第十章 新たな犠牲者

     1

 戸田利男は、毎朝、T川の堤防に沿って設けられた遊歩道をジョギングするのを日課としていた。
 戸田は三十五年働いた会社を定年退職して、既に三年になるのだが、身体はまだ現役時代のようにすこぶる頑健で、毎朝六時に起きては、T川沿いの遊歩道をジョギングしてるというわけだ。
 そして、今朝もいつも通り、ジョギングをしていたのだが、季節は既に六月の終わりになっていた。
 それ故、最近では雨の日が多く、ここしばらくの間、雨の為にジョギングを出来ない日も多かった。
 だが、今朝は久し振りに天気がよかったので、戸田はT川の遊歩道にやって来たのだ。
 そして、いつも通りにジョギングを始めたのだが、たまたま右手の方に眼やったところ、妙な光景を得に留めてしまった。
 妙な光景とは、草むらの中に、四、五十位の男性が、うつ伏せになって倒れていたからだ。その様は、とてもまともとは思えなかった。
 それで、戸田はその男性を眼にする否や、忽ち緊張した色を浮かべた。そして、一旦ジョギング中断し、草むらの中に入って行っては、その男性の許に行き、
「もしもし」
 と、背後から声を掛けてみた。しかし、男性は何の反応も見られなかった。
 それで、戸田は男性の顔を覗き込むようにしたのだが、すると、戸田は、
「わっ!」
 という悲鳴を上げては、後退りした。何故なら、男性はとても生きてるとは思えなかったからだ。
 しかし、早合点はいけない。その男性は、意識を失っているだけで、まだ死んでいると確認出来たわけではないのだ。
 それで、改めて男性の許に行っては、その男性の様を具に見てみた。
 しかし、やはり、その男性は生きてるようには見えなかった。
 それで、戸田は思い切って、男性の上半身を起こしてみた。
 すると、戸田は再び、
「わっ!」
 という悲鳴を上げては、後退りしてしまった。何故なら、男性のシャツの心臓辺りが、赤黒く染まっていたからだ。
〈とんでもない者を見付けてしまったぞ!〉
 戸田はそう後悔してしまったが、後の祭りであった。何しろ、戸田はこの男性の死体の第一発見者として、警察知らせる義務があったからだ。
 そう思った戸田は、駆け足で自宅に戻っては、110番した。

     2

 戸田からの通報を受け、所轄署の警官が四名、パトカーで現場に急行した。
 パトカーが到着すると、戸田は直ちに警官を男性の許に連れて行った。
 死体は、確かにそこにあった。戸田が発見した時と同じ状態で横たわっていたのだ。
 警官の一人が、男性と、辺りの写真を撮っていた。
 そして、一人の警官の中で一番年長と思われる警官が、戸田に戸田が死体を発見した時の状況を改めて訊いた。それで、戸田は有りの儘に話した。
 男性の死は、殺しによってもたらされたことは明らかであった。即ち、心臓の辺りを柳刃包丁のような鋭利な刃物で刺された為に絶命したのだ。 
 やがて、救急車がやって来ては、男性の死体を運んで行った。男性の死体は、近くの病院に運ばれて行き、司法解剖が行なわれることになった。
 すると、死因が明らかになった。
 それは、鋭利な刃物で心臓を突かれた事によるショック死であった。
 また、死亡推定時刻も明らかになった。
 それは、昨夜、即ち、六月二十七日の午後九時から十時の間であった。
 男性の死を受けて、世田谷署内に捜査本部が設置され、警視庁捜査一課の野村正夫警部(5)が捜査の指揮をとることになった。野村警部は、犯罪捜査に携わるこになって二十年ベテラン刑事であった。
 男性の死は殺しによるものと早々と分かったものの、身元はまだ明らかにはなってなかった。
 しかし、男性の死体が見付かった翌日に、身元は明らかになった。
 男性の名前は、菊川秀明という某事件で参考人になっていた男であったのだ。
 それ故、秀明の指紋が警察に保管されていたのだが、その線から身元が明らかになったというわけだ。
 その知らせを聞いて驚いたのが、国松重秀の事件を捜査していた宗方たちであった。
 宗方たちは秀明から情報提供を受け、秀明の異母弟である金丸徳丸の行方を追っていたのだが、徳丸の行方は依然として分かっていなかった。
 それ故、宗方たちの頭の中は、徳丸のことで一杯だったのだが、しかし、まさか、菊川秀明が何者かに殺されるなんてことは、夢にも思っていなかったのだ。
 それと共に、自己嫌悪に陥ってしまった。何故なら、秀明を殺した犯人は、徳丸に違いないと思ったからだ。即ち、宗方たちは徳丸を見付け出していれば、秀明は殺されずに済んだのではないかと思ったのだ。また、秀明自身も、徳丸に狙われるのではないかと心配していた。しかし、宗方たちは、その秀明の心配をあっさりと無視したのだ。
「悔しいですね」
 高野刑事はいかにも悔しそうに言った。
 高野刑事も、秀明を殺したのは、徳丸に違いないと思っていたからだ。また、徳丸がこの辺りに身を潜めていたのかと思うと、高野刑事は一層悔しかったのだ。
 宗方も高野刑事と同じように思ってはいたのだが、その一方、妙に思っていることもあった。
 それは徳丸の行為だ。
 徳丸は重秀だけではなく、秀明も殺してしまった。となると、徳丸の遺産相続額は増加するであろう。しかし、自らと同順位、または、先順位の相続人を死亡させてしまえば、相続欠格者となことを知らない筈はない。
 となると、徳丸は絶対にばれないという自信を持っているのだろうか?
 徳三の遺産を徳丸が独り占めしたいという気持ちは分かるが、その為に同順位と先順位の相続人を殺してしまうのは、犯罪者としては、何となく稚拙な行為と思えるのだ。
 それに、徳丸はまだ認知されていないのだ。徳丸が重秀と秀明を殺した可能性が高いと疑われれば、裁判で認知を得ようとしても、失敗に終わる可能性があるのだ。
 それで、宗方はその思いを高野刑事に話してみた。
 すると、高野刑事は、
「警部の考え過ぎですよ。徳丸は法律の知識なんて、まるで無いのですよ。ただ、相続人の数を減らし、自らが徳三さんの遺産を独り占めにしようと目論み、目論見を実行したに過ぎないのですよ」
 と、そうに違いないと言わんばかりに言った。
 それはともかく、T川河川敷で見付かった菊川秀明は、国松重秀の事件の参考人であったことから、野村は宗方たちと合同で捜査をすることになった。
 そして、野村と宗方はまず、国松邸で、徳三から話を聞いてみることにした。
 何しろ、秀明は今、国松邸で居候の身の上であったとのことだ。それ故、徳三なら何か情報を提供出来るのではないかと思ったのだ。
 それはともかく、宗方は徳三の身が心配であった。何しろ、徳三は八十に近い高齢なのだ。それが、ここ一ヶ月程の間で、二人の息子が相次いで何者かに殺されたのだ。これでは、死期が早まってしまうのではないかと宗方が心配するのは、至極当然のことだと思ったのである。
 それはともかく、インターホンを押し、来意を告げると、いつも通り、藤山花子が、宗方と野村を東屋に案内した。
 宗方と野村が徳三の近くまで来た時には、徳三は眼を瞑り、まるで瞑想してるかのようであった。 
 だが、宗方と野村が徳三の傍らにまで来ると、徳三は眼を開けた。
 そんな徳三に、宗方は一礼してから、
「とんでもないことになってしまいましたね」
 と、いかにも徳三に同情するかのように言った。
 だが、徳三は宗方から眼を逸らせては、何も言おうとはしなかった。
 そんな徳三に、宗方は改めて秀明の死と、秀明の死体が見付かった時の状況を説明し、
「秀明さんが殺されたのは、六月二十七日の午後九時から十時頃の間なのですが、その頃、秀明さんが何処で何をしていたか、分かりますかね?」
 すると、徳三は、
「知らん」
 と、宗方から眼を逸らせては、つっけんどんに言った。
 だが、宗方はそのような徳三の態度には慣れていたので、
「秀明さんは、ここしばらくの間は、この邸で暮らしていたのですよね?」
 と、穏やかな表情と口調で言った。
「ああ。そうだ」
 徳三は再びつっけんどんに言った。
「では、秀明さんが殺された六月二十七日のことで訊きたいのですが、その日、秀明さんはどうやって過ごされていたのですかね?」
「その日は、朝の九時頃、わしは秀明と少し話をした。何でもないような世間話だったよ。
 だが、その後、わしは秀明と顔を合わせてはいないのだよ。秀明は子供ではないのだから、わしは一々秀明の行動を監視していたわけではないわけだ。で、午後六時頃、藤山さんが秀明が住んでいる離れに、いつも通り、夕食を盆に載せては、運んで行ったんだよ。
 すると、その時は、秀明は離れにいたんだよ。
 だが、それから秀明がどうなったかをわしは知らんのだよ」
 と、徳三は宗方を見やっては、いかにも決まり悪そうに言った。
 すると、宗方は渋面顔を浮かべた。何故なら、宗方は徳三から、何か事件解決に繋がるような情報を入手出来るのではないかと、期待していたからだ。だが、どうやら、その思いは空振りに終わりそうだったからだ。
 だが、宗方は表情を改め、
「では、その日、秀明さんは夕食を食べた後、どうなったか、誰も分からないのですかね?」
「そうなんだよ。我々はそのことを誰も知らないんだよ」
 と、徳三は渋面顔を浮かべては言った。
 そう徳三に言われ、宗方は再び渋面顔を浮かべた。もし、秀明の夕食を食べた後の行動が分かれば、その先に秀明を殺した犯人が存在してるわけだが、それが分からないとなると、捜査はやりにくくなるからだ。
 とはいうものの、たまたま国松邸周辺をうろついていた徳丸が秀明が外出したのを眼に留め、秀明の後をつけ、秀明がT川の河川敷に行ったのを幸とばかりに、犯行に及んだのかもしれない。その可能性は、有り得るだろう。
 それで、宗方は些か納得したように肯いたのだが、そんな宗方に、徳三は、
「刑事さんは、秀明の死に関して何か思うことがあるのかな?」
 と、まるで宗方の胸の内を探るかのように言った。
 徳三にそう言われると、宗方は、
「そりゃ、勿論ありますよ!」
 と、徳丸のことを思い浮かべては、いかにも自信有りげに言った。
「それは、どういったものですかね?」
 徳三は再び宗方の胸の内を探るかのように言った。
 そう徳三に言われ、宗方は徳丸のことを話した。即ち、徳丸が国松邸周辺をうろついていたところ、偶然に秀明が出て来たので、徳丸は秀明の後をつけ、そして、T川河川敷で犯行に及んだというわけだ。国松邸からT川河川敷までは、徒歩で十五分も掛からない。それ故、宗方はその可能性は、充分に有り得ると思ったのだ。
 宗方の推理に何ら言葉を挟まずに、じっと耳を傾けていた徳三は、宗方の話が一通り終わると、
「じゃ、刑事さんは、重秀だけでなく、秀明も徳丸が殺したと言われるのですかね?」
 と、いかにも険しい表情を浮かべては言った。
「その可能性は充分にあると思います。
 で、以前も話しましたが、重秀さんは秀明さんと間違われて、徳丸さんに殺されてしまったいうわけですよ。
 それで、徳丸さんは改めて秀明さんを殺そうと目論見、その目論見を実行したというわけですよ。
 我々は徳丸さんのことを知っている人物に聞き込みを行ないましたが、すると、徳丸さんは随分と性質の悪い人物であることが分かりました。
 そんな徳丸さんですから、重秀さんと秀明さんを相次いで殺しても不思議ではありませんね」
 と、宗方は力強い口調で言った。
 宗方にそう言われ、徳三はいかに険しい表情を浮かべては、少しの青間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「では、なぜ徳丸は秀明を殺したのですかね? 刑事さんは、それに関してどう思っているのですかね?」
 と、険しい表情のまま言った。
「ですから、それは国松さんの遺産の為ですよ。国松さんの遺産を少しでも多く受け取ろうと思ったからではないですかね。徳丸さんは、国松さんに認知されていないといえども、将来的には国松さんの遺産を受け取る可能性はありますからね。
 それ故、早晩、徳丸さんは国松さんの前に姿を堂々と見せるようになるんじゃないですかね」
 と言っては、宗方は眉を顰めた。
 すると、徳三は少し間、言葉を発そうとはしなかったが、やがて、
「しかし、徳丸が秀明や重秀を殺したことが明らかになれば、徳丸はわしの遺産を相続出来なくなることを知らない程、馬鹿ではないと思うのだが……」
 と、些か納得が出来ないように言った。
「ですから、徳丸さんは、自らの犯行は絶対にばれないという自信があるのではないですかね。
 実際にも、我々は徳丸さんの行方を懸命に探してるんですが、てんで何処にいるのか分かりません。また、徳丸さんを見付け出したとしても、重秀さんと秀明さんの事件で逮捕出来るかというと、それは今の時点では無理ですからね」
 と、宗方は決まり悪そうに言った。
「成程。しかし、徳丸が殺したという確証がないのなら、重秀も秀明も徳丸が殺したということは、誤った推理だという可能性もあるんじゃないのかな」
 と、徳三は眼を大きく見開き、輝かせては言った。
 すると、宗方は、
「いや。その可能性はあまりないと思いますね」
 と、その言葉を打ち消した。その宗方の表情は、重秀と秀明を殺したのは、徳丸以外に考えられないという強い意志を見ることが出来た。
 そう宗方に言われると、徳三は、
「しかし、わしは徳丸が今、何処で何をしてるのか、まるで分からんのだよ」
 と、決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
 そう徳三に言われ、宗方は落胆したような表情を浮かべた。何故なら、これ以上、徳三に聞き込みを続けても、捜査に役立つような情報を入手することは出来ないと思ったからだ。
 それで、宗方たちはこの辺で国松邸を後にすることになった。
 そして、秀明の死体が見付かったT川河川敷に立て看板を立て、秀明が死亡した頃、不審な人物や場面を眼にしなかったか、情報提供を呼び掛けることにした。
 だが、有力な情報は何ら寄せられなかった。
 それで、宗方たちは次第に焦燥感を抱き始めていた。何しろ、重秀の事件だけではなく、秀明の事件も壁にぶつかってしまったような状況になっていたからだ。
 秀明を殺した犯人も重秀を殺した犯人も、徳丸である可能性が高いと、宗方も野村も思っていた。
 しかし、徳丸の行方がてんで分からないでは、話にならないというものだ。
 そして、時間は刻一刻と過ぎ、秀明の死体が見付かって十日が過ぎた。
 そして、その十日後に、とんでもない事件が発生してしまったのだ。

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