第一章 始まり

 八代正道(38)は、今、能取岬に立っていた。
 二月一日の能取岬を吹き付ける風はとても厳しく、東京で生まれ育った八代にとってみれば、その風はとても骨身にこたえた。
 そして、能取岬の眼前に拡がるオホーツク海は、正に八代が生まれて初めて眼にする光景が展開してる筈であった。
 しかし、その八代の読みは見事に外れてしまった。
 というのは、平年なら、この時期には、能取岬周辺では、オホーツク海は流氷が白一色に埋め尽くしてる筈なのに、今、流氷は能取岬の遥か沖合に遠ざかっていて、能取岬周辺の海は、正に碧い海が拡がっていたからだ。八代には、二月ともなれば、能取岬には流氷が接岸してるという先入観があったのだ。
 それ故、能取岬に流氷がびっしりと接岸してる光景を思い浮かべていた八代は、些か失望したのだが、それ以外としても、冬の網走を初めて訪れた八代にとって、意外に思ったことが、後一つあった。
それは、陽射しがいやに穏やかなのだ。
 今(午後一時)の気温は、氷点下3〜4度なのだが、これがもし東京なら寒さに震え上がることだろう。
 だが、今、頭上には抜けるような青空が拡がっていて、その陽射しが妙に穏やかなのだ。北の果ての刑務所がある網走の冬の寒さは、とても厳しいに違いないと思っていた八代にとって、その穏やかな陽射しは正に意外なものであったのだ。
 そのように思っていた八代は、今、能取岬に立ち、遥か沖合ではあるが、はっきりと白い平原と化して見えている流氷に眼をやっていた。
 能取岬は網走国定公園内にあり、また、網走地方では代表的観光スポットとして挙げられるが、今の時期に能取岬を訪れる人は、少ない。
 もっとも、流氷見物の代表的なスポットなので、何度も足を運ぶ人もいるだろうが、例えば知床のように、冬でも観光客がどかどかとやって来る場所ではないということだ。
 そして、そのことは、八代は予め予想していたことだった。何故なら、八代は以前、六月の半ばに能取岬を訪れたことがあり、能取岬周辺のことは分かっていたからだ。そして、その頃も人が殆ど見られずに、閑散としていたのだ。
 それ故、冬ならもっと訪れる人は少ないと読んでいたのだが、その読みは当たったというわけだ。
 それはともかく、冬の能取岬は、観光の名所ではあるが、閑散とした場所であるということを八代は知っていた。
 だからこそ、八代は今の時期の能取岬を敢えて訪れたのだ。何故なら、今の能取岬は、今の八代の心境とぴったりだと八代は思ったからだ。
 というのは、八代は二年間の刑務所暮らしを終え、ほんの一ヶ月前に出所したばかりだったからだ。
 八代が犯した罪状は、傷害罪。
 八代は、婚約中の恋人を自殺に追い詰めた柴崎剛という男が許せなかった。柴崎は八代と婚約していた江藤絵里をレイプしたのだ。そのショックで絵里は首吊り自殺してしまったのだ。
それで、八代は柴崎をナイフで刺し、重傷を負わせてしまったのだ。
 その当時、警察官であった八代のその行為が許される筈がなかった。
 それ故、八代は警察を辞めさせられ、刑に服することになったのだ。
 そして、一ヶ月前に、やっと刑務所暮らしを終え、出所したのだった。
 そんな八代の容貌は、実際よりも、十歳は老けて見えた。
 そして、まだ、四十の眼前という年齢にも関わらず、髪の毛が半分程白くなっていたのだ。
 そんな八代が真っ先にやってみようと思ったことが、旅行だった。そして、その場所として選んだのが、網走だったのだ。
 では、何故網走を選んだのかというと、それは、先述したように、今の八代の気持ちと冬の網走地方の様相が似てると八代は思ったのだ。
 もっとも冬の網走の何もかもが、八代の気持ちと合致してるのかというと、無論そうではない。いくら網走が北の外れの街だといえども、人口は四万を超えている。
 それ故、さ程大きくはないが、商店街もあり、クラブとか居酒屋もある。大きくはないが、百貨店もある。また、ハンバーガーショップもある。
 それらの光景は他の街とさして変わりはないだろう。
 それ故、今の八代の気持と合致してるのは、流氷と対峙してる能取岬と言わなければならないだろう。厳しい寒さの中で、流氷に対峙した能取岬が見せる荒々しい光景は、正に八代の今の気持ちを代弁してると八代は思ったのだ。
 八代は今、能取岬の断崖に立ち、しばらくの間、双眸を海に凝らしていたのだが、やはり、来てよかったと改めて思った。そして、程なく女満別空港で借りたレンタカーに戻ることにした。八代が借りたレンタカーは、フィットであった。そして、この辺で能取岬を後にすることにした。
 因みに能取岬の駐車場には、八代のフィット一台だけであった。
 そして、駐車場を後にした八代の表情は、芳しいものではなかった。というのは、今後の八代の予定は、網走市内にあるホテルにチェックインするだけだったからだ。
 元々、網走港から出港してる流氷砕氷船おーろら号に乗船しようと思っていたのだが、おーろら号が予約制だということを、八代は知らなかった。それ故、予約を入れたのは一週間前だったのだが、その時は既に予約は一杯になっていたのだ。それ故、諦めざるを得なかったのだ。
 それはともかく、能取岬から網走市街へと向かう道は、正に森の中を縫う道であった。そして、その辺りには、キタキツネが棲息していて、道路沿いで眼にすることが出来るとのことなので、八代はキタキツネに出会わないかと気を配っていたのだが、未だ眼にすることは出来なかった。それどころか、擦れ違う車は、まだ一台もなかった。
 また、何しろ、雪の上を走っていたので、スピードは四十キロ程しか出せなかった。
 そういった具合であったが、樹幹越しに時々、流氷が見えたりしたので、キタキツネよりも、そちらの方に注意が行ってしまった位であった。
 因みに、流氷というものは、その日に全く見れなくても、翌朝になれば、海面をびっしりと埋め尽くしてることもあるそうだ。
 その説明を聞いても、八代は信じることは出来なかった。こんなに広いオホーツク海を一夜にして、流氷が埋め尽くすなんてことは、八代にはとても信じることは出来なかったのだ。
 だが、それが事実なら、流氷は正に神秘的だ。そして、その神秘さが、流氷人気に繋がってるのだろうが、一昔前は、流氷は網走地方にとって、厄介者であった。流氷は寒さをもたらし、また、流氷の到来の為に、漁師は漁に出ることは出来なかったのだ。 
 それ故、漁師の前で流氷の到来を喜んだりすれば、怒鳴りつけられてしまったそうだ。
 それが、今は流氷は網走地方の観光の代名詞的存在となり、多くの観光客を呼び寄せ、多大な経済効果をもたらすようになった。
 正に、流氷で潤う人々が増加し、今は網走地方にとって、流氷はなくてならない存在となったのだ。
 それはともかく、八代は今日は網走市内に泊まり、明日は阿寒に行く予定になっていた。

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