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 南原千畳敷といえば、その昔、八丈島の噴火により、八丈富士の溶岩が海に流れ落ちた時に出来た溶岩海岸で、八丈島の見所の一つに挙げられている。
 千畳敷からは、太平洋の荒波を眼にすることが出来るし、また、少し向こうの方に眼を向ければ、八丈小島が否応なく眼につくというものだ。
 この風景は、正に富士箱根伊豆国立公園に指定されるのに、申し分ない景観といえるだろう。
 とはいうものの、あまり海際に近付かない方がよい。何故なら、千畳敷は海際から崖のように屹立してる為に、危険だからだ。あまりにも近付き過ぎれば、死亡事故にも繋がりかねない。
 しかし、その男は、そういった危険を厭わないのか、かなり海際まで近付いていた。そんな男を眼にすれば、まるで危険を気にしない冒険家のようだ。
 そして、男は海際にまで後一メートル程に迫った。
 すると、怒濤のような荒波が、男の眼前で砕け散った。
 男はといえば、そんな荒波を感じ入ってるかのようであった。正に、その荒波に対峙する為に、今、この千畳敷にやって来たかのようであった。
 そんな男を千畳敷の石碑近くから眼にしていたのは、若村芳樹という五十半ばの男であった。
 若村は今、失業中であった。
 若村の失業期間は、もう五年続いていた。それ故、失業とはいえないかもしれない。
 今や、若村は職を探すのをすっかりと諦めてしまったかのようであった。 
 そんな若村の生活資金は、預貯金であった。今まで貯めた蓄えを元に株式投資を行ない、その結果、資金を十倍にすることに出来たのだ。その金額は、若村一人が十年は生きて行くのに十分な金額であった。 
 それ故、若村はここ五年ばかり、自由気儘に暮して来たのである。
 そして、今のように、時々旅行を行ない、日々の暮らしを愉しんでるのだ。
 しかし、愉しい思いを出来るのは、旅行をしてる時位で、最近では蓄えが徐々に無くなって行くのを、ひしひしと実感していた。
 そうかといって、昔のように、株で大儲けを出来るような相場ではなかった。株をやれば、損をしてしまうというような状況と変容してしまってるのだ。 
 それで、若村は何とか金儲けをしなければならないと、内心では焦りを感じていたのだが……。
 それはともかく、今、若村の眼に映っている千畳敷に佇んでいる男は、前川貫太郎といった。前川は東京都内で、コンピューター関係の会社で働いていたが、三日間の休暇を取れたこともあり、八丈島にやって来た。
八丈島は思い出深い島であった。というのは、小学校三年の夏休みの時に、亡き両親に連れられて初めて飛行機に乗り、やって来たのが、この八丈島であったのだ。 
 そして、その時から既に三十五年が経過していた。 
 その間、前川は一度も八丈島を訪れたことがなかった。
 その理由は特にない。
 強いていえば、八丈島以外にも行ってみたい観光地はいくらでもあったし、それに、元々、前川は旅行が好きではなかったのだ。 
 しかし、昨年両親が相次いで他界した為に、両親と過ごした日々のことを思い出す日々がここしばらくの間、続いていた。八丈島を訪れたのも、両親と過ごした日々を思い出す為であったのだ。
 そして、前川は両親とこの千畳敷に佇んでいたことを覚えていた。
 それ故、今や、前川の脳裡は、三十五年前の過去に遡っていたのだ。そんな前川の双眸には、太平洋の荒波は映っていないかのようであった。
 そんな状況であったのだが、そんな前川に、一人の男がゆっくりとした足取りで、近付いて行った。そんな男は、前川の背後からゆっくりとした足取りで近付いてる為に、前川の双眸は、その男の姿が眼に入らないようであった。
 また、辺りには今、前川の背後から近付いてる男と、若村しか見当たらなかった。
 というのは、今日は十月のウィークディであり、まだまだ朝の九時前という時間だからだろう。
それはともかく、前川の背後からゆっくりとした足取りで近付いてる男は、よく見ると、色の付いたサングラスを掛けてるようであった。
 そして、そんな男は、まるでゆっくりと前川の背後から忍び足で近付いてるかのようであった。
 そして、前川の背後一メートルと迫ったその時である。
 男は一気に前川の背後に向かって体当たりしたのである!
 その結果、前川の身体は前面に押し出され、一気に断崖下の海へと落下してしまったのだ!

 その男はといえば、断崖際に屈み込んでは近付き、眼前に眼をやった。
 男は、男によって突き落とされた前川がどうなったかを確認してるかのようであった。
 若村にはそう思われた。
 そして、若村をはといえば、そんな男の様を唖然とした表情を浮かべては眼にしていたのだが、若村の表情は、突如、緊張したものへと変貌した。何故なら、若村は正にとんでもない場面を眼にしたと理解したからだ!
 そう! 若村は間違いなく殺人の場面を眼にしたのだ!
 そんな若村は、本能的にこの場から逃げなければならないと察知した。即ち、殺人犯に若村が殺人の場面を眼にしていたことを知られるのは、まずいと察知したのである!
 それ故、若村は素早く自らのレンタカーに戻り、そして、その場を後にしようとした。
 しかし、若村はその時、殺人犯が乗って来た車のナンバーを素早くメモしたという抜かりなさを発揮したのであった。

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