第九章 裏切り
村木が阿寒湖で亡くなってから、半年が経とうとしていた。季節は既に十二月に入り、寒さが一層身に染みるようになって来た此の頃であった。
さて、村木の事件がその後、どうなったかというと、一言で言うなら、特に変化は見られなかった。即ち、村木の事件は、当初、処理されたように、事故死のままであったのだ。
村木の姪の江川香は、村木は岡野富子に殺されたと、北海道警釧路署の長沼警部補に訴えた。
それを受けて、長沼や警視庁の小森警部補が富子のことを捜査してみた。
そして、小森は村木は富子によって殺された可能性が高いと思い、富子のことを入念に捜査してみたのだが、結局、富子を村木殺しの犯人として逮捕するには至らなかったのである。
村木の死後、富子が五千万を超えると思われる位の金を銀行に入金したとか、富子が村木を阿寒湖に突き落とす場面を眼にしたというような決定的な証拠を入手すれば、富子を逮捕することは可能であろうが、そのような証拠は入手出来なかったのである。
また、村木の足腰は最近かなり弱っていたという証言を入手した。そのことからも、村木が桟橋からうっかりと足を踏み外してしまっても何ら不思議ではないという説明は十分に成り立ってしまったのである。
そんな状況であった為に、村木の死は事故死として処理せざるを得なかったのである。
そんな状況であった為に、今や長沼も小森も村木の事件は何ら捜査してなかったのである。
それ故、村木が死んだ当初は、富子に疑いの眼を向けていたに違いない警視庁の小森が度々富子の前に現われては、村木の死に関して富子に何だかんだと訊問したのだが、そんな小森も今や富子の前に全く姿を見せなくなったのである。
それ故、富子はやれやれと安堵していたのだが、しかし、その割には、富子の表情には決して晴々とした色は見られなかった。
それは、村木を殺してしまったという良心の呵責の為であろうか?
無論、それもあるだろう。
しかし、その良心の呵責も鬼頭が富子を妻として娶れば、富子の脳裏から消失して行くだろうと、富子は読んでいた。
しかし、富子のその読みはどうも見当違いであったのではないかと、富子は最近徐々に感じ始めて来たのだ。
元々、村木を殺す目的は、金を手にする為であった。
そして、その目的は見事に達せられた。
富子が村木と北海道にいる時に、鬼頭は富子から受け取った村木宅の合鍵(富子は村木が入浴してる時に密かに勝手口の鍵を失敬し、密かに村木宅にやって来た鬼頭に渡し合鍵を作ることに成功していた)で密かに村木宅に侵入し、富子から入手した村木の金庫の隠し場所から富子から聞いた暗証番号で見事に金庫を開けることが出来、金庫の中に入っていた一億を超える金を鬼頭は手にすることが出来たのである。
そして、鬼頭が村木宅に侵入したのは、富子と村木が北海道に行った一日目の夜であったのだが、その翌朝に富子が鬼頭に電話をして、計画が成功したかどうか確認する段取りとなっていた。そして、もし鬼頭が金を盗めなかったり、あるいは、金庫に金が入ってなかったりした場合は、村木殺しは中断されることとなっていたのだ。
だが、金庫の中には、予想していた通り、億を超える金が入っていて、鬼頭はその金を手にすることが出来たのである。
そして、その知らせを聞いて、富子は当初の計画を見事にやり遂げたのである。
そして、半年が過ぎ、間もなく年末を迎えようとしていた。だが、富子の苛立ちは増すばかりであった。
というのは、当初の計画では、村木の億を超える金を鬼頭が手にすれば、鬼頭は鬼頭の店を持ち、そして、富子を妻として娶る筈であった。
しかし、鬼頭の口からは、鬼頭が始める筈であったその店の話はてんで出なかった。更に、鬼頭は鬼頭が村木の金を手にした後、すぐに富子に百万渡しただけで、それ以上、富子に金を渡そうとはしなかったし、また、鬼頭が一体幾ら村木の金を手にしたのか、それも富子に話そうとはしなかったのである。
また、富子としては、村木殺しに成功し、そして、その後、鬼頭と初めて顔を合わせた時に鬼頭に抱かれ、鬼頭の口から富子との結婚に関する詳細を話してもらう筈であった。
しかし、鬼頭の口からは、それに関する話は全く出ず、しかも、その時、鬼頭は富子のことを抱いたことは抱いたのだが、それは何だか義務的に富子を抱いたという感じで、そんな鬼頭には富子を抱く悦びというものは、まるで感じられなかったのである。
それは、正に富子を惑わせた。
鬼頭との計画が思い通りに成功した暁には、鬼頭と富子はまるでパラダイスのような日々を送る筈であったのだ。にもかかわらず、そのような思いは、まるで鬼頭からは消失してしまったような塩梅であったのだ。
しかし、富子としては、何故鬼頭がそのような様を見せるのか、鬼頭に訊くのには躊躇いを感じた。何故なら、富子はその富子の問いに対する鬼頭の返答を聞くことが、何となく恐かったのである。
そして、半年が過ぎ、後少しで年末となったのである。
そして、その夜は、本来なら富子は鬼頭と共に、そのホテルで一夜を過ごす筈であった。
しかし、鬼頭は、
「今日は何だか、気分が悪いんだ」
とか言っては、ホテルに富子一人を遺し、一人でホテルからさっさと去って行ったのである。
ホテルのその室に一人遺された富子には、とてつもない寂寥感が込み上げて来るのを感じざるを得なかった。