第八章 不安

 時間は少し前に戻るが、富子は今、強張った表情を浮かべていた。というのは、先程警視庁の小森とかいう警官がやって来ては、村木の死に関して富子に何だかんだと訊いて来たからだ。
 もし、富子に何ら後暗いものがなければ、富子は小森の訪問に、何ら怯む必要はない。
 だが、富子には後暗いものがあるのだ。何しろ、富子は村木を殺したのだから。村木は、富子によって桟橋から阿寒湖に突き落とされ、命を果てたのだ! そして、それは正に富子の計算通りだったのだ!
 しかし、そんな富子に躊躇いがなかったわけではなかった。五十歳近くも年齢が離れているとはいえ、交際期間が一年となり、また、今まで何度も肌を合わせた間柄ともなれば、その相手を無情にも犬畜生のように息の根を止めることに何ら躊躇いを感じないとすれば、それは人間とはいえないであろう。
 では、何故富子はその躊躇いを振り切り、村木殺しを実行したのであろうか? やはり、金の為であろうか?
 勿論、それもあった。
 村木の姪の江川香が、村木の一億を超えると思われる金が紛失したと主張したのだが、実のところ、その主張は当たっていたのだ!
 村木は銀行に預金していても、雀の涙しか利息がつかない為に自宅に億を超える現金を保管していたのだ。そして、その旨を村木は村木の妹、即ち、香の母親に話してあったのだ。そして、香たち村木の身内はその金を見付けることが出来なかった為に、香が警察に訴え出たというわけだ。
 また、富子は村木と何度も肌を触れ合っている内に、そのことを知るに至った。
 そして、富子はそのことを富子の彼氏である鬼頭辰五郎に話した。
 すると、鬼頭は、
「村木を殺すんだ!」
 と、正に鬼のように表情を険しくさせては言った。
 それを聞いて、富子は?然とした表情を浮かべた。それは、正に富子が思ってもみなかった言葉であったからだ。
 富子が鬼頭と知り合ったのは、某専門学校であった。富子は宝飾品のデザイナーを夢見て、東京都内の某専門学校に入学した。そして、その同級生に鬼頭辰五郎がいたのである。
 そして、富子は鬼頭と毎日顔を合わせてる内に、自ずから鬼頭と親しくなり、やがて二人で食事をするようになった。
 そんな二人が男女関係を持つのにさ程時間は掛からなかった。
 そして、一度関係してしまえば、もうブレーキの利かないダンプカーみたいなものであった。二人は、デートする度に肌を合わせる間柄となったのだ。
 しかし、その日々は長くは続かなかった。というのは、鬼頭が専門学校を止めてしまったからだ。
 とはいうものの、富子と鬼頭の関係にピリオドが打たれることはなかった。富子と鬼頭は以前程頻繁ではないものの、デートを行ない、その関係は現在にまで続いていたのである。
 そんな富子と鬼頭は、新宿にあるラブホテルで久し振りに男女の交わりを果たした時に、鬼頭はそのように言ったのである。
 富子は鬼頭のあまりにもの衝撃的な言葉に、思わず言葉を失ってしまった。そして、甚だ表情を強張らせた。
 すると、鬼頭は富子を抱き寄せ、そして、その形の良い乳房を鷲?みにしては、揉みしだいた。
 すると、富子の口からは、思わず喘ぎ声が発せられた。
 そんな富子の耳朶に、鬼頭は鬼頭の顔を近付けては、熱い吐息を吹っ掛けた。
 すると、富子は全身に快感が走った。鬼頭は富子の耳朶に鬼頭の熱い吐息を吹っ掛けると、快感が富子の全身を貫くことを知っていた。それで、鬼頭はその行為を実行したのだ。
 そして、鬼頭は富子の様を見て、富子が明らかに快感を感じたことを確認した。
 そうなってしまえば、もはや鬼頭がご主人様で、富子はご主人に仕える召使みたいなものだ。
 そう察知した鬼頭は、更に鬼頭の思いを富子に語った。
「その村木という爺さんは、一人暮らしなんだろ?」
「ええ」
「もうろくし始めてるんだろ?」
「まあ、そんな所もあるね。といっても、まだ意識はしっかりしてるの。でも、時々物忘れをするし、足腰もかなり弱くなってるわ」
 富子は神妙な表情で、また、淡々とした口調で言った。
「そうだろ。だったら、そんな爺さんを殺すことは、容易いことじゃないか!」
 鬼頭はまるで野獣のように眼をギラギラと輝かせては、甲高い声で言った。
「……」
「俺、何としてでも独立して、店を持ちたいんだ。そうするには、金が必要なんだ! それも七千万、八千万という大金が!
 でも、俺にはそんな大金はありゃしないんだ! だから、村木爺さんの金が何としてでも必要なんだ!」
 鬼頭は再び野獣のように眼をギラギラ輝かせては、甲高い声で言った。
「……」
「だから、頼むよ。何とかして、村木爺さんの金を奪ってくれよ!」
 そう言っては、鬼頭は少しの間、富子の乳房から離していた手を、再び富子の乳房へと持って行った。そして、再び富子の乳房を鷲?みにしては揉みしだいた。
 更に、もう一方の手で、富子の背中を撫でまくった。
 その鬼頭の愛撫に富子は堪らず、
「ああ……」
 と、歓喜の声を上げた。
 その富子の歓喜の声を聞き、鬼頭はしばらくの間、富子への愛撫を止めようとはしなかった。そんな鬼頭は今、富子に奉仕してるかのようであった。
 そんな鬼頭はやがて、
「俺が店のオーナーになったら、富ちゃんと正式に結婚してもいいよ。富ちゃんだって三十に近いのだから、そろそろ身の振り方を決めなければならないんじゃないかな」
 鬼頭にそう言われ、富子の心は動いた。
 何しろ、富子は今年の六月に二十九となった。それ故、後一年で三十となってしまうのだ。そして、女として高く売れるのは、三十までだと、富子は看做していたのだ!
 それ故、富子は三十までに結婚したいと、兼々思っていたのだ。
 そして、富子にはその相手が鬼頭しかいなかったのである! 何しろ、富子は今までに鬼頭以外の男は知らなかったのである!(村木を別として)
 富子は専門学生であった十九歳の時に、鬼頭に初めて抱かれた。そして、それが富子にとって、初体験であったのだ。
 そして、その後、富子は鬼頭以外の男と付き合ったり、また、抱かれたことはなかったのである!(村木を別として)
 それ故、富子が富子の結婚相手として頭にあるのは、鬼頭以外にはなかったのである!
 そして、その富子の思いは、三年程前から、鬼頭と肌を合わせる度に、鬼頭に話したものであった。
 すると、鬼頭は、
「まだ、安定した収入が得られないんだ。だから、今の状況では富ちゃんを貰うことは出来ないよ」
 と、富子の思いをはぐらかすのが常であったのだ。
 それ故、富子は万一鬼頭と結婚出来なければ、一生独り身でいようかと思う此の頃であったのだ。
 そんな折に、富子は鬼頭から思い掛けない衝撃的な話を聞かされてしまったのである。
 鬼頭の持ち出した話になかなか首を縦に振ろうとしない富子に、鬼頭は何度も、
「頼むよ。俺と富ちゃんの夢を実現する為にも、何としてでも協力してくれよ!」
 と、正に拝むように言った。
 すると、富子はやっと言葉を発した。
「村木さんを殺さないで、お金だけを奪うわけにはいかないの?」
 富子はこのようなことは口には出したくなかったのだけれど、今や富子のフィアンセ同然の鬼頭にそのように拝み倒すように言われてしまえば、それ位のことは言わざるを得なかったのである。
「殺さずにお金だけ奪うなんてことが出来るのかい?」
 鬼頭は思わず眉を顰めた。
「そりゃ、出来ると思うわ。村木さんの金庫が何処にあるか知ってるし、その金庫の暗証番号も分かってるから」
 富子は以前、村木が金庫を開けた時に暗証番号を盗み見して覚えていたのだ。
「なるほど。でも、村木爺さんの金庫に入っていた金が盗まれれば、盗んだのは富ちゃんだと、村木爺さんは気付くんじゃないのかな」
 そう鬼頭に言われると、富子は言葉を詰まらせた。そして、少しの間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「その可能性はあるな。村木さんは村木さんの金庫の隠し場所は誰も知らないと言ってたから」
 と、富子はいかにも決まり悪そうな表情で言った。
「つまり、金庫の隠し場所は富ちゃんしか知らないというわけか」
「まあ、そんな感じね」
 そう富子に言われると、鬼頭はいかにも険しい表情を浮かべては小さく肯き、
「で、その金庫は何処に隠してあるんだ?」
「村木さんの寝室として使ってる六畳間の床下に隠してあるのよ。その六畳間の畳の一つを外すと、その下が物入れとなっていて、その中に金庫が隠してあるというわけ」
「なるほど。でも、村木爺さんは何故その隠し場所を富ちゃんに話したんだい?」
 鬼頭は些か納得が出来ないように言った。
「私と村木さんが今の私と辰ちゃんのように、布団の上で肌を合わせていた時に、村木さんはつい口を滑らせてしまったみたいね。
 それで、私は『その隠し場所を見せてよ』と、冗談半分に言ったら、何と村木さんは畳を外しては、金庫を見せてくれたの。更に、金庫の中を開けては、一億を超える位の札束も見せてくれたわ。私、あんなにたくさんの札束を見たのは、初めてだったわ。私、もう眼を白黒させてたの」
 と、富子はまるでその時の驚きは、決して忘れることは出来ないと言わんばかりに言った。
「そうか……。で、その金庫は今も、その隠し場所にあるのかい?」
 鬼頭は、些か真剣な表情を浮かべては言った。
「そう思う」
「だったら、その金庫の中の金が盗まれたら、その犯人は富ちゃんだと、村木爺さんは疑うよ」
 と、鬼頭は力を込めては言った。そして、
「もし万一、村木爺さん宅に泥棒が入っても、まさか六畳間の床下に隠し場所があるなんて思いはしないよ。それ故、もし金庫の中の金が盗まれれば、やはり富ちゃんが疑われるよ」
「……」
「だから、やはり村木爺さんを殺さなければならないよ。村木爺さんは物忘れが出て来たり、また、足腰も弱って来てるんだろ?」
「ええ」
「それに、富ちゃんと旅行したりする時には、よく缶コーヒーを飲んだりするんだろ?」
「ええ」
「だったら、正に殺り易い相手じゃないか! 海とか湖なんかに村木爺さんを連れて行っては、睡眠薬入りの缶コーヒーを村木爺さんに飲ませるんだ! そして、村木爺さんを海とか湖に突き落とすんだ!
 ただ、それだけじゃないか! さして苦労せずに、村木爺さんを始末出来るんだよ!」
 と、鬼頭は正に野獣のように眼をギラギラと輝かせては、声を荒げた。 
 すると、富子は、
「後で村木さんの遺体が解剖され、睡眠薬を飲んでいたことが分かればどうするの? 私が疑われるのは請け合いよ! 私、そんなの嫌だわ」
 と、その鬼頭の殺人手法は欠点があると言わんばかりに言った。
 すると、鬼頭は少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「少し位なら分かりはしないさ。それに、警察というのは、余程犯罪性が高いというケースでなければ、解剖は行なわないそうだぜ。警察だって仕事を増やしたくないだろうから、そんなものさ」
 と言っては、にやっとした。そして、
「要は、僅かな量にするんだ。そうすりゃ、絶対にバレないさ。それに、その日は朝早く起きたり、あちこちに村木爺さんを連れ回し、体力を消耗させるんだ。そうすりゃ、村木爺さんはほんの少しの睡眠薬で眠っちゃうよ」
 と言っては、大きく肯いた。
「そんなにうまくいくかしら」
 と、富子は半信半疑の表情を浮かべては言った。
「そりゃ、うまく行くさ!」
 鬼頭はまるで眼を野獣のようにギラギラさせては甲高い声で言った。
 だが、富子はそんな不確実な方法で村木殺しを行なうのには気が進まないと、頑なに睡眠薬による殺しを拒んだ。
 すると、鬼頭は、
「じゃ、とにかく村木爺さんの隙を見ては、海とか湖に突き落とすんだ。そして、富ちゃんも一緒に飛び込むんだ。そして、その時に助ける振りをして、村木爺さんを溺死させるんだ。それならいいだろ?」
 そのように鬼頭に言われ、富子の言葉は詰まった。富子は果してそのようなことが可能なのかと思ったのだ。
 そんな富子に、鬼頭はその手段なら絶対にうまく行くと何度も力説した。そして、
「で、村木爺さんの金庫は、六畳間の畳の下に隠してあるんだが、一体いつまでその場所に村木爺さんは隠しておくつもりなんだい? その点に関して何か言及してなかったかい?」
 と、甚だ真剣な表情を浮かべては言った。
「それが、その点に関して少し話していたわ。村木さんは、もし村木さんが死んだら、その場所のことを誰も知らないから、いずれ銀行に預けねばならないと」
 富子は、眉を顰めては言った。
「だったら、事は急がなければならないよ。村木爺さんが金庫の金を銀行に預ける前に、事を起こさなければならないというわけさ!」
 と、鬼頭は決意を新たにしたような表情を浮かべては言った。
 このようにして、富子は鬼頭に村木殺しを強要され、そして、富子は結局、鬼頭のその強要に従ってしまった。富子は、鬼頭と富子の将来の為という鬼頭の熱意に屈してしまったのだ!
 更に、富子は村木と付き合い始めて一年となるが、村木なら容易く殺せるだろうと、ふと思ったこともあった。その富子の思いも、村木殺しを富子に決断させた理由の一つでもあったのだ。富子とて、実現不可能な計画を実行しようとする程、浅墓な女ではなかったのである。
 因みに、富子は宝石のセールスレディとして村木宅を訪問し、村木と知り合ったのだが、何故富子が村木宅を訪問したかというと、それは富子の同僚の紹介であったのだ。
 富子と共に「青木ジュエリー」で働いていた長内知子という女性が訳あって「青木ジュエリー」を辞めることになった。
 その時に知子が村木という一人暮らしの金持ちの爺さんがいるから、色仕掛けで誘惑すれば、いいカモになるかもよと、富子にアドバイスしたのである。
 知子が何故村木のことを知っていて、村木のことをカモと看做したのかは、富子は知らなかった。
 しかし、知子は今までに一人暮らしの高齢の金持ちの男性を狙い、色仕掛けで誘惑しては、セールスレディとしての実績を挙げていた。
 そんな知子から富子は村木のことを紹介され、富子は初めて村木宅を訪れたのである。
富子は「青木ジュエリー」での営業成績は、下から数えて一番か二番であった。
 とはいうものの、知子のように、その身体を武器に営業活動を行なうなんてことはやらなかった。だが、「青木ジュエリー」で営業成績上位のセールスレディは、その身体を武器にしてる者が多かったのである。
 それ故、富子もその武器を使って営業を行なうように、青木社長から発破を掛けられていたのだが、富子はその踏ん切りがつかなかった。しかし、今のままでは富子はリストラされてしまうのではないかという焦りも感じていた。
 そんな折に、富子は知子から村木のことを紹介してもらったのである。
 そんな状況であった為に、富子は初めて女の武器を使ったのである。
 そして、営業成績を挙げようと目論んだ。そして、その目論見は大いに達せられたのである。
 そんな富子であったが、村木を殺しまでして、その金を手にしてやろうなんてことは、思ったことはなかった。
 だが、富子にとって最も大切な男である鬼頭から強要されれば、その強要に従わざるを得なくなってしまったのである。
 そして、富子は阿寒湖で見事に鬼頭との約束を果たしたのである!

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