第十六章 氷上での闘い
やがて、夜が明けた。
昨夜は正に鬼頭が富子に対して見せたことのない位の激しいセックスを見せた。
そして、そのことは富子にとって意外であった。何故なら、鬼頭の心は既に富子にはなく、それ故、鬼頭は富子に対して、呆気ないセックスを見せると、富子は読んでいたからだ。
だが、その読みは、誤まった読みであったのだ。
そして、そのことは富子を惑わせた。何故なら、富子は鬼頭に改めて魅せられてしまったからだ。
何しろ、富子は今日、鬼頭をあの世に送り込むつもりであった。そして、それが富子が鬼頭を網走に誘った理由であったのだ。
しかし、昨夜は、鬼頭と激しいセックスを行なった結果、その富子の思いに亀裂が生じてしまったかのような状態となってしまったのだ。
即ち、富子は鬼頭とセックスをした結果、改めて鬼頭の魅力に嵌ってしまったのだ。そして、その結果、鬼頭と縒りを戻せないかという思いがふと富子の脳裏を過ぎってしまったのである。
そして、そのことは、富子にとって誤算であったのだ。
それ故、このような状態では、富子の計画に狂いが生じてしまうかもしれない。
そう思うと、富子の表情は目覚めた後、些か曇ってしまったのである。
そんな富子の思いなど、鬼頭はつゆ知らないかのように、富子に背を向けては、まだ眠っていた。
だが、鬼頭は程なく目覚めたようだ。鬼頭は上半身を起こしたのである。
そんな鬼頭を、富子は抱き締めたい衝動に駆られた。
だが、富子は、その衝動を振り払った。そのような思いを抱いてしまえば、今日の計画は実行出来ないと、富子は強く自らを諫めたのである。
それはともかく、一階にある宴会場でバイキング形式の朝食を食べ終わり、少し寛ぐと、富子と鬼頭はホテルを後にした。
そんな二人が向かったのは、知床であった。今回の網走旅行では、二日目に知床に行こうと富子が言ったので、鬼頭はそんな富子の意を受けて、車を知床に向けたのである。
といっても、知床は今、雪と氷に閉ざされている為に、知床五湖巡りは無論、出来ない。また、知床の絶好のビューポイントである知床峠へも、知床横断道路が閉鎖されてる為に、行くことが出来ない。
また、知床では、網走や紋別のように、流氷砕氷船が運行されてるわけではない。また、富子と鬼頭は知床に宿泊するわけでもないので、知床の夜に催される知床ファンタジーというショーを見ることも出来ない。
それで、鬼頭は富子に知床に行って何をするつもりなのかと訊いてみたのだが、すると、富子は、
「網走から知床に行くまでの海岸に流氷が接岸してるから、その流氷見物をしたい」
と言った。
そして、鬼頭はその富子の言葉に、
「なるほど」
と、肯いたのであった。
そして、その富子の言葉は、もっともなものと思われた。というのは、この地方の観光の目玉は、流氷なのだから。その流氷を見に来る為に、日本全国はもとより、外国からも観光客がやって来るのだ。
昔は、流氷は正にこの地方の厄介者であったが、今は多大な経済効果をもたらす為に、流氷様様といった塩梅なのだ。
それはともかく、鬼頭は慣れたハンドル捌きで網走市街を通り過ぎ、知床へと車を走らせていた。
網走市街といっても、人口は四万五千だ。それ故、網走市街を通り過ぎるのに、さ程時間は掛からなかった。
網走市街を抜けると、国道244号線に入った。そして、国道244号線をそのまま進み続けると、知床斜里だ。知床斜里からは国道334号線に入り、そのまま進むと、ウトロに着く。そして、そのウトロが知床観光の拠点だ。
国道244号線に入ると、程なく海岸沿いを走ることになった。すると、忽ち、流氷が見えた。
といっても、流氷はびっしりとオホーツク海を覆ってるわけではなかった。随所にオホーツク海の碧い海が見えてるのは、前述した通りだ。
鬼頭が運転するカローラは、富子を乗せて、知床に向かって走り続けていた。車窓からは無論、流氷を見ることが出来た。海岸沿いでは、碧いオホーツク海がそこかしこに見られたが、遠方に眼を向けてみると、そこにはやはり白い大陸があった。
富子は流氷を見るのは今回が初めてで、改めて自然の驚異を感じたが、鬼頭は車を運転しなければならないので、富子のように流氷に眼を凝らすわけにはいかなかったのだが、富子と同様、自然の驚異は実感していた。
だが、やがて、国道244号線は海岸線から離れた為に、流氷は見られなくなった。
そして、程なく、藻琴湖を通り過ぎたのだが、二人はこの辺りの地理には詳しくなかったので、そこが藻琴湖だとは知らずに通り過ぎてしまった。何しろ、藻琴湖は小さい湖なので、雪に覆われたそれは、知らない者が眼にしても、そこが湖だと気付く者は滅多にいないのではないのか。
二人を乗せたカローラは、やがて、濤沸湖へと差し掛かった。濤沸湖も藻琴湖と同じく氷結していて、その上を雪が覆っていた。
だが、濤沸湖は藻琴湖とは違って、かなり大きな湖だ。
それで、富子は、
「あれ、濤沸湖ではないかしら」
と、白い平原と化してるその部分を指差しては言った。
すると、鬼頭は、
「俺もそう思うよ。でも、富ちゃん、どうしてそうだと思うんだい?」
と、眉を顰めては言った。というのは、鬼頭は富子から富子は網走地方に今まで一度も来たことがないと聞いていたからだ。
「どうしてって、濤沸湖って、有名な湖だから、私、地図で調べておいたのよ。だから、そうだと思ったのよ」
と、富子は些か顔を赤らめては言った。
すると、鬼頭は、
「なるほど」
と、些か納得したように肯いた。
そんな鬼頭に、富子は、
「恐らく、この辺りが小清水原生花園よ。辰ちゃん、小清水原生花園って、知ってる?」
「聞いたことはあるな」
「六月から八月に掛けて色とりどりの花が咲き誇るのよ。私、その光景を一度、見てみたいと思ってるのよ」
そう富子が言っても、鬼頭は薄らと笑みを浮かべては、言葉を発そうとはしなかった。
そういった他愛ない会話を交わしながら、鬼頭が運転するカローラは、刻一刻と知床に向かって進んでいた。
そして、やがて知床斜里を通り過ぎ、国道334号線へと入り、しばらくすると、海沿いを走るようになった。そして、流氷が見えるようになった。
「凄い!」
網走から見えた時よりも、一層白い大陸と化してしまったかのような流氷を眼にして、鬼頭は正に甲高い声で、感嘆の声を上げた。
富子もその流氷を見て、感嘆の声を上げたかというと、そうではなかった。富子は再び見えるようになった流氷を眼にして、表情を険しくさせたのだ。
何故、そうなのか?
それは、いずれ分かるだろう。
それはともかく、鬼頭はウトロに向かって車を走らせていたのだが、その時、富子が、
「車を停めて!」
と、甲高い声で言った。
それで、鬼頭は、
「えっ!」
と、小さな声で言った。その富子の言葉は、鬼頭にとって思ってもみなかったものであったかのようであった。
しかし、富子はそんな鬼頭の思いなど、まるで無視したかのように、
「車を停めて!」
と、再び甲高い声で言った。
それで、鬼頭はとにかく車を路肩に寄せては停めた。
すると、富子は、
「ねぇ。海岸に出ては、間近に流氷を見てみましょうよ」
と、堤防の向こう側にある砂浜に接岸している流氷を見やりながら言った。
「間近で流氷を見てみるか。面白そうだな」
鬼頭はそう言っては、にやっとした。
だが、富子はその笑みを眼にしなかった。何故なら、富子の眼は流氷に向かっていたからだ。
鬼頭の言葉を受けて、鬼頭と富子は車外に出ては、堤防を越え、砂浜の上に降り立った。
すると、車の中からでは想像も出来なかった位の寒風が二人を叩き付けた。そして、その激しさは、二人を驚かせた。更に、二人を驚かせたのは、正に海とは思えない流氷に覆われたオホーツク海であった。
その光景に、二人は少しの間、我を忘れたかのように見入っていたのだが、やがて、富子は、
「何だか、流氷の上を歩けそうね」
と、眼を大きく見開いては、淡々とした口調で言った。
すると、鬼頭は、
「正にその通り!」
と、富子に相槌を打つかのように言った。
そう言った鬼頭の顔に眼をやっていた富子は、鬼頭に、
「ねぇ。流氷の上を歩いてみない。何だか、面白そうよ」
と、些か鬼頭を煽てるかのように言った。
すると、鬼頭は、
「そうだな。じゃ、少し歩いてみるか」
と、あっさりと富子の言葉に応じた。
そして、二人はとにかく、海岸線から流氷の上に乗り出した。
海岸線沿いの流氷は、所々山脈のように盛り上がっている部分があり、それは、三、四メートル程の高さがあった。
富子と鬼頭は、そんな山脈を避けては、歩き易い部分を選んでは、その部分を進んでいた。
その部分、即ち、その流氷の下には、オホーツク海が存在してるのだが、そのようなものが存在してるとは思えず、まるで大地の上を歩いてるような感じであった。
そんな状況を目の当たりにして、富子は、
「何だか氷の上を歩いて、向こう岸にまで行けそうね」
と、薄らと笑みを浮かべては言った。そして、それは誇張ではなかった。富子は実際にそう思ったのである。
「本当だな。いっそのこと、向こう岸まで歩いてみるか」
と言っては、鬼頭はにやっと笑った。
しかし、その鬼頭の言葉は本音でないことは鬼頭は無論、富子も分かっていた。
それで、富子は微かに笑った。そして、
「流氷の上ではアザラシが見られるそうよ。アザラシは氷の上で出産するそうよ。
私、アザラシを見てみたいわ。動物園にいるアザラシではなく、流氷の上にいるアザラシをよ」
と言っては、周囲を見回した。
しかし、辺りにはアザラシどころか、鬼頭と富子以外の生き物と思われるものは、まるで見られなかった。ただ、白い流氷が拡がっているばかりであった。
そんな流氷の上を、二人は沖に向かって歩みを進めていた。二人は他愛ない会話を交わしながら歩みを進めていた為か、二人は既に海岸線から五十メートル程も離れてしまったことに気付いていないみたいであった。
そして、その頃になると、氷の裂け目から碧いオホーツク海が垣間見えるようになっていた。また、海の上を氷の薄い膜が覆ってるような所も眼につくようになっていた。
二人が海岸線を後にした時は、そのような所はあまり見られなかったのだが、この辺りにまで来たら、そのような所が所々に眼につくようになって来たのだ。
だが、富子は何と、その氷の裂け目に向かって歩き始めたのである。
そんな富子を見て、鬼頭は、
「危ない! 氷の裂け目には近付くな!」
と、言いはしなかった。ただ、そんな富子の様を、鬼頭は甚だ険しい表情で注視しているに過ぎなかった。
そして、その鬼頭の表情を具に見てみると、その鬼頭の表情は、今までに鬼頭が見せていた表情とは、まるで違っていた。正に今までの鬼頭とはまるで別人であるかのように、険しい表情を浮かべているのだ。
だが、富子は鬼頭に背を向けていた為に、そんな鬼頭の表情を眼にすることは出来なかったのである。
それはともかく、富子は、
「ねぇ! 流氷の下にクリオネがいることを知ってる?」
と、鬼頭に背を向けたままではあったが、声を弾ませては言った。
「クリオネ?」
鬼頭は、甲高い声で訊いた。
「そうよ。流氷の天使と言われている小さなクラゲのような生き物よ。流氷と共にやって来ると言われてるの。そのクリオネのことを知ってるかと訊いてるの」
そう富子に言われたので、鬼頭は思わず、
「知ってるさ」
と、富子の言葉に、間髪を入れずに応えた。しかし、鬼頭はクリオネに関して、全くといっていい位知らなかったのだけれど。
そう鬼頭に言われると、富子は、
「じゃあ、クリオネがいるかいないか、探してみましょうよ。氷のすぐ下に、クリオネは泳いでいるそうよ」
と、今度は背後を振り返っては言った。そして、鬼頭の顔を見やった。
すると、鬼頭は忽ち穏やかな表情を浮かべた。富子が鬼頭に背を向けていた時とは打って変わって、鬼頭は甚だ穏やかな表情を浮かべたのである。
また、今、二人の間には、とても奇妙な事態が発生していた。
その奇妙な事態とは、そもそも今の富子のように、氷の裂け目に近寄れば危険であることは、子供でも分かるのだ。何しろ、今のオホーツク海の水温はとても低い。富子がもし、今のオホーツク海に落ちてしまえば、十分も持たないのではないのか?
それに、一度海に落ちてしまえば、氷上に上がるのは、甚だ困難なことと思われた。というのは、そもそも、氷というものは、滑々しているし、また、この辺りの氷は、海面から一メートル近くもせり出しているのだ。更に、手摺のようなものは、無論あるわけがない。
それ故、一度海に落ちてしまえば、助かる可能性は極めて低いであろう。
それ故、富子にしても鬼頭にしても、氷の裂け目に近付くのは危険だと、お互いに注意の言葉を掛け合うのが当然なのだ。だが、そのような言葉はまるで発せられないのだ!
このことは、正に奇妙だと言わざるを得ないであろう!
それはともかく、富子のクリオネを探してみましょうよという言葉を受けて、鬼頭は一歩一歩、富子に近付いて行った。
因みに、辺りには富子と鬼頭以外には誰もいなかった。
しかし、それは当然だといえよう。
ウトロなんかでは、観光業者が流氷の上を歩く流氷ウォークという観光コースを設けているが、それはガイドの案内の下で、しかも、ドライスーツを装着してのことだ。ドライスーツを装着していれば、万一海に落ちても体温が保たれる為に死に至ることはない。
だが、ドライスーツを装着することもなく、しかも、ガイド無しで流氷の上を歩くなんていうことは、正に危険極まりない行為で、一歩間違えば、死に直結するのだ! それ故、そのような危険な行為を行なうものは、滅多にいないのである!
そういった事情の為に、辺りには富子と鬼頭以外は誰もいないのである。
更に、この辺りは観光スポットでもない為に、一層辺りには、人気が見られないのである。
また、二人は今、海岸線から五十メートル程離れた所にいると思われたし、また、道路と海岸との間には堤防があった為に、道路からは一時的にこの辺りの様子は眼にすることが出来なかったのだ。
更に、今、粉雪が激しく降り始めて来た為に、今、流氷の上に鬼頭と富子がいることを知ってる者は誰もいないと、鬼頭は看做していた。
ところが、そのように看做していたのは、鬼頭だけではなかった。富子もそのように看做していたのだ。
それはともかく、富子の言葉を受けて、鬼頭は富子に一歩一歩近付いて行った。
そして、富子に後二メートルとなったその時である。
鬼頭は何と富子に突進したのである!
すると、鬼頭に眼を向けていた富子の表情は、忽ち殺気立った。
そんな富子の表情には、明らかに狼狽の色が見えた。何故なら、富子が行動を起こす前に、何と鬼頭の方が先に行動を起こしてしまったと、富子は理解したからだ。
富子は鬼頭をこの流氷の海に突き落として息の根を止めてやろうと目論んでいた。
流氷の海に落ちれば、確実に死ぬであろう。もし、鬼頭が流氷に手を掛けて流氷の上に這い上がろうとしても、富子はその鬼頭の手を蹴りまくり、鬼頭を流氷の上に這い上がれないようにしてやろうと、目論んでいたのだ。
無論、富子は網走・知床方面に来るのは初めてであり、また、流氷を実際に眼にするのも、初めてであった。
しかし、TVなんかで何度も網走や知床地方に接岸してる流氷を見たことがあった。
また、知床では、流氷の上を歩く流氷ウォークというものがあることを知っていたし、また、流氷の海に落ちれば、短時間で死ぬということも知っていた。
それ故、富子は鬼頭を殺すとすれば、それは流氷の海だと閃いたのである!
鬼頭を巧みに流氷ウォークに誘い出し、そして、鬼頭の隙を見ては、鬼頭を流氷の海に突き落とすのだ!
これが、富子が考え出した鬼頭に対する復讐であったのだ!
流氷の海で死んだともなれば、事故死だという誤魔化しは通用するであろう。富子はそのように看做していたのだ。
もっとも、もしそうなれば、一年もしない内に、村木藤次郎と鬼頭辰五郎という富子と共に旅行をした男が立て続けに不審死ということになり、そんな富子に対して警察が改めて疑惑の眼を向けて来るのではないかという思いを富子が抱かなかったわけではなかった。
しかし、富子は何としてでも、鬼頭に対して復讐しなければならなかった。
それ故、警察に疑惑を持たれても、富子の思いを遂行しなければならない。そして、富子はその思いを優先させたのである!
一方、鬼頭はといえば、実のところ、富子の思いと同じような思いを抱いていた。
鬼頭は当初、富子を蔵王へと誘った。そして、その誘いは富子が察知したように、確かに魂胆があったのだ。
その魂胆とは、鬼頭は雪の蔵王で、富子を殺すことであった。コースから外れた所で転倒して木の幹に頭を打ち付けて死ぬとかいった、雪の蔵王なら富子を殺す手段は幾らでもあったのである。
鬼頭はもはや鬼頭にとって厄介者と化してしまった富子に今までのように思われれば、鬼頭と由加との将来にとって邪魔になることは請け合いであった。
それ故、もはや富子を殺すしかなかったのだ。
鬼頭はそう決意し、雪の蔵王で鬼頭の思いを成し遂げるつもりだったのだ。
だが、富子は鬼頭との蔵王行きをあっさりと断ったのである。
それで、鬼頭は落胆してしまったのだが、そんな鬼頭の表情はすぐに輝いた。何故なら、富子が網走に行こうと言ったからだ。
鬼頭は網走には行ったことはなかった。
しかし、北海道の外れにあり、また、網走番外地という映画を見たことのあった鬼頭は、網走は厳しい自然の下にあるということを知っていた。そして、そのような厳しい自然の下なら、富子を殺す場所は幾らでもある!
鬼頭はそう察知した。
それ故、鬼頭の表情はすぐに輝いたのである。
もっとも、網走行きを決めたのは電話であったので、富子はその時の鬼頭の表情を眼にすることはなかった。もし、富子がその時の鬼頭を眼にしていれば、そんな鬼頭に不審感を抱いたかもしれない。
それはともかく、鬼頭は富子と網走に行くことが決まると、前述したようにその少し前に密かに網走に行ったのだ。そして、網走周辺だけではなく、知床にまで足を延ばし、富子殺しに相応しい場所はないかと、下調べを行なったのである。
そして、鬼頭はその相応しい場所を二つ見出した。その二つとは、能取岬と、流氷だった。
能取岬の断崖に富子を立たせ、その背中を押す。すると、富子は断崖の下に落ちて死ぬ。
その手段なら、富子が足を滑らせ、断崖の下に落ちてしまったという誤魔化しが通用する。鬼頭はそのように看做したのである。
その作戦に基づき、鬼頭は富子と女満別空港を後にすると、まず能取岬に向かったのである。
だが、その作戦は後一歩のところで失敗してしまったのである。鬼頭が富子の背中を押す一歩手前で、富子は振り返り、逃げるように、鬼頭と断崖から離れたのである。
その富子の行動は鬼頭にとって意外であった。鬼頭は富子があまりにも断崖の近くに近付いたのを眼にして鬼頭の計画は早くも成功すると読んでいたのだが、あっさりと失敗してしまった。そして、それは鬼頭の油断であった。鬼頭は行動を起こすのが少し遅かったのだ。幾ら後悔しても、後の祭りというわけだ。
鬼頭が見出した後一つの手段は、流氷であった。何かと口実をつけては富子を流氷の上へと誘い出し、そして、隙を見ては富子を流氷の裂け目から海へと突き落とす。
流氷下の海は、零度に近い水温であろう。そんな海に富子が落ちてしまえば、さ程時間を経ずに富子は死んでしまうことであろう。
鬼頭はそのように看做したのである。
そして、能取岬での計画は失敗してしまったが、流氷での計画は成功してやるぞと鬼頭は意気込み、富子を流氷の上に誘い出してやろうと目論んでいたのだが、何と富子の方から流氷の上を歩いてみようと言って来たのだ。そして、それは正に鬼頭にとって好都合であったのだ。
鬼頭は実のところ、富子を巧みに流氷の上に誘い出せるかどうか、心配していたのだ。何しろ、鬼頭は能取岬で富子殺しを失敗している。富子はひょっとして、鬼頭が富子を殺そうとしたのを察知したのではないのか? その時の富子の表情を眼にして、鬼頭はそう思わないこともなかったのだ。
それ故、鬼頭が流氷の上を歩かないかなんて言えば、富子は不審がり、鬼頭の計画は失敗してしまうのではないのか?
鬼頭はそう心配していたのだが、どうやら鬼頭のその心配は杞憂であったみたいだ。
それはともかく、鬼頭は今がチャンスだと悟った。
粉雪が降り始め、それが辺りの視界を悪くしていた。更に、辺りには鬼頭と富子以外は誰もいない。また、道路側からも、堤防が視界を遮り、今、鬼頭と富子が流氷の上にいるなんてことに気付きはしないだろう。
即ち、今からの鬼頭の行為を眼にする者は、誰もいないのである!
そう悟った鬼頭は、今がチャンスとばかりに、富子目掛けて突進した。
そう! 富子を流氷の上から海へと突き落とすのだ!
鬼頭は正に阿修羅のような表情を浮かべては、富子に向って突進した。
そんな鬼頭を眼にして、富子の表情は忽ち殺気立った。そんな富子は鬼頭の意図を理解したからだ。
だが、鬼頭は能取岬の場合とは違って、今度はその動きを停止しようとはしなかった。能取岬の場合は、富子が断崖から離れた為に、鬼頭の思いを遂げることは出来なかったが、今は別だ。富子が鬼頭から逃げようとしても、鬼頭はそんな富子を捕らえ、力ずくでも富子を流氷下の海へと突き落とすのだ!
そう決意した鬼頭は、富子に襲い掛かった。
すると、富子はそんな鬼頭から逃げようとし、また、流氷の裂け目から離れようとした。
だが、鬼頭はそんな富子を追い、そして、程なく富子に絡み付いた。
すると、富子は身を屈めては、
「裏切り者!」
と、声を荒げて鬼頭を罵った。
すると、鬼頭は、
「舐めた真似をしやがって!」
と、富子を怒鳴り付けた。
だが、富子にはその言葉の意味が分からなかった。
それで、
「それ、どういう意味よ!」
と、鬼頭に反発するように言った。
「俺の部屋に盗聴器をセットしたのは、お前だろ!」
鬼頭は屈み込んだ富子を抑えつけるようにして伸し掛かっては、更に、富子の首筋を?みながら、怒りを露にした表情と口調で言った。
そう鬼頭に言われ、富子の言葉は詰まった。それは、正に富子にとって思い掛けない言葉であったからだ。富子はまさか鬼頭が富子がセットした盗聴器に気付くなんてことは思ったこともなかったのである。
言葉を詰まらせた富子に鬼頭は、
「まるで、探偵がやるみたいなことをやりやがって!」
と、富子を激しく罵り、富子に平手打ちを喰らわした。
すると、富子は鬼頭から眼を逸らせ、そして、決まり悪そうな表情を浮かべた。
だが、すぐに鬼頭を見やっては、
「あんたって男は、いつから悪魔になったの?」
と、いかにも不満そうに言った。そして、
「私、分かったのよ! あんたは最初から私と結婚したり、あんたの店を持つ気なんてなかったということを!
あんたが欲しかったのは、あんたの女と遊ぶお金だったのよ! そのお金を手に入れる為に、私を唆しては村木さんを殺させたのよ! 私はまんまとあんたに騙されてしまったのよ! それが真相なのよ!」
と、力強い口調で言った すると、鬼頭は、
「ふっふっふっ……」
と、いかにも残忍そうに笑った。そして、
「どうやら、お前は俺の電話の盗聴に成功したみたいだな。じゃ、仕方ない!
確かにその通りさ! ふっふっふっ!」
「……」
「俺はもうお前には飽き飽きしてたんだよ。だが、お前は絶対に俺と別れようとはしない。もし、俺がお前に別れてと言えば、お前は俺を刺し殺し、お前も死ぬかもしれない。お前という女は、そんな女なんだ。だから、俺はお前のことを持て余していたんだ!
そんな時に、村木爺さんのことをお前から耳にした。
それで、俺はお前を唆しては村木爺さんをお前に殺させ、村木爺さんの金を俺一人で手にしてやろうと目論み、お前はその目論みにあっさりと引っ掛かってしまったんだ!
つまり、お前は単純馬鹿な女だったんだ!」
と、鬼頭はいかにも嫌みたっぷりな表情と口調で言った。
すると、富子はいかにも悔しそうな表情を浮かべた。これが、富子が今まで全身全霊を捧げて来た男の口から発せられる言葉であろうか?
富子には、信じられなかった。
そして、富子はショックで、今にも卒倒しそうであった。
それはともかく、富子は鬼頭に対する復讐を実行する為に鬼頭を流氷の上に誘い出し、鬼頭を流氷下の海へと突き落とすつもりであった。
ところが、その富子の復讐が実行される直前に、何と鬼頭が富子に襲い掛かって来たのだ!
富子はこの時、本能的に鬼頭の攻撃から逃れ、鬼頭に反撃しようとした。何故なら、殺らなければ、殺られてしまう!
正に、その言葉は、今の状況にぴったりであったのだ!
富子は力の限り、鬼頭の反撃をかわし、そして、鬼頭を流氷下の海へと突き落とそうとした。
しかし、男と女の力の差は歴然としていた。富子は力では鬼頭を負かすことは出来なかったのだ。また、鬼頭とて、必死だったのだ! 鬼頭とて、渾身の力を込めて、富子を流氷下の海へと突き落とそうとしてるのだ!
そして、さ程時間を経ずに、その闘いは、けりがついた。
富子は遂に鬼頭によって、流氷下の海へと突き落とされてしまったのだ!
海に落ちてしまったといえども、富子はすぐに死に至るというわけではなかった。
富子はその全身が一度、海面下に沈んだものの、再び海面上に浮かび上がり、そして、頭を振っては、雫を振り払った。
そして、手近な氷に手を置いては、氷の上に上がろうとした。
だが、その富子の手を、鬼頭が力一杯踏み付けたのだ!
<痛い!>
富子は、心の中で叫んだ! 鬼頭の靴に思い切り踏み付けられ、富子の手に激痛が走ったのだ!
それで、富子は咄嗟に氷の上に置いた手を離してしまった。
すると、富子の全身は再び氷のように冷たい海の中に浸かってしまった。
そんな富子に、容赦なくオホーツクの海の冷たさが襲って来た。
更に、富子のオーバーに海水が浸りついてしまったので、それが富子の動きを鈍くさせた。
そんな富子に、再び氷上に手をかけようという気力は残っていなかった。
<もう駄目……>
富子の脳裏にその思いが過ぎった。
そんな富子の眼が鬼頭を捕らえた。
鬼頭は大きく息をつき、眼をギラギラとまるで野獣のように激しくさせていた。
そんな鬼頭はとても殺気立っていた。正に、富子殺しに鬼頭は全身全霊を傾けているのだ!
すると、その時、ふと富子の表情に微笑が浮かんだ。
富子はこの時、鬼頭は富子が愛した男に相応しい男だったと思った。自らの思いに全身全霊を傾けて成し遂げようとする男。こんな男らしい男って、ざらにいるものではない!
そんな男を、たとえ十年という年月であっても愛せたことは、富子にとって幸福であった!
そう思うと、富子には思わず微笑みが浮かんでしまったのだ。
そして、程なく富子は海の中へと沈んで行った……。それは、富子が微笑んでからすぐ後のことであった……。