第三章 思わぬ惨事
村木と富子は今、ボッケ近くにある桟橋の上にいた。
阿寒湖の温泉街からボッケに続く散策路を歩き、やがて、ボッケに着いた。そして、ボッケを少し見物し、また、ボッケ近くにある石川啄木の石碑も見物し、そして、その近くにあった桟橋を眼に留めると、富子が「桟橋の先端にまで行ってみましょう」と言ったので、二人は桟橋の先端辺りにまでやって来たのだ。
桟橋からは、ほぼ円錐形の雄阿寒岳の雄姿が否応なく眼についた。また、季節柄、新緑が青空の下に映え、雄阿寒岳は正に豊かな阿寒の自然を象徴してるかのようであった。
また、まるで宝石のように煌めく阿寒湖のさざ波が岸辺に押し寄せ、それが一層辺りを風情豊かにしていた。そして、そよ風が心地良く二人の肌を打った。
そんな二人の様を見知らぬ者が眼にすれば、二人の間柄をどのようなものと捉えるだろうか? 祖父と孫では、何となく親密過ぎると思うのではないだろうか? そうかといって、夫婦というのも、年齢が離れ過ぎてるのではないかと思うことであろう。
となると、金持ちの老人と愛人か……。
二人の間柄は、結局、そのように看做されるのではないだろうか?
そして、その判断は、ほぼ正解なのだ!
今や、村木と富子の関係は、お客と宝石店のセールスレディというよりも、金持ちの老人とその愛人といった関係に至っていたのだ!
もっとも、もし村木が今後、富子の勧める宝石の購入を拒否するようになれば、その時点で二人の関係は終止符を打つかもしれない。
しかし、村木は今のところ、富子が勧める宝石を拒否しようとは思ってなかった。それ故、二人の関係はまだまだ続きそうな塩梅であった。
それはともかく、富子は、
「阿寒湖に来てよかったですね」
と、神妙な表情と口調で言った。
すると、村木は、
「そうだな」
と、富子の言葉に相槌を打つかのように言った。
何しろ、二人は東京の人間だ。それ故、今まで二人が訪れたのは、伊豆、箱根、日光、伊香保といった関東周辺に限られていたのだ。
にもかかわらず、今度は遥々北海道の、しかも、空港からかなり車で走らないと行けない阿寒湖にまでやって来たのだ。それなのに、その光景が失望をもたらすものであれば、正に来た甲斐がなかったというものだ。しかし、実際はそうではなかったのである!
そんな具合ではあったが、実のところ、村木が阿寒湖を訪れるのは、今回が初めてではなかった。村木は四十代の時に一度、五十代の時に二度、阿寒湖を訪れていたのだ。そして、四十代の時には、何と雄阿寒岳登山も行なっていたのだ!
そんな村木であったから、阿寒には少なからずの思い出があった。
それで、村木は、
「僕は富ちゃんから阿寒に行ってみたいと言われ、すぐに飛び付いたのは、阿寒には随分思い出があるからなんだよ」
と、いかにも感慨深げに言った。
「思い出ですか……。それ、どんなものですかね?」
村木にそう言われるまで、雄阿寒岳の方にじっと眼をやっていた富子は、思わず村木に眼をやっては、興味有りげに言った。
「うん。僕が四十五の時に、雄阿寒岳登山を行なったことがあるんだよ」
と、村木は雄阿寒岳を見やりながら、再び感慨深げに言った。
「雄阿寒岳って、あの山ですかね?」
富子は、雄阿寒岳と思われる円錐形をした山を指差しては言った。
実のところ、富子が阿寒を訪れるのは、今回が二度目であった。それ故、雄阿寒岳がどの山なのかは無論知っていたし、また、温泉街からボッケに続く散策路も歩いたこともあるし、また、今、村木と共にいるこの桟橋の上にも立ったことがあったのである!
しかし、富子はそのことを富子の胸の内に留め、村木には阿寒を訪れるのは、今回が初めてだと言ってあったのだ!
それはともかく、富子の言葉を受け、村木は、
「そうだよ。あの山だよ。で、僕はその時、決して忘れることの出来ないとんでもない体験をしたのだよ」
と、些か苦笑しながら言った。
「とんでもない体験ですか……。それ、どういったものですかね?」
富子は再び興味有りげに言った。
すると、村木は眼を大きく見開き、
「この阿寒周辺には、ヒグマが棲んでることを知ってるかい?」
「ええ。聞いたことがありますわ」
富子は村木の問いに間髪を入れずに答えた。
「そうか。じゃ、話し易い。で、雄阿寒岳周辺にもヒグマが棲んでいてね。で、僕と僕と共に雄阿寒岳登山を行なっていた長谷君という僕の友人の二人がその途中でヒグマと遭遇してしまったんだよ」
そう言い終えた村木はかなり興奮してるかのようであった。
「まあ! 一体どの辺りで遭遇されたのですか?」
富子も些か興奮した様を浮かべては、村木をじっと見やっては言った。
「次郎湖を過ぎて数分経った頃だったな。次郎湖って、知ってるかい?」
「いいえ。知りませんわ」
富子は眉を顰めては言った。実際にも、富子は次郎湖のことを知らなかったのである。
「雄阿寒岳の登山口は、阿寒湖の外れにある滝口という所なんだが、その滝口から少し歩くと、太郎湖という小さな湖があって、その太郎湖から少し歩くと、次郎湖に着くんだよ。で、次郎湖も太郎湖と同じく、小さな湖なんだよ。
で、その次郎湖から雄阿寒岳山頂までは約三時間近くの上りとなるんだが、その次郎湖から数分歩いた時にヒグマと遭遇してしまったんだよ」
と、村木はまるでその時のことをつい先程のことであるかのように、いかにも興奮気味に言った。
「ヒグマと遭遇してから、どうしたのですか? ヒグマは襲って来たのですかね?」
富子は眼を大きく見開き、好奇心を露にして言った。
「いや。それが、結局、襲われはしなかったんだよ。もし、襲われていたら、僕は今、この場にいないだろうからね」
と言っては、村木は苦笑いした。
「それもそうですね」
富子も村木に釣られて、苦笑した。
だが、そんな富子の表情を具に見れば、富子の表情は、その笑いの奥にいつもの富子には見られない翳を見ることが出来ただろう。
しかし、阿寒の光景、そして、富子との会話に夢中になっている村木には、その富子の笑いの奥に潜んでいる翳に気付くことはなかったのである。
それはともかく、村木は更に話を続けた。
「で、僕たちとヒグマが遭遇したのは、何と雄阿寒岳に向かう登山道だったんだが、ヒグマは早朝とか夕方、薄暗い日なんかによく出没すると聞かされていたんだ。だが、その日は晴れていたし、また、その頃は既に九時を過ぎていたから、僕たちはまさかヒグマと遭遇するなんて、思ってもみなかったんだ。
で、僕たちの眼前七、八メートル位の所に突如、藪からヒグマが姿を現わしたんだよ。体重が二百キロ位ありそうな真黒なヒグマだった。その時の僕たちの驚きや恐怖は、とても言葉では現わせない位のものだったよ」
と、村木は興奮気味に言った。正に、その時のことは決して忘れられないと言わんばかりであった。
「で、それから、どうなったのですか?」
富子は、その村木の話の続きを是非聞きたいと言わんばかりに、村木を急かすかのように言った。
「うん。で、僕たちがヒグマを見て驚いたように、ヒグマも僕たちを見て驚いたんじゃないのかな。何しろ、ヒグマは立ち上がり、仁王立ちしたからな。
そんなヒグマを見て、長谷君は何と腰を抜かしてしまい、動けなくなってしまったんだよ。
で、僕はそんな長谷君を一人残し、僕だけで逃げるわけにもいかなかったから、僕はまるで阿修羅のような表情を浮かべては、ヒグマを睨め付けてやったんだ。正に殺さなければ、殺されてしまう! そう僕は思い、気力で僕はヒグマを打ち負かしてやろうと思ったんだよ。
そして、僕とヒグマの睨み合いは一分位続いたんじゃないかな。
すると、その後、ヒグマは僕たちに背を向けて、藪の中に去って行ったんだよ。
ヒグマが去って行くと、僕も長谷君のように、まるで腰を抜かしたかのように、その場に座り込んでしまったというわけさ」
気力はまだしっかりしてるものの、その身体はもはやポンコツ車に近いと思われる村木の口からこのような話を聞かされるなんて、富子は思ってもみなかった。そして、当たり前のことだが、村木にも若かった日々があったんだと思った。
そんな富子に構わず、村木は更に話を続けた。
「僕はその時、ヒグマが立ち上がり、仁王立ちしたのは、僕たちを攻撃する為だと思ったんだが、どうもそうでなかったみたいだということが、後で分かったんだよ。つまり、仁王立ちしたのは、僕たちを攻撃する為ではなく、僕たちを威嚇する為だったみたいなんだよ。
で、もしその時に、僕たちがヒグマに背を向けては逃げ出していたとしたら、恐らく僕たちはヒグマに襲われていたと思うんだよ。ヒグマは背中を見せて逃げるものを襲う習性があるらしいからね。
だから、長谷君が腰を抜かして動けなくなったことが、結果的に僕たちの命を救ったと、僕は思ってるんだよ」
と、村木はいかにも感慨深げに言った。
富子はといえば、そんな村木の話に、いかにも興味有りげな表情を浮かべては耳を傾けているかのようであったが、実のところ、富子は村木の話は上の空であった。何故なら、富子は今から村木を桟橋から突き落とし、村木殺しを行なわなければならないのだから。
そんな富子の表情は甚だ強張っていた。そんな富子の表情は村木が今までに眼にしたことのない位のものであった。
そして、富子はその時、辺りを素早く見回した。
すると、辺りに人気がないことはすぐに分かった。
それで、富子は今がチャンスとばかりに、村木の身体を何と桟橋から阿寒湖に突き落としたのである!
「ドブン!」
という音が聞こえたようであった。
しかし、阿寒湖の立てるさざ波の音が、村木が阿寒湖に落ちた時に立てた「ドブン!」という音を掻き消したかのようであった。
富子は村木の身体が阿寒湖に沈んだのをはっきりと眼に捕らえた。
それで、富子もすかさずその後を追うように、阿寒湖に飛び込んだ。そして、程なく水面下で村木の身体を見付けたが、その時は既に村木の意識はなかったようであった。もはや頭をだらりと垂れ、また、両手、両足も力なくだらりと垂れていたからだ。こんな村木を眼にすれば、富子はわざわざ阿寒湖に飛び込む必要はなかったと後悔した程であった。
そんな富子はとにかく村木の身体が力なく湖底に横たわったのを確認すると、桟橋を支えている杭にしがみつき、助けを待った。そんな富子は今、正に生きた心地がしなかったのであった。