第三章 訪れた死
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「兄貴、久し振りですね」
と、その男に言われたので、重秀は事の次第を理解した。即ち、今、重秀の眼前にいる浮浪者のような男は、ここしばらくの間、重秀の前に姿を見せていなかった重秀の異母弟の菊川秀明だったのだ!
秀明と以前顔を合わせてから、もう三年という年月が経過していたのと、また、重秀が秀明と顔を合わせたのは、その時の一度だけであったので、重秀は秀明のことをすっかりと忘れていたのだ。
だが、三年振りに再会した秀明の身なりを見て、重秀は困惑した表情を浮かべざるを得なかった。何故なら、秀明は正に新宿などで屯している浮浪者のような身なりをしていたからだ。
そんな秀明と、高価な背広を身に付けている重秀が、たとえ夜の銀座の人通りが少ない裏通りであったとしても、その二人が立ち止って話をしているという光景は、異様なものに思えた。案の定、二人の許を通り過ぎて行った背広姿の会社員風の男が、まるで好奇の眼差しで、二人の様子を窺がっていたからだ。
重秀はといえば、困惑したような表情を浮かべては、なかなか言葉を発そうとはしなかった。そんな重秀に秀明は、
「久し振りですね。兄さん」
と、重秀との再会に嬉しくて仕方ないと言わんばかりに言った。
重秀は何故このような場所で、秀明と再会したのか、理解出来なかった。
国松邸の近くで、初めて秀明顔を合わせた時は、秀明が国松邸の近くで重秀が出て来るのを待ち伏せしていたということは充分に察せられたのだが、今夜、重秀が銀座のクラブで飲んだということは、秀明が知ることが出来ないのは当然だった。何故なら、銀座で飲むことを重秀が決めたのは、今日のことであり、また、そのことを誰にも言ったことはないのだから。
ということは、重秀は秀明と偶然、この銀座の裏通りで出会ったことになる。
しかし、秀明は銀座のこの辺りに、一体何の用があったのだろうか? この辺りで路上暮らしをしていたとでもいうのだろうか? 秀明の薄汚れた身なりを見れば、そのことは充分に現実味がありそうなのだが……。
秀明の言葉に、重秀がなかなか言葉を発そうとはしないので、秀明は、
「銀座のクラブで飲んでいたのですかね?」
と、重秀を見やっては、淡々とした口調で言った。
そう言われ、重秀は別に嘘をつく必要はないので、無言で肯いた。
すると、秀明は、
「兄さんは、銀座でよく飲むのですかね?」
「いや。そうじゃないさ。たまにだよ」
と、秀明から眼を逸らせ、素っ気なく言った。
「そうですか。でも、たまにでも羨ましいですね。何しろ、銀座で飲むには、お金が掛かりますからね。僕には夢物語ですよ。
それに、僕は普通の中華料理店でも、締め出されてしまいますよ。この恰好じゃ、店の人は、僕を店の中に入れてくれないのですよ」
と秀明は言っては、苦笑した。
そんな秀明を見て、重秀は、
「どうしてそんな恰好をしてるんだ?」
という言葉が、自ずから発せられた。
三年前に秀明を初めて眼にした時も、秀明は薄汚れた衣服を身に付けていた。
しかし、それ位の衣服を身に付けている人は、世の中には幾らでもいた。殊に、最近の若者は、随分汚らしい衣服を身に付けては、平気で町を闊歩している。そんな様を眼にすると、思わず眉を顰めてしまう。
だが、三年前の秀明の恰好なら、中華料理店から入店を断られはしないだろう。
しかし、今の秀明の恰好は、正に路上生活者の恰好なのだ。
そう重秀に言われると、秀明は決まり悪そうな表情を浮かべては、重秀から眼を逸らせたのだが、すぐに表情を許に戻すと、開き直ったような表情を浮かべては、
「見れば分かるように、僕は今、路上生活者なのですよ」
そんな秀明の様を見れば、正に路上生活者の疲れというものを充分に窺うことが出来た。
「路上生活者? 職を見付けては真面目に働くんじゃなかったのかい?」
重秀は渋面顔を浮かべては言った。
秀明の出生の経緯には不純なものがあるにせよ、秀明は重秀にとって、血を分けた兄弟であるに違いなかった。
その弟が、路上暮らしをしてるとなれば、やはりそれは、重秀にとって、好ましいものではなかった。重秀は率直にそう思ったのだ。
「そうするつもりだったのですがね。でも、社会が僕を受け入れてくれないのですよ。僕が働けるのは、せいぜい水商売か肉体労働位ですからね。
といっても、僕はもう歳だから、ボーイはやらせてもらえません。皿洗いとか調理補助位しかやらせてもらえないのですよ。
でも、とにかく新宿でそのような仕事をやっていました。
そして、お金も少し貯まり掛けていたのですが、そこで知り合った仲間に巧みに丸め込まれてしまい、その仲間に貸すお金を僕がサラ金から借りてしまったのですよ。すると、その仲間は僕から借りたお金を返すことなく、何処かにとんずらしてしまったのですよ。それで、僕はそのサラ金から借りたお金を僕が返さなくてはならなくなってしまったのですよ。
といっても、その金額はそれ程のものではなかった為に、僕は二年程でその借金を返すことが出来たのですが、その頃、僕は仕事場であったその中華料理店を辞めざるを得なくなってしまったのですよ。というのも、その中華料理店の経営者が先物取引に手を出して多額の借金を作ってしまい、その結果、店は潰れてしまったからですよ。
その後、僕は何だか人生が嫌になってしまい、こうやって路上暮らしになってしまったのですよ」
と、秀明はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべては、淡々とした口調で言った。
そう秀明に言われ、重秀は複雑な思いを抱いていた。
というのは、血を分けた異母弟が路上生活者をしているという事実を目の当たりにして、正に穴があれば入りたい程の気恥かしさを感じたが、その反面、自らが苦境の立場に陥ったにもかかわらず、救いを徳三や重秀に求めて来なかった秀明のことを見直したのである。
それはともかく、今の秀明の話から、秀明が今、甚だ苦境の立場に陥っていることは理解出来たが、秀明が国松邸に住むことを認めるわけにはいかなかった。また、金銭的援助を行なう気にもなれなかった。それどころか、銀座のこのような場所でよりによって秀明と再会してしまった事の不運さを大いに嘆いたのだ。
そう重秀が思っていたのだが、そんな重秀に秀明は、
「どうして兄弟なのに、僕たちはこんなに違うのですかね?」
と、渋面顔で言った。
すると、重秀も渋面顔を浮かべた。何故なら、またその話かと思ったからだ。
三年前にも、その話をしてから、秀明は重秀を脅して来たのだ。秀明の出生の秘密をばらされたくなければ、金をくれという具合に。
重秀はそのことを思い出したのである。
それで、重秀は思わず嫌な予感が脳裏を走った。何故なら、これから秀明は、重秀にとって嫌なことを切り出して来るのではないかと思ったからだ。
案の定、秀明は、
「僕は兄さんと代わってみたいのですよ」
と言って来たからだ。
すると、重秀の言葉は詰まった。やはり、秀明が口に出した言葉は重秀にとって好ましくないものであったからだ。
しかし、その言葉の意味が、よく分からなかった。
それで困惑したような表情を浮かべては、重秀は言葉を詰まらせていると、秀明は、
「つまり、僕が兄さんのように、大学教授となり、兄さんが僕のように路上生活者になってみるということですよ」
と、いかにも真剣そうな表情を浮かべては言った。
すると、重秀は啞然とした表情を浮かべた。何故なら、秀明が言ったことは、支離滅裂であったからだ。そのようなことは、現実的には不可能であったからだ。
それで、重秀は、
「それはとても無理だよ」
と、些か笑みを浮かべては言った。
すると、秀明は、
「そりゃ、勿論そうですよね。そのようなことは分かりきったことですからね」
と、重秀と同じく薄らと笑みを浮かべては言った。
そんな秀明と、重秀はこのまま話を続けるのが鬱陶しく感じ始めていた。秀明は碌でも無いことを次から次へと話し、更に、重秀は先程まではクラブで酒を飲んでいたことが、一層秀明の話に付き合わされるのを鬱陶しく感じたのだ。
だが、秀明のことをぞんざいに扱えば、秀明は何を言い出すか分からない。
それ故、秀明への応対は、慎重に行なわなければならないだろう。
そう思ったが、時間は刻一刻と経って行くので、重秀は露骨に腕時計に眼をやった。重秀は、もうこの辺で秀明との話を打ち切りたいと言わんばかりの表情を浮かべたのだ。
そんな重秀に、秀明はいかにも真剣な表情を浮かべては、
「一度、僕がどんな思いをしてるか、兄さんに経験してもらいたいのですよ」
と、重秀をまじまじと見やっては言った。
だが、重秀はその言葉の意味がよく分からなかったので、
「それ、どういう意味なんだ?」
と、些か納得が出来ないように言った。
「ですから、兄さんは一度僕のように、路上暮らしを経験してもらいたいのですよ。そうしてもらえれば、僕がどんな思いをしているか、理解してもらえると思いますからね」
と、秀明は真剣な表情で言った。
すると、重秀は、
「馬鹿な!」
と、吐き捨てるかのように言った。
「そう言わずに、一度経験してみてくださいよ。そうすれば、路上生活者の思いというものを分かってもらえると思いますからね。
僕だって、最初から路上生活者を行なおうと思っていたわけではありません。
運ですよ! 運に恵まれなかっただけなのですよ! 運というものが、僕と兄さんの明暗を分けたのですよ!
僕が兄さんのように恵まれた環境で育っていれば、このような路上暮らしを送らなくても済んだと思います。
僕はバーのホステスをやっていた母に育てられたのですが、母は僕のことを構ってくれず、僕は幼い頃から随分と寂しい思いをしていたのです。
そして、僕が中学二年の時に、母がバ―の仕事の帰りに、酔っ払ってしまい、車に轢かれ死亡してしまったのです。
その後、僕は母の姉の家に預けられたのですが、その姉の子供たちに虐めらりたりしたものですから、高校二年の時に僕はその姉の家を飛び出し、高校を中退しては、働き始めたのですよ。
しかし、学歴がないことなどから、碌な仕事に有り付けず、そして、他人の借金まで背負う羽目に陥ってしまい、このようになってしまったのですよ。
でも、兄さんのように恵まれた環境で育っていれば、僕はこの様にならなかったと思います。兄さんもそう思わないですかね?」
と、秀明はまるで重秀に訴えるかのように言った。
そのように秀明に言われ、重秀の言葉は詰まった。何故なら、秀明が言ったことは、もっともなことと思ったからだ。
それで、重秀は渋面顔を浮かべては、言葉を発そうとはしなかったのだが、そんな重秀に秀明は、
「ですから、一度だけでいいですよ。一度だけでいいですから、兄さんは僕がどんな思いをしているか、経験してみてくださいよ!
今夜だけでいいです!
今夜だけでいいですから、僕のように路上暮らしを経験してみてくださいよ!
そして、僕は兄さんの衣服を借りては、今夜だけ、銀座の高級ホテルに泊まってみますよ。兄さんが着てるような高級な衣服を身に付ければ、誰だって高級ホテルに泊まれますからね」
と、眼を大きく見開いては、ギラギラと輝かせては言った。
そう秀明に言われ、重秀は言葉を発することが出来なかった。というのは、秀明の言葉に何となく心を動かされたからだ。
そんな重秀に、秀明は一層真剣な表情を浮かべては、
「今夜だけでいいです! 今夜一度だけでいいですから、兄さんの衣服を貸してください! そして、兄さんは銀座の裏通りで夜を明かしてください!
こんなことは、兄さんにとって、一生に一度の経験となる筈です!
僕は明日の朝、七時に兄さんの許に戻って来ます。兄さんは僕の衣服を身に付けるだけで、財布とかいったものは、着替えた僕の衣服のポケットの中に入れておけばいいのです。僕の衣服のポケットは、破れていませんから、財布が落ちる心配はありませんからね。
頼みますよ! 今夜一度だけでいいです! 今夜一度だけでいいですから、僕の願を聞き入れてくださいよ!」
そう秀明に言われ、重秀の心は大きく動いた。
確かに秀明は運に恵まれなかったのだ。徳三が徳三のストレスを発散する為に、軽率にもバーのホステスを無理矢理犯してしまった為に、秀明は生まれてしまったのだ。秀明がこのような境遇に陥ってしまったのは、秀明だけの責任とは言えないのだ。
それに、重秀は重秀に対する秀明の心証を悪くするのは好ましくないという打算があった。秀明は今や路上生活者だ。そんな秀明には、もはや恥や外聞に構っておれないのだ。
それ故、秀明の重秀に対する心証を悪くさせてしまえば、今度こそ、何を仕出かすか分からないのだ。
それ故、重秀は秀明の申し出に応じてみようと思った。
重秀は浮浪者の恰好をして、路上で夜を明かすなんてことは、今まで勿論経験したことはない。また、今後も経験することはないだろう。
それ故、秀明が言ったように、浮浪者の恰好をして、夜を明かしてみれば、浮浪者たちの気持ちが分かるかもしれない。また、それによって、視野が拡がるというメリットがあるかもしれない。
しかし、重秀が路上で夜を明かしてみようと決意したのは、そのようなメリットよりも、打算なのだ!
即ち、秀明の心証を悪くしたくなかったのだ!
それで、重秀は、
「本当にこのような事をやるのは、今夜一度だけでいいのかい?」
と、秀明の顔をまじまじと見やっては言った。
「勿論、そうですよ!」
秀明は眼を大きく見開き、輝かせては言った。
そう秀明に言われると、重秀は少しの間、言葉を詰まらせたが、やがて、
「分かった。じゃ、一度だけ、浮浪者暮らしをしてみるか」
そう言っては、重秀は思わず苦笑してしまった。
「じゃ、話は決まった!
じゃ、最近、僕が夜を明かしてる場所に案内しますよ」
そう秀明は言っては、重秀と共に歩き始めた。
そして、五分程歩くと、
「この辺りが、僕が最近、夜を明かしてる場所です」
と言っては、秀明は小さく肯いた。
その辺りは、裏通りで、道幅も広くなかった。
そして、辺りには、クラブなんかが入居している小さな雑居ビルが並んでいたが、既に午後十一時を過ぎてるということもあってか、クラブのイルミネーションが消えているのも、少なからず眼についた。それは、不況の為に、元々営業を停止してるのかもしれなかった。
そういった雑居ビルと雑居ビルとの間には、人が一人位入れる狭い隙間があった。
秀明はその隙間を指差し、
「ここが、僕の塒なのですよ」
と、いかにも冴えない表情で言った。
重秀は秀明が塒といった狭い空間にしげしげと眼をやった。
確かに、そこは雑居ビルに挟まれて辺りの街灯の明かりは届きにくく、また、人通りの少ない道路に面してる為に、夜を明かそうと思えば、可能だと思われた。
もっとも、雨の日や、真冬なら、とても夜を過ごすことは無理だろう。
しかし、今は六月の初めであり、過ごし易い季節だ。また、夜空には星も見られ、今夜は雨が降ることはないだろう。
それ故、今夜一度だけなら、この雑居ビルと雑居ビルとの間の狭い空間で夜を過ごすことは可能だろう。
そう理解した重秀は、
「一体いつから路上暮らしを行なうことになったんだい?」
「二週間程前からです」
秀明は決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「二週間前か……。その間、食事はどうしてたんだい?」
「コンビニで弁当なんかを買ってました。でも、一日に二食しか食べれませんでした。そして、その一食は弁当ではなく、クリームパン一個ですよ。
そのようにして、飢えを凌いで来たのですが、後二十万位しか、有り金がなくなって来たのですよ。
その二十万が尽きればどうすればいいか、途方に暮れているのですよ」
と、秀明はいかに困ったと言わんばかりに言った。
そんな秀明を見て、重秀は秀明のことをこのままにしておけないと思った。いくら国松家にとって疫病神だといっても、秀明と重秀は、血を分けた異母兄弟であるからだ。
それ故、ある程度の経済的援助を行ない、秀明を助けてやる必要があるのではないのか?
重秀はそのように思わざるを得なかった。
しかし、それは重秀の一存では決まらないというものだ。それは、徳三と相談する必要があるのだ。
また、今後の秀明のことは、今夜、路上暮らしをしながら、ゆっくりと考えてみよう。
重秀はそう思っていると、秀明は、
「さあ! ここで服を脱いでください! 今、辺りには誰もいませんから!」
そう秀明に言われ、重秀はその雑居ビルと雑居ビルとの間に挟まれた狭い空間で背広を脱ぎ始めた。それと共に、秀明も自らの古びた、また、汚れた上着とズボンを脱ぎ始めた。重秀は更にワイシャツも脱ぎ、トランクスとシャツ姿となった。
そんな重秀に秀明は、
「さあ! 兄さん! 今度は僕の衣服を身に付けてくださいよ!」
秀明からそう急かされるように言われ、重秀は秀明から渡された灰色のズボンをまずはき、それから、黒っぽい上着を身に付けた。
重秀は秀明と同じ位の身体付きであったので、ズボンの大きさはぴったりであった。だが、その悪臭が鼻をついた。もう長期間、洗濯をしていないのは、確実であった。
それで、重秀は思わず渋面顔を浮かべたが、そんな重秀とは対称的に、秀明はいかに小躍りせんばかりに、嬉しそうな表情を浮かべていた。
何しろ、秀明は上下で五万もする高価な背広を見につけたのだ。これなら、銀座の街中を堂々と歩けるだろう。
そんな秀明に、重秀は、
「今夜はホテルに泊まるのかい?」
「そのつもりです」
「いくら位のホテルに泊まるつもりだい?」
「そりゃ、相場が分からないので……。でも、一万位のホテルには泊まりたいですね」
「一万か……。一万じゃ、この辺りでは、ビジネスホテルだよ。高級ホテルともなえば、四、五万は出さないと」
「四、五万ですか……」
秀明は決まり悪そうな表情を浮かべた。
何しろ、秀明が今、所持している有り金は、二十万なのだ。その二十万が、秀明の全財産なのだ。それ故、無駄な出費は避けたかったのだ。
そんな秀明の心情を察したのか、重秀は、
「ほら! 五万渡すよ! その五万で、高級ホテルに泊まるんだな」
と言っては、秀明に五万差し出した。
すると、秀明は、
「ありがとう、兄さん! 恩に着ますよ!」
と、いかにも嬉しそう言っては、重秀が差し出した五万を受け取った。
そんな秀明に重秀は、
「必ず朝の七時までには戻って来てくれよ」
秀明には朝早く戻ってもらう必要があった。何故なら、朝早い時間なら、この辺りはまだ人は見られないだろうからだ。
しかし、午前八時になって来れば、話は別だ。午前八時になれば、この辺りには必ず人が姿を見せるだろう。となると、浮浪者の恰好をした重秀の姿を好奇な眼を持って見るに違いない! 重秀はそれを絶対に避けたかったのだ。
「そりゃ、勿論ですよ!」
秀明は声を弾ませて言った。
秀明はそう言うと、重秀に軽く一礼しては、その場を後にした。
重秀はといえば、携帯電話で自宅に電話しては、妻の早苗に今夜は仕事の都合で帰れないと言った。早苗はその重秀の言葉をあっさりと信じたのであった。
2
さて、時刻は午前零時を少し過ぎた。
普段なら、重秀は床に入り、深い眠りの最中なのだが、今夜はそうは行かなかった。何故なら、重秀が今いる場所は、銀座の裏通りにある雑居ビルと雑居ビルに挟まれた狭い空間なのだから。
そんな場所で落ち着いて眠れということ自体が、土台無理なことであった。即ち、重秀は眠ろうとしても、なかなか眠れないのだ。
そうかといって、今から銀座か新橋方面に堂々と歩けるというと、それも土台無理なことだ。重秀がいくらインテリ然とした容貌をしてるからといっても、重秀がN大の教授をやっているということは、辺りの通行人は誰も知らないのだ。
それ故、重秀が身に付けている衣服を見て、今の重秀の身分を察知することだろう。
即ち、今の重秀を見れば、誰もが重秀のことを路上生活者と思うというわけだ。それが、重秀にとって、耐えられることではなかったのだ。
それ故、明日、秀明がこの場に戻って来るまでは、何処にも行かずにじっとしているのが、賢明というものだ。
幸いにも、この辺りには、クラブは結構あるものの、灯が消えている店も少なからずあるので、朝までは人の姿は殆ど見られないだろう。また、時折、人は通るものの、友人との会話に興じたり、あるいは、酔いの為か平静を失い、重秀の方に眼を向ける者は誰もいないという塩梅であった。
この調子なら、何とか明け方まではこの状態を持ち堪えられそうだと重秀はほっと胸を撫で下ろしたのであった。
そして、時間は過ぎ、午前一時となった。
だが、重秀は眠りに落ちることは出来なかった。
しかし、それも当然のことであろう。重秀は生まれて以来、路上で夜を明かしたという経験は一度もなかったし、また、悪臭漂う秀明の衣服を身に付けているのだ。その悪臭も、重秀の眠りを妨げる要因となっているのだ。
そうかといって、裸になるわけにもいかない。しかし、このような場所で、このような衣服を身に付けて眠れということが、重秀にとって土台無理なことなのだ。
季節柄、寒さ、暑さを感じさせないことだけが、救いであるかのようであった。
眠れない重秀は、腰を下ろしては、両手で膝を抱えるような恰好をしては、また、通りに背を向けるようにしていた。
たとえ、深夜といえども、通行人はいるかもしれないし、また、その中には、重秀の存在に気付き、重秀に好奇な眼を向ける者がいるだろう。
そんな者たちに、重秀は自らの顔を見られるのが嫌であったのだ。
だが、午前一時を過ぎた頃には、遂に重秀はうとうとし始めていた。
何しろ、今夜は「茜」で相当飲んだのである。それ故、本来なら今頃は深い眠りに陥ってる筈なのだ。
それ故、重秀がうとうとし始めたのは、自然の成り行きであった。
だが、その時、即ち、午前二時半頃、重秀はふと背後に人気を感じた。
それで、重秀は背後を振り返った。
すると、重秀の眠気は一気に吹き飛んでしまった。何故なら、そこには黒い覆面で素顔を隠した不審な人物が重秀の前にいたからだ。
その不審な人物を眼にして、重秀は本能的に身の危険を感じた。
だが、眠いのと、また、不自然な恰好で横たわっていたりした為か、身体に所処痛みを感じたりして、身体を思うように動かすことが出来なかった。
そういった状況であったが、重秀はその不審な人物のことを具に見ようとした。
しかし、辺りがかなり暗かったので、詳細は分からなかった。
しかし、黒い覆面を被り、黒いシャツとズボンをはいた中肉中背の男の様に思われた。
それはともかく、重秀はその不審者を眼にして、身の危険を感じたので、逃げようとしたのだが、しかし、重秀がいる場所は、雑居ビルと雑居ビルに挟まれた狭い空間で、通りに出るには、不審な男がいる側からしかなかった。後退りしても、その先には他の雑居ビルに突き当るだけだからだ。それ故重秀はどうすることも出来なかったのだ。
そんな重秀は、不審な男の一挙手一投足を注視しようとした。
すると、その男は、携帯している黒いショルダーバッグからキラリと光るものを取り出した。
それは、刃渡り十五センチ程の柳刃包丁であった。
その柳刃包丁を見るや否や、重秀は一気に蒼白になった。
だが、前に進むことは出来ない。それで、後退りしようとした。だが、十メートル先は突き当りだ。しかし、逃げないよりはましだ。
そう思った重秀に、まるで狙いを定めたように、黒覆面の男は、重秀に襲い掛かり、重秀の心臓目掛けて、柳刃包丁を突き刺したのだ。
「ぎゃ!」
という鈍い重秀の悲鳴が発せられた。
だが、その悲鳴はとても弱々しいものであった。
柳刃包丁は、呆気なく重秀の心臓近くに突き刺さり、みるみる内に、重秀の上着が血で赤く染まり始めた。
そんな重秀に、その男はまるで重秀に止めを刺すかのように、二度、三度と、重秀の胸目掛けて、柳刃包丁を突き刺した。
その二度の攻撃を受け、重秀の頭はガクンと垂れたのであった。
そんな重秀を見た黒覆面の男は、素早く柳刃包丁をショルダーバッグの中に入れ、また、重秀の携帯電話が入った黒い小さな鞄も自らの鞄の中に入れ、逃げるようにその場を後にした。
そして、素早く黒覆面を脱ぎ、素顔を晒した。
だが、その場面を眼にした者は誰もいなかった。辺りには人は誰もいなかったのだ。
やがて、男は新橋駅構内に入った。
だが、既に午前三時近い時間だった為に、新橋駅構内には人気はなかった。だが、程なく、終電に乗り遅れたと思われるサラリーマン風の三人の男と擦れ違った。
そんな新橋駅構内を男は素早く通り過ぎ、浜松町方面に向かったのであった。
無論、その三人のサラリーマン風の男は、その男がつい先ほど、人殺しをしたということに気付くことはなかったのだった。