1 おんぼろアパート
「小松原荘」は、築四十年の木造二階建ての古びたアパートだ。間取りは四畳半なのだが、アパート内に設けられた共同廊下を歩くと、みしみしと音が立つ。場所によっては、後少しで床板の底が抜けるのではないかと思える位だ。
トイレは無論共同トイレで、風呂は無論ない。
それ故、風呂に入りたければ、近くの銭湯を利用するのだが、貧乏学生にとってみれば、こういったアパートに住むしかないだろう。金があれば、もっといいパートに住めるというものだが、貧乏学生にとってみれば、仕方ないというものだろう。
それはともかく、「小松原荘」の間取りは四畳半の畳部屋一部屋と、一畳位の小さな流し台があり、また、ガスも利用出来る。それ故、自炊しようと思えば、出来ないことはないのだが、薄汚れた畳の部屋で食べる食事は、お世辞にも美味しいといえるものではない。
それ故、「小松原荘」に住んでいるF大生の殆どは、自炊はせずに、外食というわけだ。
それはともかく、「小松原荘」103室に住んでいる海老原剛(21)は、最近、「小松原荘」での暮らしが妙に面白く感じるようになった。
というのも、妙な出来事を目の当たりにしてしまったからだ。
海老原は鹿児島出身で、今、F大の三年生なのだが、この「小松原荘」での暮らしには、大いに不満だったものだ。夏は暑いし、冬は隙間風がビュービューで、これでは不満が出ないという方が無理というものだろう。ただ、周りに音楽を大音響で鳴らしたりするような輩がいなかったので、それだけが、「小松原荘」での暮らしの不満を和らげていた。そんな海老原の夢は、もっといいアパートで暮らすことであった。
それはともかく、一体何が海老原の「小松原荘」での暮らしを面白くさせたというのだろうか?
それは、隣室、即ち、104室に住んでいる小田島一樹という海老原と同じF大生が、一人言を喋るということを知ったのだが、その一人言を密かに耳にすることが、海老原の密かな愉しみとなったというわけだ。
海老原が小田島が一人言を喋るということを知ったのは、今から丁度二ヶ月位前のことであった。
その日、海老原は大学の講義を終え、アルバイトを終え、「小松原荘」に戻って来たのは、午後八時頃であった。
既に晩飯はいつも利用している定食屋で済ませ、後は徒歩三分の所にある銭湯に行けば、今日という一日は終わる筈であった。そして、海老原はいつものように、洗面器にタオルや石鹸を入れたその時である。
突如、
「馬鹿野郎!」
という声を耳にしたのである!
その声を耳にし、海老原の動きは止まった。そして、海老原は緊張したような表情を浮かべた。何故なら、海老原は海老原に向かって、「馬鹿野郎!」という言葉を浴びせられたと思ったからだ。
それで、海老原は些か緊張したような表情を浮かべては、様子を窺ったのだが、すると、その二十秒後に今度は、「頭がおかしいのと違うか」という声を耳にしたのだ。そして、今度はその声の出所を確認した。
それは、隣室、つまり、104室の主が、その声の主というわけだ。
それを理解した海老原は、銭湯を行くのを止め、隣室の壁に擦り寄っては、引き続き、隣室の話し声を耳にすることにした。というのも、隣室の話し声を密かに耳にすることが、何となく面白く感じられたからだ。
それで、海老原はいかにも息を凝らしては隣室の話に耳を傾けていたのだが、すると、今度は、「くそったれ!」とか、「あんちくしょう!」とか、「死ね、馬鹿!」という声が聞こえた。
それらの声を耳にして、海老原が思ったことは、どうやら隣室の男は、誰かと話をしてるのではなく、一人言を喋ってるということだ。
何しろ、聞こえて来る声は、隣室の男の声ばかりだし、また、その言葉と言葉の繋がりは何らなく、断片的なものであった。どうみても、他人と会話を交わしてるような言葉ではなかったのだ。
それ故、海老原は隣室の男が一人言を喋ってると断定したのだ。
そして、その日以来、海老原は隣室の男に興味を抱くようになったのだ。
隣室の男は、海老原と同じF大生の小田島一樹という男だということは前述した通りだが、海老原は会話を交わしたことは未だ一度もなかった。だが、顔は知っていた。
小田島は、海老原よりは一歳程年上と思われ、髪を長くしては、角張った顔つきであった。そして、その容貌から、何となく陰気じみたものを思わせた。そして、身体付きはやや小柄であった。つまり、身長167センチ、体重は六十キロ位だと思われた。
しかし、それが海老原が知っている小田島の全てであった。海老原と小田島の関係はそういったものであったのだ。
それはともかく、海老原はその日以来、小田島の一人言を聞くのが愉しみとなった。
何しろ、「小松原荘」は正におんぼろアパートで、金がない貧乏学生を象徴しているアパートであった。このアパートに戻って来るのが、海老原は嫌であったのだ。煤けた畳に染みだらけの壁と天井。しかも、狭い。
この狭い部屋の中で面白いものがある筈はないのだ。
それ故、部屋に戻って来るのが嫌であったのだが、その一人言を聞くのが憂さ晴らしとなり、今や毎日といっていい位、繰り返される小田島の一人言を耳にするのが、海老原の日課となってしまったのである。
そして、その日、海老原は耳にしたのである! 「田中五郎を殺してやる!」という小田島の一人言を!