第二十章 嘘
鬼頭は今、正にご機嫌であった。正に疫病神と成り下がっていた富子を始末することに成功した。更に、今や由加を完全に鬼頭の女にすることに成功した。村木という金を貯めることだけが生き甲斐であったという老人の金を手にするまでは、由加には資産家だと称してはいたが、それは無論嘘で、鬼頭は実際には金を持っていなかった為に、由加と遊ぶ時は気前よく金を使っていたものの、そろそろ有り金は底をつき始めていたのだ。
そんな状況であった為に、鬼頭は顔では笑ってはいたものの、心の中では泣いていたという状況だったのだ。
しかし、今は違う!
今は、鬼頭は村木の金を一人占めし、正に鬼頭は今、億万長者なのだ!
それ故、鬼頭は今、由加と遊ぶ時には、気前よく金を使えるのだ!
そんな鬼頭に、由加は今やすっかり惚れ込んでしまったみたいだ。以前由加に、「あんたは金持ちなのにケチだ!」と言われたこともあったが、今や由加の口からはそのような言葉は発せられず、鬼頭のことを「ご主人様」と言ったりすることもあるのだ。
そして、今や、由加は鬼頭無しでは生きて行くことが出来ない女と化したのではないのか?
鬼頭はそう何度も思ったりしていた。
そんな鬼頭の許に、世良警部補が訪れたのは、四月の半ばの日曜日の正午頃のことであった。
鬼頭の住所は、富子の部屋にあったアドレス帳で確認済みであった。また、鬼頭は水商売の仕事をしてるから、夜には鬼頭に会えないかもしれない。また、事前に電話をすれば、偽装工作をされてしまうかもしれない。
それ故、突如、鬼頭宅を訪れた方が鬼頭の反応を見ることが出来ると思い、世良はその時間に鬼頭宅を訪れたのだ。
インターホンを三回押すと、少しして反応があった。それで、世良は自らの身分を名乗り、鬼頭と話をしたいと言った。
すると、鬼頭の言葉は詰まったが、少しして玄関扉は開き、鬼頭は姿を見せた。
そんな鬼頭は髪にポマードを付けては、オールバックにしていた。そんな鬼頭は、普通のサラリーマンではないように思わせた。
世良は、鬼頭に改めて身分を名乗り、
「鬼頭さんに少し訊きたいことがあるのですがね」
と、鬼頭の顔をまじまじと見やっては言った。
「俺に訊きたいこと? 何だい、それ?」
鬼頭は些か怪訝そうな表情を浮かべては言った。そんな鬼頭は、警察から何かを訊かれるような覚えはないと言わんばかりであった。
「鬼頭さんは岡野富子さんという女性と付き合っていましたかね?」
世良は再び鬼頭の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、鬼頭の言葉は詰まった。そんな鬼頭は、まるで予期せぬことを訊かれ、それに対してどのように答えればよいか、分からないかのようであった。
だが、鬼頭は程なく、
「誰がそのようなことを言ってましたかね?」
「岡野さんの友人ですよ」
すると、鬼頭は開き直ったような表情を浮かべては、
「まあ、そうですね」
と、淡々とした口調で言った。
鬼頭にそう言われると、世良は小さく肯き、そして、
「で、岡野さんは今、どうしてますかね?」
と、鬼頭の顔をまじまじと見やっては、興味有りげに言った。
「どうしてるって、そりゃ、家にいるんじゃないですかね」
と、鬼頭は何故そんなことを訊くのかと言わんばかりに言った。
「家にいる? そうですかね?」
と、世良は眉を顰めた。そして、
「で、鬼頭さんは今も岡野さんと付き合ってるのですかね?」
「今ですか……。今は付き合ってませんよ」
鬼頭は戯けたような表情を浮かべては言った。
「ということは、別れたということですかね?」
「まあ、そういうことです」
「そういうことでは、よく分からないですね。もう少し詳しく話してもらえないですかね?」
世良は些か不満そうに言った。
「ですから俺はもう岡野さんのことを好きではなくなってしまいましてね。何しろ、岡野さんとは十九歳の時から付き合っていましたからね。だから、岡野さんと別れたって、おかしくないですよ。
でも、岡野さんは俺と別れるのが嫌だったみたいですね。それで、俺は俺の気持を岡野さんに分かってもらおうと、岡野さんが電話して来た時なんかに、岡野さんに冷たい態度で接したのですよ。
すると、岡野さんは俺の気持が分かったのか、最近では俺に何も言って来なくなりましたね」
と、鬼頭は些か笑みを浮かべながら言った。そんな鬼頭は、正に富子と別れてせいせいしたと言わんばかりであった。
「鬼頭さんが岡野さんと最後に連絡を取ったのは、どれ位前のことですかね?」
世良は興味有りげに言った。
すると、鬼頭は言葉を詰まらせては、少しの間、何やら考え込むような仕草を見せていたが、やがて、
「四ヵ月位前のことではないですかね」
「ということは、去年の十二月頃ですかね?」
「まあ、その頃ですね」
鬼頭は些か神妙な表情を浮かべては言った。
「その時は電話で岡野さんと話したのですかね?」
「そうでしたね」
と言っては鬼頭は小さく肯き、そして、
「でも、刑事さんはどうして俺に岡野さんのことを何だかんだと訊くのですかね?」
と、些か怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「実はですね。岡野さんは今年の二月の半ば頃から行方不明になってるのですよ。それ故、岡野さんの家族の方が捜索願いを出しましてね。それで、我々が岡野さんのことを捜してるのですよ」
と、世良は熱意の籠った口調で説明した。
「そういうわけですか……。でも、俺は岡野さんのことは知らないですよ」
と、鬼頭は淡々とした口調で素っ気なく言った。
「本当に知らないのですかね?」
世良は念を押した。
「本当に知りませんよ」
鬼頭は、今度は真剣な表情を浮かべては言った。
「そうですか。で、話は変わりますが、去年の六月に岡野さんは村木藤次郎という七十六歳の老人と阿寒湖に行きましてね。その時に村木さんが阿寒湖に落ちて水死してしまったことを鬼頭さんは知ってますかね?」
「知ってますよ」
世良の問いに、鬼頭は間髪を入れずに応えた。
「その事故のことで、岡野さんは鬼頭さんに何か言ってましたかね?」
「言ってましたね」
「どんなことを言ってましたかね?」
「そりゃ、村木さんを助ける為に岡野さんは阿寒湖に飛び込んだらしいのですが、それでも助けられなかったので、残念だったとか言ってましたね」
鬼頭は、神妙な表情で言った。
「なるほど。で、岡野さんはどうして村木さんと付き合っていたのでしょうかね? 五十歳近く年齢が離れていたというのに」
世良は眉を顰めては言った。
「そのようなことを俺に訊かれても分からないですよ。俺は岡野さんではないですからね」
鬼頭は渋面顔で言った。
「そうですか。で、村木さんの身内が岡野さんが村木さんを阿寒湖で殺しては、村木さんのお金を奪ったと言いましてね。村木さんが持っていたお金が一億以上紛失してるみたいなんですよ。それに関してどう思いますかね?」
世良は鬼頭の顔をまじまじと見やっては言った。
「そのようなことを俺に訊かれても、俺では分からないですよ。そのような話を岡野さんから聞かされたことはありませんからね。
でも、岡野さんは村木さんを殺してはいないと思いますよ。岡野さんは人殺しを行なうような人とは思えませんからね」
と、鬼頭は淡々とした口調で言っては、小さく肯いた。
そう鬼頭に言われると、世良は決まり悪そうな表情を浮かべては少しの間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「でも、去年の六月に岡野さんと共に阿寒湖に行った村木さんという金持ちの老人が事故死し、今度は岡野さんが行方不明になってしまった。更に、村木さんが持っていた一億以上のお金が紛失してるなんて、何だか妙ではありませんかね」
と、鬼頭の顔をまじまじと見やっては、いかにも納得が出来ないと言わんばかりに言った。
すると、鬼頭は表情を穏やかにしては、
「俺は別に妙とは思わないですね。村木さんの事故は警察が正式に事故と認めたわけだし、また、村木さんのお金が一億以上紛失したというのは、何かの間違いではないのですかね?
更に、岡野さんが行方不明になってるというのは、ひょっとして俺にも責任があるのかもしれません」
と言っては、世良から眼を離し、決まり悪そうな表情を浮かべた。
「岡野さんの失踪に鬼頭さんが責任があるというのは、どういうことですかね?」
世良は興味有りげに言った。
「ですから、俺が岡野さんに冷たくしたということですよ。それで、岡野さんは人生が嫌になり、何処かに姿を晦ませてしまったのではないかということですよ」
そう言った鬼頭は正に決まり悪そうであった。そんな鬼頭は正に富子の失踪には鬼頭が責任があると言わんばかりであった。
世良はそんな鬼頭を眼にして、鬼頭は自らの率直な思いを話してると思わざるを得なかった。
それで、世良はこの辺で鬼頭から話を聴くのを終え、鬼頭宅を後にすることにした。
世良は鬼頭から話を聴いて、成果を得られなかったと思った。
世良は、元はといえば、富子の失踪には事件性があり、そして、その事件には鬼頭が関係してると推理し、鬼頭から話を聴いた。そして、鬼頭と話しながら、鬼頭の表情や、世良の問いに対する鬼頭の返答を見たのだが、その結果、特に不審点を見出すことは出来なかったのである。
それ故、富子の失踪はまだ事件と決まったわけではなかったし、また、村木の死は事故死だと北海道警が処理したわけだから、それを掘り起こすことに世良は抵抗を感じないわけではなかった。
それで、この辺で富子に関する捜査は切り上げようかと世良は思った。
そして、そう思いながら、世良は署に戻ったのだが、すると、署で世良の帰りを待っていた高野警部補(34)が、世良の思いを覆すかのようなことを話した。
世良の顔を見ると、高野は、
「岡野さんが何処で行方不明になったのか、察しがつきましたよ」
と、些か興奮気味に言った。
だが、その時世良は、もう富子の捜査は止めようと思っていた最中であったので、大して関心がなさそうな表情と口調で、
「何処でなんだ?」
「網走です!」
高野は、声高に言った。
「網走? 何故、網走なんだ?」
世良は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「岡野さん宅にあった手帳を調べてみたところ、二月十六日から二泊三日の予定で鬼頭さんと網走に行くと記してあったのですよ」
と言っては、高野は小さく肯いた。
「それ、本当か?」
世良は思わず眼を大きく見開き、声高に言った。何しろ、世良はつい先程、鬼頭と話をしたばかりだ。そして、その鬼頭の話では、その網走行きの話は出なかったのだ。
そして、長年警察の仕事に携わって来た世良の勘が<これは何かある!>と、世良に告げたのである!
更に高野はそんな世良の思いに追い打ちを掛けるかのような言葉を発したのである。
「二月十六日の羽田発女満別空港行きの飛行機の搭乗者名簿に、岡野さんと鬼頭さんの名前があったのです! ですから、二月十六日に岡野さんと鬼頭さんが女満別空港に行ったことは間違いありません!」
と、高野も眼を大きく見開き、甲高い声で言った。
「それ、本当か?」
世良は、眼を大きく見開いたまま、再び声高で言った。
「本当です! 航空会社で確認しましたから!」
高野は自信に満ちた口調で言った。
そう高野に言われ、再び鬼頭から話を聴かなければならなくなった。何しろ、鬼頭は富子と最後に言葉を交わしたのは、昨年の十二月で、それも、電話で話をしたと証言したからだ。正に鬼頭の証言は高野が突き止めた事実とは矛盾してるのだ。
それで、世良はまるで蜻蛉返りをするかのように、鬼頭のマンションに向かったのであった。
鬼頭は世良の顔を見ると、表情を曇らせた。それは、正に嫌な奴がやって来たと言わんばかりであった。
そんな鬼頭に世良は、
「岡野さんのことで妙なことが分かりましてね」
と、鬼頭の顔をまじまじと見やっては、渋面顔で言った。
「妙なこと? それ、どんなことですかね?」
鬼頭はさして関心がなさそうに言った。
「そのことを話す前に、鬼頭さんは先程僕と話をした時に、岡野さんのことで何か言い忘れたことはありませんかね? 岡野さんは二月の半ば頃から行方不明になってると思われてるのですが、鬼頭さんが岡野さんと最後に話したのは、去年の十二月だったとのことですが、それは本当ですかね?」
世良は鬼頭の顔をまじまじと見やっては言った。その世良の表情は穏やかなものであったが、眼はとても冷やかなものであった。
そう世良に言われ、鬼頭の言葉は詰まった。そんな鬼頭は世良の問いにどのように答えればよいか、迷っているかのようであった。
だが、やがて、鬼頭は、
「本当ですよ」
と、平然とした表情で、素っ気なく言った。
「間違いないですかね?」
世良は、眉を顰めて言った。
「間違いないですよ。どうして嘘をつかなければならないのですかね」
鬼頭は不満そうに言った。
「そうですかね? 岡野さんは二月の半ば頃に行方不明になったと思われるのですが、その頃、岡野さんは鬼頭さんと何処かに行かなかったですかね?」
そう言っては、世良は鬼頭の顔をまじまじと見やった。そんな世良は、鬼頭に嘘をついても無駄だよと、鬼頭を諫めてるかのようであった。
そう世良に言われ、鬼頭の言葉は再び詰まった。そして、何やら考え込むかのような仕草を見せたが、
「どうして刑事さんはそのようなことを訊くのですかね?」
と、いかにも納得が出来ないように言った。
「どうしてって、岡野さんは二月の半ば頃に行方不明になったと思われるのですが、その頃、鬼頭さんが岡野さんと共に何処かに行ったのなら、鬼頭さんは岡野さんの失踪に何か情報を持ってるかもしれませんからね。
で、鬼頭さん! 正直に答えて下さいよ! 正直に答えてくれなければ、鬼頭さんに対する信用を失うことになりますよ!」
と、世良は些か表情を険しくさせては、鬼頭を睨み付けるかのように言った。
すると、鬼頭は再び何やら考え込むような仕草を見せては少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「分かりました。正直に話します。確かに二月の半ばに俺は岡野さんと網走に行きました」
と、まるで開き直ったような表情と口調で言った。
世良はそう鬼頭に言われ、些か満足したように小さく肯いた。だが、すぐに表情を険しくさせては、
「だったら、どうして最初からそのように言ってくれなかったのですかね?」
「どうしてって、そのようなことを言えば、俺に妙な思いを刑事さんに抱かれてしまうのではないかと、俺は恐れたのですよ」
鬼頭は些か顔を赤らめては、決まり悪そうに言った。
「妙な思いとは、どういうことですかね?」
「ですから、俺が岡野さんの失踪に関わりがあると思われてしまうのではないかということですよ」
と、鬼頭は眼を大きく見開き戯けたような表情を浮かべては言った。
すると、世良は、
「そうじゃないのですかね? 鬼頭さんは実際にも岡野さんの失踪に関わりがあったのではないですかね? だから、そのことを僕に話さなかったのではないですかね?」
と、鬼頭の顔をまじまじと見やっては、鬼頭を非難するかのように言った。
「そら見なさい! だから、俺はそのことを話さなかったのですよ!」
と、鬼頭はいかにも不満そうに言った。
「だから、正直に事実を話してくれないから、鬼頭さんのことを疑ってしまうのですよ。ですから、正直に事実を話して下さいな」
と、世良は鬼頭に言い聞かせるかのように言った。
すると、鬼頭は表情を改めては、
「だから、俺は岡野さんに別れ話を切り出したのですよ。もう岡野さんのことを好きでなくなったから、別れてくれと。すると、岡野さんは俺との最後の思い出として、北海道旅行に行きたいと言ったので、俺と岡野さんは網走に行くことになったのですよ」
と言っては、小さく肯いた。
「どうして網走になったのですかね?」
「特に理由があったわけではありませんが、北の外れで、刑務所の街として有名ですから、網走に行くことになったのですよ」
と、鬼頭は淡々とした口調で言った。
「なるほど。じゃ、網走に行ってからのことを今度は話してもらえますかね」
世良は興味有りげに言った。
「女満別空港でレンタカーを借り、網走の街を通り過ぎ、まず、能取岬に行きました。そして、能取岬で流氷見物をしました。
それからは、網走港から流氷砕氷船おーろら号に乗り、その後、網走湖に面したホテルに泊まりました。
翌日は知床に向かいました。そして、知床に着けば知床で泊まるのではなく、網走にまで戻って来ることになっていたのですよ。網走湖に面したそのホテルで後一泊することになってましたからね。ところが……」
そう言っては、鬼頭は世良から眼を逸らせ、言葉を詰まらせてしまった。
そんな鬼頭に世良は、
「ところが、どうしたのですかね?」
すると、鬼頭は世良を見やっては、
「ところがですね。濤沸湖を過ぎた辺りから俺と岡野さんは喧嘩を始めたのですよ」
と、いかにも決まり悪そうに言った。
「喧嘩ですか……。どうして喧嘩になったのですかね?」
「北海道に行ったのは、俺たちが別れるという前提の下だったのですが、濤沸湖を過ぎた辺りから、岡野さんは俺と別れるのが嫌だと言い始めましてね。そして、その結果、俺たちは激しい言い争いの喧嘩となってしまったのですよ」
と、鬼頭は顔を赤らめては、再びいかにも決まり悪そうに言った。
「なるほど。で、喧嘩は車内で行なわれたのですかね?」
「そうです。車内でです。といっても、車を停めて喧嘩をしていたのではありません。知床に向かって車を走らせていたのですが、その車内で喧嘩となってしまったのです。
で、俺は岡野さんと喧嘩をするのが、いい加減に嫌になってしまいましてね。それで、ウトロに着いた時に、ウトロで岡野さんを車から降ろしては、そこで俺は岡野さんと別れたのですよ。
これが、俺と岡野さんの網走・知床旅行の一部始終なんですよ」
と、鬼頭はいかにも胸の痞えを吐き出すかのように言った。
すると、世良はその鬼頭の話に納得したのかどうか分からなかったが、小さく肯き、そして、
「で、それからどうしたのですかね?」
と、いかにも興味有りげに言った。
「そりゃ、俺は網走に戻りましたよ。何しろ、二泊三日の予定で網走に来てますし、また、俺の羽田行きの航空券は、無論翌日のものでしたからね。
で、俺はその日、予定通り、昨夜泊ったその網走湖に面したホテルに泊まったのですが、岡野さんはそのホテルには泊まりませんでしたね。俺とあれだけ激しい喧嘩をすれば、やはり、俺と同じホテルには泊まれなかったのでしょう。
で、岡野さんはウトロのホテルなんかにその日は泊まったのではないでしょうか。
因みに、岡野さんは俺と同じ飛行機で羽田に戻ることになってましたが、実際にはその飛行機には乗らなかったみたいですね。岡野さんの姿は見られませんでしたから。
つまり、俺はウトロで俺と別れてからの岡野さんのことは、その後どうなったかは、まるで知らないのですよ。先程、世良さんから岡野さんが失踪したと聞かされ、びっくりしてるのですよ」
と、鬼頭は興奮しながら言った。そんな鬼頭は、正にそれが鬼頭の知ってることの全てだと言わんばかりであった。
そう鬼頭に言われ、世良の脳裏には、<自殺か……>という思いが過ぎった。即ち、富子は失恋の為に自殺したというのが、富子の失踪の真相であったというわけだ。
となると、富子は流氷の海に飛び込んだのかもしれない。あるいは、雪に閉ざされた山の中で睡眠薬を飲んで、二度と目覚めなかったのかもしれない。冬の網走、知床方面なら、幾らでも自殺の方法はあることであろう。
とはいうものの、鬼頭が富子を殺した可能性がないとは断言は出来ないだろう。鬼頭は世良の鬼頭が富子を殺したという疑いを晴らす為に、今の鬼頭の話をでっち上げたのかもしれないのだから。
それ故、鬼頭の話をあっさり信じるのはよくない。
そう思った世良は、
「で、鬼頭さんは今、どういったお仕事をされてますかね?」
「今は、クラブのバーテンダーをやってますよ」
鬼頭は、素っ気なく言った。
「そのクラブは何処にある何というクラブですかね?」
すると、鬼頭は不貞腐れた表情を浮かべては、
「何故、そのようなことを訊かれなければならないのですかね?」
「岡野さんの失踪に不審点がありましてね。鬼頭さんの話を聞いていると、岡野さんは網走か知床方面で自殺したかのような印象を受けるのですが、まだそうは断定出来ないのでね」
「それが、どう俺のプライベートのことと関係してるんですかね?」
鬼頭は、不満そうに言った。
「ですから、もう少し、鬼頭さんと岡野さんとの関係を知りたいのですよ。鬼頭さんによると、岡野さんが一方的に鬼頭さんに恋い焦がれ、それが鬼頭さんにとって迷惑であったようですが、その点に関して第三者からもう少し話を聞きたいのですよ」
「ですから、それは俺が言った通りですよ。その点に関しては一々改めて捜査する必要はありませんよ」
鬼頭はいかにも不満そうに言った。
「だったら、鬼頭さんの勤務先のクラブのことを話してくれたっていいじゃないですか。何ら疾しい所がないのなら、隠す必要はありませんからね」
そう世良に言われ、鬼頭は渋々自らの勤務先のクラブのことを世良に話した。
そして、それを受けて、世良は鬼頭から話を聴くのを終え、鬼頭の勤務先である「葵」に行っては、「葵」の従業員たちに聞き込みを行なってみたのだが、すると、興味ある証言を入手することが出来た。
その証言とは、鬼頭が最近になって金回りがよくなったみたいだという証言であった。
その証言をしたのは、「葵」で鬼頭と共にバーテンダーをやってる鳥井という長身の男であった。
鳥井は、
「鬼頭さんは半年程前から、急に金回りがよくなったみたいですよ」
「金回りがよくなったですか。どうしてそう鳥井さんは思うのですかね?」
世良は興味有りげに言った。
「一年位前に、鬼頭さんに女が出来ましてね。この店で働いていた由加という女でした。もっとも、今はうちの店にはいないのですが、鬼頭さんは由加にすっかり逆上せ上り、由加が入店して来たらすぐに鬼頭さんの女にしてしまったみたいですね。
でも、鬼頭さんが稼ぐお金だけでは、とても由加とは遊べなかったみたいですね。鬼頭さんはそうぼやいていましたからね。ところがですね」
と、鳥井はこれから面白い話をしてあげると言わんばかりに、いかにも眼を爛々と輝かせた。そして、
「ところがですね。鬼頭さんは半年程前に、新車でBMWを買ったみたいなんですよ。今までは中古の軽自動車に乗っていたのにですよ。
もっとも、鬼頭さんはそのことを僕たちに隠しておくつもりだったみたいですが、僕が偶然に鬼頭さんがBMWに由加を乗せて走ってるのを見てしまいましてね。
それで、僕は鬼頭さんに何故BMWを買えたのか訊いてみたのですよ。
すると、鬼頭さんは金持ちの親戚が死んで、その遺産が入ったんだと言っては、にやにやしてましたね。
でも、僕はその話は嘘だと思いましたね。鬼頭さんに金持ちの親戚がいたなんて、そんな話は今までに聞いたことはありませんからね」
と、鳥井は些か興奮気味に言った。
世良はその鳥井の話を聞いて、ピンと来た。即ち、鬼頭はやはり阿寒湖で死んだ村木という金持ちの老人の金を手にしていたのだ。村木の姪によると、一億を超える位の金が紛失してるという。また、その姪は富子が村木を殺しては、その金を奪ったのだという。
それを受けて、北海道警とか警視庁の小森たちが富子のことを捜査したが、富子が村木を殺し、村木の一億を手にしたという証拠は得られなかった為に、村木の死は事故死として処理されたという。
しかし、それはやはり真相ではなかったのだ! 村木はやはり富子に殺され、その金は富子と鬼頭に渡ったのだ!
だが、その後、鬼頭は富子が邪魔になり、富子を殺した。そして独り占めした村木の金で、鬼頭は思う存分、由加と遊ぼうとしたのではないのか?
そう思うと、世良の表情は忽ち険しくなった。
そんな世良を見て、鳥井は、
「どうかしましたかね?」
と、眉を顰めては言った。そんな鳥井は自らが今、重大な証言を行なっているという事実に気付いていないようであった。
それはともかく、鳥井にそう言われ、世良は、
「いや。何でもありません」
と、笑顔を繕い、そして、
「で、鬼頭さんは、由加ちゃんと付き合う以前に、別の女性と付き合っていたのではないですかね?」
と、鳥井の顔をまじまじと見やっては言った。
「そう言えば、鬼頭さんはそのようなことを言ってましたかね」
鳥井は平然とした表情を浮かべては、淡々とした口調で言った。
「そうですよね。で、鬼頭さんはその女性に関して、どのように言ってましたかね?」
世良は興味有りげに言った。
「何でも、その女性とは鬼頭さんが十代の時から付き合っていたそうですが、特にいい女でもなく、飽きてしまったので、別れようと思ってるんだが、すっかりと惚れられてしまっていて別れられずに困ってるんだと、言ってましたね」
と、鳥井は眉を顰めては、淡々とした口調で言った。
「なるほど。で、それ以外に鬼頭さんはその女性に関して何か言ってませんでしたかね?」
「いや。それ位でしたね。その女性の名前なんかも鬼頭さんは話さなかったですね」
と、鳥井はさして関心がなさそうに言った。
だが、世良は鳥井と違って、その女性の姓名を知っていた。その女性は、岡野富子という姓名であったのだ。
そして、世良はこの辺で鳥井に対する聞き込みを終え、「葵」を後にすることにした。
鳥井に聞き込みを行なった結果、世良はどうやら事の真相が明らかになったと思った。
即ち、富子はやはり二月の半ばに鬼頭によって、網走、知床方面で殺されたのだ! 鬼頭は由加との遊ぶ金の欲しさに、富子を唆しては村木を阿寒湖で殺させ、そして、村木の金を手にすると、今度は富子を殺したのだ! そして、もし警察が、二月の半ばに鬼頭が富子と共に網走に行ったことを突き止め、鬼頭に富子のことを訊いて来れば、富子は失恋の為に自殺したのではないかで押し通そうと決めていたのだ!
そして、実際にも鬼頭はその芝居を世良の前で演じて見せたのである!
正に、これが事の真相なのだ!
しかし、証拠はない!
それ故、鬼頭の証言を覆すのには、有力な証拠が必要なのだ!
そう思うと、世良の表情は自ずから曇らざるを得なかったのだ。