第三章 束の間の喜び
その店へは、車で二分位であった。そして、その店のことを男が知っていたということは、その男はこれまでその店を利用したことがあったのだろうか?
それで、八代はその思いを話してみた。
すると、男は、
「本で見ただけなんですよ」
と、照れ臭そうに言った。
それはともかく、阿寒湖畔に建ち並ぶ豪華なホテルの近くにあるその店で、八代と男はスノーシュ―を借り、そして、早速阿寒湖を歩いてみることにした。
真白な平原と化している阿寒湖上には、既に八代たちと同じく、スノーシュ―で歩いてる人たちが、ちらほらと見られた。その人たちの多くは、赤とか黄色とかいった派手なウェアを身に付けてた。また、歩くスキーを行なってる者もちらほらと眼についた。
八代はといえば、まさか阿寒湖上をスノーシュ―で歩くなんて、思ってもみなかった。それで、それをするに相応しいウェアを持って来なかったのが残念であった。
それで、八代はその思いを男に話してみた。
すると、男は、
「大丈夫ですよ。スキーとは違ってスノーシュ―では転びませんからね。あなたのようなオーバーでも大丈夫ですよ。
もっとも、スノーシュ―で歩き回れば、汗を掻いてしまうかもしれません。そうなると、下着が汗で濡れてしまうかもしれません。その方が心配ですよ」
そう男に言われ、八代は、<なるほど>と思った。
それはともかく、歩くスキーを行なってる人たちの姿がかなり遠くの方に見えるので、八代は、
「あの人たちは、何処に行くのでしょうかね?」
と、些か興味有りげに言った。
「あの方向だと、チュウルイ島ではないですかね」
と、遥か向こうの方に眼をやっては言った。
「チュウルイ島、ですか……」
八代は呟くように言った。
「そうです。マリモが展示されてる島です。
昔は遊覧船でマリモが繁殖してる場所まで行っては、遊覧船上から観光客にマリモを見せていたそうですが、今はチュウルイ島でしか、マリモは見れないそうです。
もっとも、土産物店に行けば、土産物用のマリモは幾らでも見れますがね。でも、あれは人工的に作ったマリモなんですよ」
と、男は説明した。
それで、八代は、
「なるほど」
と、些か納得したように言った。
「チュウルイ島へは、湖岸から四キロ程なんですが、歩くスキーなら十分に行けると思いますが、スノーシュ―ではねぇ」
と、男は幾分か落胆したように言った。
それで、八代は、
「別にチュウルイ島まで行かなくても構わないですよ」
と、笑いながら言った。
「そうですか。では、どの辺りまで行きますかね?」
「そうですねぇ。あの島の辺りまで行きましょうかね」
と言っては、八代が指差したのは、ヤイタイ島であった。ヤイタイ島までは、ここから約二キロであった。
八代にそう言われ、男は、
「ヤイタイ島ですね。じゃ、ヤイタイ島まで行くことにしましょう」
ということになり、八代と男は、早速スノーシュ―で湖上を歩き始めた。
といっても、八代はスノーシュ―で氷上を歩くのは、初めての経験であった。といっても、スキ―の経験はあったので、そんな八代にとって、スノーシュ―は正にお茶の子さいさいといった塩梅であった。
だが、そんな八代より男の方が、遥かにスノーシュ―に慣れてるといった感じであった。
それで、八代は思わず、
「お上手ですね」
すると、男は、
「僕は雪国で生まれ育ちましたからね。ですから、スノーシュ―で何度も歩いたことがあるのですよ」
と、いかにも照れ臭そうに笑った。
そんな男に釣られ、八代も照れ臭そうに笑った。
そんな八代たちの右前方には、頂上付近が真白に雪化粧された雄阿寒岳の雄姿を眼にすることが出来た。
そんな雄阿寒岳の光景を眼にしながら、氷結した阿寒湖の上を進むのは、また趣があった。
また、頂上には、抜けるような青空が拡がっていた。そして、その青さと湖上の白さが、絶妙のコントラストをなしていた。
気温はマイナス五度位と思われるのだが、その寒さは気にならない位、快適な気分を八代は今、味わっていた。
湖岸からかなり進んだと思われる頃、八代は突如、
「氷の薄い部分はないのですかね?」
と、些か心配そうな表情を浮かべては、辺りを見回した。
何しろ、八代たちが今、いる辺りは、かなりの水深があるに違いない。それ故、もし氷が薄い部分に差し掛かってしまえば、冷たい水の中に落ちてしまうのではないかと、八代は恐れたのだ。
すると、男は、
「大丈夫だと思いますよ。ほら! 僕たちが今、歩いてる辺りは、他の人たちが通った痕があるじゃないですか。そういった所を歩けば、まず大丈夫ですよ。
そりゃ、阿寒湖には所処にボッケのように温泉が噴き出してる場所があって、そういった辺りは氷が薄く危険だと聞いたことはありますが、そのような場所は氷結しないから、見れば分かりますよ。
また、雪が降っていれば、雪が氷の薄い部分を隠してしまい、見分けがつかないこともありますが、今は雪が降ってませんから、その心配も無用ですよ」
と言っては、微かに笑った。
その男の笑いに釣られ、八代も微かに笑った。確かに、男の言ったことは、もっともだと思ったからだ。
そう言った遣り取りを交わしながら、やがて、二人はヤイタイ島の近くまで来た。
だが、この辺で引き返そうということになり、二人は今度は湖岸に向かって歩き出した。
そんな八代は、子供時代に還ったかのような気持ちになっていた。
そして、遠くに見えていた阿寒湖畔のホテル群は、次第に大きくなり、二人は湖岸にまで後少しという所にまでやって来た。
湖岸の近くには、天然のスケートリンクが作られていて、父親や母親に手を引かれた子供たちが、スケートに興じてる姿をちらほら眼にすることが出来た。
そして、二時間に及ぶ八代たちのスノーシュ―体験は、この時点でやっとピリオドを打ったのであった。そして、それは、午後四時前のことであった。
八代は今や、すっかりと打ち解けてしまったこの男と、この時点で別れるのが、何だか辛いような気持ちを抱いてしまった。
それに、この男は、これからどうするのだろうか?
元はといええば、この男は、国道240号線の道路際で倒れていたのだ。そんな男が、この阿寒温泉でホテルを予約してる筈はない。
それに、この男は、お金も持っていそうもない。
そのようなことを思いながら、八代はとにかく、スノーシュ―を店に返すと、店の前に置かれてるベンチに男と共に腰を降ろした。
すると、八代は、
「これからどうするのですかね?」
と、男に言ってしまった。
すると、男の表情は、一気に曇った。
男はスノーシュ―にすっかりと興じてしまい、これからのことをすっかりと忘れてしまってたのかもしれない。
八代の言葉に、男は言葉を詰まらせてしまった。
そんな男の様を見て、これから男にとって、よいことが待ってる筈はない。
とはいうものの、八代は余計なお節介とは思いながら、
「今夜、泊まるホテルはあるのですかね?」
と、表情を改めては、男をちらっと見やっては言った。
すると、男は重苦しい表情を浮かべては、言葉を発そうとはしなかった。だが、無言で頭を振った。
しかし、それは訊くまでもないことであった。分かりきったことであったのだ。
すると、この時、八代の脳裏には、男をこのままにしておくのは、何だか悪いことをやらかしてしまうという思いに捕われてしまった。
八代は元来、この男とは、何の関係もない。
しかし、そうだからといって、男をこのままの状態にしておけば、何処かの森にまで行っては、野宿でもしようとするのではないのか? そうなれば、待っているのは、死だけだ。この寒い阿寒の森の中で夜を過ごせば、凍死してしまうだろう。
それで、八代は今夜一晩だけなら、この男を八代の部屋に泊めてやってもいいと思った。
八代は元はといえば、二人部屋を一人で泊まる為に、割増料金を払った。
それ故、部屋のスペースとしては、充分に可能というものだ。後は、この男の宿泊料金を追加すればいいだけなのだ。
もっとも、何故八代が男の宿泊料金まで支払わなければならないのかという疑問もあるのだが、しかし、男のお陰で今日、愉しい思いをさせてもらったのだ。それ故、その謝礼金と思えばいいだけのことだ。
それで、八代はとにかくその思いを男に話してみた。
すると、男は、
「それ、本当ですかね?」
と、眼を輝かせては言った。
「本当ですよ。もっとも、僕と同じ部屋ですがね」
すると、男は眼を輝かせたまま、
「それで構いません! それに、今夜だけで構いません! 明日になれば、何とかしますから!」
と、正に八代に哀願するかのように言ったのだ。
そう男に言われ、八代は笑みを浮かべた。
八代が思うには、男はあの場所で自殺しようとしていたのだ。
男は金も無く、働く所もない。それ故、将来を悲観し、自らで命を絶とうとしたのだ。
だが、そんな男の内情を知らない八代は、そんな男を助けてしまったのだ。
そんな八代は、男にとって、救いの神だったのか、疫病神であったのか、八代には分からなかった。
だが、今の男の言葉を聞くと、八代は救いの神であったょうな気がする。そう思うと、八代は思わず笑みを浮かべてしまったのだ。
そして、二人はこの辺でベンチから立ち上がり、八代の今夜の宿泊先である阿寒湖に面した豪華なホテルに向かったのだった。
やがて、二人はホテルのロビーに入った。そして、チェックインした。
すると、八代の室は、七階の705号室であった。
二人は早速エレベーターで七階まで上がり、705室に向かった。
705室の中に入と、十畳の和室であり、窓際には広縁があり、ソファが一式置かれていた。
それで、八代は早速広縁に行った。
すると、そこからは、真白な平原と化した阿寒湖を一望に出来た。
それで、八代は男に、
「いい眺めですね」
と、いかにも満足そうに言った。
すると、男も満足そうな表情を浮かべては、
「本当ですね」
と、八代に相槌を打つかのように言った。
そして、二人はしばらくの間、まるで何者かに憑かれたように、真白な平原と化している阿寒湖を見やっていたのだが、やがて、八代は、
「あなたは、もう何度も阿寒に来たことがあるのですかね?」
と、眉を顰めては言った。
八代は男と共に、阿寒湖にやって来た結果、男が阿寒湖に関して、かなり詳しいことが分かった。男は阿寒湖に関して、八代が知らないことをかなり詳しく知っていたのだ。
すると、男は、
「僕は以前旭川に住んでいたことがあると言いましたが、その時、時々、阿寒湖に来たのですよ」
と、まるで遠い過去を回想するかのように言った。
「そうでしたか……。
で、いつ訪れたのですかね? 今の季節なんですかね? それとも、夏でしたかね?」
八代は興味有りげに言った。
「冬です。つまり、今の季節に訪れたことがあるのですよ。
何しろ、僕は新潟で生まれ育ちましたから、雪の多い土地に魅かれるのですよ」
と、男はいかにも殊勝な表情を浮かべては言った。
「そうですか。僕は東京で生まれ育ってますから、この寒さは応えますね。もう何度も、今の季節の北海道を訪れたいとは思いませんね」
と言っては、八代は苦笑した。
すると、男もそんな八代に釣られて、苦笑いした。
そして、二人は少しの間、苦笑いしていたが、やがて、八代は、
「で、僕はあなたのことを何と呼べばいいですかね?」
と、今更ながら訊いた。
八代は今まで、男のことを「あなた」と、呼んでいたのだが、姓で呼びたくなったのだ。
すると、男は改まった表情を浮かべては、
「森田と呼んでください」
「森田さんですか。じゃ、森田さん。そろそろお風呂に行きましょうか」
ということになり、二人は最上階にある大浴場に向かった。
因みに、阿寒の湯は、神経痛や筋肉痛に効能があるという。
二人が大浴場に入った時は、既に十人程の人が入浴していた。
八代は森田と共に、早速湯船に身を浸らせた。
湯煙に曇ったガラス窓からは、阿寒湖を眼に出来た。
その光景を眼にしながら、湯に浸かるのは、正に極楽気分であった。
そして、やがて、二人の入浴も終わり、それからは、ヒメマス、ウチダザリガニといった阿寒湖の名物がふんだんに使われた夕食が待っていた。二人はそれに舌鼓を打ったのであった。
そして、夜の十一時頃まで、二人は何だかんだと他愛ない会話を交わしていたが、やがて、床についた。
そして、八代はこんなに打ち解けて話をしたのは、正に久し振りであったという思いを抱きながら、床についたのであった。
だが、そう思ったのは、僅かな時間であった。八代は今日一日の疲れが押し寄せ、一気に眠りに陥ってしまったのだ。