第二章 阿寒へ

 八代が網走を後にした後、向かったのは、阿寒湖であった。
 阿寒湖と言えば、マリモとかアイヌコタンで有名であったが、八代はまだ一度も阿寒を訪れたことはなかった。
 阿寒を巡る遊覧船が写った観光ガイドは、何度も眼にしたことはあったのだが、実際に訪れたことは一度もなかったのだ。
 しかし、今は冬だ。それ故、北海道の至る所は雪で覆われ、どの観光地もそんなに差異はないのではないのか? 
 八代はそう思ったりしていた。
 しかし、寒いことは間違いないであろう。
 冬の阿寒湖周辺は、日本でも最も寒い地域と言われ、最低気温が二月にはマイナス三十度にも下がることがあるとのことだ。
 マイナス三十度というのが、どれ位に寒さなのか、実際に経験したことはない八代には、分からなかった。
 それ故、八代は何だか胸がわくわくしてしまったのだ。
 網走から阿寒湖へは、国道39号線を美幌町へ向かい、それから国道240号線を進めば、やがて、阿寒湖に着く。
 冬でない時間なら、三時間も掛からない時間で網走から阿寒湖に着くことが出来るだろう。
 だが、冬ともなれば、そうもいかないであろう。何しろ、雪道をゆっくりとした速度で走らなければならないのだから。
 また、冬で無い季節なら、緑豊かな山々を眼にすることが出来るだろうが、今は山も畑もモノトーンに沈んでいて、正に車窓から眼に出来る光景には、単調なものであった。
 もっとも、北海道は冬が最も北海道らしく、冬の北海道が最も好きだという人もいる。
 八代は以前、六月の北海道を訪れたことがあるが、その時よりも今回の方が北海道らしいと思ったこともあった。
 というのは、女満別空港に着陸する時に、飛行機は徐々に高度を下げ初め、やがて、眼下に屈斜路湖が見えて来た。
 屈斜路湖といえば、美幌峠からの光景が有名で、正に美幌峠付近の緑とそのコバルトブルーとのコントラストがとても鮮やかだ。
 しかし、今の屈斜路湖周辺は、緑もコバルトブルーも存在せずに、モノトーンの世界に沈んでるのだ。
 更に、飛行機の窓から網走方面に眼を向けてみると、網走沖に確かに白い大陸が存在してるのだ!
 そう! 流氷だ!
 網走の遥か沖合には、流氷が確かに存在していたのだ!
 八代は飛行機窓から初めて流氷を眼にしたのだが、それは、正に白一色の大陸であった。
 それらの光景を眼にして、八代は冬の北海道の方が、北海道らしいと思ったりしたのだ。
 それはともかく、八代の車はやがて、網走湖畔に差し掛かった。
 冬の網走湖は氷結していた。
 昔は対岸の村へは、網走湖の氷上を通って行ったそうだ。その方が、湖岸を回って行くよりも、早く着けるからだ。
 もっとも、今はそのようなことは行なわれていないだろうが、観光客相手のスノーモービルとかワカサギ釣りなんかが行なわれてる。また、時には、流氷の先導役といわれるアザラシが、網走湖周辺で見られるようになれば、今冬も流氷の季節がやって来たと、網走の人は思うそうだ。
 それはともかく、八代の車は美幌町に向かっていた。
 畑の中に作られた路を走ってる為に、一体何処が路で畑なのか、迷いはしないかと心配する人もいるかもしれない。
 しかし、その心配は無用だ。何故なら、何処が路なのかを示す矢印の道路標識があるからだ。この道路標識に従って走れば、路から外れることはないというわけだ。
 さて、やがて、左手に女満別空港を眼にしながら通り過ぎ、美幌町を通り過ぎ、やがて、国道240号線に入った。すると、車の数もめっきり少なくなった。やはり、この寒い季節に北海道の山間部に向かう人は少なくなるのだろう。
 それはともかく、八代は正にモノトーンの中の道をひたすら進んでいた。
 とはいうものの、今日も晴天だったので、それは、八代にとって幸運であったといえよう。もし、吹雪なら、果して、スムーズに車を走らせることが出来るのかということだ。場合によっては、阿寒湖行きを中止しなければならないだろう。
 しかし、今日は吹雪とは全く無縁な冬の北海道の風景が拡がってるのだ。
 季節柄、スピードは出せないものの、八代は正に快適なドライブを愉しんでいた。八代の車の前とか後ろを走る車は多くなく、また、八代の車と擦れ違う車も多くない。
 車の渋滞とは無縁の世界で、八代の車は正に雪煙を撒き散らしながら、ひたすら阿寒湖へと向かっていた。
 だが、八代はこの時、
<阿寒湖に着けば、何をしようか?>
 という思いが過ぎった。
 冬で無い季節なら、阿寒湖観光の定番といえる遊覧船に乗り、後はボッケ散策、太郎湖、次郎湖巡り、白湯山登山といったコースが考えられるが、それらは今は無理だろう。
 もっとも、アイヌコタン巡りは今の季節でも可能だか、時間はまだたっぷりとある。アイヌコタン巡りは、後回しだ。
 それ故、阿寒湖に着けば、何をしようか? 実のところ、八代はその点に関して、まだ深く考えていなかったのだ。
 やがて、樹林を縫う道に入った。
 だが、その針葉樹の多くには緑は見られずに、まるで薪の燃えかすのようにくすんでいた。
 やがて、国道241号線の分岐点に差し掛かった。その道を進むと、やがて、帯広に着く。また、この国道241号線は、オンネトーへ行く道でもある。
 とはいうものの、八代はオンネトーを訪れたことはなく、また、訪れる予定もなかった。
 網走を後にして、もう少しで三時間になろうとしていた。
 正に長い道程であった。
 また、雪の路を走るのは、やはり疲れるというものだ。とても、気を使ってしまう。
 それはともかく、針葉樹を縫う道をひたすら走っていた。時折、<エゾシカの飛び出し注意>という立て看板を眼にしてしまう。
 北海道では、エゾシカと車の衝突事故が後を絶たないという。最悪の場合、死亡事故になってしまう。
 また、車とエゾシカの衝突事故は、夜間に多い。車のヘッドライトにシカは眼が眩み車を避けることが出来ないとのことだ。
 エゾシカといえども、成獣ともなれば、百キロを超える巨体となる。そこに、車がかなりのスピードで突っ込めば、車は大破し、死亡事故が発生してもおかしくないというわけだ。もっとも、八代の車はスピードはそれ程出てはいず、また、昼間なので、エゾシカが車のヘッドライトに眼が眩むということはないであろう。
 しかし、八代は慎重に運転していたのだ。
 それはともかく、エゾシカといえば、最近では食害が問題となっている。
 何しろ、冬はエゾシカの餌が不足している。それ故、エゾシカは、オヒョウニレ、イチイ、トドマツ、ミズナラ、ハンノキなどの樹皮を食べてしまい、エゾシカによってすっかり樹皮を食べ尽くされてしまった樹は、その幹がすっかり綺麗に露出してしまう。
 エゾシカに樹皮を剥かれてしまった樹は、翌年枯れてしまうので、このエゾシカの食害は、阿寒地方だけではなく、北海道で大問題になっている。
 観光客や自然愛好会などは、エゾシカを数多く見られる北海道のことを喜んでいるが、地元にとっては、正に悩みの種なのだ。
 それなら、エゾシカを一網打尽に殺せばよいと思ってるかもしれないが、自然との共存を目指すという立て前がある以上、そうもいかないのが、実状なのだ。
 それはともかく、八代は更に阿寒湖を目指して車を走らせていた。
 八代の前方に車が走ってないことは幸運であった。何故なら、もし前方に車が走っていれば、車が撒き散らす雪煙の為に視界が遮られてしまうからだ。しかし、前方に車が走ってない為に、そのような目に遭わずに済んだというわけだ。
 そして、阿寒湖まで後少しとなった。
 しかし、依然として、周囲には視界は開けていなかった。しかし、後少しでこの針葉樹林帯を抜け出ることであろう。
 八代がそう思ったその時である。
 八代の車の左前方に、人がうつ伏せになって倒れているのを眼に捕えてしまったのだ。
 すると、そんな八代の表情は、忽ち険しいものへと変貌した。何故なら、この寒さの中で人がうつ伏せになって倒れてるということは、尋常ではないと思ったからだ。
 また、辺りに八代の車しか見当たらなかった。
 もし、今、辺りに車の往来が頻繁に見られたのなら、八代はその人の傍らをあっさりと通り過ぎたであろう。
 しかし、今はそうではなかった。
 それ故、八代はあっさりと非情にも、その人の傍らを通り過ぎることは出来なかった。それで、八代はとにかくその人の状態を確認してみることにしたのだ。
 八代の車はその人の傍らに停まり、車外に出ては、とにかくその人の傍らにまで来た。その人は紺色のオーバーと黒いズボン姿の男で、年齢は四十から五十位と思われた。
 そんな男が、まるで死んでしまったかのように、樹林際の雪の上にうつ伏せになって倒れているのだ。
 もっとも、男は死んだように倒れているが、まだ死んだと確認出来たわけではない。
 それで、八代はとにかく屈み込んでは、
「もしもし」
 と、穏やかな声で話し掛けてみた。
 すると、男は微かではあるが、動いた。
 すると、八代の表情は、忽ち綻んだ。何故なら、男は生きていたからだ。
 それで、八代は再び、
「もしもし」
 と、男の身元で囁くように言った。そして、男の肩を軽く揺り動かしてみた。
 すると、男は、
「うーん」
 と、唸るような声を出し、首を少し動かした。
 それで、八代は表情を綻ばせたまま、
「大丈夫ですか?」 
 と、穏やかな表情と、口調で言った。
 すると、男は首を曲げ、八代の方を見やった。そして、その様はまるで赤ん坊が初めて眼を開け、そして、いかにも好奇心溢れる眼で辺りの様子を窺ってるかのようであった。
 そんな男に、八代は、
「大丈夫ですか?」
 と、穏やかな表情と口調で言った。
 すると、男は黙って肯いた。
 すると、八代は心の中で<よかった……>と思った。
 何しろ、今は昼間といえども、氷点下五、六度位であろう。そして、夜になれば、この辺りは氷点下十度以下になるであろう。
 そうなってしまえば、この男は自ずから死を迎えることになるだろう。
 もっとも、八代以外の通行人がこの男を見付ければ助かったかもしれない。 
 しかし、今の時世、薄情な者が増えている。それ故、面倒なことに関わりを持ちたくないと言わんばかりに、この男のことを無視する者ばかりである可能性もあるのだ。それ故、男は、八代に眼にしてもらい、幸運であったのかもしれない。
 それはともかく、男はまるで赤ん坊のような純粋な眼を八代に向けたので、八代は表情を改めては、
「大丈夫ですか?」
 すると、男は黙って肯いた。
 そんな男を間近で眼にすると、年齢は四十位で、肌は浅黒かったが、顔は汚れていず、浮浪者でないのは、確実と思った。また、栄養状態も良好のように思えた。
 それで、何故この男が、このような場所で倒れていたのか、八代は疑問に思った。
 すると、その男は顔を左右に動かした。それは、まるで水を掛けられた犬が、首を左右に振ったという感じであった。
 そんな男を見て、元気そうなので、八代は些か安心した。
 そんな八代の口からは、
「一体、どうされたのですかね?」
 という言葉が自ずから発せられた。
 すると、男は八代から眼を逸らせ、そして、重苦しい表情を浮かべた。先程の男が見せた純情そうな表情は男から消え失せ、男は甚だ重苦しい表情を浮かべたのだ。
 そんな男を見て、八代は何だか訊いてはいけないようなことを訊いてしまったのではないかと思った。
 それと共に、<自殺では……>という思いも過ぎった。
 即ち、男は自殺しようとして、この阿寒の山の中で死を迎えようとしていたのではないのか? だが、何故かこの男は、道路際にまで来てしまったのだ。
 そのような思いが、八代の脳裏を過ぎったのだ。
 しかし、そのような思いをこの男に言うわけにはいかないであろう。
 それ故、八代は神妙な表情を浮かべては、言葉を詰まらせた。
 すると、男は、
「阿寒湖の方まで、僕を乗せて行ってもらえないですかね?」
 と、まるで蚊の鳴くようなか細い声で言った。
 すると、八代は言葉を詰まらせた。果して、見知らぬ男を乗せてやっていいのかという思いが過ぎったからだ。
 しかし、八代は
「いいですよ」 
 と言ってしまった。何しろこの寒さだ。この男がどんな男なのか分からないが、八代は見殺しには出来ないと思ったのだ。
 八代にそう言われ、男は安堵したような表情を浮かべた。
 そんな男に、八代は、
「立ち上がれますかね?」
 と言った。
 すると、男はゆっくりとした動作で、立ち上がろうとした。
 だが、男は思わずよろけてしまった。
 そんな男に、八代は、
「大丈夫ですかね?」 
 と、いかにも心配そうに言った。
 すると、男は、
「大丈夫です」
 と、いかにも弱々しい声で言った。
 そんな男を八代は何とか八代のフィットの助手席に座らせると、八代は運転席に戻り、そして、フィットのエンジンを掛けた。そして、アクセルを踏んだ。
 そして、一分程、八代と男は何ら会話を交わさなかったのだが、やがて、八代は、
「一体どうされたのですかね?」
 と、再び言った。
 何しろ、八代は敢えてこの男を八代の車に乗せてやったのだ。それ故、その位のことは訊く権利があると、八代は思ったのだ。
 すると、男は以前とは違った顔を見せた。何故なら、男は何と、声を上げては泣き出したからだ。
 これには、八代はびっくりしてしまった。
 そして、改めて、訊いてはいけないことを訊いてしまったと思った。
 それで、八代はもうこの問いは止めようと思った。そして、阿寒湖までは後少しなので、その間、この男とは何も話さずにおこうと思った。
 だが、その八代の思いに反して、今度はこの男が蚊の鳴くような声で話し始めたのである。
「僕は新潟県の片田舎に生まれました。そして、僕が二歳の時に親父が死に、母は僕たち五人の兄弟姉妹を育てました。そして、僕はその五人の兄弟姉妹の末っ子だったのですよ」
 と、男はいかにも殊勝な表情を浮かべては言った。
 そのように男に言われ、八代は、
「そうでしたか」
 と、まるで男に同情するかのように言った。
 そんな八代に、男はまるで堰を切ったかのように話し始めた。
「正に僕は小さい頃から、苦労の連続でした。
 母は小さな町工場で職工として働き、夜は内職をしながら、僕たち五人の兄弟姉妹を育てて来たのですよ。とはいっても、育ち盛りの五人の子供の生活費を母一人の手だけで賄うことは出来ませんでした。
 それ故、僕たち兄弟姉妹は、中学を卒業すると、働かざるを得なかったのですよ。
 でも、僕たち兄弟姉妹の中で、最も悲惨な思いをしなければならなかったのは、僕でした。何しろ、僕は末っ子でしたから、兄さんたちの衣服の洗濯や掃除なんかを一手に引き受けさせられましたからね。兄さんたちが遊んでいた時に、僕はいつも家の仕事をしなければならなかったのですよ。
 それに、ご飯も僕が最も多く食べさせてもらえませんでした。美味しいものは、兄さんや姉さんたちが食べてしまったからです。要するに、兄さんたちは僕の存在はどうでもよく、また、邪魔だったのですよ。
 それに、そう思っていたのは、兄さんや姉さんたちだけではありません。母もそうだったのですよ。何しろ、家族が一人でも減れば、母が養わなければならない者が減りますからね。
 そういった事情で、僕は小学六年の時に、親戚に預けられたのですよ。
 でも、僕はその親戚宅でも、まるで雑役夫のようにこき使われ、その仕打ちは僕が生まれ育った家で受けたもの以上にひどいものでした。
 それでも、僕は中学を卒業するまでは、何とか我慢し、中学を卒業すると、僕は待ってましたと言わんばかりに、その家を飛び出したのですよ」
 そう言った男の表情は、とても険しいものであった。その淡々とした話し振りとは対称的に、眼は爛々と輝き、まるで、眼に見えない敵に対して強い怒りを露にしてるかのようであった。
 それはともかく、男にそのように言われても、八代としては、言葉の発しようがなかった。何故なら、男が言った話の内容は、八代が思ってもみないものだったからだ。それ故、八代は返す言葉がなかったのだ。
 だが、男はそんな八代に構わず更に話を続けた。
「僕は中学卒業後、上京しては母が働いていたような小さな町工場で職工をしながら、何とか生活していたのですが、二十の半ばの頃、飲み屋でとんでもない悪人に引っ掛ってしまったのですよ」
 と、男はさも悔しそうな表情を浮かべては言った。
 八代は、そんな男の言葉に興味を抱いてしまったので、
「とんでもない悪人に引っ掛かってしまった?」
 と、正に興味有りげに言った。
 そんな八代の様を見て、男の話に八代が興味を抱いてくれたと察したのか、男は眼を大きく見開き、そして、些か上擦った口調で話し始めた。
「うまい儲け話があると言われたのですよ。
 それは、まるでホストのような話でした。
 金持ちの四十位の婦人が男無しで寂しい思いをしてるから、少し相手になってくれないか。そして、一度相手をすれば、五万貰えるというのですよ。
 その当時の五万といえば、今なら十万位に相当します。それで、僕はうまい話だとは思ったのですが、しかし、そんなうまい話があるのかと、すぐには信用は出来ませんでした。
 しかし、その男は自分もそのアルバイトをやってるから、そのアルバイトを仕切っている男を紹介してやると僕にしきりに言うので、僕はとにかく半信半疑で、その男に会って、話を聞いてみたのですよ。
 すると、その男は四十位で、とても紳士的で、その男が言うのは、夫に先立たれたり、恋人がいなくて困ってる女性は数多くいる。そんな女性を慰めてやるのが、我々の仕事なんだと、まるで会社の社長が従業員たちの前で社の方針を示すかのように力説したのですよ。
 更に、その男は、
『君のような若い男を我々は必要としてるのだ。いいお金になるから、やってみないか』
 と、僕をしきりに誘うので、僕はついその気迫に押されてしまい、その仕事を引き受けてしまったのですよ。
 そして、一度はその仕事はうまく行ったのですよ。つまり、四十位の未亡人の相手をホテルでやってやり、僕は五万貰ったのですよ。
 僕はすっかり有頂天になってしまいましてね。こんな簡単なことで五万も貰えたのは、初めての経験だったですからね。
 もっとも、その女性は四十位の決して美人とはいえない女性であったので、僕はその女性のことを気に入りはしませんでしたが、何しろ仕事でしたからね。ですから、それ位の不満は眼を瞑ったというわけですよ。
 女性の性を男性に提供し、お金を貰う商売は存在しますが、僕がやったのは、その逆だったというわけですよ。
 それはともかく、僕はこんなに簡単なことでお金が入ったことに気をよくして、二回目もすんなりと引き受けてしまったのですよ。
 しかし、僕はその時、嵌められたということを知ったのですよ」
 そう言い終えた男の表情は、甚だ険しいものであった。正に、怒りを露にした表情であった。
 そんな男の話に、八代はすっかりと興味を抱いてしまい、男の話の続きを聞きたくなったので、
「嵌められたということを知ったということは、どういうことですかね?」
 と、男の方にちらっと眼を向けては、いかにも興味有りげに言った。
 すると、男はそんな八代の言葉を待ってましたと言わんばかりに、話を続けた。
「つまり、僕は以前と同じように、女性が待っているというホテルに向かったのです。すると、今度は以前と違って、二十位の女性がいました。そして、容貌もまずまずだったので、僕は今度は役得だと思い、北そ笑んでいたのです。
 そして、以前のようにベッドの上で、行為を行なう為に、服を脱ごうと思ったその時、突如、室の中に人相の悪い男が入って来ては、
『俺の女に手を出しやがって!』
 と、凄い剣幕で怒るのですよ。
 それで、僕はその女性の申し出で、ホテルに来ただけだと言ったところ、女性は僕に無理矢理ホテルに連れ込まれ、身体を奪われたと、いかにも悔しそうに言うのですよ。
 これには、僕はびっくりしてしまったのですよ。何故なら、僕はまだその女性の身体に指一本触れてなったからです。
 しかし、その男は僕の言い分を信じようとはしません。そして、慰謝料として、百万払えと僕を脅しました。
 そして、僕はこの時、嵌められたと察知したのですよ。
 とはいうものの、僕は懸命に弁解したのですが、僕の弁解は通用しません。何故なら、この男女は最初から僕をホテルに呼び込んでは、難癖をつけてやれと目論んでいたからですよ。いわば、僕は美人局に引っ掛かってしまったというわけですよ。
 それで、僕はこの時、逃げた方が賢明だと思い、逃げようとしたのですが、この時、更に男が二人入って来ては、僕の身体を捕まえ、百万払わなければ、返さないと言うのですよ。
 僕がいくら、僕の身の潔白を訴えても、男たちが認める筈はありません。男たちは最初から僕のことを罠に嵌めようと目論んでいたわけですから。また、僕はこの時、僕にこの仕事を紹介した男も、この男たちとぐるではなかったのかと思いました。つまり、僕は最初からとんでもないペテン師たちの罠に引っ掛かってしまったというわけですよ。
 それはともかく、僕は結局、その時、僕が所持していた免許証から、僕の家の住所を知られてしまい、そして、僕の家まで、その男たちの車で連れてかれ、その時、部屋の中にあった二十万を渡したのですが、それ以上は無かったので、後で払うということになりました。
しかし、僕はそんなことをするのは馬鹿らしく、また、お金も無かったということもあり、僕はまるで夜逃げするように、僕のアパートから引っ越したのですよ」
 と、男はまるで胸の痞えを吐き出すかのように一気に話した。そんな男の表情を具に見ると、男はいかにも悔しそうであった。
 八代はといえば、正に思い掛けない男の打ち明け話を耳にして、何だかやるせない思いに捕われてしまった。
 もっとも、男性が今、話したようなことは、八代は耳にしたことはあった。
 しかし、まさか、阿寒湖に行こうとしてる道中に、偶然に車に乗せてやった男から耳にするなんて、思ってもみなかったのだ。
 それで、八代は神妙な表情を浮かべては、言葉を発そうとはしなかった。男は、そんな八代に、更に話を続けた。
「で、僕はまるで夜逃げするかのように、その町を後にし、別のアパートに引っ越しました。しかし、職の当てはありませんでした。
 それで、山谷に行くことにしました。僕は浮浪者たちが集まって来る山谷という町があるということを知っていたからです。
 そして、僕は手配師から仕事を紹介してもらうことに成功しました。
 そして、僕は道路工事なんかの仕事をしながら、何とか生活費を稼ぐことは出来たのですが、僕はその時、僕の不注意から、思わぬ怪我をしてしまいました。
 つまり、僕が振り降ろした鶴嘴が僕の右足首を直撃してしまい、僕は右足首を骨折してしまったのですよ。
 その為に、僕は道路工事の仕事は出来なくなってしまいました。そして、しばらくの間、病院暮らしを余儀なくさせられたのですよ。
 そして、僕は怪我が治ると、北海道にやって来ました。
 僕は新潟という雪国で生まれ育った為に、僕にはやはり雪の多い土地が似合っていたのでしょうね。
 それはともかく、北海道の中でも雪が多いという旭川に僕は新天地を求めました。旭川は豪雪地帯なので、僕の生まれ故郷に似てると僕は思ったのですよ。
 そして、僕の思った通り、旭川は僕の生まれ故郷と似た所があり、僕は公園の清掃作業なんかをやりながら、何とかやりくりしていたのですが、そこで、人間関係のトラブルに巻き込まれてしまったのですよ」
 と言っては、男は何だか寂しそうな表情を浮かべた。
 もっとも、男のその表情は、男の本来の表情なのかもしれない。何しろ、男は恵まれない人生を歩んで来たのだから。
 それはともかく、この時、車は樹林帯を抜け、視界が拡がった。
 そう! 間もなく阿寒湖に着くのだ!
 八代はそう思ったのだが、男の話はまだ終わりそうもなかった。
 そんな男は八代に、
「あなたは、これからどういった予定なんですかね?」
 と、表情を改めて言った。
 すると、八代は、
「それが、まだ決まってないのですよ」
 と、眉を顰めた。
「決まってない?」
 男は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「そうです。決まってないのですよ。もっとも、宿は決まってるのですがね」
 と、八代は些か笑みを浮かべては言った。
「じゃ、後は温泉三昧というわけですか」
「まあ、そんな感じですかね」
 八代はそう言ったものの、ボッケ方面への遊歩道を歩いてみようという思いを話した。ボッケ方面へは、冬でもスノーシューなどを履かなくても歩ける遊歩道が設けられてるからだ。
 男は八代がそう言うと、
「それは、いいですね」
 と言っては、八代の方に眼を向けた。
 それで、八代は横眼でちらっと男の表情を眼にしたのだが、そんな男の表情には、やはり、翳りがあった。八代には、そのように見えた。
 すると、八代はこの時、この男はこれからどうするのかという疑問が沸き上がって来た。
 先程の話によると、この男は、金に恵まれているとは思えない。それ故、阿寒湖畔に建ち並ぶ豪華なホテルに泊まることなんて、到底無理だろう。
 それに、この男は、元来国道240号線の道路脇で、まるで犬畜生であるかのように、横たわっていたのだ。八代が声を掛けなければ死んでいたかもしれないのだ。
 そう思うと、八代は何だかこの男のことが、心配になって来たのだ。
 そして、この時、八代の車は阿寒湖畔の温泉街に入った。
 それで、八代は左折しては、阿寒湖が見える所まで、車を走らせることにした。
 そして、阿寒湖に沿う道にまで来ると、八代は車を道路際に停めた。
 八代は車を停めると、直ちに阿寒湖に眼をやった。
 すると、それはすっかり氷結していた。
 正に湖とは思えないような白い平原とそれは化していた。
 そんな阿寒湖を眼にして、八代は我を忘れ、阿寒湖を見入ってしまった。
 その男も八代と同じく、その神秘的な美しさに魅了されてしまったかのように、阿寒湖に見入ってしまったようだった。
そんな男に、八代は、
「綺麗ですね」
 と、呟くように言った。
 すると、男は、
「ええ」
 と、八代に相槌を打つかのように言った。
 そして、二人は少しの間、言葉を発そうとはせず、白い平原と化した阿寒湖に見入り続けていたのだが、八代はやがて、この男と別れの時が来たと思った。何故なら、八代は目的地に着き、また、この男も、阿寒湖まで乗せて行ってくれないかと八代に言い、そして、その申し出はこれによって、達せられたからだ。
 即ち、これによって、男との別れの時が到来したのだ。
 それで、八代はそのことを切り出そうとしたのだが、しかし、その前に八代は何故この男があの場所で倒れていたのか、訊いておくべきだと思った。何しろ、八代は親切にこの男の申し出通り、阿寒湖にまで連れて来てやったのだ。それ故、そのことは、八代は聞いておく権利はあるだろう。
 そう思うと、八代は表情を改め、
「あなたは、どうしてあのような場所で倒れていたのですかね?」
 そう八代に言われると、男の表情は、忽ち強張った。そして、身体を小刻みに震わせたかと思うと、突如、
「わあ!」
 と、声を上げては、泣き出したのだ。
 これには、八代はびっくりしてしまった。
 それに、表情を強張らせては、言葉を詰まらせてしまった。
 すると、男は泣くのを止め、泣き腫らした眼で八代を見やっては、
「僕、もう何処にも行く所がなかったのですよ。それで……、それで……」
 と今度は、啜り泣きを始めた。その男の様は、それに関しては、それ以上、訊かないでくれよと、言わんばかりであった。
 そのように男に言われ、八代は男の意図を察した。
 即ち、男はあの場所で死ぬつもりだったのだ! 男が先程八代に話した苦労話からしても、それは十分に現実味はあるというものだ。即ち、そのようなことを男に訊くこと事体が、野暮だったのだ!
 そう思うと八代の言葉は、自ずから詰まってしまった。
 すると、男は、
「すいません」
 と、いかにも申し訳なさそうに言った。
 それで、八代は、
「いいえ」 
 と言うしかなかった。
 そんな八代は、再び言葉を詰まらせたのだが、すると、男は、
「あなたは、これから先の予定は特にないのですね?」
 と、改まった表情と口調で言った。
 それで、八代はとにかく、
「ええ」
 すると、男は、
「では、今日一日だけ、僕と付き合ってもらえないですかね?」 
 と、いかにも殊勝な表情を浮かべては言った。
「付き合う? 付き合うって、一体何をしようと言うのかな?」
 八代は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「氷結した阿寒湖の上を歩くのですよ。もっとも、スノーシュ―を履かなければならないのですがね。阿寒湖の上から眼にする光景は、きっと素晴らしいものに違いありませんよ」
 そう男に言われ、八代の心は動いた。何故なら、男が言ったことは、もっともなことと思ったからだ。
 また、八代は氷結した阿寒湖の上に乗り出すなんてことは、今まで考えたことはなかった。それで男の言葉に、思わず乗り気になったのだ。
 そんな八代を眼にして、男は嬉しそうな表情を浮かべた。男は、男の申し出を八代が受け入れると察知したのだ。
「僕はスノーシュ―をレンタルしてる店を知ってるのですよ」
 そう男に言われると、八代は、
「それ、何処にあるのですかね?」
 と訊いてしまった。
 それで、男はそれを八代に説明した。
 それを受けて、八代は早速その店に車を向けたのであった。

  

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