第四章 事件発生
1
やがて、夜が開け、朝となった。
といっても、まだ七時であったから、銀座のクラブが犇めき合っているような通りには、未だ人気は見られなかった。
もっとも、銀座の表通りには、車の往来も徐々に増え、また、歩道にはオフィスに向かうサラリーマンの姿もちらほらと見られるようになっていた。
そして、午前八時になると、銀座界隈はめっきりと活気づき、車の往来もめっきりと増えた。それと共に人の姿もめっきりと増えた。それは、毎朝見られるごく普通の光景であった。
クラブなどが犇めき合っている雑居ビルが並んでいる裏通りにも、人の姿がちらほらと見られるようになっていた。それらの多くは、辺りのオフィスに向かうサラリーマンたちだ。
サラリーマンたちの誰もかれもは、まるで一秒を惜しむかように、忙しく歩いているようであった。
それ故、その雑居ビルと雑居ビルとの間に挟まれた狭い空間に、浮浪者と思われる男が不自然な恰好で倒れているのを眼にしても、特に気にすることなく、通り過ぎて行く者ばかりであった。
実際にも、その場所には菊川秀明が二週間程前から夜を明かしていたので、そのサラリーマンたちは秀明のこと度々眼にしていたので、その狭い空間に浮浪者が横たわっていても、それは別に不審な光景でもなかったというわけだ。
また、重秀から流れ出た血溜りを隠すような恰好で重秀は倒れていたので、サラリーマンたちはその血溜りに気付くことはなかったのだ。そのことが、重秀の死に気付くのが遅れた要因であったのだ。
即ち、重秀の死が確認されたのは、午前十時頃のことであったのだ。
2
重秀の死体を発見したのは、重秀の死体が横たわっている場所の近くの雑居ビルのオーナーの白鳥富士夫(60)であった。
白鳥は雑居ビルのオーナーであったのだが、その雑居ビルに入居しているクラブの支配人から、「最近、この近くで浮浪者が住みついている」という苦情を受けたので、確認の為に現場にやって来たのだ。
そして、重秀の姿を眼に留めると、白鳥は渋面顔を浮かべた。何故なら、クラブの支配人が言ったように、確かに浮浪者がいたからだ。
この様な場所に浮浪者が住みつけば、風紀が乱れ、商売にも悪影響が及ぶというものだ。
それ故、浮浪者を追っ払おうと、白鳥は思った。
それで、白鳥は渋面顔を浮かべながらも、慎重な足取りで重秀に近付くと、
「もしもし」
と言っては、重秀の肩に触れた。
だが、何の反応もなかった。
白鳥はといえば、困惑したような表情を浮かべた。何故なら、浮浪者の様子が変だったからだ。何となく身体が硬直してるような感じで、生きているのか死んでいるのか分からないような印象を受けたからだ。
それで、もう一度、肩を揺り動かしてみたのだが、しかし、反応はなかった。
それで白鳥は浮浪者の上半身を少し動かしてみた。
すると、忽ち、
「わあ!」
という叫び声を上げ、後退りした。何故なら、浮浪者の上着には、赤黒くなった血がこびりつき、また、浮浪者の身体の下の地面も、赤黒く血に染まっていたからだ。また、浮浪者の顔は、正に死人の顔であった。
それで、白鳥は腰を抜かさんばかりに驚き、そして、直ちに携帯電話で110番通報したのであった。
白鳥からの通報を受け、所轄署の警官が直ちに現場に急行した。銀座という場所の為か、サイレンを鳴らしたパトカーが現場に突くのに五分も掛からなかった位であった。
そして、四人の制服姿の警官がパトカーの中から降りると、白鳥は、「ここです!」と、警官を浮浪者の許に連れて行った。
浮浪者の死を警官は確認すると、現場の写真を撮り、また現場検証を始めた。
また、白鳥から白鳥が死体を発見した時の経緯を聞いた。
やがて、救急車が現場に突き、浮浪者を担架に載せて運んで行った。
浮浪者が息を吹き返さないことは明らかであったが、救急隊員たちの行動はとても迅速であった。
浮浪者を救急車の中に運び終えると、救急車はサイレンを鳴らしては、現場を後にしたのであった。
3
浮浪者の死体は司法解剖され、その結果、柳刃包丁のような鋭利な刃物で刺されたことによるショック死であることが分かった。
即ち、殺しである。
それを受けて、築地署に捜査本部が設置され、警視庁捜査一課の宗方正則警部(52)が捜査を担当することになった。
宗方は身長180センチ、体重八十キロの巨漢で、柔道三段の猛者であった。
また、その身体だけでなく、頭脳の方の切れ味も鋭く、多くの難事件を解決に導いた実績があった。
そのような警部が、浮浪者の殺人事件を捜査するのは妙に思われた。
死者の価値を秤に掛けるのは些か道義に反するかもしれないが、浮浪者が殺されても、それは大した事件ではないと思われるのだ。
それ故、そのような事件を担当するのは、まだ刑事になったばかりの新人でも十分な位なのだ。
だが、今、宗方の手が空いているということと、その浮浪者の様相が何となく妙であったということが、その理由であったのだ。
では、その浮浪者が妙であったというのはどういうことなのかというと、その浮浪者は、正に浮浪者らしからぬ人物であったのだ。というのは、その容貌は正に知的で、また、髪も綺麗に整えられ、また、身体も昨夜風呂に入ったかのように清潔であったのだ。もし、この人物が本当に浮浪者なら、その身体はもっと汚れている筈なのだ。正に、その被害者は、その身に付けている衣服だけが、浮浪者なのだ。
そんな状況であった為に、宗方はその事件に少なからずの関心を抱いたことも、宗方が捜査を担当するこになった理由でもあったのだ。
それはともかく、その浮浪者の事件は、その日の夕刊とかTVで報道された。
だが、その日の内には、浮浪者の身元は明らかにはならず、また、犯人も無論、明らかにならなかった。
しかし、翌日になって、その浮浪者と思われる男の身元は明らかになった。
というのは、都内に住む国松早苗という主婦から、夫の重秀と昨夜から連絡が取れなくなってるので、交通事故なんかに巻き込まれてはいないかという問い合わせが入ったので、早苗に応対した警官は、昨日銀座の裏通りで見付かった男の事件のことを話してみた。
早苗は最初の内は、そんな警官の話をてんで相手にしなかった。何故なら、重秀が浮浪者の恰好をしては、銀座の裏通りで刺殺体で見付かるなんてことが、有り得るわけがないと思ったからだ。
しかし、その被害者の人相風体とか身体的特徴なんかをきめ細かく警官が話すと、早苗はその男のことが気になってしまった。警官が話す男の特徴が重秀を思わすようなものであったからだ。
それで、早苗は取り敢えず、その浮浪者のような男の死体が安置されてるという中央区内のS病院に行っては、その男を見てみることにした。
すると、その男は、早苗の思いに反して、何と重秀であったのだ!
早苗がいかにびっくり仰天し、また、哀しんだかは、充分に察せられるだろう。
早苗はしばらく平静を失い、とても話を聴けるような状態ではなかったが、やがて、落ち着いて来たので、宗方は早苗から話を聴いてみることにした。
「ご主人はN大の教授をされていたとか」
と、神妙な表情で言った。
「ええ」
早苗は眼頭にハンカチを当てながら、蚊の鳴くような声で言った。
「では、日頃、銀座で路上暮らしなんかをされてませんでしたよね?」
「勿論、そうです」
早苗は気丈な表情を見せては言った。
そう早苗に言われると、宗方は小さく肯き、そして、
「それなのに、どうして浮浪者が身に付けるような衣服を身に付けては、銀座の裏通りにある雑居ビルと雑居ビルとの間に挟まれた狭い場所で、刺殺体で発見されたのでしょうかね?」
と、いかに納得が出来ないような表情を浮かべては言った。
「分かりません」
宗方の問いに、早苗は蚊の鳴くような小さな声で言った。早苗はまるで何故重秀がそのような恰好で、また、そのような場所で刺殺されたのか、てんで分からなかったのだ。
そんな早苗に、
「ご主人の死亡推定時刻は、昨日の午前二時から三時頃なのですが、その夜のご主人の予定はどのようになっていたのですかね?」
「主人が亡くなった前日の午後十一時頃、主人から電話が掛かって来たのですよ。今夜は仕事の都合で帰宅出来ないという。
そういった電話は時々掛かって来るので、私は特に気にしてなかったのです。
で、主人はその時に、何処に泊まるということは、言ってなかったのですよ」
と、早苗は渋面顔で言った。
「そうですか。で、その夜はご主人は銀座のクラブなんかで、飲んでいたみたいなのですよ。ご主人の胃の中には、お酒が入っていましたからね。
それ故、今、銀座のクラブなんかで聞き込みを行なっているという次第なんですよ。
で、考えられることは、他の飲み客と、喧嘩をしたりして、殺されてしまったということですよ。
でも、そうだとしたら、ご主人が浮浪者の衣服を着ていたのは妙ですね。クラブの客なら、ご主人に浮浪者の衣服を着せるという行為は行なわないでしょうからね。
それ故、次に考えられるのは、浮浪者と喧嘩をしたということですよ。ご主人は酔いの為に平静を失っていて、浮浪者と喧嘩をしてしまったのですよ。
その結果、ご主人は浮浪者に殺されてしまい、浮浪者はご主人の衣服を奪い、その場から姿を消したというわけですよ」
と、宗方はその可能性は充分にあると言わんばかりに言った。
宗方の推理に、早苗は言葉を挟まずにじっと耳を傾けていたが、宗方の話が一通り終わると、
「その推理には、少し納得が出来ない所があるのですがね」
と、渋面顔で言った。
「それはどんなことですかね?」
宗方は興味有りげな表情を浮かべては言った。
「主人の死亡推定時刻は、午前二時から三時の間なんですよね?」
「そうです」
「何故そんな時間に、主人は浮浪者と喧嘩をしたのでしょうかね? そんな時間なら主人はホテルなんかで眠りについている筈なんですがね」
と、早苗はいかにも納得が出来ないように言った。
「奥さんのおっしゃることは、もっともなことだと思います。それ故、銀座のクラブで、飲食後のご主人の足取りを捜査してるのですよ」
と、宗方は早苗に言い聞かせるかのように言った。
そんな宗方に早苗は、
「それに、主人は結構大人しい性格の人だったのですよ。そんな主人がどんな理由か知りませんが、浮浪者と喧嘩をして殺されたなんて、信じられないのですよ。
それに、浮浪者の方から通行人に喧嘩を吹っ掛けるなんてことが、今まであったのでしょうかね?」
「確かにそうですね。通行人の方から浮浪者にちょっかいを出すということは、度々あるのですが、その逆はあまりないですね」
と、宗方は困惑したような表情を浮かべては言った。そんな宗方は、早苗と話をしていると、重秀が浮浪者と喧嘩をして殺されたという推理は、誤った推理ではないかと思うようになったのである。
それで、宗方は別の可能性を想定してみることにした。
「ご主人は日頃、誰かに恨まれていませんでしたかね? あるいは、何か問題を抱えていませんでしたかね?」
宗方はとにかくそう訊いてみた。
「そのようなことは、何も言ってませんでしたね」
と、早苗は冴えない表情で言った。
そう早苗に言われ、宗方も冴えない表情を浮かべた。というのは、このまま早苗から話を聴いても、捜査は進展しそうもないと思ったからだ。
それに、重秀がどのクラブで飲んでいたのか、それもまだ明らかになってなかった。
それ故、それを見付け出すことが、捜査を前進させる第一歩だと思い、宗方はこの辺で、早苗への聞き込みを一旦終えることにした。
早苗が宗方の許から去って行って少ししてから、銀座周辺のクラブで聞き込みを行っていた若手の高野正義刑事(28)が早くも成果を上げることが出来た。
それは、重秀が殺された夜は、「茜」というクラブで一人で飲んでいたことが明らかになったからだ。そして、重秀が「茜」を後にしたのは、午後十時過ぎ頃だということも分かった。
高野刑事は、重秀に応対したという「茜」のホステスに聞き込みを行なうようにと、宗方から指示が出たので、「茜」のホステスから、引き続き聞き込みを続けることにした。
「その時に国松さんの様子はどんなものでしたかね?」
高野刑事は「茜」の和服姿の明美をまじまじと見やっては言った。
「いつもと特に変わりはなかったですね」
明美は神妙な表情で言った。
「いつもということは、国松さんはこのクラブに時々飲みに来てたのですかね?」
「そうですよ。常連客という程ではないですが、時々お越しになられてましたね」
「そうですか。で、その日は、いつもとは違ったようなことを言ったりしてませんでしたかね?」
高野刑事がそう言うと、明美の隣に座っていたカオルが、
「そう言えば、妙なことをおっしゃっていましたよ」
と、眼を大きく見開いては言った。
「妙なこと? それ、どういったことですかね?」
高野刑事は興味有りげに言った。
「日本の古代の歴史は間違っている。教科書に載っている歴史はインチキだとか言っておられましたね。
私は歴史のことはよく分からないので、先生の話に耳を傾けていただけなのですが、以前、うちのお店に来られた時には、そのようなことはおっしゃっておられませんでしたね」
と、カオルは些か興奮気味に言った。
そのカオルの話を聞いて、高野刑事は〈違うな〉と思った。即ち、日本の古代の歴史が間違っていようが、そのようなことは、重秀の事件には無関係だと思ったのだ。
それで、
「そのこと以外に何か言ってなかったですかね? 例えば、国松さんは国松さん以外の誰かのことに言及してませんでしたかね?」
「そう言えば、秋元さんのことに言及してましたね」
明美はその時を思い出すかのような表情を浮かべては言った。
「秋元さん? それ、どういった人物なんですかね?」
高野刑事は再び興味有りげに言った。
「国松さんと同じく、大学の先生です。秋元さんは国松さんと時々、うちに飲みに来られたことがありましてね。その秋元さんのことが話題になりましたね。少しだけですが」
「ほう……。で、国松さんは秋元さんに関して、どう言っておられたのですかね?」
「『昨夜、秋元さんが飲みに来られましたよ。随分と愉しそうでしたよ』と私が言うと、国松さんは、『何故秋元さんは愉しそうにしてたんだ?』と訊かれたので、『株で儲けたからだそうですよ』と私が言うと、国松さんは、おかしそうに笑いましたね」
と、明美は淡々とした口調で説明した。
そう明美に言われると、高野刑事は渋面顔を浮かべた。何故なら、その秋元という人物は、先程のカオルが言ったようなことと同様、重秀の事件には関係ないと思ったからだ。
それで、高野刑事は改めて、重秀の死を明美たちに説明し、重秀の死に関して、何か心当りないかと訊いた。
すると、明美は、
「それがないのですよ。何しろ、先生はとても愉しそうに、お酒を飲まれていましたからね。
それ故、この店を後にして少ししてから殺されたなんて、私は信じられません」
と、いかにも困惑したような表情を浮かべては言った。
「私も同じです」
カオルは明美に相槌を打つかのよう言った。そして、
「でも、どうして先生は、浮浪者の恰好をしていたのですか? 先生は、とても高価な背広を着ておられたのですが」
と、いかに納得が出来ないように言った。
「その点に関しては、まだ何も分かっていないのですよ。それが分かれば、捜査は前進すると思うのですが」
と、高野刑事は冴えない表情で言った。
すると、明美は、
「私はやはり、先生の死には、浮浪者が関わってると思いますね」
と、眼をキラリと光らせては言った。
「浮浪者ですか……」
高野刑事は呟くように言った。
「そうです。浮浪者です。浮浪者は先生を殺してから、先生の衣服を奪ったのではないですかね。浮浪者の恰好では、電車には乗りにくいでしょうからね。要するに、目立ってしまうわけですよ。つまり、逃げにくいというわけですよ。それに、私はこの辺りで、時々、浮浪者を眼にしたことがありますよ。それ故、先生は浮浪者と何らかのトラブルを起こしてしまったのではないでしょうかね。そして、その結果、殺されてしまったというわけですよ」
と、明美はその可能性は充分に有ると言わんばかりに言った。
そう明美に言われると、高野刑事もその可能性は充分に有りそうだと思った。
しかし、
「でも、国松さんの死亡推定時刻は、午前二時から三時なのですよ。国松さんがこの店を後にしたのは、午後十時半頃ですよね。
となると、時間が空き過ぎていると思うのですよ」
と、高野刑事はその明美の推理には、欠点があると言わんばかりに言った。
すると、明美は黙ってしまった。
すると、カオルが、
「先生は浮浪者と話し込んでしまったのではないですかね。お酒を飲んでおられたわけですから、つまらないことでも、長々と話し込んでしまったかもしれません。
そして、午前二時頃になって、トラブルが発生したというわけですよ」
と、眼をキラリとはからせては言った。
そうカオルに言われると、高野刑事は言葉を詰まらせた。確かに、そういった可能性は充分にあると思ったからだ。
しかし、今のところ、それを裏付ける証拠は何もない。
それで、高野刑事は話題を変えることにした。
「国松さんがこの店で飲んでいることは、国松さん以外に誰か知っていたでしょうかね?」
「さあ……。そのようなことまで、分からないですね。国松さんはそのようなことまで、何らおっしゃっていませんでしたから」
と、明美に言われたので、高野刑事はこの辺で、「茜」を後にすることにした。
重秀が亡くなる以前に飲んでいた銀座のクラブが「茜」であることは分かったが、それ以上の成果を得ることは出来なかった。
しかし、カオルが言ったように、やはり、高野刑事も重秀の死には、銀座周辺を塒にしている浮浪者が関わってるという思いを強くした。
そして、高野刑事は署に戻ると、高野刑事の捜査結果を宗方に報告したのであった。