1 失踪した男
「また、今日もか」
と、遠山善太郎は、呟くように言っては、首を傾げた。
遠山は旭岳ロープウェイ乗場近くにある駐車場の管理人だ。
遠山は、今年で七十歳になるが、すこぶる元気だ。山歩きが趣味だという遠山は、髪の毛は殆ど白いといえども、内臓や身体には、何処も悪いところがないというわけだ。
そんな遠山が何故、「また、今日もか」と、呟くように言ったかというと、遠山が管理してるのは有料駐車場なのだが、その有料駐車場の近くに無料駐車場があるのだが、その無料駐車場の隅の方にシロのカローラが停められてるのだが、そのカローラを遠山が眼にするには、確か今日で七日目位なのだ。
もっとも、その無料駐車場を利用するのは、旭岳ロープウェイの利用客ばかりではない。辺りにあるホテルの宿泊客も利用する可能性はあるのだ。
とはいうものの、七日も同じ場所に停まってるというのは、やはり、気になるというものだ。
それで、遠山は辺りのホテルに問い合わせてみたのだが、やはり、そのカローラの持ち主に心当りないという返答を受けた。
それを受けて、遠山はそのことを警察に話してみることにした。そのカローラの持ち主が、旭岳登山者の車である可能性があったからだ。また、その持ち主が旭岳、あるいは、周辺の山で遭難した可能性があったからだ。もし、そうなら、いつまで経っても、カローラがあの場所から動かない筈だ。
それで、遠山はその遠山の推理を警察に話してみた。
すると、その鳴海という警官は、
―うーん。
と言っては、渋面顔を浮かべた。というのも、遠山のその推理が全く現実味のない推理ではなかったからだ。最近でも、時々、旭岳やその周辺の山で死亡事故が発生したりしてるからだ。
それで、鳴海はここ二週間位で、登山届を出した登山者の中で、下山していない者はいないか、確認してみた。
すると、そのような者はいないことが分かった。
しかし、鳴海は、
「でも、旭岳周辺の山の登山者が、必ずしも登山届を出すとも限らないからな」
と、渋面顔で言った。
すると、係員は、
―それは、もっとものことです。
と、鳴海に相槌を打つように言った。
そして、この時点で鳴海は、そのカローラの持ち主を調べてみた。
すると、その人物は、札幌市豊平区に住んでいる岩本四郎(42)だということが分かった。
また、岩本の妻の沙織は、岩本が家に戻らなくなった三日後に、最寄りの警察署に岩本のことを問い合わせていたことも分かった。
それを受けて、鳴海は電話ではあるが、沙織から話を聞いてみることにした。
「僕は旭川東署の鳴海と申しますが、ご主人はここ一週間ばかり、家に戻られないとか」
―そうなんですよ。一体、何処に行ってしまったのか。
と、沙織は困惑したような声で言った。
「ご主人は奥さんに何処に行くとか、言ってなかったのですかね?」
と、鳴海も困惑したような声で言った。というのは、鳴海は岩本が沙織に行く先を述べていたとばかり、思っていたからだ。
―ええ。そうです。主人はこの前の日曜日から何処に行ったのか、分からなくなってるのですよ。
と、沙織は再び困惑したような声で言った。
「では、ご主人は旭岳に行くと言ってはいなかったのですかね?」
と言っては、鳴海は眉を顰めた。
すると、沙織は、
―旭岳ですか!
と、素っ頓狂な声を上げた。
「そうです。大雪山の旭岳ですよ」
と、鳴海は沙織に説明した。
すると、沙織は、
―主人はそのような所に行くとは、私には言ってなかったですね。
と、沙織も眉を顰めた。
しかし、沙織がそう言うのも、もっともなことだと思った。というのも、もし、沙織が岩本が旭岳に行ったことを知っていれば、警察に岩本のことを問い合わせた時に、それに関して言及してる筈だからだ。だが、実際には、そうではなかったからだ。
それはともかく、沙織の言葉に、鳴海は、
「そうですか」
と、渋面顔で言った。というのは、鳴海はこれから沙織に岩本が旭岳で遭難した可能性に言及しなければならないからだ。そして、それは正に気の重い仕事だというわけだ。
「で、ご主人のことですが、ご主人の車がここ一週間ばかり、旭岳ロープウェイ近くの駐車場でずっと停められっ放しだそうなんですよ」
と、鳴海は正に言いにくそうに言った。
すると、沙織は、
―それ、どういうことなんですかね?
と、いかにも納得が出来ないと言わんばかりに言った。
「ですから、ご主人は恐らく旭岳、あるいは、その周辺の山で登山を行ない、そして、何らかのアクシデントが発生してしまい、遭難してしまったのではないかと、我々は思ってるのですよ」
と、鳴海は再び言いにくそうに言った。
すると、沙織は、
―そんな!
と、声を荒げて行った。そんな沙織は、鳴海の言葉は、正に思ってもみなかった言葉だと言わんばかりであった。
「ですから、僕は奥さんにご主人はその日、旭岳方面に行くと言ってなかったかと、確認したのですよ」
―ですから、主人は私にそのようなことは全く言ってなかったのですよ。
と、沙織は重苦しい口調で言った。
「そうですか……。でも、ご主人の車、即ち、シロのカローラがここ一週間ばかり、旭岳ロープウェイ乗場近くの駐車場にずっと停められてるのですよ。駐車場の管理人がそう証言してるので、それは間違いがないと思われるのですがね」
と、鳴海は沙織に言い聞かせるかのように言った。
―……。
「で、今になっても戻られないということは、やはり、周辺の山で遭難した可能性が高いと思われるのですがね」
と、鳴海が言うと、沙織は少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
―信じられないです。
と、呟くように言った。
「で、我々はご主人の顔写真を、旭岳ロープウェイ乗場の掲示板に貼り出し、情報提供を呼び掛けてみますけどね。
でも、先程も言いましたように、今の時期になっても、連絡がないということは、やはり、言いにくいことですが、遭難された可能性が高いと思われますね」
と、鳴海は正に言いにくそうに言った。
―遺体が見付からなくても、遭難したと看做されるのですかね?
「そうですね。そういうことになるでしょう。山で遭難した人の遺体が見付からなくても、別に不思議ではないですからね」
と、鳴海は再び沙織に言い聞かせるかのように言った。
ーでも、主人はどうして遭難したのでしょうかね?
沙織はいかにも納得が出来ないように言った。
「そりゃ、滑落したか、疲労で動けなくなったりしたのではないですかね。あるいは、コース迷いをしてしまったのかもしれません。人の入り込まないような藪の中に入り込んでしまい、迷って動けなくなってしまえば、遺体はなかなか見付からないでしょうからね。
また、ヒグマに襲われ喰われてしまえば、遺体は見付からないかもしれないですね。旭岳周辺にはヒグマが棲息してますからね」
と、鳴海は渋面顔で言った。
そう鳴海に言われると、沙織も渋面顔で言葉を返すことが出来なかった。何しろ、警察がそのようなことを言うからには、実際にもそうなのかもしれないからだ。
そんな沙織に、鳴海は、
「とにかく、旭岳周辺でご主人のことを探してみますよ。それから、結論を出すことにしますから」
と言っては、鳴海はこの辺で沙織との電話を終えることにした。そして、沙織との電話内容を部下の萩原刑事に話した。
すると、萩原刑事は、
「警部が言われたように、一週間も経ってるのに、何の音沙汰もないということは、奥さんには気の毒ですが、絶望的と言わざるを得ないですね」
と、渋面顔で言った。
「正にそうだよ。でも、妙に思うこともあるな」
と言っては、鳴海は首を傾げた。
「何ですかね、妙に思うこととは?」
萩原刑事は興味有りげに言った。
「岩本さんは何故奥さんに旭岳に行くと言わなかったのかということだよ。札幌から旭岳に行くなら、普通は話す筈なんだけどな。
また、旭岳登山を行なうなら、旭岳周辺の宿を確保しなければならないよ。そのようなことを奥さんに話さない筈はないと思うのだが。もっとも、家庭内に何か複雑な事情を抱えていたのなら、話は別なんだが」
と、鳴海は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべては言った。
「成程。確かにそうですね」
と、萩原刑事は鳴海に相槌を打つかのように言った。
「それと、岩本さんの車が、旭岳近くの駐車場に放置され続けていたとしても、安易に岩本さんが旭岳周辺の山で遭難したと決め付けるのは早合点かもしれない。奥さんが岩本さんが旭岳に行って戻らないというのではないからな。だから、その辺の所を慎重に捜査する必要があるな」
と鳴海は些か険しい表情を浮かべた。そして、沙織に直に会って話を聞いてみることにした。
といっても、鳴海が札幌の岩本宅に行ったのではなかった。沙織が旭岳ロープウェィ近くの駐車場に停められていたという岩本の車を見る為に、旭川にまでやって来たからだ。
旭川東署に保管されていたその車を眼にすると、沙織は、
「確かに主人の車です」
と、いかにも深刻そうな表情を浮かべては言った。
そう沙織に言われると、鳴海は小さく肯き、
「そうですか。でも、よく分からないことがあるのですがね」
と言っては、首を傾げた。
「それは、どういうことですかね?」
沙織は鳴海の顔をまじまじと見やっては、興味有りげに言った。
「それは、岩本さんは何故奥さんに何も言わずに旭岳に行ったのかということですよ」
と、鳴海はいかにも納得が出来ないように言った。
すると、沙織は眼を大きく見開き、
「それは、私も疑問に思っています。
確かに、主人は山登りとかハイキングが好きでしてね。それで、一人でも山登りとかハイキングに行ったことはあるのですが、私に何も言わずに行ったことは、これまでになかったですね」
と言っては、眉を顰めた。
そう沙織に言われると、鳴海も眉を顰めては、
「では、ご主人が先週の日曜日に家を出られた時のことを説明してもらえますかね」
「ただ単に外出するよと言って、車で何処かに行ったのですよ。ただ、それだけなんですよ。午前十一時頃のことでしたね」
「午前十一時ですか……。じゃ、やはり妙ですね。旭岳に行くのなら、もっと早い時間に出発する筈ですよ」
と、鳴海は渋面顔で言った。
「でも、主人は翌日は休暇日でしてね。だから、その日に旭岳周辺の宿に泊まれば、翌日に旭岳登山をすることは可能です。しかし、主人は私にそのようなことを話してなかったのですよ」
と、沙織も渋面顔で言った。
「家を出た時のご主人の服装はどんなものでしたかね?」
「ジャンパーにスラックスという軽装でしたね。とても、登山やハイキングに行くような服装ではなかったですね」
「ふむ」
そう呟くように言っては、鳴海は眉を顰めた。沙織から話を聞けば聞く程、岩本の失踪には不可解さが増して来るようだからだ。
岩本は確かに山登りとかハイキングは好きであったようだが、妻の沙織にその旨を話さずに行ったというのは、正に不可解というわけである。
また、不可解なのは、そのことだけではない。
それは、岩本の外出した時の服装だ。岩本は正に山登りとかハイキングには行かないような服装で外出したのだ。
また、午前十一時に外出したとなれば、旭岳周辺に一泊しなければならないだろう。しかし、岩本はそれも、沙織に話していないのだ。これも、正に不可解というものだ。
それで、鳴海はその疑問を萩原刑事に話してみた。
すると、萩原刑事は少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「ひょっとして、岩本さんはただ単に旭岳ロープウェイ乗場周辺にまでドライブに行って戻って来るつもりではなかったのですかね。それなら、午前十一時に家を出ても、その日の内に戻って来ることは出来ますよ。しかも、家を出た時にはそのようには思っていなかった。ただ、その時の気まぐれでそうなってしまった。
それなら、奥さんに旭岳ロープウェイ乗場近くに行くということを言ってなかったということは説明出来ますし、また、軽装で家を出たということも説明出来ますよ」
と、眼を大きく見開いては、その可能性は充分にあると言わんばかりに言った。
萩原刑事にそう言われると、鳴海も沙織も眉を顰めては、何ら言葉を発そうとはしなかった。その萩原刑事の推理は、正に鳴海も沙織も思ってもみないものであったからだ。
だが、鳴海はやがて、
「僕は今の萩原君の推理には、賛成出来ないな。というのは、もしそうなら、岩本さんが旭岳や周辺の山で遭難する筈はないよ。何しろ、登山は行なわないつもりだったからな。それに、もし、萩原君の推理通りなら、何故岩本さんは今になっても、姿を見せないんだい?」
と、萩原刑事のその推理は、現実味がないと言わんばかりに言った。
そう鳴海に言われると、萩原刑事は意気消沈したような表情を浮かべては、言葉を詰まらせた。
そして、三人の間で少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、沙織が、
「今まで刑事さんと話をしてみて、改めて思ったのですが、やはり、妙なのですよ」
と、眉を顰めた。
「何が妙なのですかね?」
鳴海は興味有りげに言った。
「主人が私に何も言わずに旭岳に行ったということですよ」
「つまり、旭岳に行くのなら、奥さんに話さない筈はないというわけですね?」
「そうです。先程も言ったように、一人で山登りとかハイキングに行ったことはあるのですが、私にその旨を話さなかったことはないのですよ。
それに、もし咄嗟にそのようなことを思い付いても、その旨を公衆電話なんかで連絡して来ると思うのですよ。何しろ、近くの山に出掛けるのではないですからね。
それ故、私は主人が私に何も言わずに、旭岳に行ったということが、やはり、納得が出来ないのですよ」
と、沙織はいかにも納得が出来ないように言った。
そう沙織に言われると、鳴海は、
「奥さんが言われたことは、もっともなことだと思います」
と言っては、小さく肯いた。
「となると、どうなるのですかね?」
萩原刑事は渋面顔で言った。
萩原刑事の言葉に、鳴海も沙織も少しの間、何も言おうとしなかったのだが、やが、沙織が、
「私の勘なのですが、主人は旭岳には行ってないのではないかということです」
と、眼をキラリと光らせては、鳴海と萩原刑事を交互に見やった。
「旭岳には行ってないですか」
鳴海は好奇心を露にしては言った。
「そうです」
と、沙織は些か自信無さそうな口調と表情で言った。
「しかし、旭岳ロープウェイ乗場近くの駐車場には、岩本さんの車が一週間程、ずっと停められていたのですよ。これは、駐車場の管理人がそう証言してるのですがね」
と、萩原刑事は渋面顔で言った。
そう萩原刑事に言われると、沙織は萩原刑事から眼を逸らせては、言葉を詰まらせた。そんな沙織は、まるで萩原刑事にそう言われたら、返す言葉はないと、言わんばかりであった。
そして、三人の間で少しの間、再び沈黙の時間が流れたが、やがて、鳴海が、
「奥さんの推理は、案外当ってるかもしれないですよ」
そう鳴海が言うと、沙織は鳴海に眼を向けては、
「そうでしょうか……」
と、呟くように言った。
「しかし、警部。岩本さんの車が旭岳ロープウェイ乗場近くの駐車場に一週間停められていたというのは、事実ですよ。それなのに、岩本さんは旭岳に行っていなかったのですかね?」
萩原刑事は些か納得が出来ないと言わんばかりに言った。
「だから、岩本さんの車を別の人物が運転して来ては、駐車場に停めたのではないかということさ」
と、鳴海は眉を顰めては言った。
すると、萩原刑事は、
「そんな!」
と、素っ頓狂な声を上げた。そんな萩原刑事は、そんなことが有り得るのかと言わんばかりであった。
そんな萩原刑事に構わず、鳴海は、
「奥さんもそう思われたのですよね?」
と、沙織を見やっては言った。
すると、沙織は、
「ええ。まあ、そうです」
と、些か自信無げな表情で言った。
すると、鳴海は小さく肯き、
「そうなんだよ。その可能性は充分にあるんだよ」
と言っては、小さく肯いた。
すると、萩原刑事は、
「しかし、警部。そんなことが有り得るのですかね? じゃ、もしそうだとしたら、一体何の為にそのようなことをしたのですかね?」
と、いかにも納得が出来ないように言った。
「そりゃ、岩本さんの失踪、あるいは、死を誤魔化す為だろう」
と言っては、鳴海は眼をキラリと光らせた。
「誤魔化す為、ですか……」
「そうだよ。つまり、岩本さんの失踪か死を誤魔化す為だよ。岩本さんの車が旭岳ロープウェイ乗場近くに一週間も停められていれば、どう思う? 我々は最初にどう思ったのかな」
「そりゃ、岩本さんは旭岳かその周辺の山で遭難したのではないかと思いましたね」
と、萩原刑事は淡々とした口調で言った。
「そうだったよな。我々はそういった見方をしたんだよな。
しかし、岩本さんの奥さんから話を聞くと、その見方は、どうやら間違っていたようだということになったんだな。
となると、やはり、何者かが岩本さんの車を旭岳ロープウェイ近くの駐車場にまで運転して来ては、そのまま放置したという見方も出来るというわけさ。
つまり、何者かが岩本さんは旭岳かその周辺の山で遭難したと思わせる偽装工作をしたというわけさ」
と言っては、鳴海は眼をキラリと光らせた。
「成程」
萩原刑事はその鳴海の推理に全面的には賛成出来ないが、その可能性も有り得ると言わんばかりに言った。
すると、沙織は、
「ということは、主人は、主人の車を旭岳の駐車場にまで運転して来た人物に殺されたと言われるのですかね?」
と、気落ちしたような表情を浮かべては言った。
「その可能性はないとは言えないですね」
と、鳴海は眉を顰めては言いにくそうに言った。
すると、沙織は鳴海から眼を逸らせては、何も言おうとはしなかった。
そんな沙織を眼にして、鳴海は穏やかな表情を浮かべては、
「しかし、奥さん。ご主人がまだ亡くなったと断定したわけではありません。そうでない限り、希望を持ちましょう」
「そうでしょうか」
「そうですよ。希望を持ちましょうよ。
で、奥さん。僕が今、言ったようなことに関して、何か心当りありませんかね?」
そう鳴海に言われると、沙織は眉を顰めては、
「そうですねぇ」
と、何か思うようなことがありそうであったが、そんな沙織からは、なかなか言葉は発せられようとはしなかった。
そんな沙織に鳴海は、
「ご主人は、どういった仕事をされていたのですかね?」
「タクシーの運転手をやっていました」
「タクシーの運転手ですか」
と、鳴海は呟くように言った。そして、
「ご主人は私生活とか仕事上で何かトラブルとか悩みなんかを抱えておられませんでしたかね?」
と、鳴海は好奇心を露にしては言った。
「特にそのようなことは、思い当りませんね」
沙織は決まり悪そうに言った。
「実際には何かそういったものを抱えていたのですが、奥さんに言わなかったということは、有り得ないのですかね?」
「そりゃ、そういったことはないとは断言は出来ないですが、私に言わなければ、私では分からないですよ」
と、沙織は渋面顔で言った。
「そうですか。では、岩本さんの友人、知人たちに聞き込みを行なってみますよ」
ということになり、鳴海は岩本が働いていたという北国タクシーに行っては、聞き込みを行なってみることにした。
そして、北国タクシーで岩本と仲が良かったという人物を聞き出し、まず聞き込みを行なってみることにした。
「旭岳ロープウェイ近くの駐車場に岩本さんの車が一週間も停められていたと聞いて、僕はびっくりしてますね」
と、岩本と仲が良いという西村和男(45)は、渋面顔で言った。
「そうですか。で、岩本さんの奥さんの話からすると、岩本さんはどうも旭岳の方には行ってないみたいなんですがね」
と言っては、鳴海は沙織から入手した話を西村に手短に話した。
すると、西村は、
「そうですか。となると、岩本さんが旭岳方面の山で遭難したと決め付けるのは、間違ってるのかもしれませんね」
と、眉を顰めては言った。
「そうですよね。そう看做すのが、自然ですよね。
で、もしそうだとしたら、どういうことになるかというと、岩本さんを何者かが殺したか、あるいは、監禁したりして、それを誤魔化す為に偽装工作をしたかもしれないということですよ」
と、鳴海は渋面顔で言った。
「岩本さんが何者かに殺されたか、あるいは、監禁されたりしてるのですか」
西村は神妙な表情で言った。
「ええ。そうです。そして、それを誤魔化す為に、岩本さんの車を旭岳ロープウェイ乗場の駐車場に放置し、岩本さんが旭岳で遭難したと思わせる偽装工作をしたというわけですよ」
と、鳴海はその可能性は充分にあると言わんばかりに言った。
そう鳴海が言うと、西村は、
「成程」
と、些か関心したように言った。
「で、それはそれとして、西村さんは岩本さんに恨みなんかを持っていて、殺してやりたいと思ってるような人物に心当りありませんかね?」
と、西村の顔をまじまじと見やっては言ったのだが、西村は即座に、
「そのような人物には、まるで心当りありませんね」
と、答えた。
そう西村に言われると、鳴海は些か失望したような表情を浮かべたが、
「全くありませんかね? 岩本さんは何かトラブルに巻き込まれてるとかいうようなことを言ってませんでしたかね?」
と、食い下がった。
すると、西村は、
「そうですねぇ……」
と、少し考え込むような仕草を見せては、やがて、
「やはりないですね。それに、僕は岩本さんが何者かに殺されたり監禁されたりしてるなんてことは、信じられませんね。僕は今までそのようなことは思ってもみなかったですからね」
そう西村に言われたので、鳴海はこの辺で西村に対する聞き込みを終えることにした。
そして、次に西村と同じく、岩本と親しくしていたという秋月信吾(46)という人物から話を聞いてみることにした。
だが、秋月は、
「僕は岩本さんを殺したり監禁したりしそうな人物には、まるで心当りありませんね」
と、渋面顔で言った。
そんな秋月に、鳴海は西村に対して行なったのと、同じような説明をした。
だが、秋月は、「やはり心当りない」であった。
それで、鳴海は、
「では、岩本さんとの会話で、今思えば、妙に思ったようなことはありませんかね?」
そう鳴海が言うと、秋月は少しの間、何やら考え込むような仕草を見せたが、やがて、
「事件に関係ないと思われることでも、構いませんかね?」
と、鳴海の胸の内を窺うような素振りで言った。
「ええ。構わないですよ。どんな些細なことでも」
鳴海は穏やかな表情を見せては言った。
「実はですね。岩本さんは今思えば、確かに妙なことを言ったことがありますね。
で、その妙なこととは、『タクシーの運転手は得な職業だ』と、僕に言ったことがあるのですよ。
僕はうちの会社は安月給だといつも思っていたので、岩本さんに、『どうしてタクシーの運転手が得な職業なんだ?』と、訊いてみたのですよ。
すると、岩本さんは、
『そりゃ、若い女性が何処に住んでるのか、分かるからさ』
と言っては、にやにやしたのですよ。
しかし、若い女性を乗せては、その女性の家にまで送って行ったとしても、何の得にもならないので、僕はその旨を岩本さんに話したところ、
『そりゃ、そうだけど、もしその女性が自分の好みのタイプなら、正に網に掛かった魚だよ』
と言っては、にやにやしたのですよ。
それで、僕は、
『おいおい、妙な気を起こすなよ』
と言っては、僕は岩本さんを窘めました。
すると、岩本さんは僕のその言葉に何も言おうとはせずに、ただ、にやにやするばかりでした。
それで、その話はそれで終わり、話は別のものに移って行ったのですよ」
と、秋月は淡々とした口調で言った。
そう秋月に言われ、鳴海は、
「成程」
と言っては、眉を顰め、そして、肯いた。確かに、今の話は興味深いものであったからだ。
「で、岩本さんは自分が運転するタクシーに乗せた若い美人の女性に対して、何か具体的に言及したことは、これまでにありましたかね?」
と、鳴海は興味有りげに言った。
「いや。それはありませんね」
と言っては、秋月は頭を振った。
「そうですか。そういった女性がいれば、話を聞けるのですがね」
と、鳴海は些か残念そうに言った。
というのは、岩本がそういった女性に悪戯をしようとして、その結果、トラブルが発生し、それが、岩本の失踪の原因になった可能性が有り得るからだ。
それで、鳴海はその思いを秋月に話してみた。
すると、、秋月は、
「流石に刑事さんですね。僕はそこまで考えが及びませんでしたからね。でも、その刑事さんの推理は、案外、当たってるかもしれませんよ」
と、眼を大きく見開き輝かせては言った。
「それに関して、秋月さんは何か心当りあるのですかね?」
鳴海は興味有りげに言った。
「それは、岩本さんの性格ですよ。岩本さんは結構好き者でしてね。
こんなことはあまり言いたくないのですが、岩本さんはタクシーのお客として乗った女性の下着の色をミラーでチェックしてるんだとかいうようなことを話したことがあるんですよ。そんな性格でしたから、気に入った女性客の家が分かったら、その女性宅に押し掛けて行ったりして、その結果、トラブルが発生し、死に至ったのかもしれませんね」
と、秋月は険しい表情を浮かべては言った。
そう秋月に言われ、どうやら、今後の捜査方針が決まったようだ。
つまり、岩本が乗せた美人の女性客を探し出すのである。
とはいうものの、顧客リストがある筈もなく、そういった女性客の絞り込みが出来る筈もなかった。
しかし、業務日誌なるものがある筈である。
それで、鳴海は、
「岩本さんは業務日誌をつけてなかったですかね?」
「そりゃ、つけていたでしょうね。僕たちは皆、そういったものをつけてますからね」
「それには、若い女性とかいった表現は用いられていますかね?」
「いや。そこまでは書かれてないと思います」
そう秋月に言われ、鳴海は落胆したような表情を浮かべた。それが分からなければ、疑わしき女性客を突き止められないからだ。
とはいうものの、念の為に、岩本が付けていた岩本の業務日誌を見せてもらうことにした。
だが、結果はやはり、予想通りであった。即ち、鳴海たちが捜査しようとしてる疑わしき女性客に関する記述は、まるで見られなかったというわけだ。