第五章 新たな出会い

 705号室を後にすると、八代はフロントに行っては、この辺りに警察はないかと訊いた。やはり、森田のことを警察に話さないわけにはいかなかったからだ。
 もっとも、八代はこのホテルに後、二日宿泊する予定になっていた。そして、宿泊料は既に支払っていた。
 それで、宿泊代金は問題なかったのだが、しかし、有り金がなくなったとなれば、外出するわけにはいかない。しかし、一日中、ホテルにいるわけにもいかないのだ。
 それで、実家に電話をして、至急ホテルに現金書留で二十万程送ってくれるように、電話した。
 それに、警察から明日までのお金を借りようと思ったのだ。何しろ、八代は有り金の全てを森田に奪われてしまったのだ。これでは、昼食を食べることすら出来ないというものだ。
 フロントマンから、ホテルの近くに警察官駐在署があると説明されると、八代はとにかくそこに行っては、事の次第を話してみることにした。
 そして、駐在署に行って、中を見ると、警官が二名、何やらデスクワークをしてるようであった。
 そんな二人に、八代は八代が被った被害を話した。 
 すると、滝川警部補(44)が、
「それは、とんでもない被害に遭いましたね」
 と、いかにも八代に同情するかのように言った。
 そして、
「で、八代さんは、有り金を全部盗られたのですかね?」
「そうです。もっとも、鞄の中には、三千円程、残っていましたがね」
 と、八代は渋面顔で言った。正に三千円では、どうにもならないというわけだ。
 そんな八代の話を聞いて、滝川も渋面顔を浮かべた。滝川も三千円じゃどうにもならないということを理解していたからだ。
 そんな滝川に、八代は実家から今、ホテルに二十万現金書留で送ってもらうようにしてるから、それまで二万程貸してくれないかと言った。そして、その八代の申し出は受け入れられた。
 これによって、八代は後二日分程のお金を入手出来た。この時点で一旦ホテルに戻り、今一度、フロントに森田のことを言ってみた。
 しかし、森田はやはり、戻って来てないし、また、八代に何ら伝言を寄せてはいなかった。
 これによって、確定した。
 やはり、森田はペテン師であり、盗人であったのだ!
 そう理解すると、八代はこの時点で森田への思いを断ち切ることにした。
 実のところ、八代の心の片隅には、森田がペテン師であり、また、盗人であったということは、何かの間違いではないかという思いが残っていた。だが、その僅かな思いもこの時点でふっ切れたというわけだ。
 そう理解した八代は、すっきりとした気持ちになった。正に、ぐずついていた天気が、やっと快方に向かうといった塩梅であった。
 そんな八代は、さてこれから何をして過ごそうかと思った。今が冬の季節でなければ、雄阿寒岳登山、雌阿寒岳登山、また、阿寒湖を起点に、周辺の観光地へのドライブというように、色々と選択肢があるのだが、今の季節では、それらは不可能だ。
 それで、八代は観光協会に電話し、何かないかと訊いてみた。
 すると、阿寒湖の冬山トレッキングなどを主催してる阿寒ナチュラリストという観光業者のことを紹介された。
 それで八代は早速阿寒ナチュラリストに行ってみることにした。
 因みに、阿寒ナチュラリストは、アイヌコタンの近くにあった。
 八代は阿寒ナチュラリストの店内に入ると、係員に早速、今から何か観光コースはないかと訊いてみた。
 すると、オンネトートレッキングを案内された。
 オンネトーは、雌阿寒岳の爆発物によって、螺湾川がせき止められて出来た湖と言われ、湖面の彩りが変化することから、「五色沼」とも言われる。
 しかし、今の季節では、その彩りの変化を眼にすることは出来ない。しかし、その氷結した湖上から、雌阿寒岳、阿寒富士を眼にするのは格別だと、スタッフから説明を受けたので、八代はそのオンネトートレッキングを申し込むことにした。
 因みに、オンネトートレッキングは、午後一時出発であり、既に女性が一人予約してるとのことだ。
 それ故、その女性と二人で、八代は阿寒ナチュラリストのスタッフが運転する四輪駆動車で、午後一時になると、オンネトーに向かうことになったのだ。
 八代はしばらく店内にある椅子に座って、出発時間を待っていたのだが、やがて、そんな八代の前に、八代たちをオンネトーに案内するという三十位の男性スタッフが姿を見せては、
「長田と申します」
 と言っては、八代に頭を下げた。そして、
「今日のオンネトートレッキングは、お客さんと、こちらの女性の二人です」
 と言っては、八代の隣にいた女性を八代に紹介した。
 その女性は、紺色のオーバーと紺色のズボンをはいた二十代後半位の女性であった。そして、八代はその女性をさっと一瞥すると、何となく陰気な感じだと思った。
 それはともかく、そんな女性が八代に会釈をしたので、八代も会釈を返した。 そして、八代とその女性を乗せた四輪駆動車は、程なく阿寒ナチュラリストを後にした。
 阿寒ナチュラリストを後にすると、長田は、
「八代さんが申し込みになられて、助かりましたよ。というのは、このオンネトートレッキングは、二人以上でないと行なわれないのですよ。
 元々、長崎さん以外にも、女性の二人組が申し込まれていたのですが、体調を崩されてキャンセルなされたのですよ。
 それで、困っていたのですが、八代さんが申し込みになられたので、こうやってこのコースを実施することが出来たのですよ」
 と、いかにも機嫌良さそうに言った。
 そう長田に言われ、八代は、
「そういうわけだったのですか……」
 と、淡々とした口調で言った。
 そして、八代と共に、後部座席に座っている長崎弥生という女性に、八代は、
「体調を崩されたという女性は、お連れの女性だったのですかね?」
 すると、弥生は、
「いいえ」
 と、小さな声で頭を振った。
 そして、その後、三人の間に少しの間、沈黙の時間が流れたのだが、やがて、四輪駆動車は、樹林帯の中の路に入った。
 辺りは、エゾマツ、トドマツとかいった針葉樹林帯で、まるで、クリスマスツリーを大きくしたような樹々が数多く見られた。
 そんな樹林帯の中を少し進んだ頃、長田は、
「お客さんたちは、どちらから来られたのですかね?」
 と訊いて来たので、八代は、
「東京からです」
 弥生は、
「札幌からです」
「そうですか。で、阿寒湖へは、何度も来られたことがありますかね?」
「僕は今回が初めてです」
「私は、三度目です」
「そうですか。でも、阿寒湖は随分と寒いでしょ」
「そうですね。とても寒いですね。 
 でも、昨日、阿寒湖上でスノーシュ―をやったのですが、それほど、寒いとは感じませんでしたね。太陽が出ていて、身体を動かしていれば、何とかなるという感じでしたね」
「確かに八代さんが言われる通りですよ。
 でも、昨日は風がなかったから、然程寒くはなかったのですが、風が吹くと、やはり、昼間でも寒いですよ」
「そうですか」
「でも、今日も昨日のように、穏やかな日ですから、然程寒くはないと思いますね。
 それに、今日なら、オンネトーからの眺めは、素晴らしいに違いありませんよ」
 そのように長田に言われても、八代にはぴんと来なかった。何故なら、八代はまだオンネトーには行ったことがなかったので、実感として、ぴんと来なかったのだ。
 それはともかく、八代は八代の隣にいる長崎弥生に眼をやった。
 すると、弥生はぼんやりとした表情で、車窓からの眺めに見入ってるかのようであった。八代は長田と何だかんだと話をしてるのだが、弥生はその会話に何ら口を挟もうとはしないのだ。
 しかし、八代はそんな弥生のことを気にかけずに、時は刻一刻と過ぎ、やがて、四輪駆動車は国道241号線に折れた。すると、車の通行量は、一層少なくなった。
 それはともかく、241号線から、やがて、オンネトーへと向かう道に折れた。といっても、その道は冬期は雌阿寒温泉までしか通れなかった。それ以降は通行止めになってしまうのだ。そして、雌阿寒温泉からオンネトーまでは、スノーシュ―で少し歩かなければならないのだ。そして、長田はそのことを八代と弥生に改めて説明した。
 だが、八代はその説明を渋面顔で聞いていた。森の中の道を歩かなければならないのは、大変だと思ったからだ。
 だが、長田から、雌阿寒温泉からオンネトーまでの道もなかなか風情があると聞かされ、八代は表情を綻ばせたのだ。
 それはともかく、八代たちを乗せた四輪駆動車は、やがて雌阿寒温泉に着いた。それで、八代たちは車外に出た。
 すると、自ずから八代たちに冷気が押し寄せて来た。冷凍庫の中に入ったかのようなのだ。
 それで、八代は、思わず、
「寒い……」
 と言っては、小刻みに身体を震わせた。
 すると、長田は、
「ここは、陽が当たりませんからね。だから、元々寒い場所なんですよ」
 雌阿寒温泉といっても、阿寒湖畔に建ち並ぶような豪華なホテルが見られるわけでもなく、ただ、民宿を少し大きくしたような宿が三件あるだけであった。そして、その三件の宿を総称しては、雌阿寒温泉と呼ぶのだそうだ。
 八代たちの車は、そのうちの一軒の駐車場と思われる所に停められ、八代たちはそこでスノーシュ―に履き替えた。
 因みに、辺りには八代たち三人以外に人は見られず、また、その辺りには普通車が二台停められていた。
八代と弥生がスノーシュ―に履き替えると、それを待ってましたと長田は言わんばかりに、
「さあ! 出発しましょう!」
 と、威勢の良い声で言った。
 そんな長田の後に、八代と弥生は続いた。
 やがて、三人は森の中の道に入った。長田が言うには、今、八代たちが歩いてる道は、雪のない季節では、道ではないと言う。つまり、冬しか歩けない場所だそうだ。
 それで、八代は、
「このような道なら、迷ったりはしないのですかね?」
 と、些か心配そうに言った。
 すると、長田は、
「僕たちは毎日といっていい位、歩いてる道なんですよ。ですから、僕がいる限り、大丈夫ですよ。
 でも、お客さんたちだけで歩くのは止めてくださいね」
 と、笑いながら言った。
 それで、八代は苦笑いした。
 正に、辺りは森閑としていて、八代たちが歩く音以外は何も聞こえなかった。正に、八代たちが歩くのを止めれば、辺りは静寂そのものの世界となるのだ。
 長田は少しだけ歩くといったが、なかなかオンネトーには着かなかった。
 それで、八代は長田に、オンネトーまで後どれ位歩くのか、訊いたところ、
「一キロ位ですね」
 それでは、なかなか着かない筈だ。
 それで、八代は納得し、長田と弥生と共に、その後、黙々と、ただひたすらにスノーシュ―で歩き続けた。
 そして、どれ位時間が経過したのかは分からないが、やっとオンネトーに着いたのだった。
 しかし、八代は最初はそこがオンネトーだとは分からなかった。何故なら、八代は今までにオンネトーを訪れたことはなかった為に、オンネトー周辺のことが分からなかったことと、また、その真白な平原は、森の中の平地だと思ったりしたからだ。
 そういった具合だったから、長田からここがオンネトーだという説明を聞いて、初めてそこがオンネトーだと分かったという次第なのだ。
 それはともかく、やっと目的地に着いたということで、八代はやれやれと一息ついた。また、弥生もそんな具合だ。
 そんな八代と弥生に、長田は、
「さあ! これから、オンネトーの上を歩きましょう」
 と、威勢の良い声で言った。
 すると、八代の表情は、一気に綻びた。何故なら、氷結したオンネトーの上をスノーシュ―で歩くのが、オンネトートレッキングの醍醐味であり、また、八代もそれを愉しみにしていたからだ。
 それはともかく、長田に続いて、八代、そして、弥生が、ゆっくりとした歩調で、オンネトーの上を歩き始めた。
 すると、自ずからくすんだ色をした森を隔てて、真白に雪化粧された雌阿寒岳と阿寒富士の勇姿を否応なく望むことが出来た。そして、その白と真っ青な青空とのコントラストは見事なものであった。そして、雌阿寒岳は正に貴婦人のように高貴で、阿寒富士を侍らせてるかのようであった。
 正にその表現がぴったりと思われる位、その山容は秀麗であった。
 また、氷結したオンネトーの白さも、また、見事であった。
 そんな光景を目の当たりにして、八代は思わず、
「素晴らしい眺めですね」
 と、正に感嘆したように言った。
「そうでしょ。お客さんは皆、そのように言われますよ。
 でも、青空が出てなければ、また、印象が違って来るのですがね」
 と、長田は説明した。
 八代は改めて周囲を見やった。
 すると、オンネトーは正に真白な平原であった。そして、その白さは、雌阿寒岳と阿寒富士を白くしてる白と同じ色であった。
 また、辺りには、八代たち三人以外は、誰もいなかった。阿寒湖上とは違って、人の姿はまるで見られなかった。正に今や三人がオンネトーを独占していたのだ!
 そんなオンネトーの真ん中辺りに向かって、三人は歩き始めた。
 そして、やがて、オンネトーの真ん中辺りにやって来た。何しろ、オンネトーは然程大きくない湖だ。阿寒湖のように、時間は掛からなかったのだ。
 それはともかく、辺りが余りにも森閑としてることが影響してるわけでもないだろうが、今日は何だか寒さが八代は身に応えた。
 昨日は阿寒でスノーシュ―を履いてヤイタイ島近くまで行ったが、然程寒さは感じなかった。しかし、今日は昨日とは違って、寒さをひしひしと感じてしまうのだ。
 それで、八代はそのことを長田に言った。
 すると、長田は、
「そりゃ、オンネトーの方が、阿寒よりの山の中にありますからね。そのことが影響してるのかもしれませんね」
 と、淡々とした口調で言った。そして、
「今日は見られないですが、時々、湖上でキタキツネの足跡を眼に出来るのですよ」
 と言っては、長田は改めて周囲に眼をやった。だが、それらしきものは、眼に出来なかった。
 それで、八代は空を見上げた。
 すると、上空に巨大な鳥が飛翔するのを眼に捕えてしまった。
 そう! オオワシだ! オオワシが阿寒の森に姿を見せていたのだ!
 それで、八代は思わず、
「オオワシだ!」
 と、甲高い声で言ってしまった。
 それで、長田と弥生も、八代のように空を見上げた。
 すると、オオワシと思われる鳥は、正にあっという間に、森閑とした森の中に消えてしまった。
 しかし、長田の眼は、確かにその鳥の姿を眼に捕えていた。
 それで、長田は、
「本当ですね。あれが確かにオオワシですね」
 と、いかにも感慨深げに言った。 
 だが、それは八代にとって意外であった。何故なら、オオワシは流氷と共に大陸から網走地方や知床方面にやって来る鳥だと思っていたからだ。即ち、何故そんなオオワシが阿寒といった内陸部にまでやって来るのか、八代には分からなかったのだ。
 それで、その疑問を長田に話してみた。
 すると、長田は、
「エゾシカの肉を求めて、最近ではオオワシとかオジロワシが、阿寒方面でも姿を見せるのですよ。
 もっとも、オオワシやオジロワシが狙ってるは、エゾシカの死肉であって、生きているエゾシカを襲うわけではありません」
 と、説明した。
 すると、八代は、
「なるほど」 
と、些か納得したように肯いた。だが、
「でも、何故、オオワシとかオジロワシは、阿寒の森にエゾシカの死肉があるということが分かるのでしょうかね?」
 その八代の問いに、長田は言葉を詰まらせた。何故なら、長田はその八代の問いに、適切な答えを見出すことは出来なかったからだ。
 だが、長田は、
「でも、それは動物の本能というものではないでしょうかね。
 因みに、知床で生まれたサケは、北太平洋の方まで回遊するというじゃないですか。そんなサケが産卵する時は、生まれ故郷の知床まで戻って来るのですよ。
 このことは、正に自然の驚異という以外に説明のしようがないですよ。
 そう! 正に自然は驚異に満ちてるのですよ!」
 と、眼を大きく見開き爛々と輝かせては言った。
 そんな長田は、まるで驚異に満ちた自然を相手にしている自らに、強い賛美を送ってるかのようであった。
 そして、この時点で、長田は持参して来たザックから、ポータブルのガスコンロを取り出しては、湯を沸かし始めた。
 そして、湯が沸き上がると、長田は紙コップに湯を注いでは、コーヒーを作った。
 そして、そのコーヒーが入った紙コップを八代と弥生に渡した。
 八代と弥生は、それぞれ長田に礼を言っては、長田からその紙コップを受け取った。
 八代はその紙コップを掌で包み込んだ。
 すると、自ずからその温かさが掌に染みて来た。
 八代はコーヒーを飲み始めた。そして、その温かさ、美味しさを体内に感じながら、雌阿寒岳、阿寒富士へと眼をやった。
 すると、八代は久しく忘れていた幸福というものを実感したような気がした。
 正に、阿寒に来てよかった!
 改めて、その思いが込み上げて来た。しかし、いつまでもオンネトーに居続けるわけにはいかなかった。何しろ、今回のツアーの時間は、三時間半なのだから。
 八代と弥生がコーヒーを飲み終えると、それを待ってましたと言わんばかりに長田は、
「じゃ、そろそろ戻りましょうかね」
 と、八代と弥生の顔を交互に見やっては言った。
 それで、八代と弥生は表情を改めては、そして、黙って肯いた。
帰りは、往きとは違って、長田は八代と弥生に話し掛けようとはせずに、黙々と歩みを進めていた。オンネトーからの出発予定時間を過ぎてしまった為に、その遅れを取り戻そうとしてるのかもしれない。
そんな長田に、弥生の歩みは、少し遅れた。
 しかし、長田は先頭を歩いてる為に、そんな弥生の事に気付かないみたいだ。
 すると、その時、アクシデントが起こった。弥生が「痛い!」という小さな叫び声を発しては、その場に蹲ってしまったのだ。
 それで、八代は歩みを止め、弥生に、
「どうしたのですかね?」
 と、心配そうに言った。
「足を挫いてしまったのですよ」
 弥生は些か顔を赤らめては、いかにも困ったと言わんばかりに言った。
「そりゃ、大変だ! 全然歩けそうもないのですか?」
 八代はいかにも心配そうに言った。
「ええ」
 と、弥生は八代から眼を逸らせては、いかにも決まり悪そうに言った。
 八代はこの時、長田を見た。
 だが、長田は後を振り返ろうとはせずに、ひたすら歩みを進め、八代と弥生との距離は広がるばかりだった。
 それで、八代は、
「もし僕でよろしければ、負ぶってあげますがね」
 と、些か顔を赤らめては、言いにくそうに言った。
 すると、弥生は、
「そのようなことをやっていただいて、よろしいのですかね?」
 と、半信半疑の表情を浮かべては言った。
「そりゃ、僕は構わないですよ」
 八代は微笑しながら言った。
「じゃ、お言葉に甘えようかしら」
 と、弥生は些か顔を赤らめては言った。
 それで、八代は身体を屈めた。
 そんな弥生はまるで赤ん坊のように、八代の背中に摑まった。
 八代は弥生を負ぶったまま立ち上がったのだが、思わず「重い……」と、呟くように言った。何しろ、弥生はぶ厚いオーバーを身に付けている上に、何が入ってるか分からないかなり大きなザックを背負っているのだ。更に、スノーシュ―を履いているのだ! これでは、重くないわけがないだろう。況してや、今は雪の上なのだ! しかし、足を挫いたという弥生を、このままにしておくわけにはいかないであろう。
 それ故、八代は辺りの光景に眼をやるどころではなかった。とにかく、車が停まっている雌阿寒温泉の駐車場にまで、弥生を運ばなければならないのだ。
 すると、この時点で、かなり前を歩いていた長田が振り返り、弥生を負ぶっている八代の姿を眼に留めた。
 すると、長田は早足で八代たちの許に戻って来ては、
「どうしたのですかね?」
 と、いかにも心配そうに言った。
「足を挫いてしまったのですよ」
 と、八代に負ぶってもらってる弥生は、いかにも申し訳なさそうに言った。
 すると、長田は、
「じゃ、僕が負ぶって行きますよ」
 と、笑顔を見せては言った。
 そんな長田に、八代は、
「大丈夫ですよ。僕が負ぶって行きますよ。その代わり、長崎さんのザックとスノーシュ―を持ってください」
 ということになったのだが、林の中を少し進んだ頃、八代はぐったりしてしまった。
 そんな八代のことに気付いたのか、弥生は、
「もうかなりよくなりましたから、私、ここからは自分で歩きます」
 そう言われ、八代は一瞬安堵したような表情を浮かべたが、
「でも、歩けるのですかね?」
 と、いかにも心配したような表情を浮かべては言った。
「大丈夫です。何とか、歩けそうですから。じゃ、私を下ろしてくださいな」
 そう弥生に言われたので、八代はとにかく弥生を地面に下ろした。
 だが、弥生は忽ちよろけてしまった。
 それで、八代は思わず、
「大丈夫ですかね?」
 と、、再びいかにも心配したように言った。
 すると、弥生は体勢を立て直しては、
「大丈夫です。思っていた以上に、悪くないみたいですから。でも、荷物までは……」
 と、いかにも申し訳なさそうに言った。
「荷物なら、僕が持って行きますよ」
 既に、ザックを手にしてる長田は、些か笑みを浮かべては言った。
 そんな長田に、弥生は、
「じゃ、お願いします」
 と言っては、軽く頭を下げた。
 そういう風にして、三人はオンネトーから雌阿寒温泉に向かって、再び森の中の道を歩き始めた。
 森の中は、相変わらず森閑としていた。ただ、三人が立てる音以外、何も聞こえなかった。
 三人の足取りは、弥生が怪我をしたことで、往きよりもかなり遅いペースであったが、長田は時々、弥生に、
「大丈夫ですか?」
 と、声を掛けた。
 すると、弥生は、
「大丈夫です」
 という声を返した。
 往きよりも十五分程遅れて、三人は何とか雌阿寒温泉に着くことが出来た。
 すると、長田は、
「やっと着きましたね」 
 と、いかにも安堵したような表情を浮かべては言った。それで、八代と弥生は、そんな長田に微笑を返した。
 そして、三人はこの時点でスノーシュ―を脱いでは、自らの靴に履き替えると、四輪駆動車に乗車し、四輪駆動車は程なく出発した。
 四輪駆動車が出発すると、三人はしばらく会話を交わさなかった。それは、今の三人の疲労を物語ってるかのようであった。
 だが、やがて、長田は、
「オンネトー周辺には、湖上だけではなく、色んな散策コースがありましてね。雪がなければ、とても行けないような場所に行けるのが、冬のスノートレッキングの醍醐味なんですよ」
 と、流暢な口調で言った。
「長田さんたちは、自分たちでそういったコースを見付け出してるのですかね?」
 と、八代は些か興味有りげに言った。
「勿論、そうですよ。それも僕たちの仕事なんですよ。また、その仕事は随分と愉しいですよ。
 そして、そういったとっておきの場所にお客さんを案内するというわけですよ」
 と、長田は声を弾ませては言った。
「そういうわけですか……。では、またいい場所があれば、案内してもらいたいですね」
 と、八代は眼を輝かせては言った。
「そりゃ、勿論、案内させてもらいますよ。
 それに、冬だけではなく、春、夏、秋も盛りだくさんのコースを設定してますから、是非、またいらしてください」
「いつかまた来ますよ」
 と、八代は声高に言った。そして、それは、本音でもあった。
 帰路は、八代と長田が、こういった話をしていたのだが、弥生は捻挫した足が痛いのか、元気が無く、八代と長田の会話に加わりそうもなかった。
 やがて、針葉樹の中の道を抜け、阿寒湖畔に入った。阿寒ナチュラリストまでは、後少しだ。
 やがて、八代たちを乗せた四輪駆動車は、阿寒ナチュラリストに着いた。
 それは、午後五時前のことであった。
 四輪駆動車のエンジンを切ると、長田が先に車外に出ては、八代と弥生が乗車していた後部座席のドアを開け、八代と弥生を迎えた。
 そして、八代と弥生が車外に出ると、
「お疲れ様でした」
 と言っては、頭を下げた。
 それで、八代と弥生も、軽く頭を下げた。
 これによって、阿寒ナチュラリストが主催したオンネトートレッキングは終わった。
 それで、八代は阿寒ナチュラリストに背を向けて帰ろうとしたのだが、弥生のことを思い出した。弥生は足を挫き、思うように歩けないのだ。
 それで、八代は降り返り、弥生を見やったのだが、弥生はベンチに座ってザッグを足元に置いては、ぼんやりとした表情を浮かべていた。そんな弥生は、どうしてよいのか、困ってるかのようであった。
 それで、八代は長田の姿を探してみたのだが、長田は辺りには見当たらなかった。
 それで、八代は弥生に、
「今日、阿寒を発たれるのですかね?」
「いや。そうじゃないです」
「じゃ、今日は阿寒のホテルに宿泊されるのですかね?」
「ええ」
 と、弥生は神妙な表情を浮かべては言った。
 そう弥生に言われ、八代は些か安堵したような表情を浮かべた。何故なら、弥生の状態からして、今日、阿寒を後にするのは無理だと思っていたからだ。しかし、そうでないことが分かり、八代は些か安堵したような表情を浮かべたのだ。
 そんな八代の口からは、
「どちらのホテルにお泊まりですかね?」
 という言葉が、自ずから発せられた。
「鶴居ホテルです」
「鶴居ホテルですか。それは何処にあるのですかね?」
 と、鶴居ホテルのことを知らなかった八代は、眉を顰めては言った。
「阿寒湖畔に建ち並ぶホテルの真ん中辺りにあります」
「そうですか。じゃ、僕が泊まってるホテルのすぐ近くですね。じゃ、僕も今から僕のホテルに戻るところですから、鶴居ホテルまで送って行きましょうかね」
 八代は穏やかな表情と口調で言った。
「よろしいのですか?」
 弥生は半信半疑の表情を浮かべては言った。
「構わないですよ。これから特に予定はないですからね」
 と、八代は声を弾ませては言った。
「そうですか。助かります」
「それで決まりだ。で、足はまだ痛みますかね?」
 八代は弥生が挫いたという右足首を見やりながら、いかにも心配したような表情を浮かべた。
「大分、楽になったのですが、でも、歩くと、やはり、まだかなり痛みますね」
 弥生は渋面顔で言った。
「じゃ、僕が肩を貸しますから、僕の肩に摑まって鶴居ホテルまで行ましょう」
 ということになり、弥生は右腕で八代の肩を抱えるような恰好をとって、二人でゆっくりとした足取りで歩き始めた。
 道路はかなり除雪されてるとはいえ、所々は凍結した部分もあったので、そんな中を肩を貸して歩くことはなかなか大変ではあったが、何とか転倒することなく、鶴居ホテルに着くことが出来た。
 鶴居ホテルのロビーにまで弥生を送り届けると、八代は「やれやれ」と大きく息をついた。阿寒ナチュラリストからの距離は大したことはなかったものの、ここまで弥生を送り届けたのは、なかなか大変だったのだ。
 それで、八代は自ずから安堵したような表情を浮かべたのだが、その表情と共に、八代はこの時点で八代の弥生に対する役割は終わったと理解した。
 また、時刻もそろそろ五時半に近付いた。ホテルのロビー内は煌々と明かりが灯ってるものの、外は夜だった。
 それ故、八代はそろそろ八代のホテルに戻らなくてはと思った。何しろ、夜の阿寒の寒さが、ひしひしと押し寄せて来るからだ。そんな中をたとえ少しの距離でも歩きたくないというのが、八代の本音であったのだ。
 八代はそのように思い、この辺で弥生に別れの挨拶をしようと思い、弥生を見やったのだが、すると、そんな八代より先に弥生が、
「本当にありがとうございました」
 と言っては、深々と頭を下げた。
 それで、八代は、
「どういたしまして」
 と、いかにも謙虚な様を見せては言った。
 そんな八代に、弥生は、
「あの……、このような事を言うのも厚かましいのですが、私の部屋の前まで送っていただけないですかね」
 と、殊勝な表情を浮かべては、いかにも言いにくそうに言った。
 すると、八代は、
「そうでしたね。僕はそのことを忘れていましたよ」
 と、些か顔を赤らめては言った。
 何しろ、弥生は足を挫いたのだ。それで、一人では歩けない位なのだ。弥生の体力はもう限界なのではないのか?
 即ち、このロビーまで送り届けただけでは、八代の役割はまだ終わってはいなかったのだ。
 八代の言葉を耳にすると、弥生は嬉しそうな表情を浮かべた。
 そして、フロントまで何とか行くと、鍵を受け取り、八代の肩を借りて、エレベーターの前まで行き、そして、六階まで上がった。弥生の部屋は、六階の606号室であったのだ。
 八代と弥生は、606号室の前まで来た。
 すると、八代は今度こそ、別れの時だと思った。
 それで、八代は、
「じゃ、ここで」
 と、別れの挨拶をしようとしたのだが、そんな八代の言葉よりも先に、弥生が言葉を発した。弥生は、
「ここまで送っていただいて、八代さんにこのまま帰ってもらわれては、私の気が済みません。
 それで、八代さんに少しばかりのお礼がしたいのですよ」
 今までの疲れ切ったような表情と打って変わって、毅然としたような表情を見せては言った。
「お礼って、そんな……」
 八代は殊勝な表情を浮かべては言った。
「そう言わずに、私の気持ちを察してくださいな」
 弥生はそう言うと、606号室の鍵を開け、そして、半ば強制的といっていい位、八代を部屋の中に入れた。
 部屋の中に入った時は、真っ暗であったが、弥生が灯を点けると、部屋はツインルームであった。
 といえども、無論、ダブルベッドではなく、シングルベッドが二つ置かれていたのだが。
そんな弥生の部屋の中を、八代はきょとんとした表情で見入っていたのだが、そんな八代に、弥生は、
「割増料金を払って、二人部屋を一人で使わせてもらってるのですよ」
 とさりげなく言った。
「そうでしたか……」 
 と、八代もさりげなく言った。
 そんな八代に、弥生は窓際に置かれてる椅子に座るように促しては、
「コーヒーを淹れますから、少し待ってくださいね」
 と言っては、ポットに水を注ぎ、ポットの電源コードをコンセントに差し込んだ。これによって、ポットの水が、少しして湯に変わるというわけだ。
「今日は私の為に随分と迷惑を掛けてしまい、申し訳ありませんでした」
 弥生はベッドに腰を降ろしては、八代を見やっては、いかにも申し訳ないと言わんばかりに言った。
「迷惑だなんて……。そんなことありませんよ。
 僕は今日、明日と、阿寒に泊まるのですが、でも、冬ですから、動きが取れませんでしてね。それで、どうやって時間を過ごそうかと、頭をひねっていたのですよ。 
 そんな僕ですから、迷惑だなんて、全く思ってませんよ。
 それどころか、随分と思い出深い経験をさせてもらいましたよ」
 と、八代は表情を綻ばせては言った。
「そうですか。そのように言われ、私、とても嬉しいです」
 と、弥生は嬉しそうに言った。
 そんな弥生に、八代は、
「長崎さんは、いつから阿寒に来られたのですかね?」
「二日前です」
「二日前ですか。では、昨日は何をされてたのですかね?」
 八代は興味有りげに言った。
 すると、弥生は十秒程、言葉を詰まらせたが、やがて、
「ずっと、この部屋の中にいました」
 そう言った弥生の表情は、何となく強張ってるかのようであった。
 そんな弥生を見て、八代は何だか訊いてはいけないようなことを訊いてしまったかのような気がした。
 それで、八代は自らが阿寒に来てからのこと、即ち、件の男との出会いから、阿寒湖の上をヤイタイ島にまでスノーシュ―で行ったこと、そして、男にお金を盗まれるに至るまでの経緯を話したのだが、湯が沸いたので、弥生はコーヒーカップにお湯とインスタントコーヒーを入れては、八代に渡した。
 それで、八代は、
「どうも」
 と、軽く礼を言っては、コーヒーカップを受け取り、一口飲んだ。
 元々、コーヒー好きの八代は、お腹が空いていたということもあり、コーヒーがとても美味しく感じられた。
 それで、八代は美味しいと思いながら、半分程飲み終えると、コーヒーカップをテーブルの上に置いた。
 すると、弥生は、
「少し待っていてくださいね」
 と言っては、ユニットバスの中に入った。
 それで、八代はしばらくの間、窓越しに阿寒湖を見やっていたのだが、程なく、何だか眠くなって来た。
 先程までは、全然眠くなかったのだが、コーヒーを飲んでから、何だか急に眠くなって来たのだ。
<疲れてるのかな>
 八代はそう思ったのだが、何だか瞼が自ずから塞がって来る。
 それで、眼を開けたり閉じたりしていたのだが、そんな八代の眼は、弥生の姿を捉えていた。
 そんな弥生の表情は、とても真剣なものに見えてしまった。そんな弥生の表情は、先程のものとは、まるで違っていたように見えた。それは、正に今まで八代が眼にしたことがないような弥生の表情であった。
 だが、そう思ったのが、八代が覚えていたことの最後であった。何故なら八代はその後、予期せぬ眠りに落ちてしまったからだ。
 
 とはいうものの、八代はやがて、意識が戻った。
 それで、八代は眼を開け、上半身を起こそうとしたのだが、思い留まった。何故なら、八代は今、ただならぬ状態に置かれてると察知したからだ。
 ただならぬとは、何と素っ裸と思われる女性が、八代の傍らに寄り添っては、八代の男性のシンボルを弄んでるからだ。そんな八代の男性のシンボルは、屹立はしてないものの、萎えてもいないようだった。
 そんな八代の男性のシンボルを、素っ裸の女性が、口に含んだり、手で摩ったりしてるのだ。
 即ち、八代も女性と同様、下半身丸出しの素っ裸だったのだ!
 この予期せぬ状態に、もし八代が普通の人なら、驚きの声を発し、上半身を起こしたであろう。
 しかし、八代は十年以上も警察官として働いて来た実績があったのだ。それ故、予期せぬ出来事に遭遇しても、決して怯まないように教育を受けて来たのである。
 それで、八代は気が戻ったといえども、そのことを女性に感づかれずに、女性の行動を見守ろうとしたのだ。
 やがて、薄明かりの下に、八代の身体を弄んでる女性は、間違いなく、八代と共にオンネトートレッキングを行なった長崎弥生であることが分かった。
 しかし、今の弥生は、八代が眠りに落ちる前に八代に見せていた弥生とは思えなかった。
 八代が知っている弥生は、正に弱々しい女性であったのだが、今の弥生には、その弱々しさは見られずに、とても大胆で、奔放で、そして、とても力強いのだ。
 そんな弥生は、やがて、八代に覆い被さって来た。そして、八代の男のシンボルを弥生の女性の部分に挿入させようとしたのだ。
 しかし、八代のその部分が萎えていたので、弥生はそれが勃起するようにと、弥生は手でそれを摩り始めたのだ。
 それを受けて、八代は堪らず勃起してしまった。
 すると、弥生はその時を待ってましたと言わんばかりに、弥生の女の部分にそれを素早く挿入させたのだ! そして、弥生は弥生の腰を激しく上下に律動させたのだ!
 これには、八代は参ってしまった。八代はあっさりと、男の液を弥生の中に放出させてしまったのだ!
 それで、八代は思わず声を上げようとしたのだが、それを八代の理性が制した。
 そう! 八代は今、眠っているのだ!
 だから、声を上げてはいけないのだ!
 それ故、八代は飽くまで眠ってる振りをした。
 弥生はといえば、八代が十分に男の液を弥生の中に放出したことを感じ取ると、八代のものを弥生の中から取り出し、そして、八代の男のシンボルから滴り出ている液をティッシュで拭き取っては、綺麗にした。
 そんな弥生は、立ち上がると、浴室に行ったようだった。何故なら、シャワーの音が聞こえたからだ。
 八代はぼんやりとした意識の中で、<一体、これはどうしたことだろうか?>と思ってみた。即ち、今、起こった出来事が、現実の出来事なのかと思ったのだ。
<いや。そうじゃない! 夢を見てるのだ!>
 とも思った。そして、それが正しいのだと思った。
 そう思うと、八代は納得した。
 そして、八代は今度こそ、深い眠りに落ちたのだった。

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