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その翌日の午後一時頃、前川の死体は発見されることになった。というのは、午後一時頃、千畳敷にやって来た横浜在住の岡田悟という男性が、千畳敷から海の方に眼を向けていたところ、断崖際に人間らしきものが浮かんでるのを発見し、警察に届け出たのだ。
それを受けて、八丈島署員が海上から捜索し、その二時間後に前川の死体を発見し、やがて、陸揚げすることに成功したのであった。
もっとも、最初からその男性の身元が明らかになっていたわけではない。
何故明らかになったかというと、千畳敷の道路際に昨日からレンタカーが駐車されたままになってるという情報を入手し、そのレンタカーを借りていたのが、東京都在住の前川貫太郎ということが分かった。そして、その前川の免許証の顔写真から、その死体は、前川貫太郎だということが明らかになったというわけだ。
前川の死体の状況からして、前川が千畳敷から海に落下し、死亡したことは明らかであった。
しかし、何故前川が死んだのか、つまり、事故死なのか、あるいは、自殺なのかというようなことは、まだ明らかにはなってなかった。
それ故、八丈島署としては、一応、前川の死は、捜査してみる必要があると看做した。
それはともかく、前川の死を家族の者に伝えなければならないので、八丈島署の角田強警部(45)は、前川の連絡先を調べ出すと、早速、前川の自宅に電話をしてみた。
だが、電話は繋がらなかった。
だが、午後七時頃になって、電話が繋がった。
そして、角田の電話相手が、前川の妻の聡子であるということを確認すると、まず、前川が今、八丈島に行っていないか確認してみた。
すると、その確認は取れた。即ち、前川は今、一人で八丈島旅行の最中だというのだ。
それで、千畳敷で見付かった男性の遺体は、前川であるに違いないと思った角田は、聡子に前川の死を伝えた。
すると、聡子は、
―それ、本当ですかね?
と、いかにも信じられないように言った。
「ええ。間違いないと思います。ご主人が借りていたレンタカーに入っていた免許証から、そう我々は断定しましたから」
―……。
「でも、念の為に、奥さんにその遺体が本当にご主人なのか見てもらいたいのですよ」
そう角田に言われたので、聡子は早速、翌日の八丈島行きの第一便に乗って、八丈島に向かった。
そして、八丈島にあるM病院で、早速、その男性の遺体と対面してみたが、やはり、それは、聡子の夫の前川貫太郎であった。
それを受けて、角田は、聡子に悔やみの言葉を述べてから、前川の死が、まだ自殺なのか、事故なのか、何とも言えないという旨を説明した。
そんな角田の説明に、聡子は言葉を挟まずにじっと耳を傾けていたが、角田の説明が終わると、
「主人は自殺はしないと思います」
と、いかにも厳しい表情を浮かべては言った。
「そのような気配は見せていなかったのですかね?」
「そうです。ここしばらくの間は、健康状態も良好でしたね。それ故、一人で八丈島旅行も行なったのですよ。体調が悪ければ、そのようなことは行なわないですよ」
と、聡子は神妙な表情で言った。
「ということは事故死ですかね」
と、角田は渋面顔で言った。
しかし、角田は事故死ということは信じられなかった。というのも、大の大人が千畳敷の断崖際にまで近付いて行っては、足を踏み外して事故死するという可能性は極めて小さいと思ったからだ。
それで、その思いを聡子に話した。
すると、聡子は渋面顔を浮かべては、言葉を発そうとはしなかった。そんな聡子は、今の角田の言葉に何と答えればよいか、思いを巡らせてるかのようであった。
そんな聡子に、角田は渋面顔を浮かべては、
「まさか、殺しということはないと思うのですが、しかし、自殺でもなければ、事故でもない。となると、殺しという可能性も絶対に有り得ないことはないと思うのですよ」
と、聡子に言い聞かせるかのように言った。
すると、聡子は、
「それもないと思うのですが」
と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。
「では、ここしばらくの間で、誰かと何かトラブルを抱えておられませんでしたかね? それとも、ご主人は何者かに恨まれてはいませんでしたかね?」
と、角田は聡子の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、聡子は神妙な表情を浮かべては、
「そういったものにも心当りないですね」
そう聡子に言われ、角田は渋面顔を浮かべた。何故なら、依然として、前川の死の真相が明らかにならないからだ。
事故でもなければ、自殺でもない。また、殺しでもない。
では、一体、何故前川は死んだのだろうか?
そりゃ、警察としては、事故死で処理するのが、最も楽であろう。
しかし、今の時世、殺しが事故死として少なからず処理されているという説もあるのだ。警察としては、そのような説を認めたくはないが、しかし、そういったケースが存在しないとはいわないのだ。
それ故、捜査は慎重に行なわなければならないだろう。
それで、前川の妻の聡子は、前川を殺しそうな人物に心当りないと証言したが、聡子以外の前川の知人たちは、別の見方をしてるかもしれない。
それ故、前川の知人だった者から話を聞いてみる必要があるだろう。
すると、興味深い情報を入手することが出来た。その情報を提供したのは、前川の弟の前川朝夫であった。朝夫は角田に対して、
「兄さんの妻、つまり、聡子さんは、最近、といっても、一年半位前のことですが、兄さんに一億円もの生命保険を掛けたのですよ」
と、いかにも神妙な表情を浮かべては言った。そんな朝夫は、その件は前川の死に関係してる可能性ありと言わんばかりであった。
そう朝夫に言われ、角田の表情は、さっと赤味が差した。そんな角田は、まるで朝夫の胸の内と同じであるかのようであった。
それはともかく、そんな角田は、朝夫に、
「でも、どうしてそんな高額な保険金を掛けたのでしょうかね?」
と、些か納得が出来ないように言った。
「それがよく分からないのですよ。保険金といっても、兄さんが死ねば、聡子さんには一億円入るのですが、聡子さんが死んでも、兄さんには保険金は入らなかったそうですよ」
と、朝夫は渋面顔を浮かべては言った。
「でも、何故、そうなんですかね?」
角田は些か納得が出来ないように言った。
「それがよく分からないのですよ」
と、朝夫は再び渋面顔を浮かべては言った。
そんな朝夫に角田は、
「でも、朝夫さんはその件が、前川さんの死に関係してるのではないかと、疑っておられるのですよね?」
そう言っては、朝夫の顔をまじまじ見やった。
すると、朝夫は十秒程言葉を詰まらせたが、やがて、
「まあ、そんな感じですね」
と、角田から眼を逸らせては、言いにくそうに言った。
「ということは、前川さんと聡子さんとの仲は、良好ではなかったのですかね?」
と、角田は眼をキラリと光らせては言った。
すると、朝夫は、
「いや。その辺は何とも言えないのですが……」
と、決まり悪そうな表情で言っては、言葉を濁した。
「それは、どういうことですかね?」
と、角田は些か納得が出来ないように言った。
「ですから、僕は兄さんから直に聡子さんとの仲がどうのこうのとかいうようなことを耳にしたことはなかったのですよ。
しかし、夫婦仲というのは、他人には話せないようなこともありますからね」
と、朝夫は、決まり悪そうに言った。
「でも、朝夫さんは、保険金狙いで、聡子さんが前川さんを殺したのではないかと疑ってるのですよね?」
そう言っては、角田は眼をキラリと光らせた。
すると、朝夫は、
「今の時世、保険金目当ての殺人事件が跡を絶たないですからね。保険金の為なら、夫が妻を、または、妻が夫を殺すという事件が現実にも発生しています。兄さんの死がそういった類の事件だと信じたくはないですが、世の中には信じられないような事件が度々発生してますからね」
と、渋面顔を浮かべては言った。そんな朝夫は、前川の事件がそういった類の事件ではないようにと、念じてるかのようであった。
そして、角田は朝夫への聞き込みを終えた後、更に、前川の知人だった者に聞き込みを続けた。
だが、特に成果を得られなかった。
それで、今度は聡子から話を聞いてみることにした。