3 苦し紛れの弁解

 すると、早くも成果があった。十月二日の午後八時頃、田代ハイツ104室に住んでいる真美の隣室の105室に住んでいる田中伸一(会社員)が、真美の部屋で今まで耳にしたことのないような激しい物音を耳にしたと証言したのだ。
 田中は鳴海に対して、
「あれは、十月二日の午後八時頃のことでしたね。僕が夕食を食べ終え、畳の上に横になっていた時なので、隣室の物音がとてもよく聞こえましたね」
 と、淡々とした口調で言った。
「で、それは、どのような感じの物音でしたかね?」
 鳴海は興味有りげに言った。
「ですから、人間が争ってるような感じの音でしたよ。、また、椅子なんかが投げ付けられたような感じの音も聞こえましたね」
 と、田中は些か緊張したような表情を浮かべて言った。そんな田中は、その音に警察が興味を持ってることから、何か重大な出来事が発生したのではないかと、察したかのようであった。
 そう田中に言われ、鳴海は、
「成程」
 と言っては、小さく肯き、そして、
「で、その時に人間の声は聞こえませんでしたかね?」
 と、眼を大きく見開いては言った。
 すると、田中は、
「聞こえましたね」
 と、あっさりと言った。
「それは、どんな声でしたかね?」
「ですから、『キャー』とか、『ワァー』とかいった女性の声でしたよ」
「その声は、とても大きかったですかね?」
「そうですね。かなり、大きかったですよ」
「『助けて!』というような声は聞こえなかったですかね?」
「それは、聞こえなかったですね」
「そうですか。で、田中さんはその時、隣室でどのようなことが起こっていたと思いましたかね?」
「さあ……、よく、分からなかったですね。でも、尋常ではないような出来事が起こっていたのではないかと思いましたね。
 とはいうものの、その音は短時間で終わってしまったので、僕はその音のことは、すぐに気にしなくなりましたね」
 と、田中は、淡々とした口調で言った。
「で、その時に、男の人の声は、聞こえなかったですかね?」
「そのような声は、聞こえなかったですね」
 と、田中は素っ気なく言った。
「そうですか。で、その後、隣室の外山さんが、大きなスーツケースとか袋のような物を持って外出したのを眼にしませんでしたかね?」
「そのような場面は、眼にしなかったですね」
 と、田中は決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
 そして、この辺で、鳴海は田中に対する聞き込みを終えることにした。
 田中に聞き込みを行なって、大いに成果があったと鳴海は思った。即ち、十月二日の午後八時頃、田中が聞いたという尋常ならぬ女性の声などは、正に岩本と外山真美が争った時に発生した音だったのだ。どういった手段でか分からないが、岩本は真美の部屋に上がり込み、真美をものにしようとしたのだろう。
 だが、真美は激しく抵抗し、その結果、岩本を包丁なんかで刺し殺してしまったのかもしれない。
 そして、その推理に基づいて、鳴海は早速、104室に行っては、真美から話を聴いてみることにした。
 だが、真美はOLとのことなので、昼間に訪れても、真美には会うことは出来ないかもしれない。
 そして、案の定、何度ブザーを押しても、応答はなかった。
 それで、午後八時頃、鳴海は萩原刑事と共に、真美の室を訪れてみた。すると、真美は姿を見せた。
 鳴海は真美を一目見た印象としては、美人であった。街中を歩けば、男がさっと振り返るような美人であったのだ。これなら、好色であったという岩本が、真美に食指を動かしても不思議ではないだろう。
 そんな真美に、私服姿の鳴海はまず警察手帳を見せた。
 すると、真美は鳴海に警戒したような視線を向けた。
 そんな真美に鳴海は、
「外山さんに少し訊きたいことがあるのですがね」
 と、落ち着いた口調で言った。
 すると、真美は、
「それは、どんなことですかね?」
 と、素っ気なく言った。
「外山さんは、タクシーをよく利用されますかね?」
「タクシーですか。そりゃ、時々、利用はしますが」
 と、真美は何故そのようなことを訊くのかと言わんばかりに言った。
「会社の帰りに、時々利用されたりするのですかね?」
「そうですね。ここは駅からは歩いて十五分程掛かりますし、また、バスの停留所もさほど近くないですからね。ですから、帰りが遅くなった時は、タクシーを利用したりしますよ」
 と、真美は平然とした表情を浮かべては言った。そんな真美は、そのことが何か問題なのかと言わんばかりであった。
「そうですか。で、九月三日も、タクシーを利用されましたかね?」
 と、鳴海は言った。というのも、岩本の業務日誌には、九月三日に真美と思われる女性を真美の住んでいる田代ハイツに行ったと記されていたからだ。
「九月三日ですか……。そうですね。はっきりとは覚えてませんね」
 と、真美は眉を顰めては言った。
「じゃ、九月三日でなくてもかまわないですから、その頃、会社の帰りなんかに、駅前でタクシーに乗った記憶はありませんかね?」
「そりゃ、乗ったと思いますね。何日かは、正確には思い出せませんが」
 と、淡々とした口調で言った。
「そうですか。で、外山さんはとても綺麗ですから、タクシーの運転手から、外山さんの迷惑になるようなことを言われたことはありませんかね?」
「迷惑になるようなことですか……。それは、どんなことですかね?」
「ですから、卑猥な言葉なんかですよ。何しろ、外山さんは綺麗ですからね」
 すると、真美は眉を顰めては、
「そのようなことはないですね」
 と、首を傾げては言った。
 そんな真美に鳴海は、
「では、十月二日の午後八時頃、外山さんはこの部屋にいましたかね?」
 そう鳴海が言うと、真美は言葉を詰まらせた。そんな真美は、些か鳴海に警戒したような視線を投げた。
 そんな真美に、
「そんなに前のことではないですからね。ですから、その時のことは覚えてると思うのですがね」
 と、鳴海は力を込めて言った。
 すると、真美は、
「いたと思いますね」
 すると、鳴海は小さく肯き、そして、
「では、その頃、外山さんは大きな物音を立てたりしませんでしたかね?」
 と言うと、真美は何やら考え込むような仕草を見せては、すぐに言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「一体、誰がそのようなことを言っていたのですかね?」
 と、怪訝そうな表情を浮かべては言った。
 すると、鳴海は、
「この部屋の隣室の方がそう言っていましたが」
 すると、真美は何も言おうとはしなかった。
 それで、鳴海は、
「その大きな物音は、一体何の音だったのですかね?」
 と、真美の顔をまじまじと見やっては言った。そんな鳴海の表情は、穏やかなものであったが、眼はとても冷ややかなものであった。
 すると、真美は、
「その時、ゴキブリが出て来たのですよ。私はゴキブリが嫌いなので、グラスを投げたのですよ。その時の物音を隣室の方が耳にしたのではないですかね」
 と、そうじゃないかと言わんばかりに言った。
「ゴキブリにグラスを投げた、ですか……。何回位投げたのですかね?」
 と、鳴海が訊くと、真美は些か険しい表情を浮かべては、言葉を詰まらせたが、すぐに、鳴海を見やっては、
「刑事さんはどうしてそのようなことを訊くのですかね?」
 と、些か納得が出来ないように言った。
 すると、鳴海は、
「それには、訳がありましてね。
 で、その訳とは、このアパート近くでタクシー運転手をやっていた岩本という四十二歳の方が行方不明になっていましてね。
 で、その岩本という方は随分好色な方でしてね。綺麗な女性の住まいが分かったら、押し掛けては乱暴したというような事件を起こしそうな人物なんですよ。
 で、外山さんは、綺麗ですから、その岩本さんの被害に遭われたのではないかと思ったというわけですよ」
 と、些か顔を赤らめては淡々とした口調で言った。
 すると、真美は安堵したような表情を浮かべた。そんな真美は、その岩本という男の失踪には何ら関係がないと言わんばかりであった。
 そんな真美は、
「そうでしたか。でも、私はその岩本という方の失踪には、何ら心当りありませんね」
 と、薄らと笑みを見せては言った。そんな真美の表情には、余裕すら窺えた。
「そうですか。でも、やはり、妙ですね」
 と、鳴海は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「何が妙なのですかね?」
 真美も怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「外山さんはゴキブリを殺す為にグラスをぶつけたのですよね?」
「そうです」
「その時、グラスは割れましたかね?」
「割れましたよ」
「そうですか。で、何回位ぶつけたのですかね?」
「三、四回位、でしたかね」
「三、四回位ですか。で、大きな物音を出したのは、その三、四回だけでしたかね?」
「いいえ。箒でも、何回か叩いたかもしれませんね」
 と、真美は淡々とした口調ではあるが、鳴海は真美から眼を逸らせては言った。
「その時間は、どれ位でしたかね?」
「そうですねぇ。五分位でしたかね」
「五分位、ですか。でも、五分もゴキブリが部屋の中を動き回りますかね? ゴキブリは、すぐに箪笥の隅なんかに隠れたりしませんかね?」
 と、鳴海は些か納得が出来ないように言った。
「それが、そうではなかったのですよ。刑事さんはそう思われるかもしれませんが」
 と、真美は鳴海から眼を逸らせては、決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「そうでしたか。では、その時に外山さんが使った箒を見せてもらえないですかね?」
 そう鳴海が言うと、真美はむっとした表情を浮かべては、
「そんなものを見て、どうするんですかね?」
「ですから、少し確認したいことがあるのですよ」 
 そう鳴海が言うと、真美はその鳴海の言葉に反発することもなく、キッチンから箒を持って来ては、それを鳴海に見せた。
 それで、鳴海はその箒を手に取ってみてみたが、それは何処にでも売ってそうなごく普通の箒であった。
「え、この箒の柄で、ゴキブリを叩いたのですかね?」
「そうです」
 と、真美は小さく肯いた。
「そうですか。では、失礼しますよ」
 と鳴海は言っては、その箒の柄で、フローリングの床を叩いてみた。
 すると、確かに音は出たことには出たが、それはとても小さな音で、隣室に聞こえそうなものではなかった。
 それで、鳴海は、
「外山さんがゴキブリを叩いた時に出た音とは、これ位の音でしたかね?」
 と、真美の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、真美は、
「もう少し強い音でしたかね」
「では、外山さんがやってもらえますかね」
 そう鳴海に言われたので、真美は渋面顔を浮かべたものの、とにかく自らでやってみた。
 すると、それは確かに鳴海がやったのよりは強い音が出たものの、とても隣室に聞こえそうなものではなかった。
 それで、その旨を鳴海は真美に話してみた。
 すると、真美は、
「そんなことを言われても、私では分からないですよ」
 と、渋面顔で言った。
「では、グラスをぶつけた時は、もっと強い音が出たのですかね? それに、そんなに強く投げ付ければ床が傷つくのではないですかね?」
「ですから、その時はそんなことを考える余裕がなかったのですよ」
 と、真美は顔を赤らめては、いかにも不満そうな表情を浮かべては言った。
「では、その割れたグラスは、今、何処にあるのですかね?」
「もう捨てましたよ」
「では、外山さんが物音をその時立てたのは、そのグラスを三、四回投げ付けた時と、箒の柄で何回となく叩いた時だけですよね?」
「そうですよ」
 と、真美は平然とした表情で言った。
 すると、鳴海は渋面顔を浮かべては、
「でも、それだったら、隣室の話と随分、食い違ってますよ。何しろ、隣室の方は、その時に、とても大きな音がしたと言ってるのですから」
「ですから、隣室の方の聞き違えではないのですかね。私はそう思いますよ」
 と、真美は平然とした表情で言った。
「聞き違えですか……。僕はそうは思わないですがね。それに、隣室の方は、その時に女性の『キャー』というような悲鳴も耳にしたと言ってるのですがね」
 そう鳴海が言うと、真美は少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「ですから、私はゴキブリが嫌いなんですよ。そのゴキブリが私の足元をすり抜けようとしたので、思わず『キャー』というような悲鳴のような声を上げてしまったのですよ」
 そう真美に言われてしまい、鳴海は思わず言葉を詰まらせてしまった。その真美の主張は些か現実味がありそうだったからだ。
 また、今の時点で、岩本が何者かに殺害されたという事実が浮かび上がってるわけではないのだ。岩本は万一、何処かで生きてるということも有り得るのだ。
 だが、旭川東署としては、岩本の失踪に事件性があると看做し、捜査に取り掛かったに過ぎないのだ。
 また、もし、真美の部屋で岩本が殺害されていたとしても、その有力な証拠があるわけでもないので、真美の部屋を捜査するわけにはいかないであろう。
 とはいうものの、鳴海は、
「その岩本という人物が、外山さんに興味を持っていたことは間違いないと思うのですよ。つまり、岩本さんの部屋にあったメモに、外山さんと思われる女性のことが記されていたのですから」
 と、真美の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、真美は、
「まあ……」
 と言っては、些か顔を赤らめた。
 そんな真美に鳴海は、
「岩本さんと外山さんには、何の接点もありませんでした。しかし、外山さんは岩本さんが運転するタクシーに乗って、接点が出来たのですよ。
 で、外山さんは岩本さんが外山さんに関心を抱いたことは知らないかもしれませんが、岩本さんは外山さんに関心を抱いたのですよ。それで、岩本さんは十月二日の午後八時頃、この部屋にやって来ては、外山さんに性的な悪戯をしようとしたのですよ。
 それで、外山さんと岩本さんは、トラブルになってしまったのではないかと、我々は推理してるというわけですよ」
 と、真美に言い聞かせるように言った。
 すると、真美は、
「それは、正に出鱈目な推理というものですよ。その岩本という人物は、十月二日の午後八時頃、この部屋にいませんでしたから。無論、この部屋にやって来たということもありませんよ」
 と、鳴海に言い聞かせるかのように言っては、大きく肯いた。
 それで、鳴海はこの辺で真美宅を後にし、そして、真美の話を隣室の田中に話してみた。
 すると、田中は、
「僕は外山さんは嘘をついてると思いますね」
 と、些か表情を険しくさせては言った。
「嘘、ですか……」
 鳴海も些か険しい表情を浮かべては言った。
「ええ。そうです。嘘です。あの時の声や音は、ゴキブリ退治の為に立てた音じゃないですよ。ゴキブリなんて、放っておけば、箪笥の隅に逃げて行くじゃないですか。それに、人間に危害を加えることもありません。
 そりゃ、マムシとかいった毒蛇が入り込んだら、話は別ですが、そうではないですからね。ですから、僕はあの時の音は、決してゴキブリ退治の音ではないと思いますね。断言してもいいですよ」
 と、いかにも険しい表情を浮かべては言った。
「だったら、どういった時に立てた物音だと思ったのですかね?」
 鳴海は田中の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、田中は険しい表情のまま、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「ですから、強盗なんかが入り込み、外山さんに危害を加えた時に立てるような音だと思いますね」
 そう田中に証言されたのと、また、田中と反対側の真美の隣室の居住者、つまり103室の安藤里子という五十歳の主婦からも田中と同じような証言を得た。

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