第四章 失意
正に久し振りに深い眠りを味わったという感じであった。何しろ、八代が眼が覚めたのは、午前七時であったのだ。それまで目覚めることなく、八代は眠りについていたのだ。
これが、午前六時であれば、八代はまだしばらく眠っていただろう。しかし、午前七時ともなれば、そうもいかないであろう。
それで、八代はとにかく上半身を起こしてみた。
すると、隣に寝ている筈の森田の姿は見当たらなかった。また、広縁のソファにも座ってはいなかった。
部屋の中には、ユニットバスもあったが、そこにもいる気配はなかった。
<朝風呂にでも行ったのかな>
八代はそう思った。何故なら、それしか考えられなかったからだ。
恐らく、八代を誘おうと思ったのだが、八代は熟睡していたので、一人で行ったというわけだ。
そう察知すると、八代は窓際に行っては、カーテンを開けた。そして、阿寒湖に眼をやった。
すると、それは白い平原であった。とても湖には見えなかった。
そんな阿寒湖は、朝陽を浴び、眩く輝いていたが、一向に森田は戻って来なかった。
時間は午前七時三十分になっていた。
そろそろ仲居が朝食を部屋に持って来る頃であった。
そのことを森田は分かっていた。しかし、まだ戻って来ないのだ。
そう思ってる内に、仲居が朝食を部屋に持って来たので、八代は一人で食べるしかなかった。
そして、やがて、午前七時五十分になった。
こうなってしまえば、やはり、何かあると思ってしまった。
それで、<まさか!>と思いながらも、とにかく、クロゼットを見てみたのだ。
すると、その時、八代の表情は、強張った。何故なら、森田のコートをはじめとする森田の衣服がなかったからだ。
これが、何を物語ってるか、考えるまでもないだろう。即ち、森田は既にこのホテルを後にしたのである!
そう理解すると、八代はしばらく呆然とした表情を浮かべては、少しの間、その場を動くことが出来なかった。その事実は、正に八代の予想だにしてなかったことだからだ。
とはいうものの、後少しすれば、森田は戻って来るかもしれない。その可能性が、全くないわけではないだろう。森田は朝の散歩に出掛けたのだが、何かアクシデントが発生し、戻って来れないのかもしれないからだ。
そう思うと、八代は些か安堵した表情を浮かべては、小さく肯いたのだが、その時、八代はクロゼットの中にある八代のオーバーのポケットに入ってる財布を確かめてみた。
すると、その時、八代の表情はさっと青褪めた。何故なら、八代のオーバーの中に入ってる筈の八代の財布が、無くなっていたからだ。
それで、八代はオーバーだけでなく、ズボンのポケットなんかを調べてみたのだが、やはり、見付からなかった。
それで、クロゼットの中に落ちていないか、調べてみた。
しかし、落ちてなかった。
財布の中には、十万程のお金が入っていた。その財布が何処かに消え失せてしまったのだ。
しかし、バッグの中には、もう一つの財布もあり、その財布にも十万程のお金が入っていた。
それで、その中も調べてみたのだが、すると八代の表情は、再び一気に青褪めた。何故なら、バッグに入っていた財布も無くなっていたからだ!
この時、八代の脳裏には、<まさか……>という思いが過ぎった。
もし、オーバーの中に入っていた財布だけが無くなっていたのなら、スノーシュ―の時に落としてしまったということも考えられる。
しかし、バッグの中に入っていた財布も無くなってしまうということは、有り得ないのだ!
そうなると、考えられるのは、ただ一つ!
そう!
盗まれたのだ!
そう考えると、今になっても、森田の姿が見えないことをうまく説明出来るというものだ。
即ち、八代はまんまと一杯喰わされたのだ! あの森田という男は、とんでもない盗人だったのだ!
そう察知すると、八代の表情は、忽ち険しくなった。それは、正に森田に対する怒りが、八代の表情をそのように変貌させたのだ!
そして、
「あの野郎!」
と、姿の見えない森田に対して、怒りの言葉を発した。
国道240号線で、八代は森田を八代の車に乗せてやり、すると森田は自らの苦労話を八代に聞かせた。そして、八代の同情を誘った。
そして、八代の心の中に何だかんだと入り込んで来ては、八代の同情の思いを奮い立たせた。
しかし、それらは何もかも森田が企てた演出であったのではないのか? 森田は最初から森田に救いの手を差し伸べた者をペテンに掛けてやろうと目論見、その目論見に八代は引っ掛かってしまったというわけなのだ!
そう思うと、八代は更に表情を険しくさせた。
しかし、そんな八代の表情は、次第に穏やかなものへと変貌した。何故なら、八代は森田のことをとんでもないペテン師のようには思えなかったからだ。
殊に、スノーシュ―で八代と共に阿寒湖上をヤイタイ島にまで行った時に見せた優しさ、そして、自然への称賛、畏敬という思いを八代に語った森田と、八代の財布を盗み、八代の許から去って行った森田が、果して同一人物なのか、八代には思えなかったからだ。
そう思うと、森田のことを完全には憎めなかったのだ。
それ故、後少しすれば、戻って来る。そう 淡い期待を抱きながら、まだしばらく、森田のことを待ってみたのだが、やはり、戻って来なかった。
そして、午前九時に近付いた頃、八代は重い腰を上げた。