第五章 容疑者特定
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高野刑事の報告を受けるまでもなく、重秀の死は、銀座周辺を塒にしている浮浪者が関係しているということは、容易に察せられた。
それで、宗方たち捜査陣は、銀座周辺を塒にしている浮浪者の捜査に取り掛かった。
その捜査と共に、浮浪者以外の線、即ち、重秀自身に対する怨恨といった線からも捜査してみることにした。重秀が浮浪者の恰好をして死んでいたのは、犯人が浮浪者であると思わせる偽装工作が行なわれた可能性もあるからだ。
それ故、まず、重秀の友人であった者に聞き込みを行ってみることにした。そして、まず聞き込みを行なったのが、M大の秋元教授であった。
宗方はM大にまで行き、そして、秋元の研究室で、秋元から話を聞くことになった。
「国松さんの死に心当りないですかね?」
と、宗方はまずそう言った。
「全くないですね」
宗方の問いに、秋元は間髪を入れずに言った。
「そうですかね。でも、死ぬ前の国松さんは、秋元さんのことに関心を抱いていたみたいですよ。銀座の『茜』で飲んでいた時に、ホステスに秋元さんのことをしきりに訊いていたみたいですからね」
と、高野刑事から入手した話を話した。
すると秋元は、
「僕は何故国松さんが『茜』で飲んでいた時に、僕がその前日に『茜』で飲んでいた時の様子をホステスに訊いたのか、その理由が皆目分からないですね」
と、渋面顔で言った。そして、
「でも、僕が愉しそうにしていた理由が株で儲けた為だと知り、国松さんは嬉しそうに笑ったのですね?」
「そうです」
「だったら、国松さんは僕に関して何か疑念を持っていたのかもしれませんね。ところが、株で儲けたと訊いて、その疑念が晴れたのかもしれませんね」
と、秋元は眉を顰めては言った。
「成程。では、秋元さんは国松さんから疑念を持たれるようなことを何かやったのですかね?」
宗方は興味有りげに言った。
「いや。そのようなことは、まるで心当りないのですよ。何しろ、僕は国松さんと国松さんが亡くなる三日前に、新宿の飲み屋で飲んだばかりですから」
と、秋元は些か納得が出来ないように言った。
「では、その時、秋元さんは、国松さんと何らかのトラブルは発生しなかったのですかね?」
宗方は秋元の顔をまじまじと見やっては言った。
「そのようなものは、全く発生しませんでしたね。
それどころか、その時に、お互いに今まで口に出さなかったようなことを話し合い、お互いの友情を確認した位なのですよ」
と、秋元は眼を大きく見開き、力強い口調で言った。
「ほう……。そういうことですか。で、もしよろしければ、今まで口に出さなかったようなことというものを、話していただけないですかね?」
宗方は興味有りげに言った。
何しろ、重秀が死ぬ直前の状況のことを宗方は少しでも知りたかったのだ。そうすることにより、事件解決に繋がることも有り得るのだ。
すると、秋元は躊躇するような仕草を見せた。
それで、宗方は、
「その話は、無論、ここだけの話ですよ。公にするようなことは、無論ありませんから」
と、いかにも穏やかな表情と口調で言った。
それで、秋元は〈仕方ない〉と言わんばかりの表情を浮かべては、超古代史に関して、重秀と話した内容を少しずつ、話し始めた。
宗方はその秋元の話にじっくりと耳を傾けていたのだが、秋元の話が全部終わらない内に、
「それに関する話は、国松さんは『茜』で飲んでいる時に、『茜』のホステスに話したらしいのですよ」
と、淡々とした口調で言った。
「ほう……」
「恐らく、酔いの勢いに任せて、今までの胸の痞えをホステテスたちに話してしまったのかもしれませんね。
でも、そのことは、国松さんの死には、関係ないと思いますね」
と言っては、宗方は小さく肯いた。
すると、秋元は、
「いや。僕は必ずしも、そうは思わないですよ」
と言っては、眉を顰めた。
「それは、どういうことなんですかね?」
宗方は思わず好奇心を露にしては言った。
「つまり、我々の世界では、その超古代史に関して語るのはタブーなんですよ。そのようなとを大学で話したりすれば、職を追われてしまうかもしれないのですよ。
それ故、僕たちは親しい者たちの中でも、そのようなことは、滅多に口に出さないのですよ。
そういう状況なんですが、もしもですよ。
もし、国松さんが『茜』のホステスたちにその超古代史のことを話している時に、学界の関係者が偶然に居合わせ、国松さんの話に耳を傾けていたとしますよね。
いくら、酒の場だとはいえ、そのようなことに言及した国松さんのことを許せないという思いが生じても、不思議ではありませんよ。そして、国松さんが『茜』を後にした後、国松さんの後を尾け、先程の発言を取り消せと、国松さんを詰ったのかもしれません。
しかし、国松さんは酔っていたこともあり、それを認めようとはせずに、長々と口論となってしまい、遂に午前二時になってしまった。そして、その頃、相手は国松さんのことを『分からず屋め!』という具合にナイフで刺したというわけですよ。
無論、最初から国松さんのことをナイフで刺そうと思っていたわけではありません。要するに、衝動的に国松さんのことを殺してしまったというわけですよ」
と、秋元は興奮の為か些か声を上擦らせては言った。
すると、宗方は、
「しかし、そのような学問的な見解の相違で、学者という人は殺しを行なったりするものですかね?」
と、些か納得が出来ないように言った。
すると、秋元は、
「そりゃ、学者という者は、随分とせせっこましいですからね。例えば、自分が研究してるものを同僚に見せたり教えたりしないことも、往々にしてあるのですよ。
そういった状況なので、学問的な争いが高じて殺しが発生しても、僕は別に不思議ではないですね」
と言っては、小さく肯いた。
「そうですか。でも、その秋元さんの推理だと、国松さんが『茜』で飲んでいた時に、国松さんの同業者が居合わせていなければならないですよね」
「まあ、そういうわけです。それ以外としても、国松さんが『茜』を後にした後、銀座で偶然に顔を合わせてしまったいう可能性もあります。そして、何故か分からないですが、その者と国松さんが超古代史のことで言い争いになってしまい、トラブルが発生したというわけですよ」
と、秋元はその可能性も充分に有り得ると言わんばかりに言った。
「では、何故国松さんは、浮浪者の恰好をして死んでいたのだと思いますかね?」
そう宗方に言われると、秋元の言葉は詰まった。
だが、やがて、
「それは、分からないですね」
と、決まり悪そうに言った。
宗方は秋元と話してみて、秋元の推理は現実味に乏しいと思った。古代の歴史がどうであれ、その意見の食い違いで、たとえ学者といえども、殺すという行為にまで発展しないと思ったのだ。
それで、それ以外のケースで何か心当りないかと、秋元に訊いてみた。
しかし、特に無いであった。
それで、宗方はこの辺で秋元に対する聞き込みを終え、重秀が勤務していたN大に行っては、重秀の同僚であった教授たちから話を聞いてみた。
しかし、成果を得ることは出来なかった。誰もかれもが、重秀の死に関して何ら心当りないと証言したからだ。
そういった状況ではあったが、今度は大野学部長から話を聞いてみることにした。
宗方は学部長室で、重秀が殺されたことや、重秀が死んでいた時の状況を改めて大野に説明し、そして、重秀の死に関して、何か心当りないか、訊いてみた。
だが、大野の返答は、他の教授たちと同じく「無い」であった。
それで、宗方は失望したような表情を浮かべたが、この時、他に言及することもなかったということもあり、重秀が密かに超古代史なるものを支持し、そのことを知った学界の関係者と夜の銀座の街で鉢合わせしてしまい、口論になった挙句、カットした相手に刺殺されてしまったのではないかという推理を話した。
もっとも、宗方としては、そのような可能性は極めて低いと思っていたのだが、他に言及することがなかったということもあり、そう言ったのである。
すると、大野は気難しげな表情を浮かべては、何やら考え込むような仕草を見せた。
その大野の様は意外であった。何故なら、大野はそのようなことは、重秀の死には全く関係無いと、即座に否定すると思っていたからだ。
大野が何やら考え込むような仕草を見せては、なかなか言葉を発そうとはしないので、宗方は思わず身を乗り出し、
「それに関して何か思うことがあるのですかね?」
すると、大野は、
「うーん」
と、唸り声のような声を発した。
そんな大野に、
「どんな些細なことで構いませんから、何か気付いたことがあれば、遠慮なく話してくださいな」
と、宗方がいかにも真剣な表情で言ったので、大野は、
「実はですね。国松君のことをその超古代史を信じている危険な人物だと、僕に密かに知らせて来た人物がいたのですよ」
と、決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「密かに、ですか……」
「そうです。というのも、我々の間では、その超古代史に関して言及したり、また、研究したりすることは、タブーなのですよ。そのような世界が有り得るわけがないのですからね。それ故、そのようなことを信じてることが明らかになれば、職を追われてしまうことも有り得るんですよ。だから、我々は超古代史なるものに関しては、怖くて議論することすら出来ないという有様なんですよ。
そういった状況なんですが、国松君は新宿の飲み屋で友人と飲んでいる時に、盛んにその超古代史に関して言及し、そして、超古代史の方が、今の教科書に書かれている歴史よりも正しいと主張してるのを密かに耳にしていた者がいたのですよ。
そして、その者が、僕に密告して来たというわけなんですよ。
それを受けて、僕は国松君をこの部屋に呼出し、真意を訊いたのですが、国松君はその超古代史なるものを支持してるということをあからさまに否定しましたね。そして、その日が、国松君が銀座のクラブで飲んだ日にあたるというわけですよ」
と、大野は淡々問した口調で言った。
「成程で、大野さんにそのことを密かに知らせて来たという人物は、何という人物なんですかね?」
宗方はとにかくそう訊いた。
もっとも、その者が重秀を殺したとまでは思ってはいなかったのだが、確認しておく必要はあると思ったのだ。
すると、大野は渋面顔を浮かべた。そんな大野は、その人物のことに言及したくないと言わんばかりであった。
そんな大野に、宗方は、
「捜査に協力してくださいな」
と、まるで大野に訴えるかのように言った。
それで、大野は渋面顔を浮かべては、その人物のことを話した。そして、その人物は、K大学教授の大河内研三という東洋史の教授であったのだ。
そんな大野に、宗方は、
「国松さんの死には、その超古代史なるものが、関係してると思いますかね?」
と、訊いてみた。
すると、大野は、
「分からないですね」
と、渋面顔を浮かべては言った。
それで、宗方はこの辺で大野に対する聞き込みを終え、今度はK大学に向かった。大河内教授からは話を聴く不必要があると思ったのだ。
2
大河内には事前に連絡してあったので、宗方はK大に着くと、大河内の研究室に事務員から案内された。
大河内はM大の秋元たちと同様、いかにもインテリ然とした容貌であった。
そんな大河内に宗方は来訪の旨を話すと、大河内は、
「僕は国松さんの死に関しては、全く心当りないのですよ」
と、素っ気なく言った。
「でも、大河内さんは国松さんが亡くなる三日前に、新宿の『銀河』という店で国松さんが友人と話しているのを盗み聞きされたわけですよね?」
すると、大河内は渋面顔を浮かべては、
「盗み聞きという言い方は失礼ですよ。僕は国松さんのことはよく知っていましたから、カウンターで飲んでいた国松さんに一声掛けようとしたのですがね。でも、国松さんは隣の席に座っている友人と何やら熱心に話し込んでいたので、それで、僕が声を掛けるのを遠慮したのですよ。
そして、背後のテーブルに腰を下ろしたのですが、すると、国松さんたちの話が自ずから耳に入って来たのですよ。それだけのことなのですよ」
と、大河内は決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「成程。でも、大河内さんはその時の国松さんが話した内容を国松さんの大学の学部長に話したのですよね?」
と、宗方は大河内の顔をまじまじと見やっては言った。
すると、大河内は国松から眼を逸らせては、
「まあ、そういうわけですが……」
と、決まり悪そうに言った。
「大河内さんたちは、その説、つまり、超古代史なる説をタブー視してるのですよね?」
「そうですね」
「となると、そのような説を支持することは、大河内さんたちに対する裏切りとなるわけですよね?」
「まあ、そうです」
「となると、そのような説を支持している国松さんのことを、大河内さんは許せなかったのではないですかね?」
と、宗方は大河内の顔をまじまじと見やっては言った。
「許せないというよりも、そのような危険な説を信じているということ自体が問題なのですよ。それ故、僕は学部長に話したわけですよ。僕は当然の行為をしたまでですよ」
と、大河内は憮然とした表情で言った。
そんな大河内は、宗方は、
「では、大河内さんは、六月二日の午前二時から三時頃、何処で何をしておられましたかね?」
と、とにかく重秀の死亡推定時刻の大河内のアリバイを確認してみた。
すると、大河内は、
「その時は、僕の家で眠りの最中でしたね」
と、何ら表情を変えずに淡々とした表情で言った。
その大河内の返答は、予めそう予想出来ていたものなので、宗方は渋面顔を浮かべると、そんな宗方に、大河内は、
「その頃が、国松さんの死亡推定時刻というわけですか」
と、些か不満そうな表情を浮かべては言った。
「まあ、そうですね」
「何故僕が国松さん殺しの犯人として疑われなければならないのですかね?」
「ですから、国松さんが銀座のクラブで飲んでいた六月一日の夜、大河内さんも銀座の何処かのクラブで飲んでいたとします。そして、お互の帰りに偶然に鉢合わせしてしまったしますよね。
そして、その時に超古代史の話となり、その話はやがて口論になり、午前二頃に話はトラブルとなり、かっとした大河内さんはナイフで国松さんを刺したというわけですよ。
国松さんの死体が後になって浮浪者の服装で見付かったというのは、後になって辺りにいた浮浪者が自らの衣服と取り換えたのかもしれませんからね」
と、宗方はとにかくその推理を述べた。
すると、大河内は、
「馬鹿な!」
と、吐き捨てるかのように言った。そして、
「大体、僕は六月一日に、銀座で飲んでいませんよ。午後六時頃、大学を後にした後、真っ直ぐに家に帰りましたからね。それに、僕は人を殺せるようなナイフを常日頃、鞄の中に持っていませんよ」
と、声を荒げては、いかにも不快そうに言った。
そんな大河内を眼にして、宗方は、
「このことは、飽くまで想像上での話で、具体的な証拠は何もないのですよ。ですから、気を悪くしないでくださいな」
と、大河内に対して、いかにも申し訳ないと言わんばかりで言った。
だが、大河内の表情は、和らぎそうにもなかった。
そんな大河内に、宗方は、
「では、大河内さんは国松さんが超古代史のことを支持していたことを、大野さん以外の誰かに話したことはありますかね?」
すると、大河内は、
「いや。大野学部長以外には、誰も話していませんね。
もっとも、大野学部長や、国松さんと話していた友人が、誰かに話していたかもしれませんからね。でも、それに関しては、僕では皆目分かりませんよ」
と言ったので、この辺で宗方は大河内に対する聞き込みを終え、K大学を後にした。そして、結局、重秀が超古代史を支持していたことが絡んで事件が発生したという可能性は、一層現実味が無いという感触を得た。
3
その一方、銀座の「茜」周辺を塒にしている浮浪者に聞き込みを行なっている高野刑事たちは、有力な情報を入手していた。
それは、重秀の死体が発見された周辺で度々眼にされていた中年の浮浪者が、重秀の事件が発生して以来、急に眼にされなくなったという証言を入手したからだ。
そう高野刑事に証言したのは、新橋界隈で、路上暮らしを行なっている自称山田五郎という六十歳の浮浪者であった。
「雑居ビルと雑居ビルに挟まれた狭い空間、つまり、国松さんの死体が見付かった場所に、最近、見慣れない浮浪者が住みついていたのを僕ははっきりと覚えていますね」
山田は高野刑事の問いに、些か声を上擦らせては言った。
「見慣れない浮浪者?」
高野刑事は好奇心を露にしては言った。
「そうです。見慣れない浮浪者です。何しろ、僕はこの新橋界隈で浮浪者暮らしをするようになって、一年以上になります。これだけの期間になると、辺りに住みついている浮浪者のことは、自ずから分かって来ますよ。
で、国松さんが殺された二週間程前から、その場所に浮浪者がいたことを僕ははっきりと眼にしてるのですよ」
と、山田は眼を大きく見開いては言った。
「それは、間違いないかい?」
「間違いないですよ。僕はこの辺りの浮浪者のことは、殆ど知っていますからね」
と、いかにも自信有りげな表情と口調で言った。
そう山田に言われ、高野刑事は、
「ふむ」
と言っては、眼をキラリと光らせた。というのも、重秀が発見された場所に浮浪者がいたということと、重秀の事件があってからその浮浪者の姿が消えたということから、その浮浪者が重秀の事件に関わってる可能性は充分にあると思ったからだ。
それで、高野刑事は、
「その浮浪者の名前なんかは、分かりますかね?」
と、まるで山田の機嫌を取るかのように言った。
だが、山田は、
「いや。そこまでは分からないな」
「じゃ、その浮浪者に関して、何か情報を持ってそうな人物に心当りないですかね?」
「この辺で路上暮らしを行なっている者に当ってみてもいいですがね」
と、山田がいかにも物欲しげな様を見せては言った。
それで、高野刑事は僅かばかりの小遣いを渡した。
山田は嬉しそうにそれを上着のポケットに入れると、
「じゃ、今から心当りある浮浪者に当ってみますよ。で、何かいいネタがあれば、刑事さん連絡しますよ」
ということになり、高野刑事は高野刑事の名刺を山田に渡した。
そして、高野刑事は一旦署に戻ったのだが、その三時間後に山田から電話が入った。山田はその浮浪者に関して情報を持っている浮浪者を見付け出したという。
それを受けて、高野刑事は山田が待機している場所に直ちに向かった。
その場所は、新橋駅から少し離れた列車のガード下であった。
高野刑事が山田が指示したその場所に駆けつけると、山田より一層浮浪者らしい浮浪者がそこにいた。
その浮浪者は六十位で、その傍らには、段ボールが積まれたおんぼろリヤカーが置かれていた。
山田は高野刑事の姿を眼に留め、そして、高野刑事は山田の傍らにまで来ると、山田はその浮浪者に、
「こちらが刑事さんだよ」
と、穏やかな表情と口調で言った。
すると、浮浪者は、
「あんたかい? 国松とかいう人物の死体が見付かった場所で、夜を明かしていた浮浪者のことを知りたいという刑事さんは?」
と、素っ気ない口調で言った。
それで、高野刑事は、
「ああ。そうだ」
すると、浮浪者は、
「いい情報を提供したら、お金をくれるのかい?」
そう言った浮浪者の表情は、かなり真剣なものであった。
「そりゃ、勿論払うさ」
そう言わないと、浮浪者は何も話してくれないと思ったのだ。
すると、浮浪者は些か納得したように肯いては、
「僕は国松さんが殺される五日前に、国松さんが死体で見付かった裏通りの道を通ったんだよ。確か、午後八時頃のことだったな。
すると、その浮浪者はやはりそこにいたよ。
で、僕はその時、その浮浪者に声を掛けなかったんだが、その三日後、つまり、国松さんが殺された二日前に、僕はその浮浪者に声を掛けたんだよ。そして、しばらくの間、ざっくばらんに話したんだよ。何しろ、僕たち浮浪者は、皆、仲間みたいなものだからな。だから、何ら蟠り無く話せるというものなんだよ。
で、僕たちは最初は他愛ない話をしていたんだが、やがて、その浮浪者は、自らの身の上話を話し始めたんだよ。
それによると、その浮浪者は九州生まれで、十年前から東京で暮らし始めたそうなんだよ。また、てて無し子だとも言っていたな。
でも、その父親は偉い学者で、また、資産家で、その父親がバ―のホステスをしていた母親を手込めにした結果、その浮浪者が生まれたそうなんだ。
そして、九州では職を転々としていて、東京に出て来てからは、飲食店で皿洗いなんかをやっていたが、同僚に貸した金を返してもらえずに、その同僚が姿を消してしまい、そういったこともあり、また、金も無くなってしまったりして、人生が嫌になり、浮浪者になったと言ってましたよ」
と、いかにも自信有りげな表情と口調で言った。その浮浪者は、正に有力な情報を提供してやったんだと言わんばかりであった。
浮浪者にそのように言われ、高野刑事は、
「成程」
と、些か納得したようにう言った。何故なら、今の浮浪者の説明で、何故その浮浪者が浮浪者になったのか、その理由が凡そ察せられたからだ。
しかし、それだけでは、役に立つ情報とはいえないだろう。
それで、
「じゃ、その浮浪者の名前なんかは、分からないのかい?」
「そこまでは分からないな。俺たちは通常、名前なんかは名乗らないからな。山田さんだって、偽名なんだろ?」
と、山田を見やっては言った。
すると、山田は、
「まあ、そういうわけさ」
と言っては、苦笑した。
「そうか。じゃ、今、その浮浪者が何処にいるか、分からないかい?」
「そこまでは分からないな。しかし、そいつは、国松さんの死体が見付かった日から、姿を消したんだ。ということは、そいつが犯人じゃないのかな。そして、国松さんの衣服を奪っては、何処かに姿を晦ましたというわけさ。何しろ、浮浪者の恰好では、目立ってしまい、とても逃げ切れるわけではないからな」
と、浮浪者はいかにもそうに違い無いと言わんばかりに言った。
また、高野刑事もそれが真相だと思った。
しかし、その浮浪者の手掛かりがなければ、話にならない。
それで、
「その浮浪者は、銀座で浮浪者暮らしをするまで、何処で何をしていたか、分からないのかい?」
と、高野刑事はいかにも真剣な表情を浮かべては言った。
「だから銀座で浮浪者暮らしを始めるまでは、東京の飲食店で皿洗いとかコックをやってたんですよ。そして、同僚に貸した金を返してもらえずに、その同僚はとんずらしてしまい、人生が嫌になって浮浪者暮らしを始めたんですよ。しかし、それ以上のことは分からないよ」
と、浮浪者は些か不満そうに言った。
「じゃ、その浮浪者の年齢とか身体付きは分かるかい?」
「年齢は、四十代ではなかったですかね。身体付きは、ごく普通でしたが、やや猫背で痩せていましたね。充分に飯を食べていないのだろうよ」
と、浮浪者は開き直ったような表情で言った。そんな浮浪者は、その浮浪者と、俺も同じだと言わんばかりであった。
「じゃ、その浮浪者の似顔絵は描けるかな」
「似顔絵か……。俺は今まで似顔絵なんか、描いたことはないな」
と、浮浪者はいかにも決まり悪そうに言った。
「もし、よければ描いてもらえないかな」
と、高野刑事は浮浪者に色鉛筆と紙を渡したので、浮浪者はそれを手にしては描き始めたのだが、結局うまく描くことは出来なかった。また、高野刑事も同様であった。
それで、高野刑事はその浮浪者に少しばかりの謝礼金を渡し、その場を後にした。そして、一旦、署に戻ることにした。
4
そして、高野刑事は捜査結果を宗方に話した。
すると、宗方は、
「恐らく、その浮浪者がそう言ったように、国松さんがいたという場所にいたその浮浪者が、事件に関係していると思うな」
と、些か険しい表情を浮かべては言った。
「つまり、その浮浪者が、国松さんを殺したというわけですか」
高野刑事は眉を顰めては言った。
「まだ、断定は出来ないさ。しかし、何らかの関係はあると思うな」
と、宗方も眉を顰めては言った。
「では、もし殺したとすれば、何故殺したのでしょうかね?」
「そりゃ、何らかのトラブルが発生したんだろうよ」
と、宗方は決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
「でも、その浮浪者を突き止める手段がないのですから、どうにもならないですね」
と、高野刑事は冴えない表情で言った。
「正にその通りだ。年齢とか身体付きだけでは、どうにもならないよ」
と宗方は言っては、二人の間で少しの間、沈黙の時間が流れたのだが、やがて、宗方は、
「以前も指摘したことがあるんだが、浮浪者が一般市民を殺したという事件は、あまり発生したことがないんだよ」
と、渋面顔で言った。
「つまり、逆のケースはあるが、浮浪者が加害者となるケースはあまりないというわけですね?」
「そうんだよ。それ故、その浮浪者は、ひょっとして、国松さんの知人ではなかったのかな」
そう言っては、宗方は眼をキラリと光らせた。宗方はその可能性は十分にあると思ったのだ。
「その為に、国松さんとその浮浪者は、路上なんかで話し込み、午前二時になってしまったんだ! そして、その頃にトラブルが発生し、浮浪者は国松さんを刺殺してしまったんだ! その可能性は充分に有り得るさ!」
そう言った宗方は、早速、重秀の遺族に聞き込みを行なってみることにした。
件の浮浪者は、九州で生まれ、三十位までは職を転々としながら九州で暮らし、その後、東京に出て来ては、飲食店なんかで皿洗いとか、コックなんかをやっていたことが分かっている。
更に、その出生の経緯も分かっている。これだけの情報があれば、重秀の遺族から何らかの情報を入手出来るかもしれない。
宗方はそのような思いを抱いては、高級住宅街にある国松邸に向かったのであった。