第十五章 冬の網走

 富子と鬼頭が女満別空港に着いたのは、午前九時半頃のことであった。二人はその日、羽田発女満別空港行の第一便に乗って、女満別空港にやって来たのだ。
 二月十六日という一年の内、最も寒い時期に北海道にやって来た二人であったが、女満別空港ターミナルビル内では、冬の北海道ということは実感出来なかった。何故なら、女満別空港ターミナルビル内は快適な温度に保たれていたからだ。
 だが、ターミナルビルから一歩外に出ると、そこは正に冬の北海道だということを実感させた。正に肌を刺すような冷気が押し寄せ、粉雪が辺りを叩き付けるかのように降りしきっているのだ。このような様は正に東京では見られないというものだ。
 ターミナルビルから外に出ると、鬼頭は、
「寒い!」
 と口走っては、身体を小刻みに震わせた。
 だが、その鬼頭の言葉を耳にしても、富子の口からは言葉は発せられなかった。
 もし、冬の北海道を愉しむ為に富子が北海道にやって来たのなら、今の鬼頭の言葉に相槌を打ったことであろう。
 しかし、富子は冬の北海道を愉しむ為に北海道にやって来たわけではなかった。羽田空港を鬼頭と共に後にして以来、富子はそのことを片時も忘れたことはなかったのだ。
 そのことが影響してか、今日の富子の口数は少なかったのである。
 それはともかく、二人は女満別空港近くのレンタカー営業所でレンタカーを借りることになっていたから、早速、そのレンタカー営業所に向かった。というよりも、レンタカー営業所の係員が空港に迎えに来てくれてたのだ。
 そして、富子と鬼頭は、レンタカー営業所を午前十時半頃、後にした。二人が借りたレンタカーは、カローラであった。
 二人を乗せたカローラはやがて国道39号線に入ったのだが、やがて鬼頭が、
「今日は気分でも悪いのか?」
 と、眉を顰めては言った。
 というのは、飛行機の中でも、また、カローラの中でも、富子は富子の方から自発的に鬼頭に対して話し掛けようとしないのだ。それ故、鬼頭がそう言ってもおかしくなかったのだ。
 鬼頭にそう言われると、富子は、
「そうでもないよ」
 と、薄らと笑みを浮かべては言った。何故なら、富子は鬼頭に富子の心中を察せられたくなかったからだ。
「そうか……。それならいいんだが……」
 鬼頭は眼を前方に向けながら、淡々とした口調で言った。そして、
「今日の富ちゃんは、何だかいつもの富ちゃんらしくないからな。だから、気分でも悪いのではないかと思ったのさ」
 と、薄らと笑みを浮かべては言った。
 すると、富子は些か表情を険しくさせては、
「私が気分が悪いように見えるのは、辰ちゃんが私との約束を守ってくれないからよ」
 と、些か鬼頭を非難するかのように言った。
「俺との約束?」
 鬼頭は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「そうよ。私と約束したじゃん! 村木さんのお金を手にしたら、辰ちゃんは辰ちゃんの店を持ち、私を妻として迎えるって! 私、そう言われたから、村木さんを殺したのよ。
 それなのに、辰ちゃんは私との約束を守ろうとはしないもん。
 それに、辰ちゃん、最近は私に対してめっきりと冷たくなったもん。だから、私に元気がなくなって当然よ」
 と、富子は神妙な表情を浮かべては、重苦しい口調で言った。
 すると、鬼頭は、
「何だ。そのことか……」
 と、薄らと笑みを浮かべては言った。そんな鬼頭の様は、正に富子が言ったことは、大したことではないと言わんばかりであった。
「そのことか、ではないでしょ」
 富子は些か強い口調で、鬼頭を非難するかのように言った。
 すると、鬼頭は些か真剣な表情を浮かべては、
「だから、その点に関しては、以前何度も言ったじゃないか! 村木爺さんが死んでまだそれ程月日が経ってないのに、俺が店を始めたり、富ちゃんと結婚すれば、警察に疑いを持たれてしまうと! 何しろ、警察というのは手強い相手だ。甘く見ちゃ駄目なんだ! だから、慎重にならなければならないんだ!」
 と、甲高い口調で富子に言い聞かせるかのように言った。
「だったら、私に村木さんのお金をもっと渡してよ。村木さんのお金の半分は私のものだからね。それに、村木さんから手にしたお金が幾らだったのか、話してくれないの?」
 富子は、不満そうに言った。
「だから、その点に関しても、以前説明したじゃないか! もし俺が富ちゃんに大金を渡したとするよな。そして、もし警察が富ちゃんが大金を持ってることを知ったとしたら、どうなると思う? それは正に一大事となっちゃうよ」
 鬼頭は、まるで富子を諫めるかのように言った。
「だから、その点に関しては心配することはないのよ! 私、警察には絶対に見付からないようにするから!」 
 富子は毅然とした表情を浮かべては言った。
「富ちゃんの部屋の押し入れの段ボール箱の中に隠すとでもいうのかい? 
 甘い! 甘い! 
 警察のことを甘く見ちゃ駄目だよ! やはり、村木爺さんの事件のほとぼりが冷めるまで、金は俺が保管しておいた方が無難だよ。警察のことを甘く見ちゃ駄目だよというわけさ」
 と、鬼頭は正に富子に言い聞かせるかのように言った。
「だったら、村木さんのお金は幾らあったの? それなら、話してくれたっていいじゃん!」
 富子は不満そうに言った。
「だから、一億以上あったと言ったじゃないか! それで、十分じゃないか!」
 鬼頭も不満そうに言った。
「じゃ、そのお金は何処に隠してあるの?」
「それは、今は話せないよ」
 鬼頭はにやにやしながら言った。
「どうして話せないの?」
 富子は、不満そうに言った。
「だから、それを話せば、富ちゃんがそれを警察に話すかもしれないからさ」
「まさか! 私がそのようなことを警察に話すわけないじゃん!」
 富子は声を荒げて言った。
「だから、富ちゃんが警察から訊問を受け、責め立てられれば、話してしまうかもしれないというわけさ。何度も言うが、警察のことを甘く見ちゃ駄目だというわけさ」
 鬼頭は富子を諭すかのように言った。
 そう鬼頭に言われると、富子は今まで鬼頭の方に向けていた眼を車窓から流れ行く風景へと向けた。
 富子は今までに網走地方に来たことは一度もなかった。それ故、今、富子と鬼頭を乗せてるカローラがどの辺りを走ってるのかは分からなかった。更に、雪が辺りをモノトーンに変え、それが一層富子にそう思わせていたのだ。
 それはともかく、以前の富子なら、富子の問いに頑なに本当のことを話そうとはしない鬼頭に対して、一層苛立ちを感じたことであろう。
 しかし、今はそうではなかった。何故なら、今や富子は鬼頭の裏切りを知っていたのだから。
 即ち、鬼頭が富子に百万しか渡さないのは、鬼頭は元々富子に百万しか渡さないつもりだったのだ。そして、残りの金は鬼頭の新しい女の為に使おうとしていたのだ。今や、鬼頭にとって邪魔者と成り下がった富子に、鬼頭は無駄金を使いたくなかったのだ!
 また、鬼頭が村木から手にした金が幾らだったのか、富子に正確に話そうとしないのも、鬼頭の心が富子から離れてしまった証だ。以前の鬼頭なら、そのようなことは絶対に行なわないに違いないのだ!
 そう思うと、富子は哀しげな眼を車窓から流れ行く風景に向け、やがて、富子の口からは言葉は発せられなくなって行ったのだ。
 それはともかく、二人を乗せたカローラはやがて網走湖に差し掛かった。
 といっても、網走湖は今、雪に覆われていた為に、白い平原と化していた。
 そんな網走湖に鬼頭はちらちらと眼をやりながら、
「これは、網走湖だよ。きっと!」
 鬼頭にそう言われ、富子は改めて網走湖に眼をやった。
 とはいっても、富子は網走に来るのは初めてであった為に、そこが網走湖なのかどうかは分からなかった。畑の上を雪が覆ってるのではないかと思っていたのだ。
 それで、富子はその富子の思いを鬼頭に話した。すると、鬼頭は、
「いや。あれは網走湖だよ! 間違いないよ!」
 と、甚だ自信有りげに言うので、富子は眉を顰めた。何しろ、鬼頭は今までに網走には一度も行ったことがないと言っていたからだ。それなのに、何故そう断言出来るのかと思ったのだ。
 それはともかく、その後、二人の間にしばらくの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、富子は、
「辰ちゃんは本当に私と結婚してくれるの?」
 と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
 すると、鬼頭は戯けたような表情を浮かべては、
「何を言うんだ。今更……」
「ということは、やっぱり私と結婚してくれるのね?」
 富子は、再び神妙な表情を浮かべては言った。
 すると、鬼頭は戯けた表情を浮かべたまま、
「決まってるじゃないか!」
 富子は、その鬼頭の言葉が嘘であることは分かっていたが、
「それを聞いて安心したわ。で、いつ結婚してくれるの? 私、そのことを早く知りたいのよ」
 と、さりげなく言った。
「そうだな……。少なくとも、後一年位は我慢しなければならないな。その理由は何度も言うが、警察とか世間を甘く見ちゃ駄目だというわけさ」
 富子は、その鬼頭の言葉は聞き飽きた位、聞かされていた。
 そして、富子は今の鬼頭の言葉を聞いて、鬼頭の裏切りを改めて確信した。もし、本当に鬼頭が今も富子のことを愛しているのなら、二人で何処か遠い所で暮らそうよとか、結婚するまでに富子にもっと村木爺さんのお金を渡すよとかいう言葉が発せられる筈なのだ。だが、鬼頭の口からはそのような言葉は全く発せられないのだ。
 そして、そのことは、正に鬼頭の裏切りを如実に示しているのだ!
 となると、今後、鬼頭は富子に対してどのように出て来るだろうかという疑問が富子の脳裏に改めて浮かんで来たが、その疑問に対する答えを富子はまだ見出すことは出来なかった。
 しかし、もはやその答を見出す必要はないと富子は思った。何故なら、鬼頭が富子に対する事を起こす前に、富子が鬼頭に対して事を起こす腹積もりでいたのだから。
 そして、その事を起こす為に、富子はこうして鬼頭を網走へと誘ったのだから!
 二人を乗せたカローラは、やがて網走の街中に入った。
 車の通行量もめっきりと増え、改めて街中に入ったと実感させられた。
 富子はやがて、
「今から何処に行くつもり?」
 実のところ、網走に着いてから、何処に行くかという点に関しては、まだ富子と鬼頭との間でさ程話が行なわれてなかったのだ。そして、そのことは、今の二人の関係が冷えたものと化してしまったことを象徴してるかのようであった。
 とはいうものの、鬼頭はその富子の問いに対して、すぐに返答を返した。鬼頭は、
「能取岬に行こうと思ってるんだよ」
 と、声を弾ませて言ったのだ。
「能取岬?」
 富子は呟くように言った。
「そうさ。能取岬さ!」
 鬼頭は眼を前方に向けたまま、声を弾ませては言った。
 能取岬という名前は、富子は知っていたことは知っていた。だが、富子は能取岬に行ったことはなかったので、能取岬に対するイメージは浮かんでは来なかった。
 それで、
「それ、どんな所なの?」
 と、眉を顰めては言った。
「俺も行ったことがないから、よく分からないんだよ。でも、網走から七キロ位離れた所にあり、断崖に面した灯台があるらしいんだ。また、能取岬に向かう道には、キタキツネが出たりするらしいんだよ。
 それに、能取岬からは流氷が見られると思うし、また、網走国定公園にも指定されてるそうなんだよ。それ故、行ってみる価値はあると思うんだよ」
 と、鬼頭は力強い口調で言った。
「そう……」
 富子は鬼頭にそう言われると、些か興味有りげな表情と口調で言った。
 そんな富子に鬼頭は、
「行きたくないのか?」
「いいえ。是非、行ってみたいわ」
 そう富子に言われ、鬼頭は些か満足したように小さく肯いた。
 だが、富子はその時に車窓から流れて行く網走の街並みに眼を向けていた為に、鬼頭の眼がその時に野獣のようにギラギラと輝いたのを眼にすることはなかったのだ。
 鬼頭は慣れたハンドル捌きで、能取岬へと向かう道に難なく折れた。そんな鬼頭は、網走の街は慣れたものだと言わんばかりであった。
 それはともかく、二人を乗せたカローラは、やがて山間の中の道に入った。その道は既に雪に覆われていて、アスファルトを眼にすることは出来なかった。
 だが、樹間越しに、時々流氷を眼にすることが出来た。
 正に、海が流氷に覆われて、真白なのだ。
 このような光景を、富子も鬼頭も今までに眼にしたことはなかった。正にそれは自然の驚異というものを、まざまざと見せつけていた。正に、それが流氷というものなのだ。
 だが、その流氷も、程なく樹間から見えなくなった。
 すると、富子は、
「この辺りにキタキツネが出るの?」
 と、車窓から流れ行く光景に眼を向けながら、興味有りげに言った。
「そのように観光ガイドには書いてあったんだよ」
 鬼頭は淡々とした口調で言った。
 そう鬼頭に言われたので、富子は一層車窓から流れ行く光景に眼を凝らしたのだが、キタキツネはなかなか眼にすることは出来なかった。
 だが、やがて、木の梢にとまってる大きな鳥を富子は眼に捕らえた。
「オオワシよ!」
 富子は眼を大きく見開き、感激したような声を上げた。
 羽を広げると、畳一枚位の巨体を持ち、黄色の嘴と白い羽が見事な国の天然記念物となってる渡り鳥。それが、オオワシだった。
 オオワシは、流氷の到来と共に餌を求めてはシベリアから知床方面にやって来るという。バードウォッチャーたちの憧れの鳥ともいう。
 そのオオワシを、富子は早くも眼に出来たのだ。これは、富子にとって吉兆となるのだろうか?
 富子の脳裏に、ふとその思いが過ぎった。
 鬼頭はといえば、富子にそう言われ、運転の傍ら、さっと辺りの木の梢に眼をやったのだが、富子とは違ってオオワシを眼にすることは出来なかった。
 そういった状況ではあったが、富子が車を停めてとは言わなかったので、鬼頭はそのまま車を走らせ、結局、鬼頭はキタキツネもオオワシも眼にすることなく、能取岬に着いてしまったのである。
 能取岬の駐車場には売店とトイレもあったが、今日はウィークデーということもあってか、駐車場に停まってる車は僅か数台であった。
 それはともかく、鬼頭は能取岬の駐車場に車を停めた。そして、駐車場から見える灯台を指差しては、
「あれが、能取岬の灯台だよ」
 そう鬼頭に言われ、富子も鬼頭のように能取岬の灯台に眼をやった。
 それは正に白い平原の中にポツンと建ってる白い小さな灯台であり、その向こうには、陸地よりも一層真白な平原と化してる流氷を見ることが出来た。
 その富子が今まで見たことのない幻想的な光景に、富子はしばらくの間、我を忘れたかのように見入っていた。
 そんな富子を鬼頭は横眼でちらちらと見やりながら、にやにやしていた。だが、やがて、
「とにかく、外に出ようぜ」
 そう鬼頭に言われ、富子は我に還り、鬼頭と共に車外に出た。
 すると、エアコンが効いていた車内とは違って、正に冷蔵庫の中に入ったかのような冷気が忽ち二人に押し寄せて来た。
 それで、富子は思わず、
「寒い……」
 と、小刻みに身体を震わせた。
 そして、鬼頭と富子はとにかく灯台の方に向かって歩き始めた。といっても、恐らく灯台の方に向かう遊歩道なんかはあるのだろうが、辺りは今、雪に覆われていたので、遊歩道と思われるものは何ら見当たらなかった。それで、二人は手頃な場所を選んでは、歩みを進めることになった。
 二人は少しの間、何ら言葉を交わさなかったのだが、やがて、鬼頭が、
「何故流氷が出来るのか、知ってるかい?」
 と、富子にさりげなく訊いた。
 すると、富子は、
「知らないわ」
 と、小さな声で言っては、頭を振った。
 すると、鬼頭はにやっとしては、
「アムール川の真水が寒気で冷やされ、氷となり、風と海流に乗って成長しながら、北海道へと流れ着くらしいんだよ。で、北海道は地球で流氷が見られる最も低緯度の場所なんだそうだよ」
 と、観光ガイドで覚えた知識を富子に話した。
 すると、富子は、
「ふーん」
 と、呟くように言った。
 そういった他愛ない会話を交わしながら、やがて二人は能取岬の灯台に着いた。二人を吹き晒す寒風は、肌を刺すような痛さを二人に与え、二人は改めて網走にやって来たのだと実感した。
 それはともかく、灯台といっても、部外者が中に入って見物出来るわけではなかったので、二人は程なく灯台を通り過ぎ、断崖の近くまでやって来た。
 断崖には既に流氷が接岸していて、辺りは正に白い平原と化していた。
 だが、具に流氷を見てみると、流氷は実際にはオホーツク海を白い平原とは化してはいなかった。流氷は小片の氷の集まりであるかのようで、オホーツク海の至る所に、オホーツク海の碧い海がその間から見えているのだ。
 流氷を毎年観察してる人の話だと、流氷は温暖化の為か、毎年、衰えているという。
 そして、数十年後、あるいは、もっと後のことになるかもしれないが、流氷は見れなくなるかもしれないという。正に、流氷は環境の変化を敏感に感じ取るバロメーターであるかのようなのだ。
 それはともかく、二人はやがて断崖の近くにまでやって来た。すると、寒風が一層二人を吹き晒した。
 二人は遠方の方に眼を向けた。
 すると、そこはやはり白い平原であった。
 実際には流氷の間から、所々に碧いオホーツク海が見られるのだろうが、それらは遠くからは見られないようであった。
 富子はこの時、何故か怒濤のように鬼頭と知り合ってから今に至るまでの鬼頭との思い出が、まるで絵巻物を見るかのように、富子の脳裏に浮かんで来た。
 デザイン関係の専門学校で、富子と鬼頭は同じクラスになったことから知り合い、やがて、二人は新宿のラブホテルで結ばれた。
 その後、二人で伊豆、箱根、日光などに行った。その時の思い出がまるで絵巻物を見るかのように、富子の脳裏に次から次へと浮かんでは、消えて行ったのだ。
 だが、鬼頭との恋の結末は、鬼頭の裏切りによって終結した。
 富子にとって、鬼頭の裏切りは、絶対に許すことは出来なかった。
 鬼頭は富子にとって極めて大切な存在であったにもかかわらず、鬼頭は富子を裏切り、富子を唆しては村木を殺させ、村木の金を鬼頭は手にすることに成功した。
 そして、鬼頭はその金を富子の為に使うのではなく、鬼頭の新たな女の為に使おうとしてるのだ!
 そう思うと、富子は鬼頭に対する怒りが改めて込み上げて来た。
 鬼頭をこの断崖の下へと突き落としてやりたい!
 富子は咄嗟にそう思ったが、その思いを富子は何とか抑えた。そして、自らに<焦るな!>と、言い聞かせた。
 何故なら、富子は今回の旅行で、どのような手段を鬼頭に用いるかは、既に考えてあった。そして、能取岬の断崖の下に鬼頭を突き落とすという手段は、元々想定外であったのだ。何しろ、富子は今までに能取岬には来たことはなかった。それ故、能取岬でどのような手段を鬼頭に用いればよいかなんてことは、富子は想像が及ばなかったのである。
 だが、今までに富子が能取岬に来たことがあったとすれば、鬼頭を能取岬の断崖の下に突き落とすという計画を立て、実行したかもしれない。それ程、この場所は富子の復讐を成し遂げるのに相応しい場所のように思われたのだ。
 そう思った富子は、その時、突如、振り返った。
 すると、その時、富子は見た! 凄まじい形相をした鬼頭の姿を!
 鬼頭は正に富子の背後で、鬼のような形相をしては立ちはだかっていたのだ!
 そんな鬼頭の様を眼にして、富子は本能的に身の危険を感じた。
 すると、その時である。
 鬼頭は突如、顔を綻ばせては、笑い始めた。
 富子はといえば、とにかく駆け足で断崖から離れた。
 そんな富子の胸は激しく高鳴っていた。何故なら、今の鬼頭の様を眼にして、鬼頭が何をしようとしていたか、富子はピンと来たからだ。
 そう!
 鬼頭は今、富子を断崖の下へと突き落とそうとしたのである! そうに違いない!
 富子が鬼頭を断崖の下に突き落とそうと思ったように、鬼頭も富子を断崖の下へと突き落とそうと思ったのだ。だが、それは実行される一歩手前で、富子が振り返った為に中断されてしまったのである!
 そう察知すると、富子は事の深刻さに思わず身震いしてしまった。
 そんな富子は引き攣った表情を浮かべては、改めて鬼頭に対する怒りが込み上げて来たのだが、富子はすぐに平静を取り戻そうとした。今、富子の本心を鬼頭にぶつけるのは、富子にとって不利だと察知したからだ。
 そんな富子の許に鬼頭は小走りで戻って来た。そして、
「どうして、急にこんな所まで戻ったんだい?」
 と、笑顔を浮かべては言った。
 すると、富子も笑顔を浮かべては、
「寒さに堪えられなくなったんだよ。だって、あの場所は、あまりにも寒さが身に染みたから」
 と、いかにも参ったと言わんばかりに行った。
 すると、鬼頭は、
「そうだな。確かに富ちゃんの言う通りだ。じゃ、そろそろ車に戻ろうか」
「そうね」
 富子がそう言った時に、今まで止んでいた雪が降り始めた。まるで寒風に急かされるかのように、また、能取岬を叩きつけるかのように降り始めた。
 それで、二人は早足で車に戻った。
 車の中に入ると、鬼頭は「ああ、寒かった」と言っては、車のエンジンを掛けた。
 能取岬の駐車場には、鬼頭と富子のカローラ以外に、後三台の乗用車が停まっていた。
 鬼頭はその三台の乗用車にさっと眼をやっては、
「じゃ、行こうか」
「ええ」
 能取岬の駐車場を後にして五分位は、二人は会話を交そうとはしなかった。そんな二人の表情は、かなり険しいものであった。それは、まるで今の二人の関係を象徴してるかのようであった。
 今や、富子には気がない鬼頭と、鬼頭の裏切りを知ってる富子が、同じ車に乗り合わせてる事態が奇妙なことであった。
 二人を乗せたカローラは、元来た道を、網走市街へと向かっていた。
そして、やがて二ツ岩が見えるようになった。二ツ岩の近くには、以前オホーツク水族館があったが、今は廃業となっていた。
 網走市街に着くまで、富子と鬼頭は殆ど会話を交そうとはしなかった。そんな状態であったから、富子の眼は自ずから車窓から流れ行く風景へと向かっていたのだが、往きとは違って、オオワシを眼にすることは出来なかった。また、キタキツネも眼にすることは出来なかった。
 その愛くるしい容姿をしたキタキツネに餌を与える観光客が後を絶たないということだが、キタキツネはエキノコックスという風土病を持っている為に、噛まれてしまえば大変なことになってしまう。
 それ故、キタキツネには餌を与えないようにと、地元の者は観光客に呼び掛けているそうだ。
 それはともかく、富子と鬼頭は今夜は網走湖に面したホテルに泊まることになっていた。
 とはいうものの、チェックインするにはまだ時間が早過ぎるので、二人は流氷砕氷船おーろら号に乗ってみることにした。
 それで、鬼頭はおーろら号乗り場へと車を向けた。それは、網走港内の第2埠頭にあった。
 やがて、おーろら号乗り場に着き、車を駐車場に停めると、二人はおーろら号乗船手続きを行なった。
 とはいうものの、出発時間まではまだ三十分程あったので、二人はおーろら号乗り場内にある土産物店で土産見物などを行なっていたが、やがて、乗船時間となったので、二人はおーろら号に向かった。
 昨年は流氷が網走に接岸せずに、観光客を失望させてしまったとのことだが、今年は網走から知床に至るまでの海岸に、びっしりと流氷が接岸した。今年の冬は例年になく寒いということが影響してるのかもしれない。
 やがて、おーろら号はほぼ定員一杯の乗客を乗せて、第2埠頭を後にした。
 おーろら号を操縦してる船長によると、流氷の中を進むのは、とても神経を使い、正に緊張の連続だということだ。
 しかし、乗客たちは、そんな船長の緊張とは裏腹、一時間に及ぶおーろら号のクルージングを愉しむのである。殊に、南方の方に住んでる者にとってみれば、おーろら号での思い出は、一生忘れられないものになるとのことだ。
 鬼頭と富子は、おーろら号に乗船すると、ベンチシートに座った。
 ベンチシートは、船の縁に沿って設けられているので、乗客の前が正に海で流氷だというわけだ。
 やがて、おーろら号は網走港を抜け、大海原に入った。
 オホーツク海は、正に見渡す限り真白で、流氷に覆われてる筈であった。
 確かに、遠方の方に眼を向けてみると、正にオホーツク海は、白い大陸と化していた。
 だが、間近の流氷を見てみると、氷と氷との間に、オホーツクの碧い海が垣間見えていた。
 遠方の方の流氷を見てみると、流氷の上を歩いて、北海道から北方四島、あるいは、シベリアにまで行けそうに見えるのだが、これだけ氷と氷との間に隙間があると、実際にはそれは不可能であろう。
 富子はそのように思っていたのだが、鬼頭の心は富子とはまるで違ってるかのようであった。
 即ち、鬼頭は今、とても緊張していたのだ。
 というのは、鬼頭は明日、ある計画を実行しようとしていたからだ。そして、そのある計画とは、正に鬼頭にとって、今後の鬼頭の人生を左右する程の重大な計画であったのだ。鬼頭はその計画のことを思うと、鬼頭以外の乗客のように、流氷見物を愉しむという気になれなかったのである。
 それはともかく、おーろら号はやがて向きを変えた。
 すると、知床連山が富子たちが座ってるベンチシートから見えるようになった。そして、知床連山はまるで蜃気楼のように海に浮かんでるかのようであった。
 そんな知床連山に富子はしばらく見惚れていたのだが、富子の表情は徐々に神妙なものへと変貌して行った。富子は今までは薄らと笑みを見せていたのだが、富子の表情からは徐々に笑みは消え失せ、神妙なものへと変貌して行ったのである。
 というのは、富子は明日、鬼頭と共に知床に行くことが決まっていた。そして、富子は知床で鬼頭に対してどのようなことを行なうか、既に決めていたのだ。そして、それは正に鬼頭に対する復讐を成し遂げることであったのだ!
 富子は入念にその計画を練った。そして、その計画は必ず成功すると、富子は看做していた。
 とはいうものの、その計画のことを思うと、富子が神妙な表情を浮かべてしまったのは、当然のことと言えるだろう。
 それ故、おーろら号が網走港に入港しても、おーろら号から眼に出来る光景は富子にとって上の空といった塩梅であったのだ。また、鬼頭の状態も、富子と同じようなものであったのだ。
 それはともかく、おーろら号は第2埠頭に接岸したので、鬼頭と富子はおーろら号から下船した。
 そして、二人はこの時点で網走湖に面した宿泊先のホテルに向かうことになったのだ。
 宿泊先のホテルにチェックインを済ますと、二人の部屋は七階の706号室であった。
 706号室に入ると、部屋の中からは網走湖が見えた。だが、それは、車の中から見たのと同じく、白い平原と化していた。
 二人は部屋の中で少し寛いだ後、最上階にある展望大浴場で一風呂浴び、その後、二階にある大食堂でホテル自慢の山海料理に舌鼓を打った。
 その後、二人は部屋に戻り、少し休憩していたのだが、富子は、
「一階の売店で何か欲しい物がないか、見て来るよ」
 と言っては、立ち上がった。
 すると、鬼頭は、
「じゃ、俺は部屋の中でTVを見てるよ」
 ということになった。
 しかし、以前の二人なら、それは考えられないことであった。というのは、以前の二人なら夕食を食べ終わった後は、身体を触れ合わすのが常であったのだから。
 それ故、その二人の行為は、正に二人の心がお互いに離れてしまったことを物語ってると言えるのかもしれない。
 だが、正確に言えば、その説明は誤りであった。
 鬼頭は今や、完全に富子に対する思いが消え失せてしまったということは間違いではないのだが、富子は以前と同じく、鬼頭のことを思っていたのだ。それ故、富子の心は鬼頭からは離れてはいなかったのだ。
 それはともかく、富子が一階の売店に向かったのは、実のところ気を落ち着かせる為であった。何しろ、富子は明日、富子が嘗て経験したことのない大勝負に出るつもりであったのだから。それ故、富子は一人になりたかったのだ。大浴場でも十分に鋭気を養ったのだが、まだ不十分であったのだ。
 一方、鬼頭はといえば、実のところ、富子が鬼頭の許を離れてくれて、ほっと胸を撫で下ろしていた。というのは、鬼頭は明日、鬼頭が嘗て経験したことのない大勝負を行なうつもりであったからだ。
 それ故、更に体力、気力を蓄えておきたかったのだ。それには、一人の方が都合がよかったというわけだ。
 そんな鬼頭はTVはまるで見ようとはせずに、明日の計画に手抜かりはないものかと、思いを巡らせたのであった。
 そんな鬼頭は実のところ、一週間前に何とこの網走地方を訪れていたのだ。というのは、鬼頭の計画が実行可能なのか、下調べを行なったのだ。そして、鬼頭はそれは実行可能で成功すると、看做したのである。そうでなければ、鬼頭はこの網走には富子と共にやって来なかったであろう。 
 因みに、鬼頭が網走市内で何ら迷うことなく、スムーズに車を走らすことが出来たのは、鬼頭は一週間前に、網走の道を車で走ったからなのだ!
 富子は、三十分程で部屋に戻って来た。
 そんな富子に鬼頭は、
「何か、いいものがあったかい?」
 と、さりげなく訊いた。
 すると、富子は、
「これを買ったのよ」
 と言っては、それを鬼頭に見せた。
それはニポポ人形といって、網走刑務所の囚人が作った土産物用のキーホルダーであった。
 鬼頭はそのニポポ人形を富子から見せてもらったのだが、何だか鬼頭でも作れそうな代物であった。
 そして、そのニポポ人形には網走刑務所という朱印が押されていたので、自ずから網走刑務所で作られたということが察せられた。
 それで、鬼頭はその思いを富子に話してみた。
 すると、富子は、
「知らないわ」
 と、素っ気なく言った。
 それはともかく、富子が部屋に戻って来た時には、既に部屋の中に布団が敷かれていた。
 その布団を眼にして、富子の表情は突如、真剣なものに変貌した。というのは、今や二人の間には決して元に戻れない大きな溝が出来てしまったといえども、男と女がこの部屋で夜を過ごすからには、男女の行為をしないというのは不自然なことであろう。
 更に、もし鬼頭が富子を求めて来て、富子がそれを拒否したら、鬼頭に富子に対する不審感を抱かせてしまうだろう。
 また、富子が今も鬼頭のことを思ってるということは、鬼頭は十分認識してるだろう。
 それ故、富子が今、いつもと違った富子の様を見せれば、鬼頭は富子に対して不審感を抱くかもしれない。何しろ、富子は富子の計画を成功させる為には、鬼頭を油断させておく必要があったのだ!
 それ故、富子はいきなり富子の衣服を脱ぎ捨てると、鬼頭に抱きついた。そして、富子の顔を鬼頭の胸に押しつけた。
 すると、鬼頭は何ら言葉を発そうとはせず、また、その身体を動かそうともしなかった。また、富子は鬼頭の胸に富子の顔を押し付けていた為に、鬼頭が今、どんな顔をしてるのか、知ることは出来なかった。
 とはいうものの、富子は今、この一時を生涯の思い出にしようと思った。
 今、富子が抱きついてるのは、以前の鬼頭なのだ。富子を裏切る前の富子なのだ。その鬼頭を富子は今、抱き締めてるのだ。
 そう思いながら、富子はひたすら鬼頭の胸に富子の顔を押し付け、そして、鬼頭を抱き締めた。そんな富子の眼には、涙が浮かんでいた。
 しかし、そんな富子の顔を鬼頭に見せるのは、富子は嫌であった。何故なら、鬼頭はもはや富子のことを愛していないのだから!
 そんな鬼頭に富子は富子の涙を見せるのは、悔しかったのだ!
 それはともかく、富子はまるで宝ものを抱き抱えるかのように、まだしばらく鬼頭を抱き締めた。
 だが、やがて鬼頭は、
「焦るなよ!」
 と、冷やかな口調で言っては、富子の身体を突き放そうとした。
 そして、それによって、富子の身体は鬼頭から離れてしまった。
 それで、富子は、
「どうしたの? 私を抱いてくれないの?」
 と、不満そうに言った。
「そうじゃないんだ。俺はまだ服を脱いでいないんだ。だから、焦るなと言ってるんだ」
 と、鬼頭は不機嫌そうに言った。
 富子はそんな鬼頭を見て、改めて鬼頭は今や富子を愛してないと思った。以前なら、富子が抱きついても、鬼頭が不機嫌そうな表情を見せるなんてことはなかったのである。
 即ち、今の鬼頭の様は、鬼頭の裏切りを如実に示しているのだ!
 富子はそう痛感した。
 だが、富子はその富子の思いを表情に出そうとはしなかった。何故なら、富子は鬼頭に鬼頭の裏切りに気付いていないと思わせておくことが肝心であったからだ。そうしておくことが、明日の富子の計画をスムーズに行なうことが出来るのだ!
 鬼頭は衣服を脱ぎ捨てるかのように脱いだ。そして、富子に、
「寝ろよ」
 と、命令口調で言った。
 それで、富子はとにかく、布団の上に仰向けになった。
 すると、鬼頭はそんな富子の身体の上に荒々しく伸し掛かって来た。
 そして、富子の顔から始まり、肩、乳房、そして、富子の女の部分、太股、そして、足の先まで鬼頭の唇を這わせた。
 富子は久振りに味わった快感に、思わず、
「ああ」
 と、喘いだ。
 鬼頭の心は今やすっかり富子から離れてしまったのは間違いなかったのだが、鬼頭の愛撫は以前と変わることなく巧みであった。それで、富子の身体に快感が貫いたのだ。
 そんな富子を見て、鬼頭はにやっと笑った。
 富子は眼を閉じていた為に、その鬼頭の笑みを眼にはしなかった。
 しかし、もし富子がその笑みを眼にしたとすれば、それは愛するものとこれから性交をするのではなく、街でナンパした男にとってどうでもいいような女と性交する時に見せるような笑みに見えたことであろう。
 鬼頭はこの辺で愛撫を止め、鬼頭のものを富子の女の部分に没入させた。そして、鬼頭はまるで機械のようにピストン運動を始めた。
 それに伴って、富子は、「ああ……」と、快感の声を発した。そして、その声は部屋の中に響き渡った。
 だが、この時、富子の心には鬼頭は存在してなかった。富子は鬼頭とは別の魂を持った男に抱かれていると、富子は自らに言い聞かせていたのだ。そう思わないと、富子は明日の計画に支障が生じてしまい兼ねないのだ。
 鬼頭の激しい腰の動きに悦びの声を止めなく発する富子を見て、鬼頭はにやっと笑った。その笑いは正に淫猥な笑みであった。面白かったり、愉しかったりした時に見せる笑みではなかった。
 果して十二、三年前の鬼頭ならこのような笑みを浮かべたであろうか。
 十二、三年前の鬼頭のことを知ってる者なら、そのような笑みは見たことがないと言うであろう。何故なら、十二、三年前は鬼頭は東北の片田舎に住む純朴な少年であったのだから。
 それが、東京に出て来て、いわば都会の悪に染まってしまったような鬼頭となってしまったのである。
 そんな鬼頭は淫猥な笑みを浮かべながら、まだしばらくの間、富子に対する行為を続けた。そして、なかなか止めようとはしなかったのである。
 

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