第十章 焦り

 ホテルの室に一人遺された富子は、今、正に自らが存在してるのは、現実の世の中なのかと勘繰ってみた。
 というのも、富子は気乗りしなかったものの、鬼頭からの要求を断り切れなかった為に村木を殺し、鬼頭は村木の金を手にすることが出来た。それ故、その後は、富子は鬼頭と愛でたく結婚し、鬼頭との新たな人生に乗り出す筈であった。
 しかし、鬼頭にはそのような様はまるで見られなかったのである。
 そして、村木が死んで半年にもなるにもかかわらず、鬼頭のその様にはまるで変化は見られなかったのだ。そして、それは正に富子が描いていた青写真とはまるで違っていたのだ。
 それで、富子は今、夢を見てたのではないかと勘繰ってみたのだ。
 それで、富子は思い切り頭を左右に振ってみた。また、自らの右手で思い切り左腕を抓ってみた。
 その結果、富子は夢を見てたのではないということを確認したのである。
 すると、富子は鬼頭に対して言わなければならないことがあることに気付いた。
 即ち、富子は今夜、鬼頭にそのことを言う為に、ホテルで鬼頭と夜を過ごすことになっていたにもかかわらず、鬼頭は富子にその機会を与えることなく、ホテルから去って行ったのである。
 それで、富子は急遽、今夜鬼頭と泊まることになっていたホテルでの宿泊をキャンセルし、台東区内にある鬼頭のマンションに向かったのであった。
 鬼頭のマンションといっても、それは下町の中にある築後三十年程経過した五階建の何処にでもあるような古びたマンションであった。
 そして、そのマンションの間取りは2DKであったのだが、富子はその部屋に愛着があった。何故なら、富子はその部屋の中で何度も鬼頭に抱かれ、また、その部屋を富子が訪れたのは、今までに五十回を超える位のものであったからだ。
 こうなって来ると、もはや富子の別宅みたいなものであった。そして、富子はホテルを後にすると、直ちにそのマンションに向かったのである。 
 鬼頭の部屋は三階の303号室であった。
 富子は鬼頭の室の前にまで来ると、躊躇わずインターホンを押した。それは、午後九時を少し過ぎた頃のことであった。
 富子がインターホンを押しても、何ら応答はなかった。
 それで、再びインターホンを押した。だが、やはり、応答はなかった。
 それで、富子はまるで平静を失ったかのように何度もインターホンを押した。
 すると、やっと応答があった。
 だが、その鬼頭の声は明らかに怒りに満ちたものであった。
「何度押したら気が済むんだ!」
 だが、富子は鬼頭の怒声に怯むことなく、
「私よ!」
 と、毅然とした表情で、また、威厳を込めた口調で言った。
 すると、インターホンから声は聞こえなくなり、程なく玄関扉が開いた。
 すると、そこには明らかに不機嫌そうな鬼頭の姿があった。
 そんな鬼頭に富子は、
「どうして私を置いて、一人でさっさと帰ってしまったの?」
 と、いかにも納得が出来ない表情と口調で言った。
「だから、気分が悪いと言ったじゃないか!」
 鬼頭は、富子から眼を逸らせては、決まり悪そうに言った。
「そう……。で、とにかく中に入れてよ」
 富子がそう言ったので、鬼頭はとにかく富子を鬼頭の部屋の中に入れた。そんな鬼頭の表情には、まるで生気は見られなかった。
 鬼頭は今まで何度も富子と話したことのある八畳程のフローリング敷きの洋間に富子を連れて来ると、一人掛けの藤椅子に座った。
 藤椅子はそれしかなかったので、富子はフローリングの上に腰を下ろした。そんな富子を見ると、鬼頭は傍らにあった煙草を手にしてはライターで火をつけ、一吹かしした。
 そんな鬼頭の口からは、煙草の煙は発せられたが、言葉は発せられなかった。
 そんな鬼頭に富子は、
「私たちの将来のことだけど」
 と、些か真剣な表情を浮かべては言った。
 すると、鬼頭は富子から眼を逸らせたまま、何も言おうとはしなかった。ただ、煙草の煙を吹かすばかりであった。
 そんな鬼頭に富子は、
「私といつ結婚してくれるの?」
 と、いかにも真剣な表情と口調で、鬼頭をまじまじと見やっては言った。正に、富子はこのことを確認する為に鬼頭宅に来たといっても過言ではなかったのだ。
 すると、鬼頭はやっと富子を見やっては、
「まあ、そう焦るなよ」
 と言ってはにやっとした。
「焦るなって、村木さんを殺し、村木さんのお金を手にすれば、私と結婚すると約束したじゃん!」
 富子はいかにも不満そうな表情と口調で言った。
 すると、鬼頭は、
「そりゃ、したけどさ。しかし、焦るなと言ってるんだ」
 と言っては、再びにやにやした。
「焦るなって、村木さんが死んでもう半年になるのよ。それなのに、辰ちゃんは、辰ちゃんのお店の開店準備すらしてないじゃん! それに、私、そろそろ辰ちゃんの籍に入りたいのよ」
 富子は、些か鬼頭に甘えるように言った。
 すると、鬼頭の表情からは忽ち笑みは消え失せ、そして、
「だから、焦るなと言ってるんだ! 俺がもし一億もする位の店を始めるとするよな。すると、俺のことをよく知ってる奴らから、この店の開店資金はどうやって出たんだと、言われるに決まってるじゃないか!
 そう言われれば、俺は何と言えばいいのかい? 村木爺さんを殺して手にしたと言えると思ってるのかい?」
 と、甚だ表情を険しくさせては、富子に反発するかのように言った。
 そう鬼頭に言われると、富子の表情も険しくなり、そして、言葉を詰まらせてしまった。何故なら、鬼頭の言うことはもっともなことと思ったからだ。
 そんな富子を見て、鬼頭の表情に笑みが戻った。そして、
「それに、富ちゃんはまだ、村木爺さんを殺したのではないかと警察に疑われてるんだろ?」
「いいえ。最近は私の前に全く姿を見せなくなったわ。つまり、私を疑うのは、もう止めたみたいよ」
「じゃ、村木爺さんは事故死と決まったわけか」
 鬼頭は些か真剣な表情を浮かべては言った。
「そうだと思う」
 富子も些か真剣な表情を浮かべては言っては、小さく肯いた。
「なるほど。でも、油断出来ないぜ。村木爺さんの事件のほとぼりが冷めたからといっても、俺と富ちゃんが結婚すれば、俺に捜査の手が伸びるかもしれないぜ。何しろ、俺は村木爺さん宅に侵入したんだが、その時に俺は指紋を遺してしまったかもしれないんだ。そして、警察は既にそれを採取してるかもしれないぜ!
 で、俺は村木爺さんとは何の面識もないわけだから、富ちゃんの夫の指紋が何故村木爺さん宅に遺ってるんだと警察から疑われれば、やばいじゃないか!」
 鬼頭は顔を赤らめては、そんなことも分からないのかと言わんばかりに、声を荒げては言った。
 鬼頭にそう言われると、富子は渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせてしまった。富子は鬼頭の言ったことが分からないわけでもなかったからだ。
 鬼頭は、そんな富子を眼にして、やっと鬼頭の言い分が分かったかと言わんばかりに、
「だから、事は慎重に運ばなければならないんだ。つまり、俺が俺の店を持つことや、富ちゃんと結婚するということは、もっと後でなければならないというわけさ」
 と、富子に言い聞かせるかのように言った。
 すると、富子は一層渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせてしまった。富子は村木を殺し、村木の金を手に出来れば、富子の夢はすぐに実現出来るものだと思っていたからだ。
 しかし、その富子の思いはどうやら的外れであったみたいだ。
 だが、富子は、
「じゃ、籍は入れなくてもいいから、辰ちゃんと一緒に住むこと位ならいいじゃん!」
 そう言った富子の表情には、些か笑みが浮かんでいた。そんな富子は、正に妙案が浮かんだと言わんばかりであった。
 そう富子に言われると、鬼頭は渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせてしまった。そんな鬼頭は、正に今の富子の言葉は予期せぬものであったと言わんばかりであった。
 そんな鬼頭に、富子は、
「ね! そうしましょうよ! 私、今日、ここに泊ってもいいのよ」
 と、些か鬼頭に甘えるかのように言った。
 すると、鬼頭は、
「それは駄目だよ」
 と眉を顰めては頭を振った。
すると、富子の表情は忽ち曇った。その鬼頭の言葉は正に富子の予期せぬものであったからだ。
 それで、富子は表情を曇らせては言葉を詰まらせてしまった。
 すると、鬼頭は些か真剣な表情を浮かべては、
「だから、さっき言ったじゃないか! 事は慎重に運ばなければならないと!
 俺と富ちゃんは全く無関係な人間だと警察に思わせてなければならないんだよ。何しろ、俺は村木爺さん宅に俺の指紋を遺してしまったかもしれないからな。
 だから、俺と富ちゃんが一緒に暮らすなんてことをやってしまえば、それは墓穴を掘ってしまうことにもなり兼ねないんだ!」
 と、力強い口調で言っては、大きく肯いた。そして、にやっとした。
 富子はといえば、憮然とした表情を浮かべては、言葉を発することは出来なかった。やはり、その鬼頭の説明は納得が出来ないものであったからだ!
 そんな富子に鬼頭は、
「さっきも言ったように、俺は今日は気分が悪いんだ。だから、もう帰ってくれよ」
 と、渋面顔で言った。
 そんな鬼頭を見て、富子は今の鬼頭と、果して富子が知り合った当初の鬼頭とが、同一人物とは、とても思えなかった。容姿は同じなのだが、心は別人になってしまったかのように富子には思えたのだ。
 それ故、富子の脳裏には、自ずから裏切りに遭ったのではないかという思いが過ぎっても、それは当然のことであった。
 そして、そんな富子の口から発せられた言葉はこうであった。
「村木さんから手にしたお金は、半分は私のものよ! だから、半分渡してよ!」
 そう言った富子の表情には、かなりの険しさが見られた。
 そして、富子は今の富子の口から発せられた言葉は、自分のものとは思えなかった。富子は今まで鬼頭に対して、このような言葉を発するとは思ってもみなかったからだ。
 しかし、今の富子の言葉は、今まで富子が抑えていた思いが、言葉となって、富子の口から発せられたのかもしれない。
 鬼頭はといえば、富子にそう言われ、?然とした表情を浮かべていた。富子がそのような言葉を発するなんて、鬼頭は夢にも思ってなかったのかもしれない。
 それ故、鬼頭は?然とした表情を浮かべては、少しの間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「金のことは俺に任せておけと言ったじゃないか!」
 と、声を荒げては、不快そうに言った。
「任せておけって、村木さんの金庫に一体幾ら入っていたのか、それすら話してくれないじゃないの!」
 富子も不快そうに言った。
「だから、一億を超える位はあったと、言ったじゃないか!」
 鬼頭は渋面顔で言った。
「一億を超える位じゃ、分からないわ。一億二千万と一億五千万じゃ、分け前が違うからね」
 富子は、再び不快そうに言った。
 そう富子に言われ、鬼頭は渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせた。そして、何やら考え込むような仕草を見せたが、やがて、
「その金額を知ってどうするんだ?」
 と、富子の顔をまじまじと見やっては言った。
「だから、半分は私に渡してもらいたいのよ。村木さんのお金の半分は私のものだからね」
 と、富子はまるで鬼頭に挑むかのように言った。
 すると、鬼頭は富子から眼を逸らせては、何やら考え込むような仕草を見せたが、やがて、
「まあ、そう焦るなよ」
 と、些か笑みを浮かべては、富子に言い聞かせるかのように言った。
「焦るなと言われても、焦るじゃん! いつまで経っても、辰ちゃんはお店を始めようとはしないし、私と結婚しようともしない。だったら、取り敢えず、私は私の分け前を受け取りたいのよ」
「だから、百万渡したじゃないか!」
 鬼頭はまるで富子を突き放すかのように言った。
「ふざけないで! 村木さんは、一億を超えるお金を持っていたのよ。それなのに、私の分け前が百万だなんて、そんな馬鹿な話があるものですか!」
 富子は、顔を赤らめては、声高に言った。そんな富子は明らかに興奮していた。
 すると、鬼頭は富子から眼を逸らせては、決まり悪そうな表情を浮かべては、少しの間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「だから、焦るなと言ったじゃないか!」
 と、富子から眼を逸らせたまま、いかにも不快そうな表情と口調で言った。
「これが、焦らないでいられるものですか! 私はとにかく村木さんのお金の私の分け前を受け取りたいのよ。その金額は百万じゃないのよ!」
 富子もいかにも不快そうな表情と口調で言った。
「だから、今、富ちゃんが大金を手にしたら、どうなるんだ? そんなことになれば、警察に疑われてしまうよ。その金はどうやって手にしたんだという具合に!」
 鬼頭はまるで富子のことを分からず屋めと言わんばかりに言った。
「どうして私が警察に疑われるの? 私はそのお金を銀行に預けるようなことはやらないわ!」
 富子は甚だ納得が出来ないような表情と口調で言った。
「だから、突如、警察が富ちゃんの部屋の家宅捜索を行なうかもしれないじゃないか! 何だかんだと理由をつけて! 
 そして、その時、富ちゃんの部屋に大金があったら、どうするんだ? それこそ、やばいというもんだ!
 要するに、警察のことを甘く見ちゃ駄目だということなんだ!」
 と、鬼頭は眼をギラギラと輝かせては言った。そして、その鬼頭の表情は、まるで鬼頭が富子に村木殺しを持ち掛けた時に見せたようなものであった。
 富子はといえば、鬼頭にそう言われ、言葉を詰まらせてしまった。何故なら、鬼頭の言ったことは、もっともなことと思えないこともなかったからだ。
 それで、鬼頭から眼を逸らせ、決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせてしまった。
 鬼頭はそんな富子を眼にして、やっと鬼頭の言い分を理解してくれたかと思ったのか、表情を些か和らげては、
「とにかく、俺の言うことを分かってくれよ! とにかく、焦るなということさ!」
 そのように鬼頭に言われても、富子は決まり悪そうな表情を浮かべては、言葉を詰まらせたままであった。
 そんな富子を見て、鬼頭は薄らと笑みを浮かべ、そして、富子の傍らに来ては富子の肩に右手を置き、
「とにかく、今日は気分が悪いんだ。だから、一人にさせてくれないか」
 と、正に富子の帰宅を促すかのように言った。
 それで、富子はやっとのことで、重い腰を上げた。そして、まるで鬼頭に急かされるかのようにして、鬼頭の部屋を後にしたのであった。
 富子が鬼頭の部屋を後にすると、鬼頭は大きく息をついた。そんな鬼頭は、正にやっと疫病神が去ってくれたかと言わんばかりであった。
 そんな鬼頭は、物入れの上に置かれている置時計に眼をやった。すると、十時半を少し過ぎていた。
 すると、鬼頭は決まり悪そうな表情を浮かべては、携帯電話を手にすると、慣れた手付きで何処かに電話を掛けた。
 呼出音が四回鳴った後、電話は繋がった。
 電話が繋がると、鬼頭は、
「俺だ!」
 と、甲高い声で言った。そんな鬼頭の表情には既に笑みが浮かんでいた。
―遅いじゃん! 一体何をしていたの?
 という女の声が聞こえた。
「それが、富子の奴が来やがったんだよ。俺が由加の所に行こうとしてた時に、富子が来やがったんだ! それで、手古摺ってたんだよ!」
 と、鬼頭はいかにも迷惑していたと言わんばかりに言った。
―富子って、例の女?
 由加は鬼頭から度々富子に関して話を聞かされてるのか、富子のことを知ってるかのようであった。
「ああ。そうだ。何だかんだと、俺が迷惑になるようなことばかり言いやがるんだ! そんな富子のことをかわすのに、苦労してたんだよ」
 と、鬼頭は早口で捲くし立てては苦笑した。そして、その鬼頭の言葉と表情は、正に鬼頭の本心そのものであるかのようであった。
―そんな女と、いつまで付き合ってるつもり?
 由加は正に冷やかな表情と口調で言った。
「いつまでって……。そりゃ、いずれ、別れてやるさ!」
 鬼頭は決まり悪そうな表情を浮かべながらも、力強い口調で言った。
―そう……。それを聞いて安心したわ。で、今から私の所に来てくれるの?
「ああ。十一時半までには行けると思うから、眠らずに待っていてくれよな」
 鬼頭はいかにも機嫌良さそうに言っては、電話を切った。
 そんな鬼頭は、いかにも嬉しそうであった。先程、富子と話していた鬼頭とは、まるで別人のようであった。
 そして、その鬼頭の表情から、鬼頭が先程富子に言ったこと、即ち、気分が悪いと言ったことは、嘘であったということが、自ずから証明された。
 そんな鬼頭は、まるで今から遠足を前にした子供が見せるような浮き浮きとした表情を浮かべて、そして、鬼頭のお気に入りのポップスを口ずさみながら、程なく鬼頭のマンションを後にしたのであった。
 そして、その時の鬼頭は、つい先程まで鬼頭に対して、自らの深刻な思いを語っていた富子のことなど、もうすっかり忘れてしまったかのようであった。

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