第二章 叱責

     1
 
 その翌々日、重秀はその日の講義を終え、重秀が割り当てられている教授室に戻り、寛いでいたのだが、すると、机の上に置かれている卓上電話の呼出音が鳴った。
 それで、重秀は送受器を手にしては、
「国松ですが」
―大野だが。
 その様に言われ、重秀の表情は、思わず真剣なものへと変貌した。何故なら、大野とは、学部長の大野誠であったからだ。
 だが、重秀は大野から電話を受ける当てはなかった。それで、思わず真剣な表情を浮かべたのである。
―今、都合はいいかな。
 大野はいつも通り、冷ややかな口調で言った。
「大丈夫ですが」
 重秀は淡々とした口調で言った。
―そうかい、じゃ、今、すぐに僕の部屋に来てくれるかい。
 そう言われたので、重秀はとにかく大野の部屋に向かった。
 扉をノックすると、大野の「どうぞ」という声がしたので、重秀は扉を開け、大野を眼にすると、軽く頭を下げた。
 大野は部屋の中に置かれている応接セットのソファに深々と腰を下ろしていた。
 そんな大野は重秀に、
「まあ、座りたまえ」
 と、冷ややかな口調で言った。
 それで、重秀は、
「失礼します」
 と言っては軽く頭を下げ、ソファに座り、テーブルを挟んで大野と向い合った。
 大野は、
「どうだい、最近の調子は?」
 と、冷ややかな口調で言った。 
 重秀はそう大野に言われ、何となく嫌な予感がした。何故なら、重秀は大野から今のような言葉を掛けられたことがなく、また、会社員が左遷される時は、概して上司から今のような話を切り出されるということを聞いたことがあったからだ。
 とはいうものの、
「まずまずですね」
 と、当り障りの無い返答をした。
「そうかい。で、国松君は、好事家たちの説に興味があるのかい?」
 そう言った大野の表情は、かなり真剣なものであった。
 だが、重秀は大野にそのように言われても、大野の言葉の意味が理解出来なかった。
 それで、重秀は怪訝そうな表情を浮かべては、
「それ、どういうことですかね?」
 と、些か納得が出来ないような表情を浮かべては言った。
「ほら! あの説だよ! 文明は日本から発祥し、世界に広まったとか、日本の古代の天皇は世界を治めていたとか、ピラミッドの発祥地は日本だとか、古代にはUFOのようような乗り物があったとか、日本には漢字以前に神代文字という文字があったとか、訳の分からない説を唱えてる輩たちがいるじゃないか。国松君はその様な輩の説に興味があるのかい?」
 大野は口調こそ穏やかではあったが、その表情はかなり厳しいものであった。
 すると、重秀は、
「特に持ってませんが」
 と、とにかくそう言った。
「それ、本当かい?」
 大野は重秀の胸の内を探るかのように言った。
「勿論、本当ですよ!」
 重秀は甲高い声で言った。そう言うしかなかったのだ。重秀の本心を大野に話すわけにはいかなかったのだ。
 すると、大野は、
「信じられないな」
 と、重秀から眼を逸らせては、今の重秀の言葉は信じられないと言わんばかりに言った。また、重秀は一体何故大野がそのことを話題にしたのか、分からなかった。重秀が超古代史のことを支持しているという思いは、重秀一人の胸の内に秘めていて、決して他言したことはなかったからだ。
 もっとも、一昨日、その思いを遂に他人打ち明けてしまった。そして、その相手は、重秀の親友であった秋元正博であったのだ。
 ところが、秋元も重秀と同じような思いを抱いていたというのだ。これには、重秀は大いにびっくりしてしまったのだが、しかし、その秋元が、重秀が超古代史を支持してるということを大野に言う筈がない。 
 それで、重秀は困惑したような表情を浮かべたが、そんな重秀の口からは、
「どうしてそのようなことをおっしゃるのですかね?」
 という言葉が自ずから発せられた。
 すると、大野は気難しげな表情を浮かべては、
「実はね。国松君が訳の分からない説を唱える輩たちの説を支持しているという情報が僕の耳に入ったんだよ」
「一体誰がそのようなこと言っていたのですかね?」
 重秀は眼をギラギラと輝かせては言った。
「それは、言えん!」
 と、大野は重秀を突き放すかのように言った。
「では、いつ頃、その情報が学部長の耳に入ったのですかね?」
「昨日だよ」
 そう大野に言われ、重秀は改めて秋元のことを思わざるを得なかった。
 重秀がそのことを秋元に話したのは、一昨日の夜だ。
 すると、秋元はその翌日に、そのことを大野に告げ口したのだ! そうとしか考えられない!
 秋元も、今の世界の古代の歴史は正しくないと豪語していたが、それは決して本音ではなかったのだ!
 そう思うと、重秀はひしひしと友の裏切りを実感した。
 それで、重秀は渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせてしまった。
 そんな重秀のことを苦々しい表情で見やっていた大野は、やがて、
「改めて聞くが、超古代史なるものを標榜してる好事家たちのとんでもない説を、国松君は支持していないんだな?」
 と、冷ややかな口調で言った。そんな大野は、それが事実なら、ただでは済まないぞと言わんばかりであった。
「勿論、その通りです!」
 と、重秀はいかにも真剣な表情を浮かべては、力強い口調で言った。そう言うしかなかったのである。
 重秀が超古代史を支持してるといえば、どのような仕打ちが待っているか、想像するだけでも恐ろしい位であったのだ。
 重秀にそう言われると、大野は、
「そうか……」
 と、重秀から眼を逸らせては、呟くように言った。そんな大野は、幾分か安堵したかのようであった。そして、重秀を見やっては、
「国松君は定年まで、うちの大学で働かなければならないのだから、下らん説に惑わされ、自らの首を絞めるような事態は避けるべきだね」
 と、厳しい口調で言った。
 大野にそう言われ、重秀は、
「はあ……」
 と言っては、頭を下げた。
 そんな重秀を見て、大野は、
「もう戻っていいよ」
 大野にそう言われると、重秀は立ち上がり、大野に一礼すると、大野に背を向けては、学部長室を後にした。
 重秀は重秀の部屋に戻ると、思わず脂汗が噴き出して来た。
 大野は正に正統的な学者の模範となるような学者だ。そのような人間に、重秀が超古代史なるものを支持していることが知られてしまえば、重秀は職を追われてしまうことは必至だろう。重秀は定年までこの大学で働こうと思っているだけに、重秀のその思いは、絶対に大野には知られてはならないのだ。
 それ故、重秀は今後は超古代史に関する本を読むことは、出来るだけ控えようと思ったのだ。
 それと共に、秋元への怒りが改めて込み上げて来た。秋元に対してこのような思いを抱いたのは、初めての経験だった。また、ショックであった。何しろ、秋元とは二十年にも及ぶ親友といっていい位の間柄だったのだから。そんな親友に裏切られるとは……。
 今の重秀には、大野に重秀が超古代史なる歴史を支持しているということを告げ口したのは、秋元以外に思い付かなかった。また、秋元だと信じて疑わなかったのだ。

     2

 そして、その夜、重秀は一人で銀座に向かった。銀座で久し振りに飲んでみようと思ったのだ。
 重秀は大学教授といえども、給料はさして多くなかった。学生時代には重秀よりも成績が悪かった者が大手企業に就職し、重秀の二倍以上もの給料を貰ってる者は幾らでもいた。
 しかし、国松家は金持ちなのだ。
もっとも、国松家の資産の多くは、重秀の父親の徳三のものであった。不動産は無論、金融資産もだ。
しかし、既に八十に近い徳三が死ねば、徳三の資産の多くを重秀が相続することは間違いない。
 それ故、重秀は実質的には金持ちなのだ。大学教授として受け取る給料が少ないからといっても嘆く必要は何らなく、また、普通のサラリーマンではとても住めない大豪邸に住んでいるのだ。
 しかし、重秀は律儀者であった徳三の血を受け継いだ為か、金に任せて道楽を行なうでもなく、無理をせずに自らの仕事を確実にこなすという性分であった。
 それ故、大学教授という仕事を定年まで勤めようと思っていたのだ。そんな重秀であったから、大野の反感を買い、職を追われるということは、何としてでも避けたかったのだ。
 それはともかく、銀座の新橋に近い所にある七階建ての雑居ビルの五階にある「茜」というクラブに重秀が入店したのは、午後八時頃のことであった。
「茜」へは同僚と度々来たことがあったのだが、一人で来るのは、初めての経験であった。しかし、重秀は今日は一人で飲みたかったのだ。
「いらっしゃい!」
 和服姿の四十位の女性が、重秀を迎えた。ママの明美である。
 明美はにこにこしながら、重秀の手を取っては、
「先生、お久し振りですね」
「僕のことを覚えていてくれたのかい?」
 重秀は笑みを浮かべては言った。
「そりゃ、覚えていますわ。最近来ていただかないから、どうされてるのかと思っていたのですよ。お身体の具合でも悪いのかと思っていましたわ」
「いや。そうじゃないんだよ」
 と、重秀は苦笑した。
 やがて、重秀は奥のテーブルの席についた。
 すると、白のミニスカート姿の若いホステスが隣に座り、水割りを重秀に渡した。
 重秀はそれを少し口につけると、すぐにテーブルの上に置き、
「最近、入ったの?」
「いいえ。もう四ヶ月目ですよ」
 カオルは、にこにこしながら言った。
「そうか。で、僕はこの店に来るのは、四ヶ月振りなんだけど、君を見るのは、初めてだな。名前は何というの?」
「カオルです!」
「カオルちゃんか。可愛らしい名前だな」
 と重秀が言った時に、明美がやって来た。そして、カオルに、
「こちらの方は、大学の先生よ」
「大学の先生ですか。私、学のある方って、大好きなんです! 尊敬しちゃうな!」
 カオルはいかにも重秀を煽てるかのように言った。
 すると、重秀はいかにも嬉しそうな表情を浮かべた。
 そんな重秀に、明美は、
「昨日、秋元先生がいらっしゃいましたよ」
 と、にこにこしながら言った。明美は、重秀と秋元が二人して、「茜」に来たことを覚えていて、二人が仲が良いことを知っていたのだ。
 だが、重秀はその明美の言葉を耳にし、さっと顔色が変わった。
 実のところ、重秀は秋元の裏切りに対する憂さ晴らしの為に、「茜」にやって来たのだ。しかし、その秋元の名前をまさか今、耳にするとは思っていなかったのだ。
 そんな重秀の思いをつゆ知らない明美は、更に秋元に関する話を続けた。
「秋元さん、滝口さんと一緒にいらっしゃいましたよ」
 滝口とは、秋元と同じく、M大学の教授である滝口一郎のことであろう。重秀は秋元から、「茜」に滝口と来たことがあるということを聞かされたことがあったのだ。
「秋元さん、とても嬉しそうでしたよ。何かいいことでもあったんでしょうかね」
 と明美が言うと、重秀は一層不快そうな表情を浮かべた。秋元は、重秀が超古代史を支持してるということを大野に告げ口したことが愉快だったのではないのか? それ故、嬉しそうな表情を浮かべていたのではないのか? 重秀はそう邪推してしまったのだ。
 明美はといえば、今の明美の言葉が、重秀を不快にさせてしまったのではないかと、素早く察知した。何しろ、明美は接客のプロである。客の気持ちを読むのは、得意だったのだ。
 そんな明美は、重秀が好きな酒を知っていたので、それをカオルに持って来させた。そして、重秀に、
「さあ、先生! お飲みになってくださいな」
 重秀は明美に勧められるがままに、その酒を飲むと、重秀の顔にはいつの間にか、笑顔が戻っていた。そして、明美と何だかんだと、他愛ない会話を交わしていたのだが、ふと秋元のことを思い出し、
「何故秋元さんは嬉しそうにしていたのかな?」
 そう言った重秀の表情には、笑みは見られなかった。
 そんな重秀を見て、明美は表情を改めては、
「株ですよ! 秋元さんは、株でかなり儲けたそうですよ。だから、ご機嫌だったみたいですよ」
 そう明美に言われると、重秀の表情は、一気に綻びた。どうやら、重秀は秋元のことを誤解していたようだ。秋元が重秀が超古代史を支持してるということを大野告げ口したというのは、正に事実ではなかったのではないのか。
 重秀はそう思うと、嬉しくなり、嬉しそうな笑みを浮かべた。
 そして、今の重秀には、もう誰が大野に重秀のことを告げ口したのかなんていうことは、どうでもよくなっていた。酒と明美たちの存在が、そう重秀に思わせてしまったのだ。
 そして、重秀は引き続き、明美たちと、何だかんだと他愛ない会話を交わしていたのだが、その時、重秀は突如、
「今の日本の歴史はおかしいんだよ」
 と、酒の勢いが重秀を逆上せ上がらせてしまったのか、そう口走ってしまった。
 すると、明美は呆気に取られたような表情を浮かべた。まさか、重秀がそのようなことを口走るなんて、思ってもなかったからだ。 
 だが、明美は重秀の専門が、東洋史であることをすぐに思い出した。それで、にこにこしながら、
「それ、どううことですの?」
「要するに、教科書には、日本の歴史はまず狩猟とか採集とかいった原始生活を経て稲作が始まり、やがて、大和朝廷が誕生したとか記してあるじゃないか。これが日本の歴史の定説なんだが、それがいんちきだということさ」
 重秀はかなり酔いが回っていたのか、平静時には決して口走らないようなことを口走ってしまった。
 だが、明美は今の重秀の言葉の意味がよく分からなかった。それで、
「先生のおっしゃってることの意味が、よく分からないですわ」
 と、重秀に甘えるように言った。
「だから日本だけでなく、世界の歴史は、古代に関しては、間違いだらけ、いんちきだらけというわけさ! 本当の歴史というものは、そんなものじゃないんだ!」
 と、重秀は声高に言っては、テーブルの上に置かれている水割りを手にしては、一気に飲み干した。
 すると、カオルが、
「それだけでは、私たちには分からないですよ。私たちにも分かるように話してくださいな」
 と、重秀に甘えるかのように言った。そして、脚を組み直し、ミニスカートから覗いてる太股を一層晒け出した。
 だが、重秀はそのようなカオルの太股に眼を向けることなく、更に捲くし立てた。
「つまり、日本には、一万年以上も前から、一般的には知られていない文明があったんだよ。岩を加工したりする技術を持った文明がね。沖縄の与那国島の海底から見付かった海底遺跡を見れば分かるじゃないか!」
「知ってます! 与那国島の海底遺跡のことをTVで見たことがあるもん! あれは、絶対に人間が造ったものね」
 カオルは些か興奮気味に言った。
「そうだろ。そうに決まってるさ!
 しかし、学界はそれを認めようとはしないのさ。認めてしまうと、今まで築き上げて来た歴史の体系が崩れてしまうからな。彼等はそれが嫌なんだ。ペテン師の汚名を着せられるのが嫌なんだ。それ故、いこじになってるんだ。
 そのこと以外にも、おかしなことが色々とあるんだよ」
 そう言った重秀の表情には、笑みは見られなかった。正に、大学教授としては、閑職の地位に留まっている重秀が、出世街道を驀進している学会の権威者たちに、敵意を剥き出しにしてるかのようであった。
「そのおかしなことって、どんなことですの?」
 明美は、興味津々たる表情で言った。
 すると、重秀はその時、突如、我に返った。そして、とんでもないことを口走ってしまったと、後悔をしてしまった。
 そして、あの時、即ち、一昨日、新宿の飲み屋で秋元と飲んでいた時にも、今のように密かに重秀と秋元の会話に耳を傾けていた者がいて、その者が大野に告げ口をしたのではないかと閃いたのである!
 何しろ、今、重秀の隣のテーブルで、じっと重秀の話に耳を傾けているらしき背広姿の中年の男が二人いるのだ。もし、その二人が重秀のことを知ってる同業者であったのなら、重秀のことを大野に告げ口することは、充分に有り得るだろう
 そう思うと、重秀は言葉を詰まらせてしまった。
 それで、カオルは、
「先生! 話の続きを聞かせてよ! おかしなことが色々とあるって、どういうことなの?」
 と、重秀に甘えるように言った。
 すると、重秀は、
「また、いつか話してやるよ」
 と言っては、今度は他愛ない話を始めた。そして、時は刻一刻と過ぎ、重秀は「茜」で今月分の給料の五分の一も使ってしまった。
 そして、重秀が「茜」を後にしたのは、午後十時を少し過ぎた頃であった。重秀は明美にビルの外まで送ってもらい、正にご機嫌であったのだ。
 重秀は明美に手を振っては、新橋方面に向かって歩き始めた。
 時間はやがて十時半になろうとしていたが、辺りの雑居ビルにはクラブの看板のイルミネーションが輝き、その光景を眼にすれば、日本は不況なのかと思ってしまう位であった。
 季節は九月の初めで、夜風がとても心地良かった。
 それで、重秀は思わず鼻歌を口ずさみながら、新橋駅に向かっていたのだが、その時、突如、背後から肩を叩かれた。

     3

 それで、重秀の歩みは止まった。
 そして、背後に振り返った。
 すると、そこには、重秀よりも少し年下と思われる位の重秀の見知らぬ男がいた。
 だが、その男を眼にするや否や、重秀の表情は一気に強張った。
 何故なら、その男はまるで乞食のような襤褸着を身に付け、髪の毛はぼさぼさで、また、無精髭が相当に伸びていたからだ。
 また、栄養が行き届いていないのか、かなり痩せていて、また、ここしばらくの間、風呂に入っていないのか、その悪臭が重秀の鼻をついた。
 それ故、重秀は本能的に警戒したような表情を浮かべた。そして、その男をまじまじと見入るだけで、言葉を発そうとはしなかった。
 すると、その男は、
「兄貴、久し振りですね」
 と言ってはにやにやした。 
 その言葉を耳にして、重秀は事の次第を忽ち理解した。今、重秀の眼前にいる乞食同然の男は、何と重秀の異母弟の菊川秀明という男であったのだ!
 重秀が秀明のことを知ったのは、五年程前のことであった。
 その頃、風邪を拗らせ、病の床にあった徳三から、重秀は思い掛けない告白を耳にしたのであった。
 それは、重秀に異母弟がいるということであった。菊川秀明という異母弟が!
 徳三は三十の頃、バーのホステスを無理矢理犯してしまったことがあった。
 徳三はそのことを特に気にはしてなかったのだが、徳三の顔色が変わったのは、その一年後のことであった。何故なら、その菊川豊子というバーのホステスは、徳三が豊子を犯してしまった時に出来てしまった子供を、何と産んでしまい、その子供を連れて、徳三の前に現れたからだ。
 これには、徳三はびっくりしてしまい、また、慌てふためいてしまった。
 何故なら、徳三にはれっきとした妻と子供がいて、また、徳三の家は旧家であり、その家風は厳しかったからだ。
 もし、徳三が無理矢理犯してしまったバーのホステスが、徳三の子供を産んでしまったということが、徳三の父の重蔵に知られてしまえば、徳三は長男であるといえども、莫大な資産を持った国松家の跡取りには相応しくないという烙印を押されてしまい、その地位を剥奪されてしまうかもしれない。
 また、その当時、大学の助教授をしていたのだが、その経歴にも傷がつくというものであろう。
 それ故、徳三は何としてでも、その不祥事を闇に葬らなければならなくなったのだ。
 また、子供を産み落とすまで、妊娠したことを徳三に話さなかった豊子のことを、徳三は一層腹立たしかった。
 豊子は、徳三を徳三宅の近い所にある公園に呼び出し、徳三の子供だという赤子を徳三に見せた。そして、豊子はいかにも嬉しそうな表情を浮かべては、赤子をあやしながら、
「この子は、あなたの子よ。秀明と名付けたのよ」
 そう言った豊子の表情には、笑みがあった。
 だが、その豊子の笑みは、嬉しくて笑ったというよりも、まるで徳三のことを嘲るような笑みであったのだ。
 そんな豊子に、徳三の子供だという赤子を見せられても、徳三はいとおしさを感じなかった。それどころか、まだ生まれてさ程月日を経てない赤子に、憎しみすら感じてしまったのだ。
「産む前に、何故俺に言わなかったんだ!」
 その言葉が、徳三の口から自ずから発せられた。その徳三の表情は、怒りに満ちていた。
「言えば、堕ろせと言われるに決まってるから」
 豊子はいかにも開き直ったような表情と口調で言った。
 そんな豊子を見て、徳三はあの夜、豊子を犯してしまったことを改めて後悔した。あの夜は、正に正気を失っていたのだ。
徳三が大教室の中で講義をしている時に、学生からの質問にうまく答えられずに、学生から「へぼ教師!」と、野次を飛ばされ、学生たちから大笑いされてしまったのだ。
 すると、徳三はまるで茹で蛸のように真っ赤になってしまい、平静を失ってしまい、野次を飛ばした学生の許に来ては、その学生に平手打ちをかましてしまったのだ。
 そのことが原因で、徳三は大学側から厳重な注意を受けてしまった。
 その夜、徳三は憂さ晴らしの為に、馴染みの「小波」という飲み屋で一人で飲んでいたのだが、そこでも些細ことで、客と喧嘩してしまった。
 だが、店の女将が何とか二人の間に入って、喧嘩は収まったのだが、徳三の怒りは収まらなかった。
 それで、徳三は「小波」が閉店になるまで飲み続け、そして、ぐてんぐてに酔ってしあったので、女将に駅まで送ってくれと言った。しかし、女将は都合が悪かった為に、女将に代わって徳三を送って行くことになったのが、豊子であったのだ。
 徳三はそんな豊子に、今夜はホテルに泊まりたいと言い、それで、近くのホテルにまで豊子が徳三を送って行くことになった。
 ホテルに着けば、そこで豊子は帰ることになっていたのだが、徳三にはそんな気はなかった。徳三は最初から豊子をホテルの部屋に連れ込んでは、豊子を犯してやろうと目論んでいたのだ。
 そんな徳三の姦計に豊子は気付くことはなかった。また、豊子には徳三がぐてんぐてんに酔っていた為に、滅多なことは起こらないという油断があったのだ。
 だが、徳三は元々酒には強かった。ぐてんぐてんに酔っても、その酔いから覚めるのには、さ程時間は掛からなかったのだ。
 豊子は徳三をホテルの部屋の前にまで連れて行くと、
「じゃ、私、これで帰ります」
 と、徳三に言った。
「すまんが、ベッドまで連れて行ってくれないか」
 徳三は意識朦朧とした様で言った。
 豊子はそんな徳三のことを気遣い、徳三を部屋の中まで連れて行っては、ベッドの上に寝かせた。そして、徳三をベッドの上に寝かせると、
「じゃ、私はこれで」
 と言っては、徳三に背を向け、徳三の許から去ろうとしたのだが、その背後から徳三は豊子に襲い掛かったのであった。徳三の酔いは、今やかなり覚めていたのだ。
 豊子は決して美人とか、いい女といえるような女ではなかった。
 しかし、その肉付きの良い肢体は、男の欲情をそそるものがあった。「小波」で何度も豊子のことを眼にしていた徳三は、豊子に対してそのような思いを抱いていたのだ。
 そして、今夜、その思いが爆発したのだ!
 学生からからかわれ、学部長から激しく叱責された徳三は、正に近年、味わったことのない屈辱を味わってしまったのだ。
 徳三はその捌け口を何かにぶつけなければならなかった。そして、それは豊子を犯すことによって満たされると、徳三は読んだのである。
 豊子とて、徳三のことを嫌いではなさそうだ。それ故、後で少し小遣いをやれば、豊子は徳三のことを許してくれるだろうという打算も徳三にはあったのだ。
 もっとも、豊子は無理矢理犯さなくても、最初から金を与えれば、抱かしてくれるような女に徳三には見えた。
 しかし、無理矢理女を犯すという快楽を、徳三は一度経験してみたかったのだ。
 何しろ、徳三は外では堅気な紳士で通っていた。しかし、時には羽目を外したかったのだ。
 そういった状況の為に、徳三が豊子に襲い掛かったのは、まるで自然の成り行きのようであった。
 徳三に背後から抱きつかれた豊子は、
「止めて!」
 と、叫んだ。
「いいじゃないか。俺のことを、嫌いじゃないんだろ」
 その徳三の表情は、日頃、紳士然として大学の教壇に立っている徳三とは、まるで別人のようであった。正に、淫靡な表情を浮かべ、まるで、動物のように本能を剥き出しにしていたのだ。
「嫌!」
 豊子は、徳三の言葉に耳を傾けようとはしなかった。
 しかし、徳三の頭には、豊子を犯すことしかなかった。
 そして、この時にまで力を温存していた徳三に、豊子の力が勝ることはなかった。豊子は、その意思に反して、あえなく徳三に犯されてしまったのだ。
 徳三を犯すことに成功した徳三は、行為が終わると、力尽きたのか、ベッドの上に大の字になったかと思うと、あっという間に鼾を掻いて、深い眠りに落ちてしまった。
 豊子はといえば、髪の乱れを直すと、涙を浮かべながら、その場から逃げるようにしては、その場を後にしたのだ。
 その三ヶ月後、件の出来事があってから、初めて徳三は「小波」を訪れた。徳三はその時、豊子に謝罪の意味で、少しばかりの小遣いを渡そうと思ったのだ。
 件の出来事があって三ヶ月も「小波」を訪れなかったというのは、やはり、豊子に謝るということは気が退けたし、また、仕事も忙しかったというのも、その理由であった。
 徳三は「小波」の中に入ると、直ちに豊子の姿を探したが、豊子の姿は見付からなかった。
 それで、女将に豊子の事を聞いてみた。
 すると、豊子はあの件があってから少しして、「小波」を辞めてしまい、今、何処で何をしてるのかは分からないと言った。
 そう言われるうと、徳三は「そう……」と、さして豊子のことなど興味は無いと言わんばかりに言い、その後、豊子のことを思い出すことは殆どなかった。
 だが、豊子はあの件があってから一年経った頃、徳三の子供だという赤子と共に、徳三の前に現れたのだ。

     4

 豊子の、「言えば、堕ろせと言われるに決まってるから」と言った豊子の言葉を耳にし、徳三は改めて豊子に対する怒りが込み上げて来た。また、徳三はあの時、豊子がまさか妊娠するとは、夢にも思っていなかったのだ。
 それ故、豊子がいとおしそうに抱いている赤子を、絞め殺してやりたい位であった。
 そんな徳三と豊子との間に少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、徳三は、
「俺にどうしろというんだ?」
 と、いかにも不快そうに言った。
「お金が欲しいの」
 豊子は、いかにも真剣そうな表情を浮かべては言った。
「幾ら欲しいんだ?」
「千万欲しいの!」
「千万? そんな大金、出せるか!」
 徳三は顔を真っ赤にしては、豊子を怒鳴りつけた。
 その当時、徳三の年収は百万であった。それ故、千万という金額は、その当時としては、とてつもない大金であったのだ。
「あなたがお金持ちであるということを、私が知らないとでも思ってるの?」
 豊子は嫌味たっぷりの表情と口調で言った。
 そう豊子に言われ、徳三の言葉は詰まってしまった。
 確かに、徳三の給料は多くはないかもしれないが、国松家は東京の郊外に広大な土地を所有してるのだ。それ故、国松家は大金持ちと言われれば、その通りであろう。
 だが、国松家の資産は、殆どが徳三の父の重蔵が所有していたので、徳三一人で千万を工面するということは、不可能というものだ。
 そう思うと、徳三はいかにも厳しい表情を浮かべては、言葉を詰まらせた。
 徳三がなかなか言葉を発そうとはしないので、豊子は、
「私の申し出に応じてくれるの? くれないの?」
 と、徳三に挑むかのように言った。
 そう言われても、徳三は言葉を発することは出来なかった。徳三は、どうすればよいのか、分からなかったからだ。
 そんな徳三に豊子は業を煮やしたのか、
「あなたがやったことを警察に言ってもいいのよ。この子があなたの子だということは、容易に分かるわ。だって、この子は、あなたに似てるから」
 そう言っては、豊子は赤子の顔を、徳三の眼前に持って行った。
 徳三はそんな赤子を正視しようとはしなかった。それで、眼を背けようとしたのだが、ちらっと眼にしてしまった。
 すると、徳三はその時、〈確かに似ている〉と感じた。
 そう! その赤子は、豊子が言ったように、確かに徳三に似ていたのだ!
 そう感じた徳三の表情は、乱れた。
 そんな徳三を眼にして、豊子はにやっとした。そして、
「私があなたがやったことを警察に話せば、あなたは逮捕されるかもしれないわ。そうなると、あなたは大学を辞めなければならなくなるわ。また、新聞やTVで報道されるかもしれないよ。そうなれば、あなたの人生は、滅茶苦茶にならないかしら。それでもいいの?」
 豊子にそう言われると、徳三の表情は、更に険しくなった。徳三が豊子にやったことが世間に明るみになれば、徳三は大学を辞めさせられることは無論、世間に背を向けて生きて行かなければならないだろう。また、逃げるようにして、住み慣れた町から引っ越して行かなければならないだろう。また、徳三だけでなく、国松家の者は皆、同じであろう。
 そう思うと、徳三は思わず身震いしてしまった。
 そして、徳三が犯した行為を改めて後悔したが、後の祭りだ。
 そう思うと、徳三の表情は、一層蒼白になり、また、身体を小刻みに震わせた。
 そんな徳三を眼にして、豊子は勝ち誇ったような表情を浮かべ、そして、
「どっちなの? 払うの? 払わないの?」
 と、強い口調で言った。
 そんな豊子の表情は、とても厳しいものであった。それは、まるで豊子の要求に対する徳三の返答の如何によって、今後の徳三の人生が決すると言わんばかりであった。
 そんな豊子に徳三は、
「千万という金は、僕は持っていないよ」
 と、決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「嘘はつかないで! あんたとこが、東京の郊外に広大な土地を所有してるということは、あんた自身が言ったじゃないの! その土地を売りさえすれば、千万というお金は、すぐに作れるわ。
 それに、千万貰えば、私、この子を私一人で育て、あんたには迷惑はかけないわ。
 どっちがあんたにとって得なのか、よく考えてみてよ」
 豊子は厳しい表情ではあるが、力強い口調で言った。
「その土地は、俺のものじゃないんだ。だから、俺の一存でどうにかなるものじゃないんだ」
 徳三はまるで豊子に泣きつくかのように言った。
「だから、親父さんに頼むのよ」
 なかなか豊子の要求に応じようとしない徳三に、豊子は罵声を浴びせるかのように言った。
 そう豊子に言われても、徳三は深刻そうな表情を浮かべては、言葉を発しようとはしなかった。
 そんな徳三を見て、豊子は、
「後一週間したら、あんたに電話するわ。私の要求に応じてくれないのなら、あんたがやったことを警察に話すからね」
 そう言い終えると、豊子は徳三に背中を見せては、徳三から去って行った。 
 そんな豊子の後姿を見て、徳三は豊子のことをとてつもない大きな存在に見えたのであった。
 一年前は、まるで赤子を翻弄するかのように手込めにした。その豊子が、今は手の届かない大きな存在に見えたのだ。
 豊子が、徳三の血を引いた赤子を産み落としさえしなければ、このような事態は発生しなかったのだ。そう思うと、徳三は悔しさが込み上げて来たのだが、どうすることも出来なかった。
 そんな徳三は、豊子が徳三の眼の届かない所へ去って行っても、茫然自失とした表情を浮かべては、その場を動こうとはしなかった。
 だが、やがて、平静を取り戻すと、豊子の要求に応じるかどうか、冷静に考えてみた。
 その当時の徳三の年収は前述したように、百万であった。百万といえば、その当時の平均的なサラリーマンの年収であった。だが、豊子はその十倍の金額を要求して来たのだ。
 もっとも、徳三は五百万程の貯金を持ってはいたが、残りの五百万は徳三一人ではどうすることも出来なかった。
 それ故、その旨を豊子に話しても、豊子は国松家が所有している土地を売れと要求することだろう。
 それ故、重蔵に頼むしかないだろうが、重蔵は徳三が仕出かしたことを知り、何と言うだろうか?
 そう思うと、徳三は茹で蛸のようになり、身震いした。
 しかし、千万払わないわけにはいかないのだ。千万払わないと、豊子は徳三が仕出かしたことを警察に話すと、徳三を脅したのだ!
 もっとも、徳三の子を産み落としたのは、徳三に全面的に非があるというわけではない。
 しかし、豊子を無理矢理犯したということが明るみになることには、徳三にとって致命的ダメージを与えることには間違いないのだ。
 それ故、二千万渡すしか、徳三が救われる途はないのだ!
 それ故、もう重蔵の力を借りるしかないだろう。
 そう決断した徳三は、苦渋に満ちた表情を浮かべては、やっとその公園を後にしたのだ。
 そして、その夜、徳三は妻の俊子が席を外してる間に、恐る恐るその所業を重蔵に話したのだ。
 すると、重蔵は烈火の如く怒った。そして、徳三に罵詈雑言を浴びせた。
 徳三は生まれて以来、これ程、重蔵に𠮟責されたことはないという位、𠮟責された。
 しかし、徳三は弁解することは何もなかった。だが、徳三は徳三が仕出かしたことが世に明るみになれば、徳三だけではなく、国松家の者は、世間に背を向けて生きて行かなければならないと、今や徳三だけではなく、国松家が置かれてる窮地の立場を重蔵に訴えると、これには重蔵も参ってしまったようだ。
 それで、先祖代々受け継いで来た土地の一部を売却し、千万を手にし、それを豊子に渡し、これによって、徳三が犯した不祥事は終結したのだ。
 無論、豊子はその後、徳三の前に姿を見せることはなかったのであった。
 そして、三十五年が過ぎた。だが、その三十五年後に、秀明が突如、徳三の前に姿を見せたのであった。

     5

 その日、徳三は国松邸の庭で、趣味の盆栽に興じていた。
 徳三は定年で大学教授の職を辞めてから、十年が経過していた。そして、その余生を読書とか盆栽などで過ごしていたのだ。
 そんな徳三は、遥か昔に徳三が引き起こした不祥事のことを思い出すなんてことは、まるでなかった。そのような不祥事があったことなど、徳三の脳裏から消失してしまったかのようであった。
 それ故、その日、広大な庭の中で盆栽に興じている徳三に、通いのお手伝いの藤山花子が、
「菊川という方が、旦那さんにお会いしたいと申しておりますが」
 と言っても徳三はその名前に心当りがなかった。
 それで、徳三は訝しげな表情を浮かべては、
「菊川という名前に心当りがないんだが」
 と言っては、首を傾げた。
「旦那さまとお約束がないのですかね? 中年の男性の方なんですが」
 花子は念を押した。
「ああ。そのような人物とは、わしは約束してないよ」
 徳三は素っ気なく言った。
「じゃ、引き取ってもらいましょうか」
「ああ。そうしてもらえるか。でも、どんな人物なんだ?」
 徳三は少し興味があったので、そう訊いた。
「それが、どうも訝しげな人物なんですよ」
 と、花子は決まり悪そうに言った。
「訝しげな人物? それ、どういう意味なんだい?」
 徳三は思わず眉を顰めては言った。
「みすぼらしい衣服を身に付けていますし、顔には無精髭を生やし、清潔さに欠け、胡散臭い感じなんです。年齢は三十から四十位に見えるのですが、旦那様とどんな関係があるのかと思うのですよ」
 と、花子は怪訝そうな表情を浮かべては言った。花子は確かに、その菊川という人物と徳三との関係を想像することが出来なかったのだ。
 花子にそう言われ、徳三は、
「追っ払ってくれないか」
 と、まるで犬畜生を追い払うかのように言った。
 それで、花子は、邸の門扉の前に待たせてある菊川という人物の前にまで戻っては、徳三の意思を伝えた。
 すると、菊川秀明は、
「何としても、僕は国松さんと会って話をしたいのですよ。僕が国松さんのことを知っているように、国松さんも僕のことを知っています。
 それ故、国松さんは僕と会って、僕と話をしなければならない義務があるのですよ。
 そうしないと、国松さんは困った立場になってしまいます」
 と、いかにも真剣な表情で、また、花子に言い聞かせるかのように言った。
 花子はその「困った立場になってしまいます」という言葉に不審なものを感じたので、
「それ、どういう意味ですかね?」
 と、秀明の顔をまじまじと見やっては言った。
「それは、国松さん本人にしか言うことは出来ません。
 とにかく、国松さんは僕に会う義務があるのですよ。そう僕が言ったと、国松徳三さんに伝えてくださいな」
 と、秀明がいかにも真剣な表情を浮かべては言ったので、花子は再び徳三の許に行き、秀明の言葉を徳三に伝えた。
 徳三は渋面顔を浮かべては、花子の話にじっと耳を傾けていたが、花子の話が一通り終わると、その菊川という男のことが少し気になったので、とにかく一度会ってみることにした。
 徳三はゆっくりとした足取りで花子と共に門扉にまで行くと、花子が門扉を開けた。
 すると、そこには徳三が知らない男がいた。
 そのことを確認すると、徳三は花子に、
「下がっていいよ」
 花子の姿が見えなくなると、徳三は秀明に、
「菊川さんとやら、わしはあなたのことを知らないのだが、あなたはわしのことを知っているという。それに、わしにどういった用があるのかな」
 と、何ら表情を変えずに、淡々とした口調で言った。
 すると、秀明は、
「僕の顔をよく見てください。僕のことが誰だか分かりませんかね?」
 と、秀明は秀明の顔が徳三によく見えるように、秀明の顔を徳三の顔に近付けた。
 そう言われても、徳三はさして秀明の顔を具に見ようとはせずに、
「よく分からんな」
 と、つっけんどんに言った。そして、首を傾げた。確かに、秀明のことが誰だか分からなかったのだ。
 すると、秀明は、
「僕の顔をもっとじっくりと見てくださいな。誰かに似てる思うのですがね」
 と、再びいかにも真剣な表情で言った。
 そう言われたので、徳三は今度ははっきりと秀明の顔を見てみることにした。
 すると、徳三は突如、青褪めた。
 徳三の表情の変化を確認した秀明は、薄らと笑みを浮かべた。そんな秀明は、まるで戦に勝利したことを確認したかのようだ。
 徳三は正に青褪めた表情を浮かべては、言葉を詰まらせてしまった。そして、歯をがちがちと鳴らしてしまった。
 そう! 徳三は、今、徳三の眼前にいる男が誰なのか、察したのである! 即ち、この男の名は、秀明という男だろう。
 即ち、徳三は菊川秀明という名前は、知っていたのだ。ただ、忘れていただけなのだ!
 三十五年という遠い昔のことなので、近年、その名前のことを思い出したことはなかった。いや、近年どころか、ここ二十年位はそうであったのではないのか。
 しかし、徳三はボケない限り、その名前のことは、忘れはしないだろう。
 そう! 菊川秀明とは、三十五年前に、徳三が酔った勢いで犯したバーのホステスであった菊川豊子が産んだ徳三の血を引いた男であったのだ!
 そう察知した徳三は、改めて、菊川秀明の顔を見やった。
 すると、その徳三の思いは、一層確実なものだと理解した。
 髪はぼさぼさで、無精髭を生やし、よれよれの衣服を身に付けている為に、それがその男が誰なのかを見極める妨げとなっていたのだが、よく見ると、確かにその男は徳三に似ていたのだ。若い頃の徳三は無論、今の徳三にも似たものを持ち合わせていたのだ。
 徳三が強張った表情を浮かべては、言葉を発そうとはしないので、秀明は改めて勝ち誇ったような表情を浮かべた。秀明は、徳三が秀明のことを誰なのか分かったと察知したからだ。
 そんな秀明は、勝ち誇ったような表情を浮かべては、
「僕のことが誰なのか、分かってくれたのですね?」
 そう言うや否や、秀明の表情は、突如、険しいものへ変貌した。
 それは、まるで、秀明の母である菊川豊子を徳三が犯したことを非難してるかのようであった。
 だが、依然として、徳三は言葉を発そうとはしないので、秀明は、
「僕は三十五年前に、国松さんが『小波』というバーでホステスをしていた僕の母さんをホテルで犯した為に生まれた菊川秀明という男なんですよ!」
 と、声を荒げて言った。
 そんな秀明の表情は、とても険しかった。それは、秀明の母を無理矢理犯したことを改めて非難してるかのようであった。
 だが、徳三は依然として、言葉を発することは出来なかった。何故なら、今になって、菊川秀明が徳三の前に現れるなんてことは、夢にも思っていなかったからだ。何しろ、豊子は三十五年前に徳三から一千万受け取り、徳三の前に二度と現われないと、徳三に誓ったのだから!
 それ故、何故、今になって徳三の前に現れたのか?
 それは、徳三にとって、理解出来なかった。
 すると、秀明はそんな徳三の胸の内を察したのか、
「何故、僕が今になって、国松さんの前に現れたのか、国松さんには納得が出来ないと言われるのですね?」
 そう言った秀明の表情は、とても真剣なものであった。
 すると、徳三はこの時点でやっと言葉を発した。
「ああ」
 その声は、まるで蚊の鳴くような小さな声であった。
 その徳三の言葉を聞くと、秀明は小さく肯き、そして、
「三十五年前に母さんは国松さんから受けったお金を元にして、九州の博多でクラブを始めました。母さんは博多出身で、博多には詳しかったのですよ。
 で、母が始めたそのクラブは、最初はうまく行っていたのですが、母はやがて男が出来ました。だが、その男の商売がうまく行かなかったのか、母が稼いだお金の多くが、その男に流れました。
 その内に、母は不渡り手形を摑まされてしまい、母のクラブは呆気なく潰れ、母は多額の借金を背負うようになってしまったのですよ。
 で、その借金は、僕が中学二年になった頃には返済出来たのです。母が出来るのは水商売位なものでしたので、母は水商売をして、その借金を返済したのですよ。
 で、母の帰りはいつも夜中の一時か二時だったのですが、その日は朝になっても、帰って来ませんでした。
 それで、母の店に電話をしてみたのですが、母は昨夜はいつも通り帰宅したというのです。
 それで、僕は何だか嫌な予感がしたのですが、その予感は当ってしまいました。
 何故なら、母は車に轢かれ、死亡してしまったからです!」
 そう言った秀明の表情は、とても険しいものであった。そして、秀明の呼吸は激しく乱れ、また、興奮のあまりか、涎を垂らしてさえいた。
 徳三の表情はといえば、秀明のように、涎は垂らしてはいないものの、秀明と同様、甚だ険しいものであった。何故なら、秀明の話は、徳三の表情をそのように変貌させるのに十分なものであったからだ。三十五年前に徳三が犯した菊川豊子が、二十年以上前に遥か遠方の地で、そのような形で死んでいたからだ。
 そんな徳三を見て、秀明はまるで徳三に言い聞かせるかのように話を続けた。
「母は僕に、僕の父のことや、僕が生まれることになった経緯を、僕が中学一年になった時に話しました。
 僕は中学一年になるまでは、母から僕の父に関して適切な説明を受けなかったので、すっきりしなかったのですが、僕が中学一年になった時に、その話を聞かされたのですよ。
 でも、僕は国松さんのことを憎いと思いませんでした。何故なら、国松さんは僕の父ですからね。憎いというよりも、会って話をしたいという思いの方が強かったのですよ。
 しかし、母はそれを認めませんでした。その理由として、母はお金を国松さんから受け取り、国松さんとは縁を切ったというのですよ。
 それで、僕はそれをこの歳になるまで、ずっと守って来たのですよ」
 と、秀明は力強い口調で言っては、大きく肯いた。
 そんな秀明は、今までその約束を守って来た自らのことを自画自賛してるかのようであった。
 徳三はといえば、今の秀明の話を聞いて、秀明が豊子が死んでから、どのような人生を歩んで来たのかは分からないが、豊子と徳三が交わした約束を頑なに守って来たことは分かった。
 しかし、その約束を今、破ったのである。
 何故秀明は約束を破ったのか?
 その疑問が自ずから徳三の脳裏に浮かび上がった。そして、その疑問が、徳三の口から言葉として発せられようとしたが、しかし、その言葉が発せられる前に秀明は更に話を続けた。
「僕は母が死んだ後、母の姉の家に預けられました。僕の母が死んだのは、僕が中学二年の時でしたから、一人で生きて行くことは出来ませんからね。
 で、母の姉宅での生活は、僕にとって耐えられるものではありませんでした。伯母さんの子供は三人いたのですが、その三人が寄ってたかって、僕のことを虐めるからです。また、伯母さんも僕のことを白い目で見るのです。僕が生まれた経緯が、やはり気に入らなかったのだと思います。
 僕はそんな伯母さん宅での生活が耐えられなくなり、僕は高校二年で高校を中退し、そして、伯母の家を出ました。そして、生きて行く為に、色んな職業を経験しました。小さな町工場の工員、うどん屋の店員、書籍のセールスマンという具合にね」
 そう言っては、秀明は大きく息を吸い込んだ。
 そんな秀明は、とても疲れたような表情を浮かべた。それは、今まで歩んで来た秀明の人生が、いかに辛苦に満ちたものであるかを物語ってるかのようであった。
 そのように秀明に言われても、徳三は渋面顔を浮かべるだけで、言葉を発しようとはしなかった。
 確かに、今の秀明の話とか、秀明の身なりなどから、秀明が歩んで来た人生がどのようなものなのか、凡そ察知は出来た。
 しかし、それが何だというんだ? 菊川秀明とは、三十五年前に縁を切ったのだ。今の徳三とは、何ら関係のない人間なのだ!
 そう思うと、徳三は改めて、何故今になって、秀明は徳三の前に現われ、自らの苦労話を聞かせるのか? その事実を目の当たりにして、徳三の脳裏には怒りが込み上げて来た。〈菊川秀明よ! とっとと帰れ!〉という言葉を抑えるのに、苦労した位であった。
 そんな徳三の思いを秀明が察したのかどうかは分からないが、秀明は更に話を続けた。
「で、僕は五年程前から、東京に住み始めました。僕はずっと前から、父さんが住んでいる東京に住みたいと思っていたのですよ。
 で、僕は東京で飲食店のコックなんかをやってたのですが、給料が安かったので、サラ金に手を出してしまいましてね。
 そして、その返済が滞り、僕は今、とてもお金に困っているのですよ!」
 と、秀明はいかにも困ったと言わんばかりに言った。
 そう秀明に言われ、徳三は何故秀明が徳三の前に姿を現したのか、その理由が分かった。
 それは金だ。金に困っている秀明は、徳三に金の無心に来たのだ!
 そう理解した徳三は、歯をがちがちと鳴らし始めていた。徳三は、秀明に対する怒りを抑えるのが、困難になって来たからだ。
 そんな徳三を見て、秀明はにやっと笑い、
「それに、僕は父さんの遺産を受け継ぐ権利があるのですよ。もっとも、認知されなければなりません。でも、認知は裁判でも出来ますからね。父さんが認知してくれないのなら、僕は裁判で認知を認めてもらいますよ。 
 でも、正式の子供ではないから、正式の子供の半分しか貰えないということですが、それでも、僕が父さんの遺産を相続すれば、僕は億万長者になってしまうのではないですかね」
 そう言い終えると、秀明は嬉しそうな表情を浮かべた。そんな秀明は、正に徳三の莫大な遺産にあやかれるのかと思うと、嬉しくて堪らないと言わんばかりであった。
 その秀明の言葉は、徳三にとって寝耳に水であった。
徳三の遺産は、重秀一人で受け継ぐものばかりと思っていたからだ。そこに秀明が割り込んで来るなんて、思ってもみなかったのだ。
 それ故、重秀に秀明のことを話さなければならないと思うと、徳三は気が重かった。
 また、重秀は秀明のことを知らなかった。それ故、秀明のことを重秀に話さなければならないと思うと、気が重かったのだ。
 そんな徳三に、秀明は今度は険しい表情を浮かべては、
「要するに、僕が何故今になって父さんの前に現われたのかというと、それはお金なんですよ!
 僕は今、お金が欲しいのです! お金の為に僕は現われたのですよ!」
 と、甲高い声で言った。
 そう秀明に言われても、徳三は返す言葉がなかった。
 それ故、徳三は渋面顔を浮かべては、少しの間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「だったら、わしが死んでから、出直してこい!」
 と、まるで疫病神を追っ払うかのように言った。
 すると、秀明は、
「先程も言ったように、僕は今、サラ金の返済に困っているのですよ。もたもたしていれば、借金はどんどんと膨れ上がってしまいます。だから、今すぐに、お金が欲しいのです!」
 と、いかにも真剣な表情を浮かべては言った。
 秀明の話に、渋面顔を浮かべてじっと耳を傾けていた徳三は、秀明の言葉が終わると、
「それは出来ん!」
 と、険しい表情を浮かべては言った。
 その徳三の言葉が意外だったのか、秀明は怪訝そうな表情を浮かべては、
「出来ない? どうして出来ないのですかね?」
「お前とは、お前が生まれた時に、縁を切ったからだ」
 徳三は秀明から眼を逸らせ、再び秀明を突き放すかのように言った。
「そんなの、勝手な言い訳ですよ。あなたは、僕のお父さんなのですから、僕が困ってる時に助けるのは、当然ではないですかね?。
 それに、今、助けてもらえば、その分を僕が受け取る遺産から控除してもらっても構わないですから。
 だから、五百万ください! 僕は今、五百万必要としているのですよ!」
 と、秀明は悲愴な表情を浮かべては、徳三に訴えるかのように言った。
 そう秀明に言われ、徳三はいかにも悔しそうな表情を浮かべた。そして、改めて、徳三の意思を無視し、秀明を産み落とした豊子のことを憎く思った。今、この場にいれば、かつてない位の罵声を浴びせてやりたい位であった。
徳三がなかなか言葉を発そうとはしないので、痺れを切らした秀明は、
「どうしてですか? どうして父さんは僕を助けてくれないのですか?」
 と、真剣な表情で、徳三に訴えるかのように言った。
「だから、出来ないものは、出来ないんだ」
 徳三は秀明から眼を逸らせては、秀明を突き放すかのように言った。
「だから、何故出来ないのですか!」
 秀明はそう言った徳三に抗うかのように、強い口調で言った。
「だから、お前とは縁を切ったんだ! そう言ったじゃないか!」
 徳三は今度は秀明を見やっては、秀明のことをいかにも憎い奴と言わんばかりの表情を浮かべては言った。その徳三の様を見ると、正に秀明とは何の関係もない赤の他人だと、秀明に言い聞かせるかのように言った。
 そんな徳三に、これ以上言っても無駄だと秀明は理解したのか、秀明は失意の色を見せては徳三から眼を逸らせた。
 だが、程なく徳三を見やっては、
「じゃ、僕の出生の秘密を、この辺りの近所に触れ回ってもいいのですかね?」
 と、些か嫌味を込めた表情で言った。
 そう秀明に言われると、徳三の言葉は詰まった。
 それで、秀明は、
「つまり、お父さんが僕のお母さんを無理矢理犯した為に僕が生まれてしまい、そして、その手切れ金としてお母さんにお金を渡し、僕の出生の秘密を闇に葬ったということをですよ!」
 そう言った秀明の表情は、とても険しいものであった。それは、まるでライオンが自らの縄張りを守る為に、縄張りに侵入して来た放浪ライオンと対峙した時に見せるかのような激しいものであった。
 秀明の脅しとも言える激しい言葉を受けて、徳三の心臓は激しく鼓動した。そのようなことをされてしまえば、徳三一家は、この場所に住めなくなってしまうだろう。
 この広大な邸の主である国松徳三が、三十五年前といえども、そのような不祥事を仕出かしていたともなれば、近所の笑いの種となるだろう。それ故、プライドの強い徳三は我慢をすることが出来ず、転居せざるを得なくなってしまうのは、請け合いだろう。
 また、この菊川秀明という男は、徳三が秀明の要求に応じなければ、今の言葉を確実に実行することだろう。
 そうなった時のことを考えると、徳三は思わず身震いしてしまった。
 だが、それでも、徳三の口からは、なかなか言葉が発せられようとはしなかった。
 そんな徳三に対して、秀明は、
「どうなんですか? 僕の要求に応じてくれるのですか? くれないのですか?」
 と、苛立ったように言った。
 すると、徳三は、
「少し考えさせてくれないかな」
 と、蚊の鳴くような声で言った。
「僕は急いでるんですよ。サラ金の返済は一日でも早く返済したいのですよ。そうしないと、どんどん借金が増えて行くんですよ。だから、早く手を打ちたいのですよ!」
 と、険しい表情で徳三に詰め寄った。そして、
「それに、一体何を考えるというのですか?」
 と、いかにも納得が出来ないように言った。
 そう秀明に言われ、徳三は返す言葉がなかった。確かに、今の徳三の言葉は、何ら根拠がないものであったからだ。
 そんな徳三に秀明は、
「今、すぐに結論を出してください!」
 と、険しい表情で徳三に詰め寄った。
 だが、依然として、徳三は言葉を発することが出来なかった。
 そんな徳三に業を煮やした秀明は、
「僕の要求に応じてくれないのなら、今から近所の人たちに僕の出生の秘密を触れ回りに行きますからね」
 そう言い終えると、秀明は徳三に背を向けては、徳三の許から去ろうとした。
 すると、徳三は、
「待ってくれ!」
 と、秀明の背中に言葉を投げた。その声は、とても大きなものであった。
 その徳三の声を耳にし、秀明は振り返った。
 そんな秀明に徳三は、
「分かったよ。あんたの要求を聞き入れることにするよ」
 と、いかにも参ったと言わんばかりの表情を浮かべては言った。
 すると、秀明はいかにも嬉しそうな表情を浮かべた。
 そして、その三十分後に、秀明は五百万を手にすること出来た。徳三はタンス預金として、一千万程のお金を金庫に仕舞ってあった。その中から、今、秀明に五百万を渡したのである。
 五百万を受け取ったことを確認すると、秀明は徳三に軽く礼を言っては徳三の許から去って行った。
 徳三はといえば、その出来事の為に、病の床に伏してしまった。
 そして、その時に、徳三は重秀に、秀明のことを打ち明けたのである。
 それは、重秀とって衝撃的なものであった。何しろ、厳格で律儀者だと思ってい徳三が、たとえ若かった時のことだといえども、そのような不祥事を仕出かし、その結果、重秀と血を分けた異母弟がいたなんて、それは信じられないことであり、また、衝撃的なことであった。その深刻さの為に、重秀はしばらくの間、笑顔を見せることが出来なかった位であった。

     6

 そして、年月は経過し、秀明が徳三から五百万を受け取って二年が経過した。
 そして、その頃には、重秀たちの会話の中で、秀明のことが話題になることは、無くなっていた。
 だが、その日、即ち、六月の初めのどんよりと曇った今にも雨が降り出しそうな月曜日の午後三時頃、重秀は私用で駅に向かって歩いていた。
 そして、国松邸から三百メートル程歩いた頃、突如、背後から、
「国松さん!」
 と、声を掛けられた。
 それで、重秀は歩みを止め、振り返った。
 すると、そこには、重秀よりも少し年下と思われる重秀の見知らぬ男が立っていた。
 とはいうもの、重秀の表情は、芳しいものではなかった。
 何故なら、その男は、薄汚れた衣服を身に付け、また、髪も長く伸びてぼさぼさで、無精髭もかなり生やしていたからだ。そんな男は、浮浪者であるかのような印象を抱かせた。
 それで、重秀は戸惑ったような表情を浮かべたのだが、男はそんな重秀を見て、にやにやした。それは、まるで重秀が戸惑った表情を浮かべたのを喜んでるかのようであった。
 それはともかく、男は重秀に、
「僕が誰だか分かりますかね?」
 そう言った男には、笑みは見られなかった。
「分からないですね」
 と言っては、重秀は首を傾げた。確かに男は誰だかまるで分からなかったからだ。
 すると、男は眉を顰め、
「僕の顔をじっくりと見てくださいよ。誰かに似てると思いませんかね?」
 徳三に似た面立ちをした男、即ち、菊川秀明は、一層自らの顔を重秀に近付けた。       それで、重秀はとにかくその男の顔をじっと見やったのだが、すると、その時、重秀は〈もしや……〉という思いが過ぎった。 
 そう! 今、重秀の眼前にいる男は、重秀の異母弟の菊川秀明という男ではないかという思いが、過ぎったのだ。何故なら、その男は、何となく徳三に似た面立ちを感じさせたからだ。重秀は母親似であって徳三には似てなかったのだが、この男は徳三に似ていたのだ! 
 即ち、この男は徳三が仕出かした不祥事によって、この世に生を受けた菊川秀明ということか!
 そう思うと、重秀は思わず険しい表情を浮かべては、言葉を詰まらせてしまった。
 そんな重秀を見て、秀明は薄らと笑みを浮かべた。何故なら、秀明は重秀が秀明のことを誰だか分かったと理解したからだ。
 とはいうものの、秀明は、
「僕のことを誰だか国松さんは分かりますかね?」
 と、重秀の胸の内を確認した。
 そう秀明に言われると、重秀の口からは、
「菊川秀明さんか……」
 という言葉が自ずから発せられた。
「正にその通りですよ!」
 秀明は、いかに満足したような表情を浮かべては言った。
 菊川秀明の存在は、二年前に病の床に伏せていた徳三の口から聞かされていたので、重秀は無論知っていた。
 しかし、重秀は菊川秀明なる男に会いたいと思ったことは、これまでに一度もなかった。何しろ、菊川秀明は、徳三がクラブのホステスを無理矢理犯した為に生を受けてしまった人間なのだ。
 その様な経緯がある為に、重秀は秀明のことを自らの弟だと、すんなりと認めるわけにはいかなかったのだ。更に、菊川秀明という男とは、永久に会いたくないと思っていた位なのだ。
 そんな菊川秀明が、突如、重秀の前に姿を現わしたので、重秀は動揺してしまい、言葉を失ってしまった。
 そんな重秀に秀明は、
「僕はいつも兄さんのことを羨ましいと思っているのですよ」
 と渋面顔で言った。
 だが、重秀は何も言おうとはしなかった。
 そんな重秀に秀明は、
「あんなにすごい家に住んでいるのですからね。僕なんか、築後四十年のおんぼろアパート暮らしですからね。血を分けた兄弟なのに、どうしてこんなに境遇が違うのですかね」
 と、些か嫌味のある表情と口調で言った。
 そう秀明に言われても、重秀は発する言葉がなかった。そして、決まり悪そうな表情を浮かべていると、
「あの家は、先祖代々の土地を売って手に入れたのですよね。だったら、僕も一緒に住む権利があるのではないですかね?」
 と、秀明は重秀をまじまじと見やっては、いかにも不満そうに言った。
 そう秀明に言われ、重秀は大いに動揺してしまった。浮浪者のような身なりは改善出来るが、しかし、重秀と同じような年齢の男が同居するようになると、秀明が何者なのか、近所の人たちに説明しなければならない。そして、いつかはその出生の秘密が近所の人たちに知れ渡るかもしれない。しかし、それは国松家の名誉の為にも、何としてでも避けなければならない。
 それ故、重秀はいかにも深刻げな表情を浮かべては、言葉を詰まらせてしまった。
 そんな重秀を見て、秀明はにやにやした。そんな秀明は、重秀を虐めて喜んでるかのようであった。
 そんな重秀に、秀明はまるで鞭打つかのように、更に話を続けた。
「それに、僕は兄さんの大学に顔を見せに行ってもいいのですよ。兄さんがN大で歴史の先生をやっているということは、ちゃんと分かってますからね。
 それに、何故僕が生まれたか、その経緯を先生や学生たちに話してやってもいいのですがね」
 そう言い終えると、秀明はまたしてもにやにやした。その笑みは、嬉しくて笑ったのでなく、正に嫌味のある笑みであった。
 すると、重秀はいかにも真剣な表情を浮かべては、
「どうして僕の前に現われたんだ?」
 と、まるで秀明のことを非難するかのように言った。
「それはないですよ。僕は兄さんの弟なんですから。それに、兄さんは僕のことを知っておく必要があると思いますよ。父さんの葬式にも呼んでもらおうと思ってますからね。その時に、僕のことが誰だか分からなければ、困るじゃないですか」
 と、秀明は不貞腐れたようにっては、程なく不敵な笑みを浮かべた。
 そう秀明に言われ、重秀は返す言葉はなかった。また、秀明のことを恐れた。何故なら、秀明という男は、秀明が言ったこと、即ち、秀明が重秀の大学にやって来ては、秀明の出生の秘密を触れ回るということは、決して現実味のないこととは思えなかったからだ。
 それで、重秀は秀明から眼を逸らせては、いかにも深刻な表情を浮かべたのだが、やがて、秀明を見やっては、
「あんたは何を望んでるんだ?」
と、秀明の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、秀明はその重秀の言葉を待ってましたと言わんばかりに、
「そりゃ、お金ですよ! お金が欲しいのですよ!」
 と、重秀の言葉に間髪を入れずに言った。
「金なら、二年前に父さんが五百万やったじゃないか! 五百万もやったのに、何故なんだ?」
 重秀はいかに納得が出来ないように言った。
「その五百万の殆どは、サラ金の返済で無くなってしまったのですよ。
 その後、僕は学歴がないということで、碌な職につけなかったのですよ。それで、お金にとても苦労してるのですよ!」
 と、秀明はいかにも深刻な表情を浮かべては言った。
 そう言われてしまったので、重秀はとにかく、
「幾ら欲しいんだ?」
「五十万です! 五十万、欲しいのです!」
 秀明は重秀に訴えるかのように言った。
 そう言われ、重秀は眉を顰めた。五十万程度の金なら、今すぐにでも工面出来るからだ。何しろ、重秀の部屋の金庫の中には、三百万程の金を保管してあったからだ。
 だが、こうあっさりと秀明に金を渡していいものかと、重秀は迷っていると、
「兄さんなら、今すぐにでも、五十万位なら、工面出来るのではないですかね。それに、僕は今すぐにでも、五十万が欲しいのですよ」
 と、秀明は今度は重秀に拝み倒すかのように言った。
 そんな秀明に重秀は、
「その五十万を何に使うんだ?」
「生活費ですよ」
「生活費に使うだけなのかい?」
「勿論、そうです。僕はサラ金に手を出すのは、もう止めました。もう懲り懲りですからね。
 それで、新たな職が見付かるまでの間、兄さんからお金を貸してもらいたいのですよ。
 もし僕がその五十万を返さないのなら、僕が受け取る父さんの遺産から控除してくださいな。それなら、文句はないと思うのですがね」
 と、秀明いかにも真剣な表情と口調で言った。
 そう秀明に言われ、重秀の言葉は詰まった。五十万渡すだけで、事が丸く収まるのなら、それは決して悪くはないと思ったからだ。
 何しろ、重秀が幾ら不満を言っても、秀明が徳三の遺産を相続する可能性があるということは間違いないのだ。秀明が裁判で認知を訴えれば、認められる可能性は充分にあるのだ。
 それに、大学にまでやって来られて、重秀が迷惑になるようなことをやられては堪ったものではない。
 それ故、迷うことはないのだ!
 それで、重秀は、
「その五十万が無くならない内に、次の職を見付けるんだな?」
 と、秀明の顔を見据えて言った。
「そりゃ、勿論そうしますよ!」
 秀明は眼を大きく見開いては、輝かせては言った。
 そんな秀明を見て、重秀は小さく肯き、
「じゃ、今回が最後にしてくれよな。いい歳をして生活費をせびりに来るのは、今回が最後にしてくれよな」
 と、秀明を諭すかのように言った。
「勿論、分かってますよ!」
 と、秀明はいかにも嬉しそうに言った。そんな秀明の笑みには、何ら邪心はないかのようであった。
 そんな秀明を見て、重秀は、
「分かったよ。あんたを信じることにするよ。
 で、五十万は家の中にあるから、ここでしばらく待っていてくれよ」
「それで、構わないですよ」
 そう言った秀明の表情には、笑みはなかった。そんな秀明の表情は、国松邸の中に入っては駄目なのかと言いたげであった。
 それはともかく、重秀は一旦家の中に戻り、五十万手にすると、秀明の許に戻って来ては、秀明に五十万渡した。
 すると、秀明はいかにも嬉しそうに、その五十万を受け受け取り、そして、五十万あると確認すると、
「ありがとう、兄さん」
 と、いかにも嬉しそうに言った。
 そんな秀明に重秀は、「もう二度と俺たちの前に姿を見せないでくれよ」という言葉を抑えるのに苦労した位であった。
 五十万あることを確認した秀明は、更に何かを言おうとしたのだが、それよりも先に重秀は、
「僕はこれから行く所があるから」
 と、秀明に素っ気なく言うと、秀明は真顔を浮かべては、
「じゃ、僕はこれで」
 と、重秀と同様、素っ気なく言っては、重秀に背を向けては、重秀から遠ざかって行った。
 そんな秀明の後姿を見て、重秀は、
「この疫病神め!」
 と、罵りの言葉を浴びせたのであった。

     7

 その夜、重秀は徳三に今日の出来事を話した。
 徳三はいかにも不快そうな表情を受かべては、重秀の話に耳を傾けていたのだが、重秀の話が一通り終わると、
「困ったことになったな」
 と、渋面顔を浮かべては言った。
 そんな徳三に、重秀は、
「父さんが悪いんだよ! 元はと言えば、父さんが碌でもないことをやるから!」
「今更そんなことを言っても仕方ないじゃないか!」
 徳三はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては、重秀に言い返した。
 そして、二人の間に少しの間、沈黙の時間が流れたが、やがて、重秀は、
「秀明は金が無くなれば、また、僕たちの前に姿を現わしますよ」
 と、渋面顔で言った。そして、
「それに、秀明の要求に僕たちが応じなければ、また、秀明の出生の秘密を近所の人たちにばらしてやると、僕たちを脅して来ますよ」
 と、重秀はいかにも困惑したような表情を浮かべては言った。
 重秀の言葉に、徳三は何も言うことが出来なかった。徳三の思いも、重秀と同じであったからだ。
 重秀の言葉に、徳三は何も言おうとはしなかったので、重秀は、
「どうするのですかね?」
 と、徳三の胸の内を問うた。
 すると、徳三は何やら考えを巡らすような仕草を見せては、少しの間、言葉を発そうとはしなかったのだが、やがて、
「とにかく、秀明が金を要求してくれば、渡すのが賢明だよ。五十万とか百万位で、秀明の口を封じる事が出来るのなら、それでいいじゃないか。千万とか二千万寄越せというのなら、話は別だが」
 と、渋面顔で言った。
「つまり、秀明の口を封じる為には、五十万とか百万位の犠牲は、仕方ないということですかね?」
 重秀は冴えない表情で言った。
「そうだよ。それしか、手がないじゃないか!」
 徳三も冴えない表情で言った。そんな徳三は、正に疲れた様を見せた。
「しかし、秀明の言いなりばかりなっていれば、今度はこの家に住まわせてくれと言って来るかもしれませんよ。今日も僕に、この家のことを凄い家だとか言っては、兄弟なのに、どうしてこんなに境遇が違うのですかねと言って来ましたからね」
 と、重秀は正に困ったと言わんばかりに言った。
 重秀にそう言われ、徳三も正に困ったと言わんばかりの様を浮かべた。徳三も重秀と同様、秀明と同居するのは、真っ平だったからだ。秀明のことを自らの息子と認めることは、到底出来なかったからだ。
 それで、二人はしばらくの間、いかにも困ったと言わんばかりの表情を浮かべては、言葉を発そうとはしなかったのだが、やがて、徳三は、
「もし秀明がそのようなことを言ってくれば、金で事を丸く収めるんだ。それしかないじゃないか!」
「でも、幾ら位払うのですかね?」
「そりゃ、分からんよ。しかし、秀明がまだ同居させてくれと言って来たわけではないから、今すぐそれに関して結論を出す必要はないさ。これから、じっくりと考えるんだ」
 ということになり、二人の会話は別のものへと移って行った。
 そして、それから、三年という年月が経過した。
 そして、その間、秀明は重秀たちの意に反して、重秀たちの前に現われることはなかった。
 しかし、その夜、秀明は三年振りに重秀の前に姿を現わしたのである。

目次   次に進む