1 事件発生
風蓮湖は根室の近くにあり、白鳥の湖として名高く、冬季にはシベリアから一万羽以上もの大ハクチョウが飛来し、バードワッチャーたちの絶好の被写体となる。
そんな風蓮湖は、道立自然公園に指定され、風蓮湖の太平洋側には、細長い砂州が延び、その辺りは春国岱と呼ばれ、散策路が設けられている。
黒川春雄は東京からの旅行者で、今回初めて根室地方を訪れた。そんな黒川の移動手段は釧路空港で借りたレンタカーだ。そして、一昨日から昨日にかけて、釧路湿原、霧多布湿原などを訪れ、そして、昨夜は根室市内のホテルに宿泊した。しかし、平日ということもあってか、その二百人は泊まれると思われるその根室駅に近いホテルの宿泊客が十人もいない位というのには、さすがに物悲しさを感じた。この日本の最北端に位置してる根室にもっと観光客が訪れてもらいたいと、旅行好きの黒川は、心の中でそう思ったものだった。
そんな黒川は、昨日は釧路から根室に行く途中、厚岸からは、別海厚岸線(123号)を走ったのだが、その途中、霧で視界が遮られ、スピードを出すことが出来なかった。だが、国道44号に入ってからは、その途中に、名も無い原生花園がそこかしこに見られた。黒川は、今まで何度も北海道に旅行に来てるのだが、これ程、道中の至るところといっていい位に花園を眼に出来た場所は、今までになかった。それ故、これが根室地方の魅力だと思った。即ち、根室地方の魅力は俗化されてないことなのだ。そして、この魅力をいつまでも維持してもらいたいと思ったものだった。
それはともかく、黒川は、その日、根室市内のホテルを午前八時半頃後にし、野付半島まで行き、そして、釧路空港でレンタカーを返却し、帰途につく予定になっていた。
そして、途中、春国岱の散策路を散策することになってたので、少し早めにホテルを出発した。
そんな黒川は、今日は国後島を眼に出来そうだと内心ほくそ笑んでいた。というのは、霧の多さで有名な根室市内には、霧がまるで見られず、また、空には青空が拡がっていたからだ。正に、今日は絶好の行楽日和になりそうな按配だ。
ところが、ホテルを後にし、少し車を走らせたところ、ホテルを後にした時とはかなり状況が異なってしまった。というのは、いつの間にやら、霧が押し寄せて来ては、視界が急に悪くなって来たからだ。これでは、国後島どころか、野付半島周辺にも霧が掛かり、満足に周囲の様子を眼に出来ないのではないのか? そう思ってしまったのだ。しかし、根室地方の天候はころころと変わるものだと、大いに実感させれてしまった。というのは、春国岱の駐車場に着いた時には、霧はまるで見られず、空は青空が拡がっていたからだ。これでは、国後島も眼に出来そうな按配だったのだ。
それはともかく、早速散策路を歩いてみることにした。
オホーツク海と風蓮湖との間の砂洲に造られた春国岱散策路は、最初は干潟の上に設けられた木道であった。その木道が海と平行して、四百メートル程、続いているだろうか? だが、見渡す限り、その木道を歩いてる人はまだ一人も見られなかった。まだ、朝の九時という早い時間の為だろうか? そして、その木道はやがて、左に折れ、その先は森の中に続いてるようだ。
それはともかく、黒川は早速その木道を歩いてみることにした。そして、その木道の終点まで歩き、戻って来るのには、凡そ一時間程掛かるだろう。しかし、それは、当初の計画通りであった。
そして、当初の予定通り、黒川は春国岱の散策路を歩き終え、今度は野付半島目指して車を走らせることにした。
根室地方を車で走る時に注意しなければならないのは、先述したように、霧だ。霧がいつの間にやら視界を遮り、前方に注意を払わなければならないというわけだ。
その霧と共に、もう一つ注意しなければならないことがある。
それは、シカの飛出しだ。突如、林からシカが飛出し、その結果、車と衝突事故を起こしてしまうことが往々にしてあるのだ。そして、運が悪ければ、死亡事故にもなるそうだ。また、鹿とぶつかってしまった場合の車の平均修理代は、凡そ三十七万も掛かるそうだ。シカとの衝突事故がいかに深刻かということだ。
その事態を受けて、シカの飛出しが多く見られる場所には、シカ飛出し注意の立て看板が立てられたり、また、道路に直接、「シカ飛出し注意」という文字が書き込まれ、ドライバーに注意を呼び掛けている。
それ故、黒川は速度を落として、正に真剣な眼差しで車を走らせたのだ。
その甲斐あってか、シカとの衝突事故はまだ巻き込まれてはいなかった。
そして、森の中の道を黒川は快適にドライブしていたのだが、その途中、道路標識が眼についた。「刀昔まで、十キロ」という具合に。実のところ、黒川は元々、この刀昔という所に行ってみようと思っていた。
その刀昔という場所に人が住んでるのかどうかは分からなかったのだが、風蓮湖岸まで道は続いていて、その先が刀昔という場所であったのだ。
その刀昔という所がどんな所なのか、黒川は少し興味があり、また、時間的にもかなり余裕があったので、黒川は躊躇わずに、その道路標識に従って、刀昔に向かう道に折れたのだ。
だが、何処まで行っても、両側には林が開けてるばかりであった。また、林が途切れてる所には、丘のようななだらかな場所になっていて、その丘には黄色の花をつけた可憐な花が咲き乱れ、正に名も無い原生花園が随所に見られた。この光景は、正に見応えがあった。富良野の花園も、小清水原生花園も、人が管理している人工花園なのだが、この花園は間違いなく原生花園だ。正に大きな駐車場があれば、観光バスがやって来て、花園見物も出来ると思える位のスポットだ。
だが、そういったことは全くない。即ち、俗化されていない花園というわけだ。
そんな花園を見る為に、黒川はしばしば車を停めて、花園の写真を撮ったりしていたのだが、やがて、車に戻り、刀昔に向かって引き続き、車を走らせることにした。
しかし、一体、何処まで道が続いてるのだろうか? 周囲は相変わらず、林が拡がってるばかりで、人が住んでそうな気配はまるで見られない。また、この先、人が住めそうな感じもしない。即ち、このような辺鄙な所では、人は暮らせないだろう。
そう思わせるに十分な光景が、辺りに拡がっていたのだ。
そう思ってる内に、やがて、周囲が開けたかと思うと、やっと人家らしきものが見えた。また、船外機付きの小船も見えた。しかし、港のようなものは見られなかった。
そう思ってる内に、やがて、少し先に堤防が見えた。つまり道路の終点だ。
また、辺りには人家が見られた。つまり、刀昔という土地は、集落だったのだ。
それで、黒川は手頃な場所でUターンし、車を停め、車外に出ようとしたその時である。
「こら! 人の土地に車を停めるな! 馬鹿やろう!」
と、かつて浴びせられたことのない位の強い罵声を浴びせられた。こんな強い口調で罵声を浴びせられた経験がない位の強い罵声だ。
それで、黒川は慌てて車に戻り、そして、逃げるようにして、その場を後にしたのであった。そんな黒川が、刀昔へ向かう道で、その後、車を停めなかったのは、言うまでもない。