2 死体発見
その一年後のことである。
根室方面に観光旅行にやって来た朝倉誠(50)、亜沙子(40)、香織(13)は、今、春国岱の駐車場から散策路を歩き始めていた。
今、散策路を歩いてる人は、散策路の出発点から三百メートル程先の方に、若い男女の二人連れが歩いてるだけで、その二人以外には、誰も見られなかった。
それはともかく、今日は絶好の行楽日和だった。それ故、遥々東京から根室まで旅行にやって来た甲斐があったと、朝倉夫妻は言い合っていた。
香織は小学校三年だったが、少し学校を休ませ、旅行に連れて来たのだが、その甲斐があったと、朝倉夫妻は言い合っていた。
そして、早速散策路を歩き出したのだが、散策路はかなり海の方に傾いていた。しかし、大人が歩く上では、特に問題はなさそうだが、小さい子供が歩く時はかなり気を配らなければならないだろう。
それ故、誠と亜沙子は、香織に、
「気をつけてね」
と、注意を促していた。
そして、五十メートル程進んだ頃だろうか、突如、香織が、
「人が沈んでいる!」
と、甲高い声を上げた。その香織の声を聞いて、誠と亜沙子の歩みは止まった。そして誠は香織に、
「何と言ったの?」
と、訊いた。
すると、香織は、
「ほら! あそこに人が沈んでいる!」
と言っては、今度は右手の人差し指で示した。その香織が示した指の方を誠は見やった。
すると、その時、誠は突如、表情を強張らせた。確かに、香織が指差した所に、人、つまり、中年の男性と思われる人物が、うつぶせになって湖底に沈んでいるようなのだ。そして、その辺りの水深は、一メートルもないようであった。
だが、まだ、それが完全に人だと決まったわけではない。精巧に作られた人形かもしれないのだ。
そう思った誠は、直ちに背中に背負っていたザックから双眼鏡を取り出しては、注意深くそれを見やった。
そして、具に見たのだが、それはやはり、人間のように思われた。
それで、亜沙子に双眼鏡を渡しては、亜沙子に見てもらうことにした。
だが、亜沙子の思いも同じであった。即ち、亜沙子もそれは人間である可能性が極めて高いと思った。
それで、誠はとにかく、110番通報しては、事の次第を知らせることにした。
すると、辺りをパトロールしていた根室署の警官がすぐ現場に行くから待っていてくださいという返答を受けた。それで、その場を動かずに、警官の到来を待つことにした。誠が110番通報して、十分後に、サイレンを鳴り響かせたパトカーが、早々とその駐車場に着いたかと思うと、二人の制服姿の警官が早々とその散策路に姿を見せた。
それを受けて、誠は手を振った。
すると、二人の警官は足早に散策路を歩き、程なく誠たちの許に到着した。
それで、誠は二人の警官に、
「あそこです!」
と言っては、発見の時から、まるでその場から動いていないようなその人間の死体と思われるものを見やった。
すると、
「確かに、あれは、人間のようですね」
と、その三十位の警官、即ち、森繁博敏(30)は、いかにも渋面顔を浮かべた。
そして、携帯していた双眼鏡で、それを具に見てみたが、やはり、人間の死体だという印象を強くした。
それで、その旨を上司に知らせた。
それを受けて、消防団員が早々と現場にやって来ては、その人間の死体と思われるものを陸揚げした。
そして、それは、やはり、それは人間であった。五十から六十位の男性の死体であった。そして、その服装からして、その男性は、地元の者であるような印象を抱かせた。
それはともかく、その男性の死体は、直ちに根室市内のS病院に運ばれ、解剖が行なわれることになった。男性の死が、いかなるものによってもたらされたのか、明らかにする必要があったからだ。
すると、死因と死亡推定時刻が明らかになった。
死因は、後頭部を鈍器のようなもので殴打されたことによる頭蓋骨陥没による脳挫傷。即ち、殺しであった。
また、死亡推定時刻は、昨日、即ち、五月三十日の午後八時から九時頃であることが明らかになった。
また、男性の姓名も早々と明らかになった。家族から昨夜、夫が戻って来なかったという問い合わせがあり、風蓮湖で発見された男性の特徴をその電話を掛けて来た女性に話したところ、女性の夫である可能性があることが分かったので、その女性、即ち、大河原芳江に根室のS病院に来てもらって、男性のことを見てもらったところ、男性は夫の三之助であることが明らかになった。
それを受けて、根室署に捜査本部が設けられ、根室署の大川浩一警部(55)が捜査を担当することになった。
被害者の大河原三之助は、風蓮湖に面した刀昔で漁を営む零細漁業者であった。
三之助の死は殺しによるものということが、既に明らかになっていたので、大川はまず三之助の妻の芳江にその旨を説明した。
すると、芳江はいかにも神妙な表情を浮かべては、言葉を発そうとはしなかった。
それで、大川は、
「奥さんはご主人の死に関して、何か思うことがありますかね?」
と、芳江の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、芳江はいかにも渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせた。そんな芳江は、何か思うことがあるかのようであった。
それで、大川は、
「どんな些細なことでも構わないですから、遠慮なく話してくださいな」
と、いかにも穏やかな表情と口調で言った。
すると、芳江は、
「主人は性格が荒かったですからね」
と、いかにも決まりそうに言った。
「性格が荒かった、ですか……」
大川は、呟くように言った。そんな大川は、それだけでは、大河原三之助が何故殺されたのか、また、犯人は誰なのかは分からないと言わんばかりであった。
それで、大川は、
「奥さんはそのことが、ご主人の死に関係してると思われてるのですかね?」
と、芳江の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、芳江は、
「何とも言えないですね」
と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
そんな芳江に、大川は、
「先程も言ったように、どんな些細なことでも構わないですから、遠慮なく話してくださいな」
と、いかにも穏やかな表情を浮かべては言った。
すると、芳江は渋面顔を浮かべながらも、
「主人は、漁師仲間と殴り合いの喧嘩をすることも、度々ありましてね」
そう芳江に言われると、大川は、
「ほぅ……」
と、些か眼を光らせては言った。大川は、そのことが三之助の死に関係してるかもしれないと思ったからだ。
「ええ。そうなんですよ。もっとも警察沙汰にはならなかったですが、相手に病院で治療しなければならない怪我をさせたこともありましてね」
と、芳江はいかにも神妙な表情を浮かべては、言った。
「なるほど。で、奥さんはその件がご主人の死に関係してると思われてるのですかね?」
と、大川は芳江の顔をまじまじと見やっては言った。
「そりゃ、何とも言えないですね」
と言っては、芳江は眉を顰めた。
「では、その件に関して、詳しく話してもらえますかね?」
「二年程前でしたがね。この村で主人と同じ漁を営んでいる大西という男性がいましてね。その大西さんと花札博打をやったのですよ。こんなことを刑事さんに言っていいのかどうか、分からないですがね」
と、芳江はいかにも決まりそうに言った。
すると、大川は渋面顔を浮かべた。だが、言葉を発することなく、次の芳江の言葉を待った。
すると、芳江は話を続けた。
「で、勝負の結果は主人の勝ちでした。主人は大西さんに対して三百万勝ったのです。
でも、大西さんはまるで主人にお金を払おうとしなかったのですよ。
それで、主人は大西さんをぶん殴り、その結果、大西さんは病院で顔を五針も縫わなければならない怪我を負ったのですよ。
でも、大西さんも主人との約束を破ったわけですから、文句は言えなかったのですよ。こういったことがありましたね」
と、芳江は大川から眼を逸らせては、いかにも神妙な表情を浮かべた。そんな芳江は、その件が三之助の死に関係してる可能性は、十分にあると言わんばかりであった。
そう芳江に言われると、大川は、
「なるほど」
と言っては、小さく肯いた。その大西とのトラブルが高じて、三之助の事件が発生した可能性は、十分に有り得ると思ったからだ。
しかし、
「では、その件以外で、何か思うことはありませんかね?」
と、芳江の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、芳江は、
「そうですねぇ」
と、何かに思いを巡らすかのような表情を浮かべては、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「あの件も関係してるかもしれないですねぇ」
と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「それは、どんなことですかね?」
大川はいかにも興味有りげな表情を浮かべては言った。
すると、芳江は十秒程言葉を詰まらせた。そんな芳江は、その件はあまり言及したくないと言わんばかりであった。
だが、やがて、
「主人は、観光客と思われる男性と喧嘩をしたことがあるのですよ」
と、いかにも決まりそうな表情を浮かべては言った。
「観光客と思われる男性と喧嘩、ですか。それ、どういうことですかね?」
と、大川は、いかにも興味有りげな表情を浮かべては言った。
「もう一年位前になるでしょうか。観光客と思われる男性がやって来ては、うちの家の敷地に入っては、車を停めたのですよ。すると、たまたまその時、家にいた主人は、窓を開けては、
『こら! 人の土地に車を停めるな! 馬鹿野郎!』
と、怒鳴り付けたのですよ。
すると、男性は、その時はしぶしぶ車に乗って去って行ったらしいのですが、その男性が何とその日の夕方に、
『あの程度のことで怒鳴りつけるとは何事だ!』
と言う為に、わざわざ戻って来ては、主人と喧嘩を始めたのですよ。
そして、主人と激しい口論となってしまったのですよ。何しろ、主人は気性の激しい漁師ですから、相手に妥協するということがないのです。それに対して、主人に怒鳴り付けられた男性も、主人と同じような気性の人だったみたいです。
それで、どちらも一歩も退かずに激しい喧嘩となってしまったのですよ」
と、芳江はいかにも決まり悪そうに言った。そんな芳江は、その件が三之助の死に関係してる可能性は十分に有りそうだと言わんばかりであった。
「なるほど。で、その喧嘩は結局どうなったのですかね?」
と、大川はいかにも興味有りげに言った。
すると、芳江は、
「それが、よく分からないのですよ」
と、いかにも決まり悪そうに言った。
「分からない? それ、どうしてですかね?」
大川は怪訝そうな表情で言った。
「あまりにも激しい喧嘩だったので、私はその場から離れてしまったのですよ。だからです」
と、芳江は再び決まり悪そうに言った。
「ご主人に、その喧嘩がどうなったか、訊かなかったのですかね?」
大川は眉を顰めた。
「訊かなかったですね」
「どうしてですかね?」
大川は些か納得が出来ないように言った。
「主人はとても興奮していて、訊けるような雰囲気ではなかったからです。もし、そのようなことを訊けば、私も怒鳴り付けられそうな感じだったので、訊かなかったのですよ」
と、芳江は決まりそうに言った。
「そうですか。で、奥さんはその件がご主人の死に関係してると推理されてるのですかね?」
大川は芳江の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、芳江は大川から眼を逸らせては言葉を詰まらせた。そんな芳江の様からして、その可能性は十分にあると言わんばかりであった。
それで、大川はその大川の思いを言った。
すると、芳江は、
「あるかもしれませんね」
と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
すると、大川は小さく肯いた。大川もその可能性は、十分にあると思ったからだ。
それで、
「で、奥さんは、その男性が、何処の誰だか、分かりますかね?」
と、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。
だが、芳江は、
「それは、分からないですね」
と、大きく頭を振った。しかし、それは、当然のことであろう。
「では、その男性は、何人で刀昔にやって来たのですかね?」
「一人です」
「そうですか。では、その喧嘩があったのは、一年前の何月何日のことでしたかね?」
「五月二十日でしたね」
「五月二十日、ですか。では、その男性は、どんな車に乗ってましたかね?」
「日産のマーチでしたね」
「色は何色でしたかね?」
「シルバーだったですね」
「では、その車がレンタカーだったかどうか、分かりますかね?」
「そこまでは分からないですね」
と、芳江は決まりそうに言った。
「では、その件以外で、何か気になることはないですかね?」
「もうこれ位ですね」
と、芳江は決まりそうに言った。
そして、大川はこの辺で芳江から話を聴くのを一旦終えることにした。
芳江から話を聴いて、容疑者が二人浮かんだ。一人は、三之助と花札博打をやって、その負けをちゃらにしようとした刀昔居住の大西直純。そして、後一人は、まだ名前が分からないマーチに乗った男性だ。
それで、まず、大西直純から話を聴くことにした。