第一章 年老いた男と若い女

マリモで有名な阿寒湖を六月の初めに訪れてみないかと村木藤次郎(76)に持ち掛けたのは、岡野富子(29)であった。
 村木と富子の年齢差は五十歳に近く、見知らぬ者が村木と富子のことを眼にすれば、村木と富子のことを祖父と孫の間柄と思うことであろう。
 しかし、その判断はまるで正しくない。何故なら、村木と富子の間にはまるで血の繋がりはなく、正に赤の他人なのだから。
 では、何故何ら血の繋がりのない赤の他人で、しかも、五十歳近くもの年齢差がある村木と富子が東京から(村木と富子は東京在住者)遥々と阿寒湖にまでやって来たのであろうか?
 そのことを説明するには、一年前にまで遡らなければならないであろう。
 一年前の丁度今頃、東京のとある閑静な住宅街に一人住まいしてる資産家の村木の許に富子は宝石店のセールスレディとして訪れた。それが、二人の出会いであった。
 とはいうものの、村木はダイヤモンド、ルビー、サファイアとかいった宝石には特に興味はなかったし、また、無論、宝石を集める趣味はなかった。
 しかし、村木は富子が勧める宝石に惹かれてしまった。もっとも、正確に言えば、それらの宝石を勧めた富子に惹かれてしまったのだ。
 村木は二十年前に妻の信子に乳癌で先立たれてしまい、その後、ずっと一人暮らしを続けて来た。信子との間には子供は出来なかったのだ。
 村木は、従業員五千人程の電気メーカーで部長職まで昇進し、定年を迎えた。
 そんな村木は人間嫌いの性格で、友人は少なかった。
 それ故、村木は定年退職すると、仕事絡みで村木と付き合っていた友人たちとの間柄は一人、また、一人と疎遠になって行った。そして、今では村木が年賀状の遣り取りをしてる友人はせいぜい四、五人位であった。
 幾ら村木が人間嫌いの性格であったといえども、歳を取ればやはり寂しさというものを痛感し、また、一人では生きにくいということも痛感するものだ。
 しかし、村木は村木の相手をしてくれそうな手頃な人間を見出せなかった。
 今更、再婚するわけにもいかないし、また、たった一人の兄妹である妹の直子は九州で暮らし、ここ五年位は、顔を合わせたこともない位であった。
 また、近くに親戚もいないし、また、近所の住人たちとの付き合いも特にない。
 正に、村木は都会に住む孤独な一人暮らしの老人であったのだ!
 そんな村木であったが、その真面目な性格が幸いしてか、無駄使いをせず、こつこつと金を貯めた。
 その結果、二億を超える金を持つに至った。不動産を除いて二億だ。そして、その金だけが、まるで村木の生きる支えであるかのようであった。
 そんな村木の前に現われたのが、富子であったのだ。
 富子は同年代の女性の中では平均的な容貌とスタイルで、ウエーブの掛かったロングヘアーを少し茶色に染めていた。
 そんな富子が村木の前に初めて姿を見せた時は、黒のスーツと首には真珠のネックレスを掛けていた。
 また、入念に化粧をしていた為か、その顔を具に見なければ、染み一つ見出すことも出来ないであろうし、また、その紅色の口紅をつけられた唇と爪に施された紫色のマニキュアを見れば、東京の繁華街を闊歩してる流行の最先端を行ってる女性と見受けられてしまうかもしれない。
 しかし、富子が幾らそういった身嗜みを整えても、遊び慣れた男なら、富子のことを見向きもしないのではないのか?
 即ち、富子が幾ら身嗜みを整えても、所詮、富子は月並みの女なのだ!
 しかし、村木の眼にはそのようには映らなかった。村木にはまるで富子のことが天使のように見えてしまったのだ!
 何しろ、村木はここ二十年程、富子のような身嗜みを整えた若い女性にこれ程親切に、また、礼儀正しく、また、好意的に接された記憶がなかった。そのことも、村木が富子に惹かれてしまったことに影響を及ぼしたのかもしれない。
 それはともかく、村木は富子が勧めた宝石を、富子に言われるがままに、その場で購入してしまった。そして、その金額は五十万であった。
 僅か百円でも安い食料品を買う為に遠方のスーパーにまで足を運んでる村木にとってみれば、信じられない位の気前良さであった。
 そして、富子はやがて、笑顔を振り撒きながら、村木の許を去って行った。
 すると、村木は無性に寂しさを感じた。
 富子から買ったダイヤモンドのブローチやルビーの指輪を手に取って見入っても、村木は満足感が込み上げて来なかった。村木にとってみれば、ダイヤモンドのブローチやルビーの指輪よりも、余程富子の方が高価であったのだ!
 そんな村木の思いを富子が察知したのかどうか分からなかったが、その二週間後に富子は再び村木の前に姿を見せた。
 富子の職業は無論、宝石店のセールスレディだ。それ故、今回も富子は持参して来た宝石を村木に勧めた。
 すると、村木は再び富子に勧められるがままに、その宝石を購入した。そして、その金額は今回は百万であった。
 契約書にサインしてもらい、村木から百万を手渡されると、富子はいかにも嬉しそうな表情を浮かべては、
「嬉しい!」
 と、村木に甘えるように言った。
 そのように富子に言われ、村木はまるで天にでも昇ったかのような気持ちになった。何しろ、村木は金は持っていたが、常日頃から甚だ寂しい思いを抱いていた。それ故、富子にそのように言われてしまうと、正にその寂しさが吹き飛んでしまったのである。
 それ故、村木は富子から勧められれば、数千万の宝石でも購入したことであろう!
 そして、富子はその一ヵ月後も、村木の許に姿を見せた。富子は一ヵ月後に新しい宝石が入るから、一ヵ月後に村木宅を訪れると村木に約束していたのだ!
 村木はその一ヵ月後を何と待ち侘びていたことか! 村木はその一ヵ月間、富子のことばかり思いながら過ごしたといっても過言ではなかった。
 そして、約束の日に富子は確かにやって来た。
 富子は村木から村木の誕生日が九月二日であることを聞いた。
 それ故、九月の誕生石であるサファイアを特別にスリランカから仕入れる為に、一ヵ月掛かると村木に説明していた。そして、その富子の言葉通り、やっとそのサファイアが富子の許に届いたのである!
 村木はそんな富子の心遣いが嬉しかった。
 それ故、村木は富子から見せられたそのサファイアのブローチの価額が二百万だと聞かされていても、安いものだと思っていた。
 村木は、タンスの引出しに仕舞ってあった二百万を笑顔を浮かべながら富子に渡した。
 すると、富子は、
「ありがとうございます」
 と、いかにも嬉しそうに言っては、深々と頭を下げた。
 今日の富子は、白のブラウスと黒のタイトスカートであった。そして、白のブラウスの背中からは、紫色のブラジャーの線がくっきりと浮かび上がっていた。そんな富子を見て村木は改めて富子が天使のように見えてしまった。そして、天使のような富子に優しく振舞ってもらって、村木はとても嬉しかった。そんな富子の振舞には幾らお金を使っても構わないと村木は思った位であった。
 そう思いながら、村木は我を忘れたような表情を浮かべていると、富子は、
「村木様は今は一人で住まわれているのですか?」 
 と、いかにも愛想良い表情と声で言った。
 すると、村木の口からは、
「ああ」
 という声が発せられた。
 すると、富子は再び愛想良い表情と声で、
「では、お食事とかお洗濯、お掃除なんかは誰がやられてるのですか?」
 と、村木の顔をまじまじと見やっては言った。
「そりゃ、僕がやってるさ」
 村木は眉を顰めては言った。
「それは大変ですね。村木様のようなお方がご自分でお食事とかお洗濯とかお掃除をされてるなんて……。何だか申し訳ないような気がします……。
 あの……、私でよろしければ、何らかのお手伝いをさせていただきますが」
 と、富子はいかにも殊勝な表情を浮かべては言った。
 すると、村木は、
「そんなことまでやってもらって、いいのかい?」
 と、いかにも半信半疑の表情を浮かべては言った。しかし、村木の表情には些か笑みも垣間見られた。
「そりゃ、勿論、構いませんよ。あれ程高価なものを買っていただきましたもの。それ位のことはさせていただきませんと。私で出来ることなら、何なりと遠慮なくおっしゃってくださいな」
 そのように富子に言われると、村木はいかにも嬉しそうな表情を浮かべては、
「じゃ、少しばかり掃除をお願いしようかな」
 村木宅は東京都内の閑静な住宅街の中にあったのだが、敷地は二百坪程で、高塀に囲まれていたので、道路からは村木宅の中の様子を窺うことは出来なかった。そして、その敷地内に四十五坪程の木造の二階建が、村木の住まいであった。
 このような豪邸に一人で住んでいたのだが、この豪邸は村木が親父から受け継いだものであった。とはいうものの、村木には後継がいない為に、この豪邸はいずれ村木の親戚が受け継ぐものと思われた。
 そのような状況であったのだが、何しろ村木は質素な生活振りであり、村木の生き甲斐といえば金を貯めること位であったから、家の中の掃除は行き届いていた。何しろ、豪邸とはいえども、村木は毎週少なからずの時間を掃除に費やしていたのだから。家政婦を雇えば金が掛かってしまう。それ故、村木は自らで掃除を行ない、また、村木は掃除をすることが好きであったのだ。
 そんな状況であったから、村木宅は正に古びた家であったといえども、きちんと整頓され、綺麗に片付いていたのだ。そして、村木は無論、そのことが分かっていたのだ。
 しかし、富子が折角そのように言ってくれたので、その申し出を断るというのは、心遣いがないというものであろう。
 それはともかく、二人は今、応接室にいたのだが、応接室にはヨーロッパで見られるような田園風景が描かれた十号程の絵が壁に掛けられていた。
 その絵を眼にして、富子は、
「有名な画家の作品ですか?」
 と、眼を大きく見開き輝かせては言った。
 すると、村木は一層表情を和らげては、
「岡野さんは、絵を見る眼があるね。絵は好きなのかい?」
「好きという程ではないのですが……。でも、私、美しいものに憧れるのです。ですから、宝石のセールスレディをやってるのです。だって、宝石は美しいですから」
 と、富子は些か顔を赤らめては、面映ゆそうな表情と口調で言った。
 村木はそんな富子を見て、富子のことをますます気に入ってしまった。かなり遊び慣れた男なら見向きもしないであろう富子ではあるが、女遊びとは無縁でこの歳にまで至った村木にとって、富子の容姿、愛想良い振舞、心遣い、更に好みまで合いそうともなれば、正に富子のことを村木は一層気に入ってしまったのである。
 それはともかく、村木は、
「この絵を描いたのは、土方宗則という画家なんだよ。もっとも、土方宗則の絵は日本では殆ど評価されてないので、普通の人なら土方宗則のことは知らないだろうが、僕は土方宗則の絵が好きなんだよ。
 もっとも、僕も土方宗則という画家がいたなんてまるで知らなかったんだよ。たまたま訪れた画廊で眼に留まったのが、この絵だったんだよ。それで、買ったんだよ。そして、その時、土方宗則という名前を知ったんだよ。
 で、その後、僕は土方宗則の絵を手に入れようとしたんだが、結局、手に入れることが出来たのは、この絵だけだったんだよ」
 と、いかにも感慨深げに言った。
 そう村木に言われ、富子はまだしばらくの間、土方宗則が描いたという絵を見やっていたのだが、やがて、周囲を見回した。すると、程なく表情を曇らせた。何故なら、応接室は綺麗に掃除が施されてるようで、富子は応接室に関しては何もしなくてもよさそうであったからだ。
 それで、富子は、
「お掃除はよくされるのですか?」
「ああ。何しろ時間はたっぷりとあるからな」
 村木は些か面映ゆそうに言った。
 すると、富子はにっこりと微笑み、
「では、別のお部屋を見せていただけますかね?」
 そのように富子に言われたので、村木は八畳の和室を富子に見てもらうことにした。
 その八畳の和室は来客があれば、そこで寝泊まりしてもらうのだが、ここ四、五年の間では来客は一人もいなかった。
 それ故、その八畳の和室は村木が最も使ってない部屋であったのだ。
 そんな部屋であったから、村木はこの八畳の和室に関しては、他の部屋程、掃除はしてなかった。他の部屋は掃除をしても、この八畳は掃除をしない時は度々あったのである。
 それ故、この八畳の和室では、応接室では見られなかった埃なんかが眼についたことにはついた。
 富子はといえば、そんな埃をすぐに眼に留めたみたいだ。何故なら、
「このお部屋は、最近お掃除されてないのですかね?」
 と、言ったからだ。
 そんな富子に村木は、
「確かに、この部屋は最近掃除してないんだよ」
 と、苦笑しながら、また、面映ゆそうに言った。
 すると、富子はにこにこしながら、
「じゃ、私がお掃除をして差し上げますわ。掃除機は何処にあるのですか?」
そのように富子に言われたので、村木はとにかく掃除機を富子の許に持って来た。
すると、富子は早速、掃除機の電源を入れては掃除を始めた。
とはいうものの、部屋の中はさ程汚れていたわけではなかった。
それ故、富子は正に程なく掃除を終えてしまった。そんな富子は、正に物足りないと言わんばかりであった。
そんな富子は、
「別のお部屋も掃除をして差し上げますが」
 そう富子に言われてしまったので、村木は、
「じゃ、岡野さんの言葉に甘えてみようかな」
 と、些か面映ゆそうな表情を浮かべては言った。
 そして、富子が次に掃除をすることになった部屋は、村木の寝室であった。寝室といっても、六畳の和室で押し入れに布団を出し入れして使ってる部屋であった。
 その部屋も、一週間程掃除をしてなかったので、少しばかり埃が見られた。
 富子はその埃を忽ち眼に留めると、
「このお部屋も掃除をした方がよいと思いますが」
 と、村木を見やっては、いかにも愛想よい表情を浮かべては言った。
 富子にそのように言われ、富子の申し出を断る理由はまるで見当たらなかった。それで、
「そうだな。じゃ、やってもらおうか」
 と、にこにこしながら言った。
 その村木の言葉を受けて、富子は掃除機をその六畳間に持って行っては、早速掃除機で掃除を始めた。
 そのようにして、富子は結局、一時間程かけて、村木宅の掃除を行なった。そんな富子の奉仕振りに、村木は眼を細めるばかりであった。

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