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浦河署の竹之内警部補からの依頼を受け、警視庁の西川正義警部補(44)が早速、川田三郎に会って、川田から話を聴いてみることになった。
川田宅は、築三十年位と思われるかなり古いマンションで、間取りは2DK位と思われた。
そんな川田宅を西川はその日の午後八時頃訪ねてみた。
玄関扉横にあるブザーを押すと、程なく四十位の男性が姿を見せた。
その男性の身体付きは、中肉中背で、銀縁の眼鏡を掛け、神経質そうな感じであった。
そんな川田に、西川は、
「川田三郎さんですかね?」
すると、その男性は、
「そうですが」
と素っ気無い口調で言ったものの、そんな川田は、怪訝そうな表情を浮かべていた。そんな川田は、今、川田の眼前にいる男は、一体何者かと言わんばかりであった。
そんな川田に、西川は警察手帳を見せた。
すると、川田は一層警戒したような視線を西川に向けた。
そんな川田に西川は、
「川田さんに訊きたいことがあるのですがね」
そう西川が言っても、川田は言葉を発そうとはしなかった。そんな川田は、正に西川の出方を窺ってるかのようであった。
そんな川田に、西川は、
「川田さんは、十月二十四日から二泊三日で北海道旅行に行かれましたよね?」
と言っては、川田の顔をまじまじと見やった。
そう西川が言っても、川田は言葉を発そうとはしなかった。そんな川田は、依然として、西川の出方を窺ってるかのようであった。
西川の問いに、川田は何も言おうとはしないので、西川は、
「そうなんですよね?」
と、念を押した。
すると、川田はそのようなことを隠しても無駄だと思ったのか、
「そうですが」
と、素っ気無い口調で言った。
すると、西川は小さく肯き、
「で、その二日目、つまり、十月二十五日のことですかね。川田さんはその日、帯広からどちらの方に行かれましたかね?」
と、川田の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、川田は眉を顰めた。そんな川田は、川田が帯広にいたということを既に知っていた西川に対して、一層警戒の色を深めたかのようであった。
そんな川田は、西川の問いになかなか言葉を発そうとはしなかったので、西川は同じ問いを繰り返した。
すると、川田は、
「糠平温泉の方ですね」
と、憮然とした表情で、淡々とした口調で言った。
そんな川田に、西川は、
「糠平温泉の方ですか……」
と、眉を顰めては言った。
西川としては、川田が正直に襟裳岬の方に行ったとは言わないと予測していたものの、その一方、そう言ってもらえないかと思っていただけに、些か残念だと言わんばかりの表情を浮かべた。
それはともかく、そんな川田に、西川は、
「で、川田さんはその時に事故に遭われたそうで」
と、言っては、川田を見据えた。
すると、川田は、
「事故ですか……」
と、呟くように言った。そんな川田は、西川が言ったことの意味が、よく分からないと言わんばかりであった。
「そうです。川田さんが借りていたレンタカーのバンパーがへこんだり、左前方のヘッドライトが壊れた事故を起こしたそうですが」
そう西川が言うと、川田は一層厳しい表情を見せるかと思ったら、実際にはそうではなく、
「ああ。その事故のことですか」
と、些か笑みを浮かべては言った。
そんな川田に、西川は、
「一体どのような事故を起こし、車がそのように壊れてしまったのですかね?」
と、いかにも興味有りげに言った。
すると、川田は、
「エゾシカですよ。エゾシカが僕の車の前に急に飛び出して来ましてね。急ブレーキを掛けたのですが、間に合わずにぶつかってしまったのですよ。でも、さ程大きいエゾシカではなかったのが幸して、車も走行不能に陥ることもなく、また、エゾシカも死ななくて済んだのですよ。まあ、不幸中の幸とでも言いましょうかね」
と言っては、些か表情を綻ばせた。そんな川田は、正に不幸中の幸であったと言わんばかりであった。
そう川田が言ったので、西川は、
「そうですか」
と言った。
「で、その日、ホテルに戻ったのは、何時頃でしたかね?」
と、神妙な表情を浮かべては言った。
すると、川田の表情から急に笑顔が消えた。そんな川田は、正に何故そのようなことまで訊くのかと言わんばかりであった。
そんな川田は、西川のその問いになかなか言葉を発そうとはしなかったので、西川は、
「確か川田さんが宿泊されていた帯日のホテルに戻られたのは、午前零時前だったとか」
と言っては、眉を顰めた。そんな西川は、何故そのような遅い時間に戻ったのか、納得が出来ないと言わんばかりであった。
すると、川田は眉を顰めたまま、
「帯広緑ヶ丘公園の方にいたのですよ。その日は星がとても綺麗でしたからね。東京では見られない綺麗な星を見ることが出来ますからね。それ故、まあ、夜空見物をしていたというわけですよ」
と、些か笑みを見せては言った。そんな川田は、正にそれは本当のことだと言わんばかりであった。
すると、西川は、
「それ、本当ですかね?」
と、いかにも信じられないと言わんばかりに言った。
すると、川田は笑顔を見せたまま、
「本当ですよ。どうして嘘をつかなければならないのですかね? 僕は北海道とか沖縄の方で空を見たりすることが好きなんですよ。ですから、北海道にまでやって来たわけなんですよ」
と、にこにこしながら言った。
そう言われ、西川は返す言葉はなかった。
西川は浦河署の竹之内警部補から、川田が関係した犯罪の概要に関しての凡そを聞かされていたが、その詳細はよく分からなかったので、これ以上、突っ込んだ質問が出来なかったのだ。
それで、いかにも渋面顔を浮かべては言葉を詰まらせてしまったのだが、そんな西川に川田は、
「でも、刑事さんはどうしてそのようなことを訊くのですかね?」
と、納得が出来ないように言った。そんな川田の表情には、笑みは見られなかった。
それで、西川はとにかく、西川が知ってることを話し、そして、川田の様子を見ようとした。
「実はですね。北海道警は、川田さんに疑いの眼を向けてましてね」
と、渋面顔で言った。
「北海道警が僕に疑いの眼を向けている? それ、どういうことですかね?」
川田はいかにも納得が出来ないように言った。
「襟裳岬近くで轢き逃げ事件がありましてね。で、轢き逃げに遭い、死亡したのは、浦河町に住んでいた倉吉豊子という老婆だったのですが、その轢き逃げ犯は、倉吉さんの事故を闇に葬る為に、倉吉さんの死体を襟裳岬の断崖下に遺棄した疑いがあるのですよ」
と、西川は川田に言い聞かせるかのように言った。
だが、川田の表情には、特に変化は見られずに、また、何も言おうとはしなかった。そんな川田は、更に西川の言葉に耳を傾けようとしてるかのようであった。
そんな川田に、西川は更に話を続けた。
「で、北海道警はその倉吉さんの事件の捜査に早速取り掛かったのですが、やがて、倉吉さんの死体が身に着けていた衣服には、車の塗膜片が付着していたことが明らかになったのです。で、その塗膜片を調べてみたところ、日産のシルバーのマーチであったことも明らかになりました。
それで、辺りの自動車屋なんかでシルバーのマーチの事故車を修理しなかったのかという捜査を行なったところ、川田さんが借りたレンタカーが浮かび上がったということなんですよ」
と、西川は川田に言い聞かせるかのように言った。
すると、川田は眼を大きく見開き、
「つまり、北海道警は僕がその倉吉さんという老婆を轢き逃げした犯人だと疑ってるということですかね」
と、渋面顔を浮かべては言った。そんな川田の表情からは、川田が倉吉を轢き逃げした犯人なのかどうか西川には分からなかった。
「まあ、そうなんですよ」
と言っては、西川は唇を歪めた。
すると、川田は、
「しかし、それは全くの出鱈目な推理ですよ」
と、不満そうな表情で言った。そんな川田は、川田に疑いの眼を向けた北海道警に怒りの眼を向けてるかのようであった。
そんな川田に、西川は、
「それが事実なのではないですかね?」
と言っては、にやっとした。
すると、川田は、
「とんでもない!」
と、甲高い声で言った。
「しかし、川田さんが借りたマーチは、前部に破損が見られましたよね?」
「ですから、それはレンタカー係員にも説明したのですが、エゾシカとぶつかってしまったのですよ。あの辺りはエゾシカと車の衝突事故が多発してるのですよ。ですから、僕が見舞われた事故は珍しくも何ともないですよ。もっとも、僕はその辺りでその事故が多発してるということは知りませんでした。知っていれば、事故は防げたかもしれません」
と、いかにも悔しそうに言った。
「そう言われてもねぇ」
と、西川はそれは真相ではないと言わんばかりに言った。
そんな西川に、川田は、
「それが事実なんだから、仕方ないじゃないですか!」
と、吐き捨てるかのように言った。そんな川田は、正に北海道警と西川に、強い怒りを露にしてるかのようであった。
そんな川田に、西川は、
「今の川田さんの言葉を信じていいのですね」
と、確認した。
「勿論ですよ」
と、川田は何故そんな重要なことに嘘をつかなければならないんだと言わんばかりに言った。
それで、西川はこの辺で川田への捜査を終えることにし、川田の部屋を後にすることにした。
そんな西川は、先程から西川と川田の近くでじっと耳を傾けている中年の女性に気付いてはいたが、しかし、川田の許から去ろうとした時は、その女性のことなど、忘れてしまったかのようであった。
西川は川田への捜査結果を直ちに、竹之内に報告した。
すると、竹之内は、
「で、西川さんはその川田さんの言葉を信じたのですかね?」
と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
―そりゃ、100パーセント信じたわけではありませんよ。しかし、その川田さんの証言を覆す証拠があるわけでもないですからね。ですから、どうすることも出来なかったのですよ。
と、決まり悪そうな表情を浮かべては言った。西川とて、倉吉豊子という老婆を撥ねた犯人が川田である可能性は十分にあるとは思っていた。しかし、今の時点ではどうすることも出来なかったのである。
北海道警としては、既に襟裳岬周辺とか、豊子が轢き逃げに遭ったと思われる場所の周辺に立て看板を立てては、市民から情報提供を呼び掛けていたのだが、まだ、これといった情報は寄せられてなかった。
しかし、豊子がマーチの運転手によって撥ねられたことは確実なので、更に不審なマーチの所有者はいないかの捜査は、引き続き行なわれたが、しかし、川田以外の不審者は、まだ見付け出すことは出来なかった。
それ故、川田への疑惑は一層高まったのだが、そうだからといって、川田を逮捕出来るのかというと、まだそこまでは無理であった。
それ故、倉吉豊子の事件解決には、まだしばらく時間が掛かりそうであった。