第七章 捜査開始
北海道警の長沼という警部補から、今、事件の概要の説明を受けた警視庁の小森次郎警部補(36)は、阿寒湖で死んだ村木藤次郎という男性の姪である江川香の主張はもっともなことだと思った。
犯罪捜査に携わるようになって十年となる小森は、今、中堅刑事として活躍していたが、そんな小森の勘が、村木の死は殺しによってもたらされたと告げたのである。
しかし、長沼によると、村木が富子によって阿寒湖に突き落とされた場面を眼にしたというような決定的な情報は何ら寄せられてないという。更に、村木の死は水死であったことが確認されたが、村木の遺体は既に荼毘に附されたとのことだ。
それらのことから、もし村木が富子によって殺されたのだとしても、それを裏付けることは困難と思われた。
とはいうものの、この事件に関して北海道警から捜査協力の依頼を受けたので、小森はとにかく阿寒湖で七十六年の生涯を終えたという村木藤次郎と共に阿寒湖に来ていたという岡野富子という女性に会ってみて、富子と話をしてみることにした。
富子が住んでるマンションは、新宿から小田急線でしばらく行った所にある閑静な住宅街にあった。そのマンションは2DK位と思われ、富子は202号室に住んでいた。
そんな富子のマンションを小森が訪れたのは、六月の終わりに近い水曜日の午後八時頃のことであった。
小森が玄関扉横にあるブザーを押すと、すぐに富子と思われる女性が小森の前に姿を見せた。
小森はすかさず警察手帳を見せては、
「岡野富子さんですか?」
すると、富子は黙って肯いた。
すると、小森も小さく肯き、そして、
「岡野さんに少し訊きたいことがありましてね」
と、些か神妙な表情を浮かべては言った。
小森は富子のことを一眼見て、何処にでもいるような平凡な感じの女性だと思った。それ故、このような女性が人殺しを行なうだろうかと思ったりもした。
それはともかく、小森の言葉を受けて、富子は、
「それ、一体どういったことですかね」
と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。そんな富子は、警視庁の警官に来訪される覚えはないと言わんばかりであった。
そんな富子に小森は表情を改めては、
「六月の初めに岡野さんと共に阿寒湖に行き亡くなった村木さんのことなんですよ」
そう小森が言うと、富子の表情は少し乱れた。だが、すぐに元の表情に戻った。
そんな富子に、
「岡野さんは村木さんとはどのような関係だったのですかね?」
と、小森は富子の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、富子は今度は渋面顔を浮かべては、
「それは、北海道の警察の方に話しましたが」
「ですから、改めて話していただきたいのですよ。北海道警の長沼さんには、単なる知人という位の説明しかしてなかったそうですが」
小森も渋面顔を浮かべては言った。
そう小森に言われると、富子はいかにも不快そうな表情を浮かべた。そんな富子は、そのようなことまで警察に話さなければならないのかと言わんばかりであった。
案の定、富子は、
「そのようなことまで、どうして警察に話さなければならないのですかね? 何か理由があるのですかね?」
と、いかにも納得が出来ないような表情と口調で言った。
すると、小森は表情を和らげ、
「ですから、捜査は念には念を入れないとね。というのも、村木さんの死は事故によってもたらされたのではなく、殺しによってもたらされたと言う人がいるのですよ。その人は、村木さんの身内なんですけどね」
そう小森に言われると、富子の言葉は詰まった。そして、富子の表情は幾分か赤味を帯びたかのようであった。富子は正に小森の話に動揺したかのようであった。
そんな富子に、小森は話を続けた。
「で、もし村木さんが殺されたとしたら、犯人の可能性が最もあるのは、岡野さんだというわけですよ。何しろ、岡野さんは村木さんが死んだ時に、村木さんの近くにいたわけですから」
と、小森は富子の顔をまじまじと見やっては言った。
「私は村木さんを殺してなんかいませんわ!」
富子は小森の言葉に間髪を入れずに反発した。そんな富子は、いかにも不快そうであった。
すると、小森は表情を和らげ、
「岡野さんが村木さん殺しの犯人だと断言はしてませんよ。ただ、岡野さんは疑われてもやむを得ない立場だと申し上げてるわけです。
それ故、岡野さんは我々の岡野さんへの疑いを晴らす為にも、岡野さんが知ってることを洗い浚い僕に話してもらいたいのですよ」
と、富子に言い聞かせるかのように言った。
その小森の言い分に納得したのか、富子は、
「どういったことを話せばよいのですかね?」
と、小森の顔をまじまじと見やっては言った。
「ですから、岡野さんは村木さんとはどういった間柄なんですかね? また、五十歳近くも年齢が離れてるのに、どうして岡野さんは村木さんと付き合うようになったのですかね?」
と、小森は富子の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、富子は小森から眼を逸らせては二十秒程、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「私は、宝石のセールスレディをやっています。そして、私は宝石のセールスレディとして、村木さん宅を訪れました。そういう風にして、私と村木さんは知り合ったのです。
で、村木さんは私が初めて村木さん宅を訪れた日に何と五十万もの宝石を購入してくださいました。それで、私は村木さんのことを上客と看做し、村木さん宅を何度も宝石のセールスレディとして訪れました。そういう風にして、私と村木さんは親しくなって行ったのです」
と、小森を見やっては、淡々とした口調で言った。
そのように富子に言われ、小森はその富子の説明に不審点を見出すことは出来なかった。即ち、富子はその点に関しては真実を話したと小森は思ったのだ。
そんな小森は、
「で、岡野さんが働いてるのは、何というお店なのですかね?」
「『青木ジュエリー』というお店です」
「『青木ジュエリー』ですか……。何人位従業員はいるのですかね?」
「十人位ですね」
「では、『青木ジュエリー』は何処にあるのですかね?」
と、小森が興味有りげに言うと、富子は、
「そのようなことを訊いて、どうなさるつもりですかね?」
と、些か納得が出来ないように言った。
「ですから、参考の為に知っておきたいのです」
そう言った小森の表情は穏やかなものだったが、眼は冷やかなものであった。
そんな小森を見て、富子は、
「新宿区内にあります」
「じゃ、連絡先を教えてください」
そう小森に言われたので、富子は富子の名刺を小森に渡した。その名刺には、「青木ジュエリー」の連絡先が記されていた。
小森はその名刺を大切なものを扱うようにポケットに仕舞った。
それはともかく、村木の姪の江川香の話だと、村木が持っていた現金の内、一億を超える位が紛失してるとのことだ。そして、その一億を富子が手にしたのではないかという。
それで、小森はその点を富子に話してみた。
すると、富子は小森から眼を逸らせては、なかなか言葉を発そうとはしなかった。
そんな富子に小森は、
「村木さんから岡野さんに渡ったお金が、宝石の購入費とか、あるいは、岡野さんにくれたものであるのなら、何ら問題はないのですよ。村木さんが村木さんのお金をどのように使うかは、村木さんの自由ですからね。
それ故、一体幾ら位、岡野さんは村木さんのお金を手にしたのですかね? 正直に話してもらえないですかね」
と、富子を見やっては、穏やかな表情と口調で言った。
すると、富子は、
「その問いには、すぐには答えられません。村木さんが買ってくださった宝石が全部で幾らだったのか、計算しなければなりませんので」
と言っては、過去に思いを巡らすかのような仕草を見せた。そして、
「で、宝石の購入金額だけではなく、私が村木さんから貰ったお金も含めるのですよね?」
「そういうことです」
小森は小さく肯いた。
そう小森に言われ、富子は再び過去に思いを巡らすかのような表情を浮かべては、少しの間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「宝石は全部で四千万程買っていただいたと思います。また、私が村木さんからいただいたお金は一千万位だと思います。つまり、村木さんから私に渡ったお金は、全部で五千万位だと思います」
と、富子は神妙な表情を浮かべては言った。
「五千万ですか……」
小森も神妙な表情を浮かべては、呟くように言った。
すると、富子は神妙な表情を浮かべたまま、小森から眼を逸らせ、言葉を詰まらせた。
小森はといえば、富子から眼を逸らせては、富子と同じように言葉を詰まらせてしまった。
というのは、江川香の話だと、村木の金で紛失したと思われるのは、一億を超える位だとのことだ。だが、富子が手にしたのは、五千万だという。となると、五千万以上の金が紛失してると思われるのだ。
それで、小森はその小森の思いを話した。
すると、富子は、
「そのように言われても、私ではよく分からないですわ」
と、いかにも困惑したような表情を浮かべては言った。
だが、小森は富子の話を信じる気にはなれなかった。即ち、富子は村木から五千万どころか、一億以上、手にしたというわけだ。そして、その一億の中には、不正な手段を用いて手にしたものが含まれてるというわけだ。だが、その経緯を小森に話すわけにはいかないので、富子は小森に嘘をついたというわけだ。
それはともかく、小森は村木の銀行の口座を調べてみた結果、ここしばらくの間で五千万、一億といった金が引き出されたという事実は?めなかった。ということは、村木は自宅に大金を保管していたのだろうか? そうであれば、正に捜査はやりにくいというものだ。
また、富子の銀行預金も調べてみたのだが、最近になって、何千万といった大金が入金されたという事実は?めなかった。
そういったことから、今日はこの辺で小森は富子から話を聴くのを終え、富子宅を後にした。
そして、翌日、富子が働いてるという「青木ジュエリー」に行っては、富子に関する聞き込みを行なってみることにした。
「青木ジュエリー」は新宿の繁華街から少し離れた所にある小さな店であったが、富子のようなセールスレディの売り上げが多くを占めてるとのことであった。
それはともかく、「青木ジュエリー」の社長の青木淑子に、岡野富子が村木藤次郎という老人と六月の初めに阿寒湖に行き、その時に村木が阿寒湖に落ちて死んでしまった事故のことを知ってるかと訊いてみた。
すると、淑子は、
「知ってますよ」
それで、小森は、
「で、岡野さんと村木さんは個人的に親しく付き合っておられたとか。それで、二人は時々、旅行もしてたらしいのですよ」
と、淑子の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、淑子は神妙な表情を浮かべては小森から眼を逸らせ、言葉を発そうとはしなかった。
それで、小森は、
「青木さんは、岡野さんと村木さんが個人的に親しく付き合っていたことをご存知でしたかね?」
「そのようなことを耳にしたことはありますね」
淑子は小森をちらちらと見やっては、決まり悪そうに言った。
「『青木ジュエリー』では、セールスレディとお客が個人的に親しく付き合うことに、特に決まりなんかはないのですかね?」
「そのようなものは特にないですね。何しろ、うちは成果主義ですから」
淑子は小森から眼を逸らせては、素っ気なく言った。
「そうですか。で、岡野さんが岡野さんのお客の村木さんと阿寒湖に旅行に行った時に、村木さんは阿寒湖に落ちて水死してしまったのですが、そのことに関して、青木さんはどのように思われますかね?」
と、小森は淑子の顔をまじまじと見やっては言った。
「どのように思われるとは?」
淑子は、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
すると、小森は眉を顰めては、
「実はですね。村木さんの身内の者が、村木さんは岡野さんに阿寒湖で殺されたと言うのですよ。あまりにもその身内が真剣にそう言うので、我々も無視出来なくてね」
と、決まり悪そうに言った。
すると、淑子の表情は忽ち強張った。その淑子の表情は、正にその小森の言葉は思ってもみなかったものだと言わんばかりであった。
案の定、淑子は、
「信じられませんね。そのような話は」
と、いかにも信じられないと言わんばかりに言った。
「何もそうだと断言はしてませんよ。でも、その身内の話には引っ掛かる点がありましてね。というのは、その身内によると、村木さんのお金が一億以上紛失し、そのお金が岡野さんに渡ったと言うのですよ。で、その点を岡野さんに確認してみたところ、岡野さんから買った宝石の金額が四千万、岡野さんに対する小遣いのようなお金が一千万、つまり五千万が村木さんから岡野さんの手に入ったというのですよ。
でも、その点を考慮しても、尚五千万以上のお金が紛失したと思われるのですよ。
で、その五千万以上のお金が岡野さんに渡り、また、そのお金の為に岡野さんは村木さんを殺したとその身内は言うのですよ」
と、小森は決まり悪そうな表情を浮かべては言った。そんな小森は、正にこのようなことは言いたくないと言わんばかりであった。
すると、淑子は小森から眼を逸らせては、少しの間、言葉を発そうとはしなかった。
だが、やがて、
「私は岡野さんはそのようなことはやらないと思います」
と、淡々とした口調で言った。
「では、そのような噂は流れてませんかね?」
「流れてませんね」
淑子はきっぱりと言った。
それで、小森は店内にいた後二人の「青木ジュエリー」の従業員に、淑子に対して行なったのと同じような問いを発したのだが、成果を得ることは出来なかった。
それで、小森はこの辺で「青木ジュエリー」を後にすることにしたのだった。