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その三日後、「栄光ハイツ」近くのS公園際の市道には、赤色灯を点滅させたパトカーが二台、停まっていた。
そして、S公園には七名の制服姿の警官が姿を見せていた。
日頃、制服姿の警官など、眼にしたことのない公園で、一体何事が起こったのだろうか? それは、その日の午前十時頃のことであった。
今日の午前九時頃、近所に住んでいる丸橋強(70)はいつも通り愛犬のポチを散歩させていた。
そしてS公園で休憩をしようと思い、ポチと共に、S公園の中にある滑り台の方に向かったのだが、滑り台の傍らに、男性がだらしなく腰を下ろしていた。砂場の近くである。
その光景を眼にして、不審に思った丸橋は、とにかく、その男性の許に行っては、
「もしもし」
と言っては、肩に手を掛けようとしたのだが、その男性は突如、崩れ落ちるようにして倒れてしまった。
その様を目の当たりにして、丸橋の表情は一気に引き攣ったものへと変貌したが、そんな丸橋の表情は、更に険しいものへと変貌した。何故なら、男性の背中には、タイガーナイフが突き刺さっていたからだ!
その光景を眼にして、丸橋は、
「ぎゃ!」
という叫び声を上げながら、その場を逃げるようにして後にした。
そして、自宅に戻るや否や、直ちに110番通報したのだ。
丸橋からの通報を受け、所轄所の警官が直ちに七名現場に駆け付けたというわけだ。
男性の背中にタイガーナイフが突き刺さっていたことから、男性の死は、殺しによるものであった可能性が高いと思われた。というのは、男性は死んでからタイガーナイフを刺された可能性もあったからだ。
それ故、男性の死因は、解剖してからでないと、明らかにはならないであろう。
それで、男性は直ちに解剖が行なわれたのだが、その結果、男性の死因は、背中をタイガーナイフで刺されたことによるショック死であったことが明らかになった。即ち、殺しだ。即ち、殺人事件発生というわけだ。
それを受けて、所轄署に捜査本部が設けられ、警視庁の竹上俊文警部(56)が捜査を担当することになった。
そして、男性の身元確認捜査がまず行なわれることになったのだが、男性の身元はすぐに明らかになった。何故なら、男性の死体が運ばれたS病院の看護婦の中に、男性のことを知ってる者がいたからだ。その男性はS病院で治療を受けたことがあったので、その看護婦が男性のことを覚えていたのだ。
その男性の姓名は、川田三郎という男性で、S公園近くの「栄光ハイツ」というマンションに住んでいた四十四歳であった。
だが、職業とかいった男性の詳細はまだ明らかにはならなかった。
そこで、竹上警部たちはまず「栄光ハイツ」に行き、男性の家族に川田の死を伝えようとしたのだが、管理人から、川田は一人暮らしであることが早々と分かった。
それで、別居してる家族のことを調べてみると、長野県松本市に両親が住んでることが分かった。
それで、実家に電話をし、川田の死を知らせた。
すると、父親の辰夫は、ショックで声も出ないかのようであった。
そんな辰夫に、川田が何者かに殺されたという旨を改めて話し、川田を殺した犯人や動機に関して、何か心当たりないかと訊いてみた。
だが、辰夫の返答は、
―何もないですね。
であった。
それで、母親の通子にも訊いてみたが、通子も辰夫と同様、「何もない」であった。
だが、川田は今、運送会社でアルバイトをしてることが分かった。
それで、川田がアルバイトをしてる運送会社に電話をし、川田の死を説明し、それに関して何か心当たりないかと聞いてみた。
すると、川田と少し親しくしていたという中村という男性から、川田は十月二十四日から二泊三日の予定で、帯広方面に旅行をしたという情報を入手した。
だが、それが川田の事件に関係してるかどうかは、てんで分からないと中村は言った。
また、竹上としても、その北海道旅行の件は、川田の事件には関係してないと思った。何しろ、川田は北海道で被害に遭ったのではないのだ。東京で被害に遭ったのだ。それ故、地理的離れ過ぎていると思ったのだ。
それ故、他の動機と思われるものに関して心当たりないか、訊いてみたが、成果を得ることが出来なかった。
それで、川田の友人を見付け出し、捜査してみることにしたが、川田の部屋の中には、アドレス帳とか手紙とかいったものがまるで見当たらなかった為に、川田の友人に関する手掛かりを得ることが出来なかった。
それで、「栄光ハイツ」の管理人から話を聞いてみることにした。
すると、管理人の広瀬輝夫(69)は、
「川田さんを殺した犯人とか動機に関しては、特に心当たりないですねぇ」
と、渋面顔を浮かべては言った。そんな広瀬の表情は、川田が殺されたということよりも、「栄光ハイツ」の居住者が殺されたということに対する戸惑いの方が大きいかのようであった。
そんな広瀬に、竹上は、
「どんな些細なことでも構いませんから、遠慮なく話してくださいな」
と、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。何しろ、まだ川田に関する情報が少な過ぎるのだ。それ故、正に事件解決に繋がらなくても、川田に関する情報は欲しかったのだ。
そんな竹上に、広瀬は、
「そうですねぇ。事件に関係ないと思われることでも構いませんかね」
と、殊勝な表情を浮かべては言った。
「勿論、構いませんよ」
「実はですね。川田さんは、上階の人と、騒音トラブルを抱えていましたね」
と、神妙な表情を浮かべては言った。
「騒音トラブルですか……」
竹上は呟くように言った。
「そうです。騒音トラブルですよ。フローリング騒音トラブルというのを聞いたことはありませんかね?」
「うーん。聞いたことはあるような気はしますが、詳細は知りませんね」
一戸建て住んでいる竹上は、そのトラブルのことを聞いたことはあったのだが、その詳細は分からなかったのだ。
そんな竹上に、広瀬は、
「うちのマンションは、昭和五十年に建てられたのですが、部屋は最初は絨毯敷きでした。ところが、今流行のフローリングに変更する人が増えてましてね。で、フローリングにすると、階下の居住者に音がよく響くようになるのですよ。
もっとも、大人が普通に暮らせば問題はないのですが、小さい子供がいると、部屋の中を暴れ周りましてね。その時の子供が立てる音が、階下の居住者にとってみれば、騒音となるわけですよ。
で、川田さんも上階の居住者と、そのトラブルを抱えていたというわけですよ」
と、 竹上に言い聞かせるかのように言った。
「なる程。で、そのトラブルは深刻なものなのですかね?」
と、竹上は興味有りげに言った。
「そりゃ、深刻ですよ。古い話になりますが、ピアノ殺人事件というものがあったではないですか。ピアノの音がうるさいと何度も苦情を言っても聞き入れられなかったので、事に及んだというわけですよ。
それはピアノ騒音ですから、子供が立てる騒音と音の性質は異なりますが、耳にする方にとって見れば、騒音には違いないですからね」
と、広瀬は竹上に言い聞かせるかのように言った。
そう広瀬に言われ、竹上は、
「なる程」
と言っては、小さく肯いた。
確かに、広瀬が言ったように、フローリング騒音トラブルというのは、なかなか深刻なトラブルのようだ。
しかし、そのトラブルが起因して、川田が殺されたとは思えない。それに、もし、このトラブルで殺されなければならないのは、川田の上階の居住者で、川田が加害者である筈なのだ。
それで、竹上はその思いを広瀬に話してみた。
すると、広瀬は、
「僕はまだそのトラブルによって、川田さんの事件が発生したとは言いませんよ」
と、憮然とした表情で言った。
そして、広瀬からは、これ以上、特に川田に関する情報を聞き出すことは出来なかった。
竹上としては、川田の両親や、川田のアルバイト先の運送屋の者や、川田が住んでいたマンションの管理人から話を聞いてみたのだが、特に成果を得ることは出来なかった。
それで、川田宅の近所の住人などから話を聞いてみたのだが、成果を得ることは出来なかった。
この時点で川田殺しの容疑者として改めて浮かび上がったのは、上階の小笠原正子であった。正子は今まで何度も川田から罵声を浴びせられた。ただでさえ、育児でノイローゼになる母親も多いのに、更に追い討ちを掛けるかのように下の階の居住者からの罵声。正子はもうノイローゼを通り越してしまい、犯罪者となってしまったというわけだ。育児がうまくいかずに我が子を殺す母親もいるこの時世、階下から何度も罵声を浴びせられた結果、事に及んでもおかしくはない。
そこで、川田の死亡推定時刻の正子のアリバイの確認が行なわれた。
すると、アリバイは曖昧であったことが分かった。何故なら、その頃は部屋の中にいたであったからだ。これでは、アリバイは曖昧といわざるを得ないだろう。
また、念の為に、正子の夫の正明のアリバイの確認も行なわれた。正明は、都内にある信販会社で働いているとのことが、その正雄のアリバイを確認してみたところ、アリバイの確認は取れた。それ故、小笠原家で事に及んだとすれば、その犯人は正子以外には考えられないだろう。
因みに、川田の命を奪ったタイガーナイフには、犯人の指紋は全く付いていなかった。それ故、犯人は手袋をはめて事に及んだということであろう。
しかし、いくらS公園があまり人気のない公園といえども、犯行が行なわれた時間は午後八時から九時である。それ故、不審者を見た者がいるかもしれない。
それで、S公園付近くに立て看板を立て、市民から情報提供を呼び掛けることになった。
その一方、川田は襟裳岬近くで発生した倉吉豊子の轢き逃げ事件と死体遺棄事件で疑いをかけられていた人物であったことが早々と分かった。それ故、川田の死が、その事件の延長上にある可能性は、無論あった。
そして、そのケースなら、犯人は、倉吉家の者であろう。
それ故、倉吉家の者のアリバイを捜査してみたが、そちらの方は問題はなかった。
それ故、川田殺しの容疑者は、小笠原正子一人に絞られつつあった。
それ故、捜査に携わっている竹上たちは、いかにして正子の首根っこを摑むかであった。
そして、程なく、興味ある情報を入手出来たのであった。その情報を提供したのは、S公園の近くに住んでいる正木正也という三十歳の会社員であった。
正木は立て看板を見て、電話して来たのである。
―僕は川田さんが被害に遭った頃、不審な女性を眼にしましたよ。
と、いかにも重要な証言をするかのように言った。
「不審な女性ですか」
と、竹上は眼を大きく見開き、輝かせては言った。有力な情報が寄せられたと察知したからだ。
―そうです。不審な女性ですよ。
と、正木は力強い口調で言った。
「どうして不審だと思ったのですかね?」
竹上は眼を大きく見開いたまま言った。
―その女性が、公園の入り口から出て来たところ、たまたま僕がその女性の傍を通り掛かったのですが、僕がその女性の方に眼を向けると、その女性は慌てて僕から眼を逸らせ、そして、手を眼の辺りやり、まるで僕に顔を見られたらまずいと言わんばかり仕草を見せましたからね。
と、正木はまるで竹上に言い聞かせるかのように言った。
「その女性の身体付きはどんなものですかね?」
―160センチから164センチ位ではないですかね。で、黒の上着とズボンをはいてましたよ。
「髪はどんな髪でしたかね?」
―長い髪ではなかったですよ。まあ、おかっぱとでも言いましょうか。
「ふむ」
と言っては、竹上は小さく肯いた。というのは、正木が語ったその女性像は、小笠原正子とかけ離れたものではなかったからだ。
それで、竹上は、
「では、その女性の顔を覚えていますかね?」
―それは無理ですね。何しろ、辺りは暗かったので。
と、正木は決まり悪そうに言った。
S公園の近くに住んでいる正木正也という男性から、有力な情報が寄せられはしたが、しかし、これだけでは正子逮捕には至らない。それ故、更に有力な情報を入手しなければならないだろう。
そこで、「栄光ハイツ」の居住者たちに更に聞き込みを行なってみることにした。
しかし、これといった有力な情報は入手出来なかった。