一人、駐車場を後にした。それは、午前十時にならない位の時間であった。
林の中の道は、確かに熊が出て来てもおかしくないような雰囲気はあったが、時折、民家のような建物があったりして、そのことはやや安心感をもたらした。そして、やがて、開けた場所に出た。どうやら、その先が愛冠岬の展望台であった。
だが、この時、森は忽ち失望感を抱いてしまった。
というのは、辺りに霧が立ち込め、まるで視界が利かないという程でもなかったのだが、霧がなければ見えている筈の海はまるで霧に隠されていたからだ。それ故、本来なら愛冠岬から見えるエトピリカやコシジロウミツバメなど海鳥の繁殖地として有名な大黒島や小島が眼に出来るわけはなかった。
それ故、森は失望感に捉われたのだが、しかし、その一方、流石に北海道だという光景も眼にしてしまった。
それは、シカだ。野生のエゾシカが何十匹も辺りをまるで運動場にでもいるかのように、走り回っていたのだ。
それらのシカは霧に阻まれ、その詳細を眼にすることは出来なかったが、それでも、正に本州では眼に出来ないスケールの大きさを実感出来てしまった。
それはともかく、シカに道を遮られ、愛冠岬の展望台まで行けるのかという思いが過ぎったことは過ぎったのだが、そのような思いはまるで無用だったみたいだ。というのは、森が歩き始めると、そんな森からまるで逃げるかのように、シカたちは、森からかなり離れた所にまで行ってしまったからだ。これでは、何ら問題なく、展望台にまで行けるだろう。しかし、こんな場所で、万一熊が現われ、突進してくれば、どうすればよいだろうか?
そんな思いが過ぎらないわけでもなかったが、とにかく、そういった思いを払いのけ、森は展望台まで歩いて行ったのだが……。
そして、程なく展望台に着いたことには着いた。しかし、森は特に感慨は抱かなかった。何故なら、霧が掛かり、海はまるで見えなかったからだ。
展望台の向こうには、断崖絶壁があり、その向こうは海が開けてるのだが、その様な光景はてんで見えないのだ。
しかし、柵の向こうに足を置き、海を見るという思いはまるでなかった。何故なら、それは正に危険極まりないことだからだ。
それはともかく、愛冠岬には名物ともいえるベルアーチがあった。
それで、ベルアーチに森は近付いたのだが、すると、忽ち、森の表情は強張ってしまった。何故なら、ベルアーチの近くに若い男性が倒れていたからだ。その男性の倒れ方からして、男性の様はとても尋常には思えなかった。
だが、男性をそのままにして、この場を後にするわけにもいくまい。
森はそう思い、男性に恐る恐る近付いて行っては、男性の傍らまで来ると、
「もしもし」
と、屈み込んでは、男性に声を掛けた。だが、男性には何ら反応は見られない。
それで、森は男性の顔を覗き込むようにして見やったのだが、突如、
「わっ!」
と言っては、後退りした。何故なら、男性は白眼をむいて、とても生きているとは思えなかったからだ。
しかし、死んでるとはまだ確認してはいない。
それで、再び男性に近付き、男性の身体を揺り動かそうとしたのだが、再び森は、
「わ!」
という声と共に、後退りしまった。何故なら、男性の身体は既に硬直し、死んでると森は確信したからだ。
それで、携帯電話で直ちに110番通報した。
すると、直ちに現場に行くから、しばらくその場にいてくれという返答を受けた。
そう言われ、森は戸惑った表情を浮かべた。何故なら、ここは街中ではなく、かなり辺鄙な場所の為に、警官の到着がかなり遅れるのではないかと思ったからだ。
それで、警察にその点に関して訊いてみた。
すると、近くをパトロールしてるパトカーがあるので、十分位で到着するという返答を受けた。
それで、森は警官の到着を待つことにした。十分位なら、これからの予定に何ら影響は出ないと思ったからだ。
そして、警官の返答通り、森が110番通報して、十一分後位に、二人の制服姿の警官がやって来るのを森は眼に留めた。それで、森は両手を振った。そんな森に気付いた警官は、駆け足で現場にやって来た。そして、程なく森の許にやって来た。それで、森はその二人の警官に男性のことを指で示した。
しかし、森が指で示さなくても、二人の警官はその男性の姿を既に眼に留めて
いた。
それで、屈み込んでは瞳孔などを調べていたが、早くも男性の死を確認したようだ。
それで、警官は森に男性の死体を発見した経緯を訊いた。
森は有りの儘それを話した。特に詳しく説明するまでもなかった。森が愛冠岬の展望台にやって来てすぐに、男性の死体を眼にしたからだ。
警官はその後、森の連絡先を聞いたので、森はそれを話した。
そして、この時点で森は愛冠岬展望台を後にすることにした。
そんな森が、足止めを食らった時間は、二十分程のことであった。