3 再び死体発見

 日本三番目の規模を誇る霧多布湿原は、名前の通り霧に覆われる日が多い。そして、今日も霧多布湿原は霧に覆われ、視界がとても悪かった。それで、霧多布湿原の中を車で走らせても、視界が殆ど利かない為に、広大な湿原の中を走っているという実感がない。
 それでも、折角遥々大阪から霧多布湿原にまでやって来た高橋誠、美奈子夫妻は、霧多布湿原センター目指して、MGロードを車で走らせていた。
 折角北海道にまで来たのだから、その広大な風景を眼にしたいのは言うまでもないが、この霧多布湿原に関しては、そうはいかないものだった。今朝、釧路市内のホテルを後にした時も、霧が流れていて、その光景は正に異国的であったが、霧多布湿原の場合は異国的というよりも、腹立たしさを感じさせる位であった。 
 そのように、愚痴を言い合っていたが、この辺りで車を停め、辺りの光景を眼にしてみることにした。
 しかし、車を停め、敢えて辺りの光景を眼にするまでもないだろう。車窓から見える光景と同じなのだから。 
 しかし、車を停め、辺りを眼にしてみた高橋夫妻は、大きく伸びをした。やはり霧に蔽われていたとしても、その広大さは実感出来たからだ。 
 それで、しばらくの間、辺りに眼をやっていたのだが、その時、美奈子は突如、眉を顰めた。というのは、十メートル程先の所に妙なものを眼にしたからだ。
 それで、
「あなた! あれを見てよ」
 と、誠に声を掛けた。 
 それで、誠は美奈子が言われた場所に眼をやってみたのだが、そんな誠の表情も突如、強張った。何故なら、そこに、まるで人間と思われるものが、横たわっていたからだ。それは、かなりの確率で人間と思われた。
 それで、この真偽を明らかにすることなくこの場を後にするわけにはいかず、恐る恐るそれに近付いて行っては、その真偽を確認してみることにした。
 すると、その結果は、やはり、予想通りであった。それは、正に若い女性であったが、既に死亡してると思われた。しかし、死んでるかどうかを確認する勇気が、高橋夫妻にはなかった。
 それで、とにかく、直ちに携帯電話で110番通報したのであった。
 それを受けて、程なく現場近くを走行していたパトカーが高橋夫妻の許にやって来た。そして、その警官、岡元巡査、青山巡査部長は、その女性を眼にし、また、既に死亡してるということを確認した。
 青山巡査部長は、その女性の首に強い鬱血痕があるのを確認した。
 その様を眼にして、青山巡査部長は一層険しい表情を浮かべた。何故なら、女性の死は、殺しによってもたらされたと察知したからだ。   
 女性の遺体は、直ちに釧路市内のS病院に運ばれ、司法解剖されるに至った。
 すると、死因と死亡推定時刻が明らかになった。
 死因は予想通り、首をロープのようなもので絞められたことによる窒息死であった。また、死亡推定時刻は五月三十日の午前十時から十一時頃だった。
 その結果を受けて、自ずからその女性は、先日、愛冠岬で他殺体で発見された沢口勝則の連れの女性であった柿沢奈緒である可能性が高いというものだ。
 そして、奈緒の両親に奈緒と思われる女性の身体付きや服装を話したところ、奈緒である可能性が高いという返答を受けた。
 しかし、実際に見てもらわないと、断定は出来ないだろう。
 それ故、奈緒の両親に直ちに釧路市内のS病院に来てもらっては、奈緒と思われる女性の遺体を見てもらった。
 すると、予想通り、それは奈緒であったことが確認された。
 つまり、この時点で霧多布方面に観光旅行にやって来た帯広在住の若い男女が、何者かに殺されたということが明らかになった。また、死亡推定時刻も同じ頃であったことから、二人は同一人物に殺されたと推定出来た。
 二人の死は、殺しによってもたらされたことは明らかなので、二人の両親、更に、友人たちに沢口勝則と柿沢奈緒を殺しそうな人物に心当たりないか、聞き込みを行なってみた。
 しかし、誰もかれもが、二人を殺しそうな人物に、まるで心当たりないと証言した。
 その結果を受けて、小河警部は、
「困ったな」 
 と、渋面顔で言った。二人に恨みを持ってるような人物がいれば、二人が霧多布方面に行くのをチャンスとばかりに、二人の後を追い、人気の無い愛冠岬で殺害し、沢口の遺体は愛冠岬に遺棄し、奈緒の遺体は霧多布湿原に遺棄したということも有り得るだろう。そうでなければ、行きずりの事件というのか? となると、捜査は甚だ困難なものとなるだろう。
 そう思うと、小河の表情も、曇らざるを得なかった。
 ここしばらくの間に、霧多布湿原周辺で殺人事件といった凶悪事件はまるで発生してなかった。ただ、人気の無い駐車場で車の窓ガラスを破られ、車の中にあった貴重品が盗まれるといった盗難事件は発生していた。しかし、今回の事件はその種の事件である可能性は小さい。何故なら、二人が借りたレンタカーの窓ガラスは、何ら被害を受けていなかったからだ。
 勿論、事件が発生した愛冠岬周辺に立看板を立てたりして、市民から情報提供を呼び掛けたのだが、何ら情報は提供されなかった。
 そして、事件が発生して、二週間が過ぎようとしていた。しかし、捜査はその後、まるで進展しなかったのだ。
 これでは、小河たち捜査に携わっている刑事たちが、焦りの色を浮かべても、それは当然といえるだろう。
 二人の事件に車が使われたことは、間違いなかった。
 というのは、愛冠岬から移動する時や、また、奈緒の遺体を霧多布湿原に遺棄するのには、車が必要だからだ。
 それで、まず、レンタカーを借りていた者で、不審な印象を受けた者はいないか、釧路周辺のレンタカー店を中心に、聞き込みを行なってみた。
 しかし、成果を得ることは出来なかった。事件発生時に、レンタカーを借りた者の中で不審さを感じる者はいなかったという証言ばかりだからだ。
 それで、今度は釧路、帯広近辺での不審者の洗い出しを行なってみた。犯罪というものは、往々にして、同じ者が何度も行なうことがあるからだ。それ故、今回の事件も、今まで何らの犯罪を引き起こした者の犯行ということも有り得るからだ。
 しかし、その不審者の数も百人を超え、その中から容疑者を絞り出すことは困難であった。
 しかし、捜査に携わっている若手の野村刑事(28)が、
「二人が被害に遭った愛冠岬のことを注目してはどうですかね」
 と、言っては、眉を顰めた。
「それは、どういうことかな?」
 と、小河は眉を顰めた。
「つまり、愛冠岬とは、男女の愛が実るといわれているべルアーチがある場所ではないですか。いわば、恋愛が実る場所なのですよ。 
 しかし、男女の恋愛に憎悪を持っているような人物がいたら、愉しそうに語らいながら、ベルアーチでベルを鳴らしている男女に敵意を持ったかもしれませんかね。
 そして、そういった者が、犯行を行なったというわけですよ」
 と言っては、野村は小さく肯いた。そんな野村は、その可能性は十分にあると言わんばかりであった。
 その野村の推理に基づいて、それに該当しそうな変質者、不審者の洗い出しを行なってみた。
 すると、三人の人物が浮かび上がった。
 秋山弘文(30)
 上田和男(42)
 外山真治(33)
 秋山弘文は、三年前に釧路市内のアパートに無断進入し、一人暮らしの寝ていた女子大生に乱暴しようとしたところ、激しく抵抗され、助けに入った隣室の男と格闘になり、程なく警察に逮捕された。
 上田は、帯広市内の一人暮らしの女性のアパートに侵入し、下着泥棒を繰り返し、二年前に逮捕された。
 外山は、一年前に別れ話を切り出した恋人に激昂し、ナイフで切りつけ、傷害罪で逮捕された。
 この三人が不審者として浮かび上がり、まず、アリバイ確認が行なわれることになった。
 すると、秋山は、
「その頃は、家で寝ていましたね」
 上田は、
「その頃は、一人で釧路の街を散歩していましたよ」
 外山は、
「その頃は、釧路の街を一人でぶらついていましたよ」
 このような具合であった。
 それ故、この三人は、沢口と柿沢の死亡推定時刻のアリバイは曖昧といえるだろう。
 また、この三人の内、秋山以外は車を所有していた。
 今回の犯行には、車が使用されたのは間違いない。車がなければ、現場から移動出来ないし、また、奈緒を霧多布湿原に遺棄出来ないだろう。 
 それ故、可能性としては、秋山は小さいと捜査陣は看做した。
 それ故、まず、上田和男と外山真治を重点的に捜査してみることにした。
 上田和男の前に現れた小河に対して、上田は、
「俺は何も悪いことはしてませんよ」
 と、渋面顔で言った。
 何しろ、上田は前科者である。それ故、その表情には、何となく後ろ暗いものを感じさせた。
 そんな上田に、小河は、
「今は、どんな仕事をしてるのかな?」
 二年前に下着泥棒で逮捕された当時、上田は何の仕事をしてなかった。しかし、今はそうだとは限らないだろう。
 そう小河に問われると、上田は、
「今は運送屋で働いてますよ」
 と、渋面顔で言った。
「運送屋か……」
 と、小河は呟くように言った。
 何しろ、上田は下着泥棒をして、捕まった男だ。それ故、元々他人の家に入るということに興味があるのかもしれない。そして、今も可愛い女の子の家の引越しを請け負えば、再び下着泥棒をしてやろうと目論んでいるのかもしれない。
 そう思った小河は、その思いを口に出した。
 すると、小河は、
「冗談は止めてくださいよ」
 と、いかにも不快そうに言った。
 そんな上田に、小河は、
「五月三十日の午前九時から十一時頃に掛けて、君は釧路の街を散歩していたとのことだが、もう少し、どの辺りを散歩していたのか、詳しく話してくれないかな」
 と、上田の顔をまじまじと見やっては言った。 
「米町公園の方から釧路港の辺りを散歩していたのさ。あの辺りは俺のお気に入りスポットだからな」
 と言って、上田はにやっとした。そんな上田の表情には、些か自信があるかのようであった。
「それを誰かに証明してもらえるかな」
 と言っては、小河は冷ややかな眼差しを上田に投げた。
 すると、上田はむっとした表情を浮かべては、
「それは無理ですよ。僕は一人で散歩していたんだから」
 そう言われ、小河は渋面顔を浮かべた。何とか、上田から襤褸を引き出そうとしたのだが、そうはいかなかった。
 そんな小河に、上田は、
「でも、刑事さんは何故そのようなことを訊くのですかね?」
 そう言った上田の表情は、小河に挑むようであった。 
 そんな上田に、小河は、
「それに関して、心当たりないのかな?」
 と言って、にやっとした。
「まるでないですね」
 と言っては、上田は不貞腐れたような表情を浮かべた。
 そう上田が言ったので、小河はとにかく沢口勝則と柿沢奈緒の事件のことを簡単に話した。
 そんな小河の話に、上田は特に表情を変えずに、黙って耳を傾けていたが、小河の話が一通り終わると、
「それが、僕にどう関係してるというのですかね?」
 と、さして関心がなさそうに言った。
「一度犯罪を犯した者は、二度、三度ということも、往々にしてあるからね」
 と言っては、小河はにやっとした。
「では、僕のことを疑ってるのですかね?」
 上田は不満そうに言った。
「君だけではなく、前科者で怪しいと思った者には話を聴いてるさ」
 そう小河が言うと、上田は、
「ふん!」
 と言っては、鼻を鳴らし、
「僕を捜査しても、無駄ですよ。僕はその事件には何ら関係してないですからね。正に税金の無駄遣いですよ」
 と、不貞腐れたように言った。
 それで、小河はこの辺で上田への捜査を一旦終え、次に外山真治から話を聴いてみることにした。
 上田がかなり小柄な男性であったのに対して、外山はかなり大柄な男であった。180センチ以上はあるだろう。
 そんな外山に、小河は、
「以前も訊きましたが、外山さんは五月三十日の午前九時から十一時にかけて釧路の街をぶらぶらしていたとのことですが、それは、間違いないですかね?」
 と、外山の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、外山は、
「間違いないさ」
 と、素っ気無く言った。そんな外山は、何故そのようなことで、嘘をつく必要があるのかと言わんばかりであった。
「具体的には、どういった場所を散歩していたのかな?」
 小河は外山の顔をまじまじと見やっては言った。
「だから、以前も言ったように、釧路駅近くを散歩していたさ」
 と、特に表情を変えずに言った。
「それを、誰かに証明してもらえますかね?」
「それも無理さ。一人で散歩していたから」
 と、それが何か問題なのかと言わんばかりに言った。
 そんな外山に、小河は、
「外山さんは今、どういった仕事をされてるのですかね?」
「今は、中華料理店でアルバイトをしてるさ」
「その店の名前を知りたいのでがね」
「どうして、そんなことを知りたいんだい?」
 上田は不貞腐れたように言った。
「上田さんのことを色々と知りたいのでね」
「どうして、俺のことを色々と知りたいのかな?」
 上田はいかにも納得が出来ないように言った。
 それで、小河はこの時点で愛冠岬の事件のことを話した。
 上田はといえば、そんな小河の話に何ら言葉を挟まずに黙って耳を傾けていたが、小河の話が一通り終わると、
「それが、どうかしたのかな?」
 と、今の小河の話に何ら興味はないと言わんばかりに、淡々とした口調で言った。
 そんな上田に、小河は、
「上田さんは、二年前に男女のトラブルで、相手の女性をナイフで刺し、逮捕されましたね」
 そう小河が言うと、上田は小河から眼を逸らせては、言葉を詰まらせた。そんな上田は、正に訊かれたくないことを訊かれたと言わんばかりであった。
 そんな上田に、
「こういった前科があると、どうしても、このような事件があると、疑ってしまうのでね」
 と言っては、小河はにやっとした。そんな小河は、まるでこの事件は、上田で決まりだと言わんばかりであった。
 そう小河が言うと、上田は、
「じゃ、その事件の犯人は、僕だと刑事さんは疑ってるのですかね?」
 と、いかにも不満そうに言った。
「そうじゃないのかな」
 と言っては、小河はにやっとした。
 そんな小河に、外山は、
「冗談じゃない!」
 と、声高らかに、吐き捨てるかのように言った。そして、
「一体何の証拠があるというのですか!」
 と、いかにも不満そうに言った。そんな外山は、外山に疑いの眼を向けた小河のことを強く非難してるかのようであった。
 証拠と言われ、小河の言葉は詰まってしまった。そのようなものは、今のところ、ないに等しいからだ。
 それで、小河は渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせていると、そんな小河に、外山は、
「僕は今、忙しいのですよ。刑事さんの馬鹿馬鹿しい捜査に付き合ってる暇は無いのですよ。僕のことを疑って掛かるのなら、確固たる証拠を?んでからにしてくださいよ」 
 と、小河の稚拙な捜査を非難するかのように言った。
 それで、小河はやむを得ず、一旦、外山の許を去るしかなかった。
 小河の感触としては、上田か外山のどちらかの犯行だと思っていたのだが、外山が指摘したように、確固たる証拠がなければ、逮捕することは出来ない。また、もう一度、話を聴くことすら出来ない有様なのだ。
 これでは、事件は解決しないだろう。
それ故、焦りすら感じ始めていたのだが……。

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