6 意外な情報

 すると、興味ある情報を入手することが出来た。その情報を提供したのは、小田島の部屋の真上の部屋に住んでいた会社員の長谷三郎(22)であった。長谷は新村に対して、
「小田島君はよく一人言を喋ってましたよ」
 と、いかにも興味ある情報を提供したと言わんばかりの表情で言った。
「一人言ですか……」 
 新村は眉を顰めては、呟くように言った。その長谷の言葉は、思ってもみなかったようなものだったからだ。また、それが、果して、田中五郎の事件に関係あるかどうかは、分からなかった。
「そうです。何しろ、『小松原荘』は随分古びたアパートですから、防音が悪いのですよ。そんな状況なんですか、小田島君はよく一人言を話すのですよ。あれは、絶対に一人言です。海老原君以外の声は聞こえなかったですからね」
 と言っては、長谷は小さく肯いた。
「でも、長谷さんは、海老原君とは面識はないのですよね?」
「ええ。そうです。しかし、真下で聞こえる声は、いつも同じです。ですから、その声は海老原君の声と断定せざるを得ないと思うのですがね」
 と言っては、長谷は小さく肯いた。
 そんな長谷に、新村は、
「長谷君は、小田島君が一人言を話すことが、何か事件に関係してると推理されてるのですかね?」 
 と、長谷の顔をまじまじと見やっては言った。
「ええ。思ってますよ」
 と、長谷は当然だと言わんばかりに言った。
「どうしてですかね?」
 新村はいかにも興味有りげな表情で言った。
「僕が思うには、僕の部屋でもあれだけ海老原君の一人言が聞こえたわけですから、両隣の人ならもっと聞こえたことでしょう。それ故、海老原君とトラブルになったのではないですかね? つまり、海老原君が小田島君に一人言を話すなと言わんばかりのクレームをつけたのかもしれないというわけですよ。その結果、二人に間にトラブルが発生し、事に及んだというわけですよ。あるいは、海老原君が小田島君の一人言をからかったのかもしれないというわけですよ。それで、かっとした小田島君が海老原君を殺したというわけですよ。
今の時世、肩が触れたかどうかといった些細なことで殺人事件が発生したりしてますからね。海老原君の事件もそうだったというわけですよ」
 と、長谷はその可能性は十分にあると言わんばかりに言った。
 そう長谷に言われると、新村は、
「なる程」 
 と、呟くように言った。確かにその可能性は有り得ると思ったからだ。
 そんな新村を見て、長谷は些か満足げに肯いた。長谷の推理が現実味のある推理だと新村が実感してくれたと思ったからだ。
 そんな長谷に新村は、
「では、海老原君の事件が発生する二週間前に、海老原君と同じF大生の田中五郎という男性が殺されたという事件が発生したのですが、その事件に関して何か思うことはありませんかね?」
「僕はF大生ではありませんからね。ですから、田中君の事件に関しては、何ら思うことはありませんよ」
 長谷への聞き込みはこのような具合であったが、長谷からは興味ある情報を入手したといえるだろう。即ち、小田島が喋る一人言が、事件が発生した動機となったというわけだ。そして、長谷が言ったように、今の時世、どのようなことが起因して、事件が発生するか分からない。それ故、今の長谷の証言を無視することは出来ないというものだろう。
 そして、その証言から、海老原殺しの小田島の容疑は高まったといえるのだが、そうだからといって、小田島を追い詰める証拠はまだ入手出来てないというものだ。
 しかし、捜査を進展させるような情報をこの時点で入手するに至った。そして、その証拠は意外なものであった。
 というのは、海老原が掛けていた眼鏡には、海老原のものでない指紋が付いていたのだが、その指紋が何と馬場浩二のものと一致したのだ。
 では、馬場浩二とは、いかなる人物であっただろうか?
 馬場浩二とは、田中五郎と喧嘩をしたF大生だ。そして、新村たちから捜査を受けたものの、証拠不十分で、今は田中五郎の事件でも、捜査圏外に置かれていた人物だ。その人物の指紋が、何と海老原の眼鏡に付いていたのだ。これは、正に思ってもみなかった事の成り行きであった。馬場浩二は、田中五郎殺しの事件での容疑者となったことはあったのだが、しかし、海老原の事件では容疑者とすらなっていなかったのだ。そんな馬場の指紋が何故海老原の眼鏡に付いていたのだろうか? この事実は見落とすことは出来ないというものだ。何故なら、今まで海老原と馬場との間には、接点があったという情報は、皆目なかったからだ。
 それで、とにかく、馬場浩二から再び話を聴かなければならなくなった。
 馬場の前に姿を見せた松山に、馬場は些か表情を強張らせた。そんな馬場は、松山の来訪の目的を密かに窺ってるかのようであった。 
 そんな馬場に松山は、
「まだ、田中五郎君の事件は解決してないんだよ」
 と、些か困ったと言わんばかりの表情と口調で言った。
 そんな松山に、馬場は、
「何度も言いますが、僕は犯人ではないですよ」
 馬場は憮然とした表情で言った。
「そうですか。では、田中君の事件が起こった二週間後に、馬場君と同じF大生の海老原剛という男性が死亡した事件のことを知ってるよな」
 と、松山は馬場の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、馬場は、
「そんな事件もあったかな」
 と、その事件に関しては、特に関心がないと言わんばかりに言った。
 すると、松山は、
「なる程。で、馬場君はその海老原君とは何ら面識はないよね」
 と、さりげなく言った。
 すると、馬場は些か表情を綻ばせ、
「そりゃ、勿論ですよ」
 と、正に松山のことを妙な事を言う刑事だなと言わんばかりに言った。
「では、馬場君は海老原君と話したこともないよね」
 と、馬場から眼を逸らせては再びさりげなく言った。
 すると、馬場は、
「そりゃ、勿論そうですよ」
 と、再び松山のことをいかにも妙なことを言う刑事だなと言わんばかりに言った。
 すると、この時点で馬場は署で訊問を受ける羽目に陥ってしまった。それは、任意という形であったが、実際には強制的であったかのようであった。
 取調室の小さなテーブルを隔てて、松山たち捜査陣と向かい合った馬場は、署に連れて来られたことに対して、いかにも不満そうであった。
 そんな馬場に松山は、何故馬場が署に連れて来られたか、その理由に関して訊いたが、馬場はてんで分からないを繰り返した。
 それで、この時点で海老原の眼鏡に馬場の指紋が付いていたという事実を話した。
 すると、馬場の顔色は忽ち蒼白になった。その馬場の表情から、今の松山の言葉がいかに馬場にとって衝撃的であったかを物語っていた。また、馬場が海老原の事件に無関係ではないということを物語っていた。
 そう理解した松山は、厳しい表情を浮かべながらも、小さく肯いては、唇を噛み締めた。そんな松山は、これによって、捜査を大きく前進させられるという手応えをはっきりと実感したかのようであった。
 そんな松山を眼にして、馬場は蒼褪めた表情を浮かべては、言葉を発しようとはしなかった。その馬場の表情を眼にしただけでも、馬場には後ろ暗いものがあるのは間違いないと思われた。
 それで、松山は、
「これ、どういうことなんだ?」
 と、いかにも険しい表情を浮かべては、馬場に詰め寄るように言った。
 すると、馬場は甚だ強張った表情を浮かべては、松山から眼を逸らせ、なかなか言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「ですから、僕は刑事さんに嘘をついていたのですよ」
 と、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「嘘? どんな嘘をついたというんだい?」
 と、松山は眉を顰めては言った。
「ですから、海老原君と面識がないということですよ。それは、嘘だったというわけですよ」
 と、馬場は眉を顰めては、いかにも決まり悪そうに言った。
 そんな馬場を見て、松山も眉を顰めては、
「何故、そんな嘘をついたんだい? 詳しく説明してくれないかな」
 松山はいかにも納得が出来ないと言わんばかりに言った。
「ですから、もし僕が海老原君を知ってると言えば、僕が海老原君を殺したと疑われるかもしれないと思ったからですよ。何しろ、僕は田中君と喧嘩をしたということを理由に、僕が田中君を殺したのではないかと刑事さんに疑われています。そんな折に僕が海老原君とも面識があったといえば、僕が海老原君をも殺したのではないと疑われてしまうと思ったからですよ」
 と、馬場はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては、いかにも言いにくそうに言った。
 そんな馬場に、松山は、
「実際にも、そうではなかったのかな」
 と言っては、不敵な笑みを浮かべた。
「やはり、そうじゃないですか! だから、僕は嘘をついたのですよ!」
 と、馬場はいかにも不満そうに言った。
「そうか。君の言い分は分かったよ。しかし、実際にも、海老原君の眼鏡には、あんたの指紋が付いていたんだ。そして、このことは、あんたが海老原君の死に何らかの関わりがあるということを証明してるというわけさ。そうじゃないのかな」
 そう言っては、松山はにやっとした。そんな松山の表情は、程なく険しいものへと変貌した。そんな松山は、もうこの辺で何もかもを話したらどうだと言わんばかりであった。
 すると、馬場は松山から眼を逸らせては、少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「実は、僕は海老原君から妙な相談を持ちかけられていたのですよ」 
 と、松山から眼を逸らせては、いかにも決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「妙な相談? それ、どういうことかい?」
 松山は決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「それがですね」
 と、馬場は松山から眼を逸らせては、言葉を詰まらせた。そんな馬場は、松山に話すべきか止めようかと、逡巡してるかのようであった。
 だが、松山を程なく見やっては、
「実は、小田島をゆすってやらないかという相談ですよ」
 と、馬場は渋面顔を浮かべては言った。
「小田島をゆする? それ、どういうことかい?」
 松山はいかにも納得が出来ないような表情を浮かべては言った。そんな松山は、今の馬場の話は、寝耳に水だと言わんばかりであった。
「ええ。そうです」
 と、馬場は大きく肯いた。
「詳しく説明してくれないか」
 松山は、とにかく、馬場の話を聞いてみることにした。
「僕たちは田中五郎を殺したのは、小田島だと思っていました。それ故、そのことをばらされたくなければ、百万払えという具合です。まあ、口止め料を払えというわけですよ」
 と言っては、馬場は大きく肯いた。
「ちょっと待ってくれないか。何故あんたたちは、田中五郎君を殺したのが、小田島君だと思ったのかい? それに、あんたは、海老原君とそんなことを話し合う位、仲が良かったのかい?」
 と、松山はいかにも納得が出来ないように言った。
「ですから、小田島君は田中五郎の異母兄弟だったのですよ。このことは、かなり僕たちの間では、知れ渡っていたのですよ。
 で、僕たちの誰もが、田中君を殺したのは、小田島君だと思っていました。このことは、特に深く考える程でもないのです。僕たちは、田中君が殺されたと聞いて、犯人はすぐに小田島君だとぴんと来ましたからね。
 とはいうものの、証拠はありません。しかし、証拠を持ってると、小田島君に思わせ、小田島君から金をゆすろうとしたというわけですよ。何しろ、小田島君は『小松原荘』のようなおんぼろアパートに住んでるといえども、家は金持ちですからね。百万位なら、親にねだれば、簡単に工面出来ると僕たちは読んだというわけですよ」
 と言っては、馬場は大きく肯いた。そんな馬場は、それが真実だと言わんばかりであった。
「じゃ、あんたと海老原君の関係は、どんなものなんだい?」
 と、松山は興味有りげに言った。
「ですから、友人なんですよ」
 と言っては、馬場は小さく肯いた。
「友人? しかし、今まではそんな話はまるで出なかったんだが」
 と、松山は怪訝そうな表情を浮かべては言った。
「そりゃ、そうでしょう。僕たちは最近、話をするようになったばかりですからね」
 と言っては、馬場は小さく肯いた。
「最近、親しくなったというわけか」
 松山は首を傾げた。
「ええ。顔は以前から知っていたのですがね。でも、言葉を交わしたことはありませんでした。
 でも、たまたま銭湯で一緒になりましてね。それで、その時、たまたま話したのですが、お互いに馬が合うと感じたのですよ。それから、親しくなったというわけですよ」
 と、馬場はそれが真実だと言わんばかりに言った。
「じゃ、何故、海老原君の眼鏡に、あんたの指紋が付いていたんだ?」
 松山はいかにも納得が出来ないように言った。
「ですから、海老原君が殺される少し前に、僕は海老原君と会話を交わしていたのですよ。その内容は、先程話した通りですよ。つまり、小田島君をゆすってやろうというものですよ。そして、その時に、ちょっとした弾みで僕は海老原君の眼鏡に触れてしまっただけのことなんですよ。
 で、その計画が実行される前に、海老原君は何者かに殺されてしまったのですよ」
 と、馬場は些か興奮しながら言った。そんな馬場は、正に海老原が殺されたのは、信じられないと言わんばかりであった。
「じゃ、あんたは、海老原君は誰に殺されたと思ってるんだ?」 
 と、松山は馬場の顔をまじまじと見やっては言った。
「そりゃ、小田島君に決まってますよ! それ以外に誰がいますか! 海老原君は早まってしまったのではないですかね? つまり、僕との話を終えた後、小田島君と顔を合わせてしまったりして、つい田中殺しの犯人は、小田島君に違いないとか言ってしまったのではないですかね? それを受けて、小田島君は海老原君のことを危険人物と看做し、人気の無い所で話を聞こうとか言って、殺したのではないですかね」
 そう言っては、馬場は大きく肯いた。そんな馬場は、それが真実に違いないと言わんばかりであった。
 馬場の証言は、そんな具合であった。そして、その馬場の証言を全面的に信じたわけではないのだが、そうだからといって、その証言を嘘だと断定するわけにもいかなかった。それで、やむを得ず、馬場を一旦帰宅させるしかなかった。

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