第四章 不幸な老人

 富子の異変に気付いたのは、米川隆(60)と治子(55)という東京から阿寒へと観光旅行にやって来た夫婦であった。
 米川夫妻は、女満別空港でレンタカーを借りては、まずオンネトーに行った。そして、オンネトーの散策路を少し散策し、それから阿寒へと向かった。
 阿寒に着くと、まず阿寒湖畔スキー場へと行き、冬はスキーのゲレンデとして使われてる斜面にある展望台からの眺めを堪能した。
 その後、米川夫妻の宿泊先である某ホテルでチェックインを済ませ、部屋の中で少し休憩した後、ボッケにやって来たのだ。
 今日はウィークディであり、また、午後四時を過ぎた頃に温泉街を後にした為か、米川夫妻が散策路を歩いてる時に擦れ違った人は、四人程であった。
 だが、それは米川夫妻にとって好ましいことであった。何故なら、この時、米川夫妻は阿寒の自然を独り占めに出来たという思いに浸ることが出来たのだから。
 それはともかく、米川夫妻はボッケに着くと、早速ボッケ見物をすることにした。
 ボッケとは、火山活動の名残で、ボコボコと熱泥を吹き上げていて、この熱泥の温度は百度近くもあるという。
 阿寒は正に生きている。また、活動してる。そう実感させるのが、ボッケであった。
 因みに、このボッケなるものは、阿寒湖の中とか、先程訪れた阿寒湖畔スキー場付近にもある。
 それはともかく、米川夫妻はやがて、ボッケ前にある桟橋へと向かった。
 桟橋といっても、その桟橋に船が接岸することもなさそうなのだが、岸辺から少し阿寒湖へと突き出してる為に、そこからの方が阿寒の自然を一層堪能出来そうなので、米川夫妻は早速桟橋の先端にまでやって来た。
 すると、治子は感嘆の声を上げた。
 治子の右手には、正に緑豊かで雄大な雄阿寒岳の山容を眼に出来、また、辺りは宝石が煌めくような阿寒湖だ。正に、観光ガイドの写真で見られる光景そのものが、今、治子の眼前に展開してるのだ!
 阿寒湖を訪れるのが初めてという治子が、今、治子の周囲に拡がってる光景を眼にして感嘆の声を上げるのは、至極当然のことであったのだ!
 そんな治子は、ふと足下の方に眼をやった。
 すると、治子の表情から忽ち笑みが消えた。そして、治子の表情は忽ち強張ったものへと変貌した。その治子の表情はとても尋常なものとは思えなかった。
 そんな治子を眼にして、隆は、
「どうしたのかな?」
 と、些か怪訝そうな表情を浮かべては言った。
 すると、治子は表情を強張らせたまま、
「あなた! あれを見て!」
 と、甲高い声で言っては、その場所を指で示した。というのは、治子の真下辺りの桟橋を支えている杭に女性が力無くしがみつき、その女性は今にも死にそうな塩梅であったからだ。
 それを眼にすると、隆は何ら躊躇うことなく衣服を脱ぎ棄ててはパンツ一枚の恰好になると、湖に飛び込み、富子を抱き抱えた。
 すると、富子は、
「村木さんが……」
 と、力なく呟くように言った。
 だが、隆はその富子の言葉の意味が分からなかったので、
「はっ?」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。 
 そんな隆に富子は、
「村木さんがまだ湖にいるのです」 
 と、再び力なく言った。
 それで、隆は辺りに眼を向けた。だが、特に異変を感じることは出来なかった。
 だが、この時、富子の意識は無くなってしまったのだ。
 とはいうものの、隆はやがて確かに人間と思われるものが、湖底に横たわってるかのような状況を眼に留めた。
 だが、隆は湖底に沈んでいる人間を助けるだけの体力、気力というものを持ち合わせてはいなかった。
 それで、治子に、
「救急車を呼んでくれ!」
 と、叫んだ。
 だが、治子は携帯電話を持ってなかった。
 それで、温泉街まで駆け足で戻らなければならなかった。
 そういった事情の為に、村木の遺体が陸に引き揚げられるまで少し時間が掛かってしまったのである。

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