第一章 危険な会話

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 東京屈指の高級住宅街であるM町に広大な邸を構えている国松徳三邸を見れば、誰もが国松家は大金持ちであるということを信じて疑わないであろう。
 この東京屈指の高級住宅街であるM町に四百坪はあると思われる敷地に、七十坪はあると思われるイギリスの建築家が設計した何処かの財閥家の住まいかと思わせる洋館を含めた資産価値は、八億は下らないと言われている。
 更に、銀行預金、有価証券などの資産を加えれば、国松家の資産は、十億はあると言われている。
 もっとも、このM町には、某機械メーカー社長のK氏の資産は百億は超えると言われてるし、また、某情報通信会社社長のM氏の資産は二百億を超えると言われている。
 即ち、徳三が邸を構えているM町には、徳三を超える資産を持っている大金持ちは、幾らでもいるのだ。
 しかし、徳三の資産は、一般の庶民たちから見れば、正に羨ましい限りである。普通のサラリーマンアがいくら頑張っても、決して手にすることの出来ない資産を徳三は所有しているのだから!
 では、国松家の当主である国松徳三とはいかなる人物なのだろうか? また、いかにしてこれほどの資産を所有するに至ったのであろうか。
 その疑問を徳三に投げれば、徳三はこのように答えるだろう。
「ご先祖様のお陰だ!」
 と。
 徳三は今、七十九歳なのだが、某国立大不学の教授を三十年近くも勤めたが、頭の方は依然として衰えることなく、趣味の読書に没頭するのも、昔通りだったが、やはり、体力の衰えは隠すことが出来なかった。ここ十年位は、腰とか膝の痛みに悩まされ、また、酒好きであったことから、肝臓も患い、病院に足を運ぶ日も最近はめっきりと多くなったのだ。
 とはいうものの、まだ十五年は生きられると、徳三は信じて疑わなかったのだ。
 それはともかく、徳三は教授を三十年近く勤めたのだが、名誉教授とか学部長といった職には就くことは出来なかった。
 そういったこともあってか、徳三の給料は、大手会社に勤めてるサラリーマンに比べれば、かなり少なく、徳三と同じく、長年教授職に就いていたのもかかわらず、一生賃貸マンション暮らしをやっている友人もいた。
 そんな徳三であったから、徳三が受け取る給料だけでは、このような豪邸に住むことは到底不可能というものであろう。
 しかし、先祖代々、東京の郊外に広大な土地を所有していて、その土地にバブル期にびっくりするような値段がついてしまったのだ。
 そして、その土地の所有者であったその当時、東京の郊外でごく普通の木造住宅に住んでいた徳三の許に、不動産会社の営業担当者が日参し、徳三がびっくりするような札束を手にしては、土地を売ってくれるようにと頭を下げた。
 そんな営業マンに根負けし、徳三は遂に先祖代々所有していた土地を手放したのである。
 そして、その時に得た金を元に手にしたのが、今の徳三のM町の邸なのだ。
 しかし、その当時は、今の値段よりは遥かに高い値段がついていた。それ故、先祖の土地を売って手に入れた金額が、いかに高額なものであったかは、充分に察することが出来るだろう。
 そんな徳三には、一人息子がいた。
 その一人息子は重秀といって、徳三の血を受け継いでいる為か、学者肌の人間で、嘗ての徳三と同じく、某大学で、教授職に就いていた。だが、経済が専門であった徳三とは違って重秀は、東洋史が専門であった。
 そんな重秀は、先月、五十になってしまった。
 重秀は教授になって既に十年が経過したのだが、徳三と同じく、名誉教授とか学部長といった職には、縁はありそうもなかった。
 それは、徳三と同じく、上司の機嫌を取るのが下手だったことが影響してるのかもしれない。
 そんな重秀であったが、学問への情熱は衰えることはなかった。
 といっても、重秀の専門は東洋史であったことから、理工系の学者のように、新たな理論とか技術を世に問うということは、なかった。ただ、特に真新しいとも思えない論文を時折学会で発表するのが、関の山であったのだ。
 それ故、そのような論文に金銭的価値があるわけがなく、もし、家が金持ちでなければ、重秀は貧乏暮らしを余儀なくされていたことだろう。
 それはともかく、重秀は四十の時に妻を娶り、今もその妻と暮らしているのだが、その妻との間には子供はいなかった。
 しかし、以前はいたのだ。秀和という息子が。 
 しかし、その秀和は幼稚園の時に交通事故に遭い、死亡してしまったのだ。
 その痛手が悪影響してか、その後、重秀夫妻は子供を儲けることはしなかった。そして、重秀は五十となってしまったのだ。
 東京屈指の高級住宅街の中にある広大な国松邸に、徳三、重秀、そして、重秀の妻の早苗と通いのお手伝いしか住んでいないとなれば、何となく物哀しさを感じてしまう位だった。
 それが、国松家の状況だったのだが、徳三亡き後、この豪邸の主になることが決まっている重秀は、最近、妙な考えを抱くようになった。
 その妙な考えとは、今の日本の古代の歴史は、果して本当に正しいのかということだ。
 常識としては、日本の歴史は旧石器時代から始まり、縄文時代、弥生時代と発展したというものだ。
 旧石器人は、採集、狩猟生活を行ない、縄文時代には土器とか土偶製作が行なわれるようになり、弥生時代から、稲作が行なわれるようになった。
 これらが、教科書に記されている日本の歴史であり、また、定説なのだ。
 しかし、その教科書に記されている歴史や定説に、反旗を翻している輩がいるのだ。
 その輩たちが言うには、嘗て大昔は、日本が世界の中心で、日本の天皇は、世界を統括していたとも言うのだ。そして、世界の四大文明は元はと言えば、日本人が造ったものであり、また、ピラミッドの発祥の地は、日本だとも主張するのだ。
 更に、大昔には、UFOのような乗り物があり、天皇はその乗り物によって世界を巡行し、ナスカの地上絵はその乗り物の滑走路であったというのだ。
 その説を標榜する輩は、超古代という日本の学界には存在しない時代区分を提唱し、また、論文を発表したりして、その主張を世に問うているのだ。
 だが、そのような説が、日本の学界に受け入れられる筈がなく、そのようなことに言及したり、また、研究したりすれば、学界から永久追放されてしまう憂き目に遭ってしまうかの如くだ。
 それ故、重秀は、そのような輩たちが主張す超古代史なるものには、全く見向きもしなかった。また、それは出鱈目の説だと思っていた。
 しかし、それは少し前までは、であった。
 ということは、今の重秀は、その好事家たちの説を支持してるのだろうか?
 そう! 正にそうなのである!
 無論、100パーセント支持してるわけではない。
 しかし、今の教科書で説明されている古代の歴史と、その好事家たちが主張する古代の歴史を天秤に掛ければ、どちらに分があるかというと、重秀はその好事家たちの方に分があるのではないかと思うようになったのだ。
 何故そう思うようになったのかというと、それは90年代の初めに発見された沖縄の海底遺跡の存在が重秀にそう思わせるようになったのだ。
 石垣島の西117キロの所にある与那国島の新川鼻沖合水深二、三十メートルの所に、まるで海底遺跡と呼ぶのがぴったりの岩の構造物が90年代初めに地元のダイバーによって発見されたことが、TVや雑誌で度々報道され、その海底遺跡なるものを眼にしたことが、重秀のこれまでの歴史観を一変させてしまぅたのである。
 その海底遺跡と思われるものは、全長20メートル、幅40、50メートル程で、それを眼にしたダイバーの証言によれば、とてつもないスケールで、また、鳥肌が立つような思いをしたとのことだ。
 もっとも、この巨大な構造物が、正式に遺跡と証明されたわけではない。
 また、遺跡だと発表した沖縄の某大学の教授は、学界から失笑を浴びせられたというのが、実状なのだ。
 しかし、その遺跡と思われる岩の構造物は、新川鼻沖合にだけ存在するのではない。その周辺にはまるで競技場を思わせるスタジアムのようなスポットがあったり、イースター島にあるモアイ像のような建造物があったり、また、岩で築かれた道路のようなものも発見されているのだ。
 また、それらの岩の建造物と思われる物は、与那国島周辺の海域だけで発見されたのではなく、沖縄本島周辺や、慶良間諸島の海底、更に、喜界島の海底からも発見されているのだ。
 それらの遺物が発見された海底は、一万年前にはまだ陸地であったことが分かっており、また、岩の建造物と思われる岩石構造物に付着していたサンゴの年代測定から、それらの建造物が出来たのは、一万年から一万二千年前位だということが証明されたのである。
 即ち、それらが人間の手によって造られたのなら、今から一年前から一万二千年前に造られたということになるのだ!
 しかし、そんな馬鹿な筈がない!
 一万年前から一万二千年前といえば、日本はまだ採集とか狩猟生活をしていた時代なのだ! そのような時代に、あのような巨大な岩の建造物を造れる筈はないのだ!
 それ故、その岩の構造物を学会が遺跡と認めるわけはない。そのようなことをしてしまえば、今まで確立して来た日本の古代の歴史の学問体系は瓦解してしまうのだ。これまでに、歴史学の権威と称されて来た某大学の名誉教授たちは、悉くペテン師という烙印を押されてしまうことだろう。 
 そのことも沖縄周辺の海底で発見された岩の構造物を遺跡として認定出来ない要因なのかもしれない。
 重秀は無論、正当的な学会側の人間であり、また、好事家たちが主張している超古代なるものは全くの出鱈目だと認識していたのだ。
 しかし、沖縄周辺の島々の海底から発見された岩の構造物を見て、超古代史を標榜する輩たちの著作物に眼を通し始め、そして、その結果は前述した通りだ。即ち、好事家たちが主張してる超古代史というものの方が、真実に近いのではないかと思うようになったのだ。
 そして、重秀はそのことを酒の席で、友人であり、また、M大で教授職に就いている秋元正博に話してしまった。
 すると、秋元は、
「国松さん。そのようなことは、たとえ冗談でも言ってはなりませんよ。そのようなことを国松さんが言ったということが学部長の耳に入ってしまえば、国松さんは決していい目にはあわないですよ」
 と、今まで酔いに任せて笑みを浮かべていた秋元は、突如、険しい表情を見せては言った。
「確かにそうなんだが……。しかし、やはり僕は今の日本、いや、世界の古代の歴史に関しては、正しくないと思うんだよ。それ故、真の歴史というものを世に示すことが、我々歴史学者の務めではないかと思うんだよ」
 と、重秀はいかにも真剣な表情を浮かべては言った。
 何しろ、今や秋元と二人だけだ。しかも、秋元は重秀にとって何でも話せる間柄だったのだ。
 それ故、重秀は、重秀の胸の内を曝け出したのだ。
 重秀の本音ともいえる告白を耳にし、秋元は改めて厳しい表情を浮かべた。そして、カウンターに置いてあるグラスを手にしては、ビールを一気に飲み干した。そして、右手の甲で口元を拭いた。
 そして、重秀を見やっては、
「実は、僕もそのような思いを抱いていないかというと、それは嘘となるんだよ」
 その秋元の思い掛けない言葉を耳にし、重秀は思わず薄らと笑みを見せてしまった。まさか、秋元もそのような思いを抱いてるとは、思ってもみなかったからだ。
 元来、超古代史を信じてるなどということは、たとえ酒の席でも口にすべきではないのだ。そのようなことを学部長に知られてしまえば、職を追われてしまうことにもなり兼ねないからだ。
 しかし、今や重秀の胸の内を誰かに話さなければどうにもならない位、重秀の胸の内にはその思いは大きなものとなっていたのだ。
 秋元はといえば、神妙な表情を浮かべながらも、このように話し出した。
「世界の四大文明の説明だって、おかしいものさ。大体、あれだけのピラミッドを造れるだけの技術を持った人間の集団が、ナイル川流域にいつの間にやら出現したという説明を信じろということ事体が無理だよ。あれだけのものを造れるようになるには、進化という過程があるべきなんだよ。日本だって、ここまで来るのに、二千年という年月が掛かってるじゃないか。しかし、エジプト文明には、その進化の過程がうまく説明出来てないのさ。
 更に、メソポタミア文明を造ったシュメール人の出所は不明だと、教科書にもはっきりと書いてある。
 即ち、世界の歴史も古代という点においては、まだまだ不明な部分が多いのさ!」
 と、秋元は力強い口調で言った。そんな秋元は、今までの胸の痞えを重秀にぶつけてるかのようであった。
「正にその通り!」
 と、重秀も力強い口調で言った。そして、
「僕らの間ではタブーとされている超古代史に関する本を僕は密かに読んでるんだけど、その結果、彼らの説の方が正しいと思うようになったというのは前述した通りなんだが、具体的に言うと、まず、日本ユダヤ同祖論というのがある。この説は、既に明治の頃から外国の学者によって提唱されてるらしいが、ヨセフ・アイデルバーグという学者によると、ヘブライ語と日本語は、驚くほど似てるというんだよ。
 例えば、ヘブライ語の「HAZEKHASHE」は侮辱を意味し、「KOR」は寒さを意味し、「HIKAKER」は罠に嵌める、「SHAMRAI」は戦士、「YAUMATO」は神の民、「YASAKHA」は神の信仰、「AGUDANASI」は集団の長(県主)、「HAKASHA」は拍手、「イ―ル・シャローム」「エルサレム」は、平安京という具合だ。
 更に、エルサレムから北上すると、「キネレット湖」という湖があるが、この「キネレット」は琵琶という意味なんだよ。京都の北上に琵琶湖があるが、これを偶然と片付けていいものだろうか。
 また、このように、ヘブライ語と日本語の一致は三千を超える位だそうだ。三千という数は偶然では片付けることは出来ないよ。
 更に、神武天皇の称号である「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト(神倭伊波礼毘古命)」というのは、日本語では満足な説明は出来ないんだが、ヘブライ語で訳すると、うまく説明が出来るんだよ。即ち、ヘブライ語で訳すと、「サマリアの皇帝、神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味なんだそうだ。これには僕はびっくりしてしまったよ」
 と、重秀は眼を大きく見開き、そして、些か興奮気味に言った。そして、更に話を続けた。
「また、日本で数を数える時に使われる言葉である、『ひ、ふ、み、よ……』がヘブライ語で意味をなすこともびっくりだよ。
 ヘブライ語では『HI、FA、MI、YO、TSIA、NANE、Y、KAKHENA、TO』と綴られ、その意味は、『たが、そのうるわしめ(女神)を出すのやら。いざないに、いかなる言葉をかけるやら』だそうなんだよ。
 更に、メソポタミアの遺跡では、相撲をしてる置物の遺物が発見されたり、イスラエルの神殿では、日本の皇室の紋章である十六花菊紋章が刻まれたりしてるんだ。
 即ち、今の我々の定説になっている歴史では説明出来ない事柄は幾らでもあるんだ。
 しかし、学界ではそれらのことはことごとく無視してるんだよ」
 と、重秀はいかにも不満そうに言った。その様は、正に今の歴史の定説に不満を持っている重秀の思いが如実に現われているかのようであった。
 そのようにして、重秀と秋元は、今の正統的な歴史というものに対する不満をぶつけ合っていた。
 そして、重秀は改めて、秋元のことを親友だと思った。気が合うだけではなく、考えも合うのだ。そうでなければ、二十年も親友という関係を続けて来れなかったであろう。
 しかし、そんな二人の会話に、密かに耳を傾けていた者がいたことを、話に夢中になっている重秀と秋元は、気付くことはなかった。
 重秀と秋元が座っているカウンターの席の後ろ側の席で二人の会話を密かに耳を傾けていたのは、K大学教授の大河内研三であったのだ。
 大河内も重秀と同様、東洋史が専門であった為に、重秀とは大学は違うものの重秀と親交があった。
 それ故、大河内はカウンターで飲んでいる重秀に、一声掛けようと思ったのだが、大河内の知らない男と何やら熱心に話し込んでいた為に、声を掛けるのを止め、二人の後ろの席に腰を下ろすと、二人の会話は自ずから大河内の耳に入ってしまい、大河内は自ずから二人の会話を盗み聞きしてしまうことになったのだ。
 そして、その時の大河内の表情は、とても厳しいものであった。その表情は、とても酒を飲みに来た者の表情とは思えなかったのだ。
 そして、大河内は二人の会話が別のものへと移って行ったのを潮時とばかりに、席を立ったのであった。

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