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「ドスン!」
「タッタッタ!」
「ドスン!」
川田三郎は、もう頭がおかしくなりそうであった。
これが、マンションの悪名高き代表的なトラブルであるフローリング騒音というものだ。
川田が居住してる「栄光ハイツ」というマンションは、昭和五十年に建築され、元はといえば、絨毯敷きのマンションであった。
だが、その絨毯敷きを今、流行のフローリングに変える人は後を絶たない。その結果、防音が低下し、階下の居住者に悪影響を及ぼすのだ。
もっとも、フローリングに変更したといえども、大人が気をつけて暮らすとなれば、問題は発生しない。
しかし、小さい子供がいれば、話は別だ。三歳、四歳、五歳といったまだ物心のつかない子供がいれば、それらの子供は、家の中をまるで運動場にいるかのように、暴れまくるのだ。
家の中を「タッタッタッ」という足音を立てては走り周り、また、「ドスン! ドスン!」という衝撃音を立てては椅子から飛び降りる。
その子供が立てる音が、階下の居住者には騒音となり、その子供が立てる騒音は、階下の居住者にとって、とても我慢出来るものではない。正に、平穏な暮らしはとても出来なくなるのだ。
そうかといって、騒音を発生させるのはまだ物心のつかない小さな子供。そんな子供に何を言っても、無駄なのだ。正に、泣く子と地頭には勝てぬというわけなのだ。
しかし、いくら子供立てる騒音といっても、階下の居住者はそれにじっと絶え忍ぶという程の大らかな心の持ち主は滅多にいない。従って、このトラブルはやがて深刻なトラブルと発展し、上下階居住者の仲が悪くなるケースが頻発し、ひどいケースだと、傷害事件とか裁判で争われたケースすらある位なのだ。
そして、この川田三郎と上階の小笠原正子の場合は、後少しで傷害事件となるところであったのである!
川田三郎は、年齢こそ四十四歳だが、定職にはつかず、いわばフリーター暮らしであった。
しかし、三年前までは、れっきとした建設会社の社員で、マンション建設などに携わっていたが、近年の公共事業縮小を受けて川田はあえなくリストラに遭ってしまい、今は運送業者でアルバイトの身の上だ。
そんな「栄光ハイツ」を川田は三年前に中古で二千万で購入したが、ローンはまだ千五百万も残っているのだ。
それ故、給料の良い正社員になりたいのだが、なかなか正社員に有り付けなかった。
しかし、一人暮らしであった為に、少しばかりの貯えがあったので、ローンを払いながら、何とかやっていけないことはなかった。
そんな川田であったが、しかし、最近になって新たな悩みが発生していた。それが、上階の子供が立てる騒音なのだ。
「栄光ハイツ」は元々絨毯敷きであったのだが、その絨毯をフローリングに替える居住者が続出していた。もっとも、川田は金も無かったことから、川田の部屋は全てまだ絨毯敷きであったのだが、上階の居住者は最近入居して来たのだが、その時にフローリング敷きに変えたようだ。そして、程なくこのトラブルに見舞われたのである。
そして、川田は今日も五歳年下の正社員に怒鳴られた。「何をもたもたしてるんだ! アルバイトの代わりなんて、いくらでもいるんだぞ!」
そう怒鳴り付けられ、
「すいません」
と、平身低頭謝るしかなかった。
五歳年下の正社員に楯突くことは簡単だった。怒鳴り付けられれば、怒鳴り返してやればいいだけなのだから。しかし、その時は、このアルバイトを辞めなければならない。
となると、新しいアルバイトを探さなければならない。
しかし、それは容易く見付かるものではない。それ故、ただ耐えるしかないのだ。
そういった状況でやっと我が家に戻って来たと思ったら、「ドスン! ドスン!」「タッタッタッ」である。
もう川田は上階の居住者に十回も苦情を言った。しかし、上階の居住者である小笠原正子の返答は、
「子供だから仕方ないじゃないですか!」
である。そんな小笠原正子は、文句を言いに行った川田の方が悪いと言わんばかりであった。
しかし、川田の胸中には、もう我慢の限界を超えたのである!
それで、もう出刃包丁で擦傷位負わせてやろうという思いで、上階に乗り込んだところ、何とその時、管理人の広瀬が玄関扉から姿を現したのである。
〈これはえらいことだ!〉
川田は我に返り、慌てて川田の部屋に逃げ込んだ。後一歩で傷害事件を起こすところだったのだ。そう思うと、川田は正にとんでもないことを仕出かそうとしていた自分に気付いたのである。
それはともかく、その時は、思いも寄らなかった管理人が姿を見せた為に一大事には至らなかったものの、しかし、その夜は電話ではあるが、上階に怒鳴り付けざるを得なかった。今夜もいつも通り、上階で子供の運動会が始まったからだ。
それで、川田は、正子が、
―小笠原ですが。
と言うや否や、
「馬鹿野郎! 静かにしろ!」
と、これまでで最も強い口調で正子を怒鳴り付けてやった。
すると、正子は、それ以上、川田が言葉を発する隙を与えずに電話を切ってしまったのである。