第六章 牙を剥く女
だが、そんな警察の決定に異議を申し立てた人物が現われた。
その人物は村木の姪の江川香という四十歳の女性であった。
香はその年代の女性としては平均的な容貌の持ち主であったが、黒縁の眼鏡を掛けた容貌からは、個性的で理知的な印象を抱かせた。
そんな香は、
「伯父さんは殺されたに違いありません!」
と、村木の死を捜査したという長沼に会う為に、遥々九州から釧路にまでやって来ては憤然とした様で長沼に抗議した。
だが、その香の言葉は、長沼には寝耳に水であった。
それで、長沼は思わず表情を強張らせては、
「殺された? そんな馬鹿な!」
と、素っ頓狂な声を上げた。
「そうです! そうに違いありません! 殺したのは、無論、あの岡野富子という女です!」
と、香は再び憤然とした様で言った。
その香の言葉も、長沼にとって寝耳に水であった。岡野富子とは、村木のことを助ける為に阿寒湖に飛び込み、そして、村木の遺体の前で号泣した女性だ。長沼はその時の富子の様が今でも眼に焼き付いていた。そんな富子が一転して、殺人犯だという。
果して、そう言った江川香の主張が正しいのかどうかは、今の長沼では皆目分からなかった。
しかし、長沼はとにかく香の話を聞いてみることにした。
「どうして江川さんはそう思うのですかね?」
長沼は黒縁の眼鏡が印象的な香の顔をまじまじと見やっては言った。
「どうしてって、そりゃ、岡野富子という女は伯父さんのお金を目当てに近付いたのですよ。そして、伯父さんの機嫌を取り、伯父さんのお金をそっくりと手にしようとしたのですよ。そして、それがうまく行きそうになったので、伯父さんの気が変わらない内に、伯父さんを殺したのです! そうに違いありません!」
香は顔を真っ赤にしては、正に声を上擦らせては言った。
そう香に言われ、長沼は困惑したような表情を浮かべては言葉を詰まらせた。あの誠実そうな岡野富子という女性は、香が言ったような女性には見えなかったからだ。
とはいうものの、香がこれだけ向きになって訴えるからには、何かしかるべき根拠があるのかもしれない。
それで、長沼は困惑げな表情を浮かべながらも、
「そのように言われてもねぇ……。岡野さんが村木さんを殺したという証拠があれば、話は別なのですがね」
そう長沼に言われ、香の言葉は詰まった。何しろ、富子が村木を殺したという証拠は、香はまるで持ってなかったからだ。
だが、香は、
「でも、まだ三十にもならない女が、八十に近い男と親しく付き合うなんてことは常識的に有り得ませんよ。それ故、その目的は金なんです! お金しか考えられないじゃないですか!」
と、甲高い声で言った。
「そりゃ、そうかもしれません。しかし、そうだからといって、岡野さんが村木さんを殺したとは限らないじゃないですか」
長沼は眉を顰めては言った。
「いいえ! あの女は、伯父さんが自宅に保管していたお金だけではなく、銀行預金なんかもそっくり手にしてるかもしれません! そうに違いありません!」
香は正に声を上擦らせては言った。そんな香の様から、香が興奮してることが十分に分かった。
そう香に言われ、長沼は少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「そうだからといっても、岡野さんが村木さんを殺したとは言えないですよ。それに、今、江川さんが言われたようなことは民事上の問題であって、我々警察が扱う問題ではないと思いますがね」
長沼は、香の気持ちは分からないこともないが、香が言うようなことは、長沼たち警察が関与する事柄ではないと言わんばかりに言った。
すると、香は少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「岡野さんが伯父さんを殺した場面を目撃したというような情報は警察に寄せられていないのですかね?」
と、眼をギラギラと輝かせては、殺気立った表情で言った。
「そのような情報はまるで寄せられていませんね」
長沼は香に言い聞かせるかのように言った。その長沼の様は、香の気持は分からないこともないが、村木を富子が殺したというような滅多なことは口にすべきではないと、香を諫めているようであった。
そう長沼に言われると、香はいかにも悔しそうな表情を浮かべては言葉を詰まらせた。
そんな香を見て、長沼は、
「とにかく、江川さんが言ったようなことは、調べてみますよ。でも、江川さんが言ったように、岡野さんが村木さんの金目当てに付き合っていたとしても、それが法に触れるというわけではないし、また、岡野さんが村木さんを殺したというのはまだ想像上の話で何ら証拠はありませんので」
と、香に言い聞かせるかのように言った。
香はといえば、長沼にそう言われると、いかにも悔しそうな表情を浮かべたが、しかし、香の口からは長沼の言葉に対する反論は出なかった。
それで、長沼は、
「とにかく、岡野さんのことは、調べてみますから」
と、再び香に言い聞かせるかのように言った。
それで、香はいかにも悔しそうな表情を浮かべながら、渋々と釧路署を後にしたのであった。
江川香なる女性から思い掛けない話を聞かされてしまった長沼は、今、甚だ困惑したような表情を浮かべていた。何故なら、江川香からの話を聞くまでは、村木の死がまさかその連れであった岡野富子によってもたらされたなんて思ってみたこともなかったからだ。
しかし、万一ということもある。
それで、岡野富子が東京の人間であることから、警視庁に捜査協力を依頼し、岡野富子のことを捜査してもらうことにしたのだ。