第十八章 新たな疑惑

 話は少し前に戻るが、警視庁の世良警部補(38)は、今、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
 というのは、S町に住んでいる岡野美佐子(55)という主婦から、娘の富子という二十九歳の女性を探してくれという捜索願いを受け取ったからだ。
 美佐子によると、富子は東京郊外にある賃貸マンションに一人住まいをしていたのだが、二月の半ば頃から連絡がつかなくなったというのだ。
 そして、今は三月の初めなので、富子と連絡が取れなくなって、もう三週間になりそうなのだ。
 もっとも、美佐子は自らが二月の半ば頃、富子に連絡をしようとして、連絡がつかなくなったわけではなかった。富子の勤務先の「青木ジュエリー」から、富子が二月の半ば頃から無断欠勤してるという説明を受け、その事実を知ったのである。
 それで、美佐子は富子が住んでるマンションに行っては、部屋の中に入ったのだが、富子失踪の手掛かりは?めなかったのである。
 それで、その足で最寄りの警察署に行っては、捜索願いを出したのである。
 美佐子から捜索願いを出されて、美佐子に応対した世良は、とにかく美佐子から話を聞いてみることにした。
 そして、美佐子と話をしてる内に、妙なことが明らかとなった。
 その妙なこととは、昨年の六月の初め頃に富子と共に阿寒湖に行った村木藤次郎という老人が阿寒湖で水死したというのだ。美佐子がそのことを世良に話したのである。
 もっとも、美佐子から話を聞いた限りでは、その村木という老人の死が、富子の失踪に関係してるとは思えなかった。
 しかし、村木の話は甚だ興味ある事柄には違いなかった。
 そのことを十分に認識した世良は、
「その阿寒湖の件以外に、富子さんに関して何か気付いたことはありませんかね?」
 と、眉を顰めては言った。
 すると、美佐子も眉を顰めては少しの間、言葉を発そうとはしなかったのだが、やがて、
「富子は宝石のセールスレディをやってたのですが、営業成績はあまりよくなかったみたいです。そのことが関係してるのでしょうかね」
 そう美佐子に言われたが、世良には果してそのことが富子の失踪に関係してるかどうかは今の時点では分からなかった。
 そして、更に美佐子と話をしてみたのだが、その結果、富子の失踪に関係してそうなことといえば、やはり村木藤次郎の死だ。
 即ち、村木の死は事故死として処理されたが、その死の真相はそうではなかったのではないのか? そして、それに絡んで富子は失踪したのではないのか?
 世良はその可能性は十分にあると看做したのである。
 だが、美佐子は村木の死に関して十分な情報を持ち合わせてはいなかった。
 もっとも、捜索願いが出されたからといって、その失踪に必ずしも事件性があるとは限らないので、警察はその失踪者のことを本腰を入れて捜したりはしなかった。何しろ、捜索願いは一年間に数多く出され、それらを一々警察が捜索すれば、警察官が幾らいても足らないというものであろう。
 だが、事件性があると警察が看做せば、警察は動くものなのだ。
 そして、岡野富子の件に関しては事件性がありそうだったので、世良は少し捜査してみることになったのだ。
 そんな世良はまず村木の件に関して、北海道警に問い合わせてみた。
 すると、村木の事件を担当したという長沼という警部補が、
―岡野富子さんが、失踪したのですか!
 と、いかにも驚いたように言った。
「そうなんですよ。家族の方が三週間程前から岡野さんと連絡が取れなくなったと、捜索願いを出したのですよ。その時期から岡野さんは勤務先を無断欠勤してるそうで、岡野さんの失踪は間違いないと思われます」
 と、世良は説明した。
 すると、長沼は、
―そうですか……。
 と、呟くように言った。
「で、僕は捜索願いを出した岡野さんの母親と話をしてみたのですがね。すると、村木さんのことが浮かび上がったのですよ。村木さんとは、去年の六月の初めに阿寒湖で水死した七十六歳の男性です。
 で、村木さんは岡野さんと共に阿寒湖に来ていたというじゃないですか」
 と、世良は些か興奮しながら言った。
―正にその通りです。
「で、僕は村木さんの死と岡野さんの失踪が関係してるような気がするのですよ」
 と、世良は些か表情を険しくさせては言った。
ーどういう風に関係してると言われるのですかね?
「例えばですね。村木さんの死は事故死ではなく、岡野さんに殺されたという具合ですよ。
 その結果、岡野さんは良心の呵責を感じ、自殺してしまったというわけですよ。こういったケースは有り得るのではないですかね?」
―確かに、そういったケースは有り得ると思いますね。そう世良さんが言われるのは、もっともなことだと思います。
 我々も村木さんは岡野さんに殺されたのではないかと疑いましてね。それで、岡野さんのことを色々と捜査してみたのですよ。
 と言っては、長沼は富子に対して行なった捜査を説明した。
 世良はその長沼の話に何ら言葉を挟むことなくじっと耳を傾けていたのだが、長沼の話が一通り終わると、
「僕はやはり村木さんは岡野さんに殺されたのだと思いますね」
 と言っては、険しい表情を浮かべた。
 すると、長沼は眼を大きく見開き、
―そうですよね。我々ならそうピンと来ますよね。しかし、証拠がなかったのですよ。
 と、いかにも悔しそうな表情と口調で言った。
「状況証拠なんかもなかったのですかね?」
―状況証拠はありますよ。何しろ、岡野さんは村木さんの死の直前にまで一緒にいたわけですから。そして、岡野さんは村木さんの後を追って阿寒湖に飛び込んだわけですから。そして、その時に岡野さんは村木さんを殺したというわけですよ。でも、その場面を眼にした者は誰もいませんからね。
 更に、村木さんは最近では足腰が弱くなり、また、記憶力が低下して来たという証言も入手してしまえば、岡野さんが殺したと断定するのには無理が生じてしまうというわけですよ。岡野さんが村木さんから眼を離した時に、村木さんが足を踏み外してしまい、阿寒湖に落ちて水死したという可能性は十分に有り得ますからね。
 と、長沼は決まり悪そうな表情で言った。
「村木さんを解剖した結果、何か不審点はなかったのですかね?」
 世良は眉を顰めては訊いた。
―解剖は行なわれず、早々と水死と確定したのです。村木さんの死が不審死だとはその時には思われてなかった為に、綿密な調査は行なわれなかったのですよ。村木さんの死に不審点があるという話は、村木さんの遺体が荼毘に附されてから出た話なんですよ。
 と、長沼は決まり悪そうに言った。
「そういうわけでしたか……」 
 世良も決まり悪そうに言った。そして、
「でも、村木さんが岡野さんに背中を見せていた時に、岡野さんが村木さんを阿寒湖に突き落としたという可能性はありますよね?」
―そりゃ、勿論ありますよ。しかし、先程も言ったように、その場面を眼にしたというような決定的な証拠がなかったのですよ。それ故、我々は村木さんの死は事故死として処理せざるを得なかったのですよ。
 と、長沼は悔しそうに言った。
 そう長沼に言われ、世良は少しの間、言葉を詰まらせてしまったが、やがて、
「村木さんの姪が、村木さんのお金を目当てに岡野さんは村木さんに近付き、そして、殺しては岡野さんが村木さんのお金を手にしたと訴えたのですね?」
―そうです。でも、そういった事実は確認出来なかったのですよ。でも、その姪は村木さんのお金が一億以上紛失してるとも言ってましたね。
「そのことを、岡野さんに話しましたかね?」
―そりゃ、勿論話しましたよ。すると、岡野さんは、岡野さんが勧めた宝石を買ってもらったりして、五千万程のお金が村木さんから岡野さんに渡ったことを認めました。
 しかし、それ以上のお金は手にしてないと、岡野さんは言ったのですよ。
 そのことを考慮しても、やはり、村木さんのお金が一億以上紛失したのは事実だと思われるのですが、そうだからといって、岡野さんがその一億を手にしたとまでは断言出来ませんのでね。
 と、長沼は渋面顔で言った。
「岡野さんの銀行の口座なんかを調べてみたのですかね?」
―そりゃ、調べましたよ。でも、特に不審点はなかったというわけですよ。
 長沼は再び渋面顔で言った。
「岡野さん宅の家宅捜索は行なわなかったのですかね?」
―そこまでは行なわなかったですね。何しろ、岡野さんへの疑惑がまだそれ程強いものではなかったので……。
 長沼はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「岡野さんは村木さんが死んだ後、急に羽振が良くなったというようなことはなかったのですかね?」
―それはなかったですね。その点に関しては、僕よりも警視庁の小森さんの方が詳しいですよ。岡野さんは東京の人間であったので、我々は警視庁に協力を依頼し、その捜査を小森さんに行なってもらいましたからね。
 それを聞いて、世良は今度は小森から話を聞いてみることにした。因に、世良は小森と面識がなかった。
 世良は小森に会って、岡野富子が失踪したことを話した。
 すると、小森は、
「それ、本当ですかね?」
 と、眉を顰めては言った。
「本当です。岡野さんの母親が捜索願いを出しましたからね。
 で、岡野さんの母親と話をしてる時に、村木さんの話が出ましてね。で、僕はその話を耳にすると、岡野さんの失踪は村木さんの死に関係してるのではないかと、ピンと来たので、村木さんの死を担当した北海道警の長沼さんと話をしてみたのですよ。
 すると、長沼さんも僕と同じような思いを抱いていたみたいですが、証拠がなかった為に事故死と処理せざるを得なかったと言ってましたね」
 世良は渋面顔で言った。
「そりゃ、僕もそう思いましたよ。それで、僕は岡野さんと直に会って話をしてみたのですがね。
 でも、結局、岡野さんを逮捕出来るだけの証拠は入手出来なかったのですよ」
 と、小森も渋面顔で言った。そして、小森が富子に対して行なった捜査の凡そを世良に話した。
 世良はその小森の話に黙って耳を傾けていたが、小森の話が一通り終わると、
「村木さんのお金が一億以上紛失してるというのは、確かなことなんですかね?」
「村木さんの姪はそう主張してはいましたがね。でも、そのお金は自宅に保管していたみたいなのですよ。銀行口座から引き出されたというのなら、調べようはあるのですが、自宅に保管していたじゃ、姪の話を全面的に信じるわけもいきませんでしてね。また、村木さんが死んで岡野さんの羽振が良くなったとも思えませんでしてね。それで、僕はもう岡野さんの捜査は行なわなくなったのですよ」
 小森は眉を顰めては言った。 
 そう小森に言われ、世良はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言葉を詰まらせてしまった。富子がもし村木を殺したとすれば、その目的は金しか考えられなかったからだ。しかし、富子が金を手にしたという気配が感じられないとなれば、富子は村木を殺したのではないのかもしれない。しかし、金回りがよくなったということを安易に見せてしまえば、警察に疑われてしまうこと恐れ、富子は努めて平静を装ったのかもしれない。
 それで、世良は、
「でも、岡野さんがもし犯人とすれば、何故村木さんを殺してまでして、お金を手に入れようとしたのでしょうかね?」
 そう世良に言われると、小森は言葉を詰まらせてしまった。何故なら、小森はその点に関して深く考えてみたことはなかったからだ。
 そして、その世良の言葉を受けて、二人の間にしばらくの間、沈黙の時間が流れた。二人は、富子が何故村木を殺してまでして、その金を奪う必要があったのか、その点に関してはよく分からなかったからだ。
 とりわけ、小森は世良とは違って、富子に直に会って富子から話を聴いた。そして、小森は富子は特に美人でもなく、また、質素な感じの女性だという印象を抱いた。そんな富子が果して大金を必要としていたのかというと、そうとも思えなかったのだ。
 それで、小森はその思いを世良に話した。
 すると、世良は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべては少しの間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「ひょっとして、男が関係してるのではないですかね?」
 と、いかにも妙案が浮かんだと言わんばかりに言った。
「男ですか……」 
 小森は呟くように言った。
「そうです。男です。岡野さんには男がいて、その男が岡野さんに村木さんを殺しては、そのお金を奪うように言ったのではないですかね?」
 と、世良は眼を輝かせては、声を弾ませた。そんな世良は、その可能性は十分にあると言わんばかりであった。
「なるほど。その可能性はありそうですね。でも、裏が取れるでしょうかね?」
 そう小森に言われると、世良は言葉を詰まらせてしまった。
 そんな世良に、小森は、
「もし、それが事実であったとしても、それが岡野さんの失踪にどう繋がってるのでしょうかね? 岡野さんは村木さんを殺したことによる良心の呵責を感じ、自殺したのでしょうかね? それに、村木さんの死は、もう事故死として北海道警が処理してしまったのですよ。にもかかわらず、我々が再び村木さんの事件を掘り起こすというのも、何だか気が退けることだし……」
 と、決まり悪そうに言った。
 すると、二人の間に再び沈黙の時間が流れたが、やがて、世良は、
「ひょっとして、岡野さんはその男に殺されたのかもしれませんよ」
 と、些か険しい表情を浮かべては言った。そして、
「そうですよ! 殺されたのですよ! もし、岡野さんが良心の呵責を感じ、自殺するような女性なら、最初から村木さんを殺しはしないのではないでしょうか? 金目当ての殺人なら、衝動的な殺人というよりも、計画的な殺人でしょうからね」
 と言っては、大きく肯いた。
「なるほど」
 そう世良に言われ、小森は相槌を打つかのように言った。
「そうですよ。ですから、僕は岡野さんの男関係を調べてみますよ」
 世良は、険しい表情を浮かべては言った。

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