第七章 驚愕

     1

 時間はかなり前に戻るが、菊川秀明は、重秀に秀明の要求が受け入れられ、自らの襤褸着を脱ぎ棄てては、重秀の高価な背広を身に付けると、まるで欲しかった玩具を父親から与えられた子供のように、浮き浮きした気持ちで、銀座の大通りに踏み出した。今までの襤褸着では、裏通りしか歩けなかったのだ。
 しかし、今は少し前の秀明ではないのだ!
 重秀の高価な背広を身に付けていれば、擦れ違う人々が、軽蔑と好奇の表情を浮かべては、秀明のことをじろじろと見たりはしないというものなのだ。
 更に、背広に染み付いたオーデコロンの匂いが、一層秀明の心を浮き浮きとさせた。秀明は正に、夜になると活動を始めるこうもりのように、今、眠っていた力を爆発させたのだ! 
 そして、銀座のとある高級ホテルの前にある自動ドアの前に立ち止まった。 
 すると、自動ドアは、まるで秀明のことを待っていましたと言わんばかりに、開いた。
 それで、秀明はまるで滑り込むかのようにして、中に入った。ロビーの床は、まるでふかふかとした深紅の絨毯が敷き詰められ、その吹き抜けのロビーの天井には、まるで無数のダイヤモンドが煌めいてるかのようなシャンデリアがぶら下がっていた。
 また、ロビーの隅の方には、人造池が辺りに涼しげな雰囲気を醸し出していて、人造池からは、人の高さ程の噴水が噴き上げていた。
 秀明は早速フロントに行って、宿泊の申し込みをしようと思ったが、自らの顔や髪が汚ないのが気になった。いくら高価な背広を身に付けているからといっても、顔や髪が乞食のように汚れていれば、フロントは秀明に不審な思いを抱くかもしれない。通行人は秀明の顔を間近で見たわけではないから、秀明に不審感を抱かなかっただろうが、フロントなら、話は別だ。
 それで、秀明はトイレが近くにあることを眼に留めると、早速トイレに行き、洗面所の鏡で、自らの顔を見入った。
 すると、秀明は忽ち渋面顔を浮かべた。何故なら、秀明の顔は、秀明が心配していた通り、まるで浮浪者そのものであったからだ。
 それなのに、こんな高価な背広を身に付けていれば、それは正にアンバランスというものであろう。そんな秀明のことをフロントは不審者と看做し、警察に通報するかもしれない。
 秀明は別に悪いことをしたわけではないので、警察を恐れる必要はないのだが、しかし、余計な疑いを持たれることは、避けた方が無難だ。
 それで、今、洗面所に人がいないのを幸いとばかりに、秀明は洗面所で顔を洗った。
 浮浪者の恰好をしていた時は、こういった高級ホテルに出入りすることは、許されなかった。もし、中に入ってしまえば、警備員が疾風のようにやって来ては、まるでゴミを放り出すかのように、秀明はホテルの外へと、追われてしまったことであろう。
 それ故、秀明は駅のトイレとか公園のトイレでしか、顔や手を洗えなかったのだ。それも、人がいない時を見計らってだ。
 その時と比べれば、今は雲泥の差というわけだ。
 それはともかく、秀明は入念に顔を洗った。それによって、顔に付いていた汚れは、取れたようだ。
 しかし、髪とか髭は、伸び放題のままであった。だが、意図的に髭を伸ばしている人もいる。
 それ故、髭のことは問題ではないかもしれないが、髪の汚れはどうにもならないであろう。
 しかし、高価な背広を身に付けているから、何とかなるだろうと思い、秀明は思い切ってフロントに行き、宿泊の申し込をした。
 だが、特に不審がられることはなく、また、秀明が高層階の部屋を希望したので、十五階の部屋と決まった。
 それで、秀明は宿泊料を払い、申し込みをした。一泊朝食付きで、三万五千円の部屋であった。
 秀明は宿泊カードに、以前住んでいた九州のアパート近くの適当な所在地と偽名を記入した。
 フロントマンはそれを訝しがることもなく、丁寧に「ありがとうございます」と言っては、頭を下げ、秀明に部屋のキーを渡した。
 ルームキーを受け取ると、秀明は早速エレベーターで十五階にまで行った。エレベーターは、シースルーエレベーターであった。そして、それは滑るように上昇を始めた。秀明は今、もう何十年も感じたことのないような快感を感じていた。この快感は、決してこの一時で終わりにしたくないと思った。
 秀明の部屋、即ち、1505室の中に入ると、秀明は身体をくねくねとさせては、小躍りした。秀明は、喜びを全身で現しているのだ。
 秀明はこんな豪華な部屋で、そして、こんなにふかふかのベッドで眠れるのは、生まれて初めてという塩梅であった。
 秀明はやがて窓際に行った。
 すると、そこからは、不夜城とも思える銀座の街並みを眼にすることが出来た。ビルが放つイルミネーションとか街灯が放つ光などが作り出す光景は、正に人間が造り出した眩い芸術作品であるかのようであった。
 秀明はその光景に、しばらくの間、眼を凝らしていたのだが、やがて、秀明の表情は、陰鬱なものへと変貌した。何故なら、秀明がこのような思いを出来るのは、今夜限りであることを思い出したからだ。
 何しろ、秀明は金が無い。金が無いから、賃貸アパートすら借りることが出来ないのだ。
 そんな秀明の未来は、真っ暗だ。秀明の未来は、野良犬のように、野垂死にするしかないかのようなのだ。
 そう思うと、秀明の表情は、陰鬱にならざるを得ないのだ。
 秀明はしばらくの間、陰鬱な表情を浮かべては、まるで時が経つのも忘れたかのように、銀座の夜景に見入っていたのだが、その時、秀明の表情は、突如、強張った。というのは、やはり、あの手しかないと、閃いたからだ。
 あの手とは、徳三に認知を迫ることだ。認知されれば、徳三の遺産相続人になることが出来るのだ。そうなれば、秀明に莫大な遺産が転がり込むというわけだ。そして、その遺産の前渡しを要求するというわけだ。
 そして、その要求が通らないのなら、あの手、即ち、秀明の出生の秘密をばらされたくなければ、金をくれを使うしかないだろう。秀明としては、その手を使うことに気が退けたのだが、今はそのような感情に動かされている場合ではないのだ。
 そう決意すると、秀明の表情は、甚だ険しいものへと変貌した。そして、秀明はその決意を決して翻そうとはしなかったのである。
 そして、秀明はこの時点で風呂に入ることにした。本体ならこの室に入れば、真っ先に風呂に入って汚れた身体を洗わなければならなかったのだが、この豪華な室内の雰囲気とか眼下に拡がる銀座の夜景に魅了されてしまい、つい風呂に入ることが、後回しになってしまったのだ。
 そんな秀明は、浴槽にたっぷりと湯を入れると、満面に笑みを浮かべながら、その汚れた身体を浴槽に浸したのだ。
 そういう風にして、秀明は夜を過ごしていたのだが、風呂上りの秀明の不満は、腹が減っていることと、下着が汚れているということであった。
 それで、身体を綺麗にした後、レストランで食事をすることにした。汚れた身体では、レストランに入ることが出来なかったからだ。 
 そして、レストランで久し振りに美味い食事を済ませると、疲れが一気に押し寄せ、ベッドの上に横になると、そのまま眠りに落ちてしまったのであった。

     2

 やがて、秀明は眼が覚めた。久し振りにぐっすりと深い眠りにつけた。それ故、秀明は身体に快感を感じたのだが、枕元のクロックに眼をやった。
 すると、午前七時を少し過ぎていた。
〈いけない!〉
 秀明の表情は一気に強張った。何故なら、秀明は昨夜の重秀との約束を思い出したのだ! 昨夜、重秀と午前七時までに重秀の許に戻ると、約束したのだ! しかし、今はもう午前七時を過ぎてしまったのだ!
 秀明は昨夜、目覚まし時計をセットするのを忘れていたのだ!
 このまま、重秀の許に戻らずまだまだ眠っていたいというのが、秀明の本音であろう。
 しかし、重秀との約束を破るわけにはいかないのだ。そのようなことをしてしまえば、重秀への心証を悪くしてしまい、今後の秀明にとって何かと都合の悪い事態が発生してしまうことになり兼ねない。また、秀明の事を信頼して、重秀は秀明の申し出を承諾してくれたのだ。そんな重秀のことを裏切ることは出来ないというものだ。
 それで、秀明は重秀から借りた高価な背広を素早く身に付けた。
 そんな秀明は、昨夜までの秀明とは見違える程、清潔であった。髪は綺麗に洗髪されていたし、髭も無論、綺麗に剃り落とされていたのだ。
 だが、今はそんな変貌した秀明の様を鏡でじっくりと見入っている余裕はないのだ。何しろ、重秀が秀明が戻って来るのを首を長くしては待っているに相違ないのだ。
 それ故、秀明は朝の銀座の光景を窓から眺めることもなく、1505室を後にした。
 そして、朝食を食べることなく、チェックアウトを済ませ、朝の銀座の大通りへと踏み出した。
 まだ午前七時を少し過ぎたばかりということで、後一時間もすれば、数多く見られるであろうサラリーマンたちの姿は、まだちらほらで、また、車の往来も昼間と比べれば、まだまだ少なかった。
 それはともかく、秀明は足早で、秀明が待っている場所に向かった。
 本来なら、これから始まるであろう浮浪者暮らしに、意気消沈してしまうところなのだが、今はそのようなことを思っている余裕などなかった。秀明は今、一刻も早く、重秀が待っている雑居ビルと雑居ビルに挟まれた狭い場所に戻らなけれならないのだ。
 そして、足早で歩いた為か、重秀が待っている場所に着いたのは、七時二十五分であった。
 それは思っていたよりも早く着いたという感じであった。そして、これだけの遅れであれば、重秀は許してくれるだろうと思った。
 秀明がその場所に着いた時は、秀明は大きく息をついていた。
 そんな秀明は、雑居ビルと雑居ビルとの間にある狭い空間に眼をやった。
 すると、そこには確かに重秀と思われる人物がいた。
 だが、秀明は忽ち、困惑したような表情を浮かべた。何故なら、重秀の様子が何となく妙であったからだ。
 重秀はこの場所に座っては、まるでわしのような鋭い眼で通りを歩いている人物を窺い、そして、秀明が現われれば、「何をしてたんだ! 約束の時間を過ぎてるじゃないか!」と秀明のことを怒鳴り付けるのではないかと、秀明は覚悟していたからだ。
 だが、そんな秀明の予想はまるで外れたのだ。何しろ、重秀は地面の上にだらしなく寝そべり、秀明がこの場に着いてもう三十秒にもなるというのに、重秀には何の反応も見られないのだ。
 それで、秀明は〈人違いなのだろうか?〉と思った位であった。
 しかし、秀明はその人物が身に付けている衣服に見覚えがあった。それは、確かに、秀明が昨夜まで身に付けていた薄汚れた襤褸着であったのだ。
 それで、重秀は昨夜の疲れが残り、まだ眠っているのだと思った。
 そうはいっても、七時のこの場所に戻るというのが、秀明と重秀との約束であった為に、秀明はとにかく、重秀を起こすことにした。それに、重秀としても、早く元の背広を身に付け、一刻も早くこの場を後にしたいというものであろう。
 そう思った秀明は、重秀を起こすことに躊躇いはなかった。
 秀明は重秀の許にまで来ては、うつ伏せになって眠っている重秀に、
「兄貴! 起きてくださいよ!」
 と言っては、重秀の肩を揺り動かした。
 だが、重秀は何の反応も見せなかった。 
 それで、秀明は首を傾げてしまったのだが、それは、重秀が何の反応も見せなかったというよりも、重秀の身体が何となく硬直してるようであったからだ。
 とはいうものの、秀明は再び重秀の肩を揺り動かし、そして、上体を起こしてみようとしたのだが、その時、秀明は思わず、
「ぎゃ!」
 という声を上げては、重秀の身体を放してしまった。というのは、重秀の胸の辺りは血で赤黒く染まり、また、重秀の身体の下には、赤黒い血の染みが拡がっていたからだ。
 それで秀明は重秀の顔を注視したのだが、すると、重秀は苦悶の表情を浮かべ、また、白眼を剥いていた。そんな重秀が既に魂切れているのは、間違いなかった。
 そう! 重秀は死んでしまったのだ!
 そう察知すると、秀明の頭の中は真白となってしまい、しばらくの間、呆然とした表情でその場に立ち竦んでしまった。
 だが、やがて冷静になって来ると、重秀は何者かに胸を刺され、殺されたのだということを理解した。
 しかし、一体誰が……。
 その思いが、秀明の脳裏を過ぎった。だが、秀明は誰が重秀を殺したのか、まるで分からなかった。
 だが、重秀の死を警察に知らせなければならないと思い、公番に向かおうとしたのだが、そんな秀明の脚は自ずから止まった。
 というのは、秀明が重秀の死を警察に知らせれば、誰が真っ先に疑われるのかという思いが、秀明の頭の中に込み上げて来たからだ。
 秀明のことを少し調べれば、秀明が重秀の異母弟で、金に困り、銀座で路上暮らしをしていたということは、すぐに分かるだろう。
 更に、秀明が重秀の暮らしを羨ましがり、また、重秀たちが秀明のことを疎んじていたことは、すぐに分かるだろう。
 となると、そんな秀明と重秀が偶然に夜の銀座で鉢合わせしてしまい、話し込んでしまえば、やがてトラブルが発生し、秀明が重秀を刺殺してしまったいうストーリーが、自ずから出来上がることであろう。
 即ち、秀明は自ずから重秀殺しの犯人として逮捕されてしまうということである!
 しかし、そんなことは、真っ平御免だ!
 確かに、秀明は金に困っている。
 しかし、そうだからといって、人殺しをしようと思ったことは、これまでに一度もないのだ!
 にもかかわらず、殺人の疑いで逮捕されてしまうことが許されていい筈ない!
 しかし、今の状況では、その可能性が高いのだ!
 そりゃ、某ホテルで秀明が宿泊したことは、調べれば分かるだろう。
 しかし、某ホテルは、夜間に外出可能なのだ! それ故、警察は秀明が深夜に密かにホテルを抜け出し、事に及んだと看做すことであろう。
 そう思うと、秀明は自ずからその場を後にし、新橋駅に向かった。この恰好を見ても、秀明のことを不審に思う者は、誰もいないことであろう。それ故、今なら安心して、電車に乗れるというものだ。
 そう思った秀明は、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、新橋駅に向かった。
 そして、新橋駅に着くと、東京駅までの切符を買った。
 そんな秀明が今、思っていることは、福岡に戻るということであった。この際、故郷の福岡に戻り、重秀の事件のほとぼりが冷めるのを待つのが賢明だと思ったのだ。
 また、福岡には馴染みの者もいる。福岡から離れて何の付き合いもないが、訪ねて行けば力になってくれるかもしれないし、また、福岡なら土地勘もあるというものだ。
 だが、車窓から流れ行く光景を眼にしていると、秀明はとんでもないことを思いついてしまった。
 というのは、重秀が、重秀の妻に秀明のことを話していたのではないかということだ。昨夜の経緯、即ち、夜の銀座で異母弟の菊川秀明と鉢合わせしてしまい、秀明の衣服を着ては、一夜、秀明のように路上で夜を明かすことになってしまったということを、妻に話していたのではないかということだ。重秀はきっと携帯電話を持っていたに違いない。それ故、その可能性は、充分にあるだろう。
 となると、重秀の妻は、そのことを警察に話すであろう。
 そうなってしまえば、自ずから秀明は警察に重秀殺しの犯人として、真っ先に疑われるだろう。
 先程も思ったように、秀明と重秀たちとの確執は、調べれば分かることだ。それ故、秀明が重秀殺しの有力な容疑者として疑われるのは確実なのだ! 重秀の死を秀明が警察に知らせなくても、秀明は警察に疑われることになっているのだ。いくら秀明が懸命に弁解しても、秀明の経歴などからして、警察は秀明の主張を信じはしないだろう。
 そう理解すると、秀明の表情は、一層蒼白になってしまった。
 コック仲間にお金を貸してやる為にサラ金から金を借り、そして、そのコック仲間にとんずらされてしまい、その借金の返済を終えたかと思えば、仕事先の店が潰れてしまった。それ故、人生が嫌になり、路上生活者となった秀明だが、今は路上生活者になった時以上に、窮地に立たされたという状況なのだ。
 そう理解した秀明は、故郷の福岡に戻るのは、まずいと思った。
 というのは、福岡は秀明が三十年近く過ごした土地だ。それ故、警察は秀明が故郷の福岡に戻って来るのではないかと察知し、先手を打って、福岡の駅周辺で秀明のことを待ち伏せしてる可能性があったからだ。
 そう思うと、秀明は福岡に戻ることを断念した。そして、大阪に行こうと思った。というのは、秀明は大阪に土地勘があったからだ。
 秀明は三十の頃、職がなく、ぶらぶらしていたのだが、その頃、新天地を大阪に求め、大阪で暮らそうと思い、大阪を訪れたことがあったからだ。
 そして、その時、難波とか心斎橋、天王寺界隈をぶらぶらしたことがあったのだ。
 しかし、その時は、結局、大阪で暮らすことはなく、すぐに福岡に戻ったのだが、それでも、秀明はその時以外にも、青年時代より度々大阪を訪れたことがあり、大阪には土地勘が出来たのだ。
 やがて、秀明を乗せた列車は、東京駅に着いた。
 それで、秀明は一旦、八重洲口方面の改札口で降り、辺りで大阪に着いてからどのようにするか、少し考えてみた。
 しかし、適切な答えを見出すことは出来なかった。 
 だが、今は一刻も早く東京から離れなければならなかった。
 それで、新大阪行きの新幹線の切符を買い、福岡行きののぞみに乗車した。
 のぞみは程なく東京駅を滑るように後にした。
 車窓から流れ行く大都会の光景に眼をやりながら、やがて、秀明は眠りについてしまったのだ。

     3

 秀明が眼覚めたのは、静岡駅に近付いた頃だったが、その時、秀明の表情は、突如、強張った。何故なら、秀明はその時、とんでもない思いが秀明の脳裏を過ぎったからだ。
 そして、そのとんでもない思いというのは、こうである。
 秀明の異母兄である重秀は、秀明の申し出によって、秀明の襤褸着を着ては、秀明のように、一夜ではあるが、路上暮らしを経験した。
 それは、秀明が重秀に言ったように、一度でもいいから、重秀に秀明のように、路上暮らしをしてもらいたかったからだ。
 たとえ、母は違っても、同じ父の血を引いた弟が、いかに悲惨な思いをしているか、秀明は重秀に知ってもらいたかったのだ。
 そうすれば、秀明が、重秀や徳三に少し位無理を言っても、秀明のことを許してくれるのではないかと、秀明は思ったのだ。
 また、秀明の窮状を重秀や徳三が見兼ねて、救いの手を差し伸べてくれるのではないかという思いもあったのだ。
 そして、その秀明の思いを重秀が理解してくれたのかどうかは分からないが、重秀は秀明の申し出を受けてくれたのだ。そして、重秀は秀明の襤褸着を身に付け、秀明が寝泊まりしていた雑居ビルと雑居ビルとの間に挟まれた狭い場所で、一夜を過ごすことになった。いわば、その夜は、重秀は秀明になっていたのだ。
 だが、重秀はその夜、何者かに殺されてしまった。
 秀明が見たところによると、重秀は特に下手人と争った様子は見られずに、あっさりと殺されたかのようだった。
 重秀が秀明の襤褸着を着たまま、夜の銀座を歩いたという可能性は有り得ないだろう。重秀はあの場所で、夜が明けるのをじっと待っていたに違いない。
 すると、そんな重秀の前に、下手人が突如現われては、重秀の心臓目掛けてナイフか包丁を突き刺し、重秀を殺したのだ!
 だが、下手人が殺そうとしていたのは、実は重秀ではなく、秀明の方であったのではないのか?
 秀明が銀座の雑居ビルと雑居ビルとの間に挟まれた狭い空間で夜を過ごし始めて二週間程の時間が経過していた。それ故、秀明があの場所で夜を過ごしていたことを知っていた人はいたことであろう。
 それ故、秀明が眠りこけている時を襲えば、秀明を殺害出来ると思い、そして、その思いを下手人は実行したのではないのか?
 即ち、重秀は秀明と間違われれ、殺されてしまったのだ!
 そう思うと、秀明の表情は、一気に強張った。何者かが秀明の事を亡き者にしようと様子を窺い、その思いが昨夜現実と化したのである!
 秀明はそう理解すると、脂汗が噴き出て来て、また、顔面は蒼白になってしまった。
 そんな秀明のことを車掌が眼にすれば、「ご気分でも悪いのですか?」と、声を掛けて来たかもしれない。
 しかし、秀明の顔は窓の方に向けられていた為に、そんな秀明の顔を眼に留めた者は誰もいないことであろう。また、秀明は二人掛けのシートに座っていたのだが、秀明の隣席は東京駅からずつと空席のままであったのだ。
 それはともかく、重秀は秀明に間違われて殺されたのだと察知すると、では一体誰が秀明のことを殺そうとしたのか、それに関して思いを巡らせてみた。
 だが、それが誰なんか、秀明には思い浮かばなかった。それどころか、秀明には自らが殺されなければならないような人間にはとても思えなかったのだ。
 秀明は福岡時代からずっと自らの人生を振り返り、思いを巡らせてみたのだが、やはり、秀明を殺してやりたいと思うような人間には、行き着かなかったのだ。
 更に、秀明の知人が、秀明が銀座のあの場所で夜を過ごしていることを知ってる筈は無いとも思った。あの場所の周辺で働いている者なら、秀明のことを眼に留めてもおかしくはないのだが、その中に秀明の知人がいたとは思えなかったのだ。
 だが、秀明は何か思い浮かばないかと、懸命に頭を働かせた。
 すると、妙なことを思い出すに至った。
 では、どういったことを思い出したかというと、秀明が小学校五年か六年の頃、母の豊子から、
「あなたには、弟がいるのよ」
 と言われたことがあった。
豊子にそう言われ、秀明は、
「弟? 僕に弟がいるの?」
 秀明は納得が出来ないような表情と口調で言った。何しろ、秀明は生まれて以来、そのようなことは一度も耳にしたことはなかったからだ。
「そうよ」
 豊子は神妙な表情で言った。
「じゃ、どうしてその弟はここにいないの?」
 秀明は健気な表情で言った。
「それは、色々と複雑な事情があるのよ」
 豊子は渋面顔で言った。
 そんな豊子に秀明は、何故秀明に弟がいるのか、その経緯を説明してくれるように迫った。
 それで、豊子は渋面顔を浮かべながらも、それに関して渋々と話し始めた。
 そして、秀明は今でもその説明をはっきりと覚えていたのだ。そして、それはこういう具合であった。
 秀明の弟といっても、それは、豊子の子供ではなく、父だけ同じの弟であった。即ち、異母弟というわけだ。
 だが、豊子はそれ以上のことを話そうとはしなかったのだ。
 それで、秀明はもっと詳しいことを話してとせがんだのだが、豊子は秀明が大人になってから話してあげると言った。だが、豊子はそのことを秀明に話すことなく、秀明が中学二年の時に、交通事故であっさりと死んでしまったのである。それ故、秀明は秀明の異母弟の詳細に関することを依然として知らずにいるのだ。
 また、重秀はその異母弟である筈はなかった。何しろ、重秀は秀明より五歳も年上なのだから。それ故、豊子は重秀のことを異母弟と言ったのではないことは間違いないのだ。
 しかし、その異母弟は、秀明のように、正式な子供ではないのではないのか? もし、正式な子供なら、その子供のことが、秀明と徳三との会話、あるいは、秀明と重秀との会話の中で出て来てもおかしくはないのに、そういったことは一度もなかったのだ。また、豊子としても、もしそうなら、躊躇わずにその異母弟のことを秀明に話した筈なのだ。
 となると、徳三の愛人の子供だったのか?
 徳三は秀明の母親の豊子を無理矢理犯したように、水商売の女を無理矢理孕ませてしまったのかもしれない。徳三なら、やりそうな感じだ。それ故、秀明は何故確認しておかなかったのか、甚だ後悔した。
 しかし、その時期を逸したといえよう。何しろ秀明は今、警察に追われている身の上なのだ。そんな時期に、のこのこと国松邸に姿を見せれば、徳三たちはそんな秀明のことを警察に通報するに違いない。
 そうなれば、秀明は警察に身柄を拘束されてしまい、やがて、重秀殺しの疑いで逮捕されてしまうだろう。それ故、国松邸に行くことは出来ないというものだ。
 また、秀明が何故その異母弟のことを思い出したのかということも分かった。
それは、秀明が東京に出て来て、新宿のとある中華料理店でコックをしていた時に、妙な人物が秀明が働いていた店にやって来ては、秀明のことを何だかんだと訊いたというのだ。
 その妙な人物とは、秀明より少し年下位で、身体付きも秀明と同じ位であったとのことだ。だが、その人物は色の付いたサングラスを掛け、その素顔は分からなかったとのことだ。
 その男は、鈴木チーフに、
「この店に菊川秀明さんという人は働いておられますかね?」
 と訊いて来たので、鈴木は、
「います」
 と、とにかく言った。
 すると、その男は、
「菊川さんに用がありますので、菊川さんを呼んでもらえないですかね?」
 と言った。
 その時、秀明は仕事中であったのだが、鈴木はとにかく、厨房にいた秀明に、その男のことを言った。
 それで、秀明はとにかく、厨房から離れ、店に姿を見せた。
 だが、その時、秀明を訪ねて来た男は、何処やらに姿を消してしまっていたのだ。
 それで、鈴木は、
「おかしいな」
 と首を傾げ、辺りを見回したのだが、やはり、その男は見当らなかった。
 それで、
「おかしいんだよ。菊川君を訪ねて来た人物が見当たらないんだ」
 と、いかにも納得が出来ないように言った。そして、苦笑した。
 それに釣られ、秀明も苦笑したのだが、秀明はふと窓の方に、眼を向けた。
 すると、そんな秀明のことを食い入るように見やっている男の姿を眼に捕えた。
 その男は、秀明と視線が合うと、すぐに色の付いたサングラスを掛けた。
 それで、その男が秀明を訪ねて来た男だと、秀明は察知した。
 だが、秀明はその男をさっと一瞥した限りでは、その男に心当りなかった。そして、その男は秀明と視線が合うと、色の付いたサングラスを掛け、そそくさとその場を後にしたのだ。
 鈴木もその男を眼に留め、
「妙な人物だな」 
 と、怒ったように言った。鈴木は折角秀明のことを連れて来やったのに、人のことを馬鹿にするなと言わんばかりであった。
 それはともかく、何故その男は秀明を呼び出したにもかかわらず、秀明に会わずに去って行ったのだろうか?
 その理由を秀明は分からなかった。また、分かりたいとも思わなかった。
 そして、年月は経過し、その男が秀明のことを訪ねて来て、二年が経過した。
 その間、秀明はその不審な男のことを思い出すこともなく、また、気に掛けることもなかった。
 しかし、その男のことが、今、俄かに秀明の脳裏に蘇って来たのだ。
 何故なら、その不審な男こそ、秀明の異母弟なる男ではなかったのかと、閃いたからだ。
 恐らく、その男は最初から秀明と会って話をするなんてことはまるで無く、ただ秀明の容姿を眼に留めておきたかったのではないのか?
 鈴木が厨房に秀明を呼びに行ってる隙に、素早く店外に出ては、窓越しに秀明の容姿をじっと眼に留めていたのではないのか? また、密かに写真に撮ったりしたかもしれない。
 では、何故異母弟がそのようなことをしたのか、秀明には分からなかった。
 しかし、今、それが分かったような気がしたのだ。
 即ち、それは昨夜の行為、即ち、秀明を亡き者にする為の布石だったということだ。
 そう考えてみると、うまく説明が出来るというものだ。
 異母弟は、ずっと前から、秀明のことを亡き者にしようと企んでいたのだ。しかし、秀明の容姿が分からなければ、その目論見を実行出来ない。
 それ故、秀明の容姿を確認する為に、秀明が働いていた店にやって来たというわけだ。
 では、異母弟は何故、秀明を亡き者にしようとしたのか? 
 それは、怨恨といった感情ではないだろう。何しろ、秀明はその異母弟に一度も会ったことはないし、無論、一度も話をしたこともないのだ。それ故、その異母弟が秀明に怨恨といった感情を抱くわけはないのだ。
 となると……。 
 秀明は頭を働かせたが、それに対する回答を見出すのにさ程時間は掛からなかった 即ち、それは金だ! それは、金の為なのだ!
 秀明は徳三の正式の子供ではない。
 しかし、認知を勝ち取れば、莫大な資産を有する徳三の相続人になることは、間違いないのだ。
 となると、秀明の異母弟も、当然、徳三の遺産の相続人になる可能性はあるのだ。
 しかし、秀明がいれば、その異母弟の相続額は減額される。
 それ故、異母弟は少しでも多く、徳三の遺産を相続したい為に、秀明を亡き者にしようとしたのだ。それが、動機だったのだ!
 そして、異母弟は見事にその思いを遂げたと思ったことであろうが、それはとんでもない失敗であったというわけだ。異母弟が殺してしまったのは、秀明ではなく重秀であったからだ。
 異母弟としては、まさか重秀が秀明の替わりに銀座の裏通りに面した雑居ビルと雑居ビルに挟まれた狭い空間で夜を明かそうとしていたなんて、思ってもみなかったことであろう。また、異母弟は、秀明の容姿のことをはっきりと知っていたわけではない。それ故、秀明とさして身体付き違わなかった重秀のことを秀明と間違えても何ら不思議ではないのだ。
 これが、重秀殺しの真相なのだ!
 そう推理すると、秀明の表情は、一層強張ったのだが、やがて、秀明はいかにも悔しそうな表情を浮かべた。何故なら、本来なら、殺されていたのは、秀明の方であったからだ。
 そう思うと、次第に異母弟に対する怒りが込み上げて来た。
 そして、秀明はしばらくの間、まだ顔すら知らぬ異母弟に対する怒りで、それ以外のことは、何ら思うこと出来なかったのだが、やがて、何故異母弟は、秀明が働いていたのは「上海苑」という中華料理店であったのかを知っていたのかという疑問が、自ずから込み上げて来た。
「上海苑」は新宿に一店舗あるだけの中規模の中華料理店だったのだが、秀明は厨房レオンッフであり、異母弟がたとえ客として「上海苑」に入って来たとしても、秀明が「上海苑」で働いているということを知る筈はないのだ。
 それに、元々異母弟は秀明の容姿の事を知らなかったのだ。だからこそ、鈴木に秀明のことを呼び出してもらったのだから。
 それ故、秀明は何故異母弟が秀明が「上海苑」で働いていたことを知ったのか、その理由がよく分からなかった。また、それをうまく説明出来なければ、重秀を殺したのが異母弟であるという推理も、現実味が無くなりそうであった。
 それで、秀明はそれに関して、頭を働かせてみた。
 秀明は三年前に重秀から生活費として五十万受け取った三ヶ月後に、「上海苑」の真珠東店で、アルバイトとして採用されたということを、重秀に電話ではあるが、話したことがあったのだ。
 となると、重秀がその異母弟に秀明が新宿にある「上海苑」という中華料理店で働いているということを話したのであろうか? その可能性は充分にある。また、それ以外に考えられないのだ。
 そう確信した秀明は、いかにも満足したような表情を浮かべた。秀明の巧みな推理によって、謎が一歩一歩解き解されて行くのを実感したからだ。
 そして、それ受けて、異母弟は秀明の様子を確認する為に、密かに「上海苑」にやって来たというわけだ。
そして、その頃、のぞみは岐阜羽島駅を通り過ぎた。
 岐阜羽島となると、大阪まではまだ少し時間が掛かるだろう。
 それで、秀明は謎を解明する為に、再び頭を働かせようとした。
 そして、新たに秀明の脳裏に浮かんで来た疑問は、何故異母弟が秀明が銀座で路上暮らしをしていたということを知っていたのかということだ。
 この謎を解明することは、容易くないと、秀明は思った。何故なら、そのことは、重秀と偶然に鉢合わせする以前には、国松家の者は、誰もそのことを知らなかったからだ。
 そう思うと、秀明の表情は、曇った。この謎を解けないと、秀明の推理の正しさを証明出来ないと思ったからだ。
 だが、やがて、その謎に対する返答を秀明は見出せたような気がした。
 というのは、「上海苑」が潰れた時に、秀明は鈴木や同僚に「銀座の裏通りで、路上暮らしでもしてみようかな」と、冗談とも思えない表情と口調で言ったことがあったからだ。
 秀明が銀座の裏通りで路上暮らしを始めるかもしれないと言ったのは、その「上海苑」の鈴木と同僚だけだったのだ。
 しかし、異母弟が再び「上海苑」に秀明のことを問い合わせて来たとしたら、その同僚が異母弟に秀明が銀座の裏通りで浮浪者暮らしをしてるんじゃないのかということを冗談半分に言ったかもしれない。
 異母弟がその同僚の言葉を信じたのかどうかは分からないが、銀座の裏通りで屯している浮浪者たちのことを調べ始めたのかもしれない。そして、秀明のことを眼に留めたとしたら……。
 その可能性がないとは、断言出来ないだろう。何しろ、異母弟は秀明の容姿を一度ではあるが、眼にしたことがあるのだから。
 そして、秀明が浮浪者の恰好をしては路上暮らしをしてる様を眼にして、狂喜したに違いない。何しろ、秀明のことを亡き者にする機会を窺っていたのだから。
 秀明は異母弟が秀明の浮浪者の恰好を見て狂喜してる様を想像すると、改めて、怒りが込み上げて来た。正に、怒りで胸が一杯になってしまった。 
 そして、そういう風にして、やがて、秀明を乗せたのぞみは、新大阪駅に着いた。それで、秀明は下車することになった。

     4

 新大阪駅の改札口を後にしたものの、秀明には行く当てがなかった。
 それで、とにかく難波にまで行ってみようと思った。難波周辺は庶民的な街だし、また、久し振りに難波周辺とか道頓堀川周辺を散策してみようと思ったのだ。
 地下鉄御堂筋線で難波にまで行き、地上に出ると、秀明が十年前に訪れた時と特に変わっていないような難波の街並みを眼にすることが出来た。
 それで、道頓堀川の方に向かって歩き始め、やがて、カニ道楽の前を通り過ぎ、しばらくぶらぶらと歩いていると、やがて、秀明を殺そうとした異母弟に関して、もっと詳しく知りたいという思いが、自ずから込み上げて来た。何しろ、秀明はその異母弟に関して、殆ど何も知らないという状況なのだ。異母弟の詳細を豊子に話してもらう前に、豊子は事故死してしまったのだ。
 そう思うと、秀明は残念で仕方なかった。
 何故、豊子が生きている時に、異母弟のことをもっと聞いておかなかったのかと後悔しても、後の祭りというわけだ。
 だが、秀明は異母弟に関してもっと知りたいという欲求を抑えることが出来なかった。そうしないと、居ても立っても居られないという有様であった。
 それで、何とかならないかと必死で考えてみたのだが、すると異母弟に関して知る手段が何も無いわけではないということに気付いた。というのは、徳三なら知っているに違いないということに気付いたからだ。
 しかし、今、徳三に電話をするのは危険だと思った。何故なら、警察の手が、既に徳三周辺に伸び、秀明から電話が掛かって来れば逆探知し、秀明の居場所を突き止めようと、手ぐすね引いて待ち構えてるかもしれなかったからだ。
 それ故、安易に徳三に電話をするわけにはいかないのだ。
 しかし、そうだからといって、異母弟に関する情報入手を諦めるわけにはいかない。
 それで、秀明は改めて頭を働かせた。
 秀明は道頓堀川に架かる橋の欄干に手を置きながら、どす黒く淀んだ道頓堀川に眼をやっていたのだが、突如、「そうだ!」と、小さな叫び声を発した。
 というのは、異母弟のことを知る新たな手段を思い付いたからだ。
 それは、亡き豊子の友人だった。秀明は、豊子の友人であった柳沢佳代子のことを思い出したからだ。
 豊子は度々、ホステス仲間である柳沢佳代子という女性を豊子と秀明の二人で住んでいる古びたアパートに連れて来ては、何だかんだとした世間話をしてたのを秀明は覚えていた。また、その柳沢佳代子が、小学校低学年であった秀明に、駄菓子をプレゼントしてくれたことも覚えていたのだ。
 また、佳代子は、豊子の葬式の時にも姿を見せて、秀明に励ましの言葉を掛けてくれたことも覚えていたのだ。
 いわば、柳沢佳代子なる女性は、秀明にとって、かなり身近な人物であったのだ。
 その柳沢佳代子なら、秀明の異母弟に関して何か知っている可能性はある。
 また、それを知っていれば、佳代子は秀明に隠さずに知っていることを全て話してくれるだろう。
 そう思った秀明は、今からすぐに佳代子に電話をしてみようと思い立った。 
 とはいうものの、秀明の表情はすぐに曇った。何故なら、秀明は佳代子の電話番号を知らなかったからだ。
 もっとも、NTTに問い合わせれば、電話番号は明らかになるかもしれない。
 しかし、柳沢佳代子という名前は、秀明が小学校低学年の時の名前なのだ。そして、それから、既に二十年以上経過してるのだ。
 それ故、柳沢という姓は変わっているかもしれないし、また、姓は変わっていなくて佳代子の電話番号は、電話番号帳に載っていないかもしれないし、また、福岡以外の遠方の土地に転居してるかもしれないのだ。
 もしその後者のケースなら、NTTに問い合わせても、成果を得ることは出来ないだろう。
 とはいうものの、一応、NTTに問い合わせてみることにした。
 それで、近くにあった公衆電話に行き、NTTに問い合わせてみた。
 すると、案内係は、
―柳沢佳代子さんは、西区と、博多区に、それぞれ一人ずつおられますが、どちらの方ですかね?
 と訊いて来たので、とにかくその両方の電話番号を案内してもらい、そして、それをメモした。
 そして、まず西区の方に電話をしてみた。それは、午後五時頃のことであった。
 呼出音は既に十回鳴った。だが、電話は繋がらなかった。
 それで、呼出音が二十回鳴って繋がらなければ、博多区の柳沢佳代子の方に電話をしてみようと思ったのだが、十五回鳴った時に電話は繋がった。
 それで、秀明は思わず緊張したような表情を浮かべた。
―もしもし。
 と、女性の声が聞こえた。
 その声を耳にし、秀明は眼を大きく眼を見開き、輝かせた。何故なら、その声は、何となく聞き覚えのある声であったからだ。
「柳沢佳代子さんですかね?」
 秀明はとにかくそう言った。
 すると、
―そうよ。
 という素っ気ない声が聞こえた。
 だが、秀明はその声を耳にして、一層秀明の思いは、確信に満ちたものになった。
 即ち、今、秀明が話してる相手は、秀明が今、話をしたいと思っていた柳沢佳代子であったのだ。
「あの……、僕は菊川秀明という者なのですが」
 秀明はいかにも真剣な表情を浮かべては、恐る恐る言った。
 そう秀明が言うと、佳代子は何も言おうとはしなかった。佳代子は、菊川秀明という名前を聞いて、戸惑っているのかもしれない。
 そんな佳代子に、秀明は、
「おばさんは、僕のことを覚えていますかね?」
 秀明はそう言った。そんな秀明の眼は、爛々と輝いていた。
 そう秀明が言ったも、佳代子からは、言葉は発せられなかった。
 とはいっても、その時間は十秒位で、やがて、佳代子からは、
―菊川秀明って、豊子ちゃんの息子の秀明君のこと?
 佳代子はそう言った。佳代子も秀明の声を覚えていたのかもしれない。
「そうです! その菊川秀明のことです!」
 秀明は眼を爛々と輝かせては、甲高い声で言った。
―そうなの。そりゃ、秀明君のことは、勿論覚えているよ。
 でも、幾つになったの?
 子供時代の秀明のことを知らないのか、まるで子供と話すかのように言った。
「もう四十になりました」
―そう……。もうそんな歳になったの。
 と、佳代子はいかにも懐かしそうに言った。もっとも、そんな佳代子の表情を秀明が眼にしたわけではないのだが。
「そうなんですよ」
 そう言った秀明は、早速本題を切り出すことにした。何しろ、大阪から福岡は遠方なので、早く電話を終わらせないと、今、持ち合わせている小銭が持たないかもしれないからだ。
「で、おばさんに電話したのは、実は知りたいことがあるからです」
 そう言った秀明の表情は、とても真剣なものであった。
―知りたいこと? それ、どんなこと?
 佳代子は興味有りげな口調で言った。
「実はですね。おばさんは僕の母から、僕に弟がいるというような話を聞いたことはありませんかね? そして、その弟と僕は父は同じなんですが、母が違うらしいのですよ。
 僕は母からそのような話を聞いたことがあるのですが、おばさんは母からそのような話を聞いたことはありませんかね?」
 そう言った秀明の表情は、真剣そのものであった。
 そう秀明に言われ、佳代子は遥か昔の佳代子と豊子と交わした会話のことを思い出していた。秀明が今、言ったようなことを豊子が言わなかったか、思いを巡らせたのだ。
 そして、少しの間、言葉を詰まらせたのだが、やがて、
―そう言えば、そのようなことを言ってたね。
 そう佳代子に言われ、秀明は思わず眼を輝かせた。その秀明の表情は、佳代子から秀明が知りたい情報を入手出来るのではないかという期待に輝いていた。
 そんな秀明は、
「その人物は、何という名前なんですかね?」
―秀明ちゃんはそれに関して豊子ちゃんから何も聞いてないの?
「そうなんですよ。母さんは僕に異母弟がいるというようなことを言っていたのですが、それを僕に詳しく話す前に死んでしまったのですよ」
 と、秀明はいかにも残念そうに言った。
―そうなの、でも、私はその人物の名前を聞いたことがあるような気がするのだけど、忘れてしまったわ。
 と、佳代子は申し訳なさそうに言った。
 それを聞いて、秀明はいかにも失望したような表情を浮かべた。名前が分からなければ、探しようがないと思ったからだ。
 その秀明の失望した表情を佳代子は眼にしたわけではないのだが、佳代子は話を続けた。
―私が豊子ちゃんから聞いたことによると、秀明ちゃんの弟というのは、秀明ちゃんのお父さんの愛人の子供だったらしいの。
 でも、秀明ちゃんのお父さんは、その愛人がその子を産むまで、そのことを知らなかったらしいの。
 つまり、その弟の出生の経緯は、秀明ちゃんの出生の経緯と同じようなものらしいの。
 と、佳代子は淡々とした口調で言った。
 それを耳にして、秀明は渋面顔を浮かべた。というのは、徳三は秀明の母だけではなく、もう一人の徳三の妻でない女性を身籠らせていたからだ。
 そのことは、予め察知は出来ていたものの、佳代子の口から新たにその事実を告げられると、秀明は改めて徳三に対する怒りが込み上げて来た。
 しかし、早合点は禁物だ。何故なら、徳三はその愛人に対して、豊子に対して行なったように、無理矢理犯したとは限らないからだ。
 それに、愛人ともなれば、その愛人は徳三と合意の上で付き合っていたのかもしれない。
 そう秀明が思っていると、佳代子は、
―秀明ちゃんのお父さんは随分と遊び好きで、何人もの女性に手を出していたみたいね。
 で、秀明ちゃんの弟を産んだ女性は、秀明ちゃんのお父さんの愛人だったというわけだから、秀明ちゃのお母さんの場合とは違って、無理矢理犯したということはないみたいね。
 と、まるで秀明の心の中を見通すかのように言った。何故なら、その説明は、秀明の疑問に対する正解となっていたからだ。
 そう佳代子に言われると、秀明は徳三に対する怒りは和らいだのだが、その一方、何故豊子がそのようなことまで知っていたのかという疑問が込み上げて来た。それで、
「どうして母さんは、そのようなことを知っていたのでしょうかね?」
―何でも、秀明ちゃんの弟を産んだその女性は、豊子ちゃんの友人の知人だったみたい。詳しいことは分からないけど、そういった事情で、豊子ちゃんは知っていたみたいよ。
 と、佳代子は淡々とした口調で言った。
 そう佳代子に言われ、秀明は〈成程〉と思った。
 とはいうものの、そういった事情なら、これ以上のことを佳代子は秀明に言うことは出来ないのではないのか?
 だが、秀明は、
「では、その弟は、何処で生まれ、何処で育ったのでしょうかね?」
 と、食い下がった。
―東京で生まれ、東京で育ったみたいよ。
 でも、詳しいことは分からないわ。
 と、佳代子は渋面顔で言った。
 すると、秀明も渋面顔を浮かべたのだが、そんな秀明に、佳代子は、
―今、何処から電話してるの?
「大阪からです」
―大阪? じゃ、秀明ちゃんは今、大阪で暮らしてるの?
「いや。そうじゃないんです」
 と、秀明は小さな声で言った。
 というのも、秀明は今、何処で何をしてるのかというような質問は、最も訊かれたくない質問であったからだ。まさか、東京で金が無い為に路上暮らしをしてるなんてことは、言えるわけがなかったからだ。
―そうじゃない? じゃ、秀明ちゃんは今、何処で何をしてるの?
 と、佳代子は訊いたが、今や公衆電話は切れそうであった。秀明はもうこれ以上、公衆電話で使える小銭は今、持ち合わせていなかったのだ。
 それで、秀明は、
「もう公衆電話で使える小銭がないのです。それで、電話を切ります。ありがとうございました」
 と言って、秀明は佳代子との電話を終えた。
 佳代子との電話で、秀明の異母弟という人物に関して、ある程度の情報は入手することが出来た。即ち、秀明の異母弟は秀明と同様、徳三の正式の子供ではなく、また、出生の経緯は秀明と少し違うということであった。
 少し違うということは、秀明の場合は、徳三が秀明の母である豊子を無理矢理犯した為に生まれたのに対して、異母弟の場合は、徳三の愛人と徳三が合意の上で性交の結果、生まれたみたいだからだ。
 しかし、徳三はその愛人が秀明の異母弟を産んだということまでは知らなかったようだ。
 とはいうものの、徳三としては、徳三が望まぬ子供を二人もこの世に生ませてしまったというわけだ。
 では、徳三はその異母弟に対して、どのような扱いをしたのだろうか?
 その異母弟は、国松邸には住んでいないのだし、豊子もその異母弟に対して、詳しく話すことを秀明に躊躇ったことから、秀明の場合と同様、金で丸めた可能性がある。
 そう思うと、秀明は大きく息をつき、道頓堀川を見やっては、頭を少し休めることにした。
 日頃、思考というものに、あまり縁の無い生活をしてる為に、これだけ頭を働かせたのは久し振りであり、少し疲れてしまったのだ。
 しかし、五分程、頭を休めた後、秀明は再び頭を働かせ始めた。
 何しろ、今は悠長に構えてはいられないのだ。秀明は何としてでも、秀明の異母弟を見付け出し、異母弟に事の真相、即ち、重秀殺しを白状させてやろうと目論んだのだ。そして、それが、秀明の潔白を証明することに繋がるのだ。
 それ故、秀明は頭を懸命に働かせたのだが、やがて、徳三のことが頭に浮かんで来た。何故なら、徳三は今もその異母弟と付き合いがあるかもしれないからだ。
 というのは、以前も思ったのだが、秀明が「上海苑」という中華料理店で働いていた時に、異母弟と思われる不審者が訪ねて来たのだが、秀明が「上海苑」で働いていたというのは、徳三か、あるいは重秀から知ったに違いないのだ。
 何しろ、「上海苑」と異母弟の接点はある筈がない。それに秀明は厨房で働いていたのだし、また、異母弟は秀明の顔を知らなかったわけだから、「上海苑」か、あるいは、「上海苑」周辺で秀明を眼に留めた為に、秀明のことをじっくりと見ようとして、「上海苑」にやって来たわけではないというのは、確実だからだ。
 そういった理由により、異母弟は徳三と今も何らかのコンタクトを取っていた可能性は充分に有り得るのだ。
 そう思うと、秀明は眼をキラリと光らせた。そして、徳三と話をしてみたいという思いを抑えることが出来なかった。
 それで、秀明は危険を承知で、徳三に電話をしてみることにした。

     5

 そう思った秀明は、小銭を工面し、直ちに徳三宅に電話をした。
 呼出音が八回鳴った後、
―もしもし。
 という女性の声がした。
 その女性の声を秀明は聞いたことはなかった。だが、重秀の妻ではないかと思った。
 それはともかく、
「国松さんですか?」
―そうです。
「僕は菊川秀明という者ですが、国松徳三さんと話をしたいのですよ」
 秀明がそう言うと、女性からは言葉は発せられようとはしなかった。
 しかし、重秀の妻には、菊川秀明という名前は、脳裏に刻まれているに違いない。
 即ち、亡き重秀の妻は今、重秀を殺した男と話をしてるのだ! そう思っているに違いないのだ!
 となると、重秀の妻が言葉を詰まらせたのは、当然かもしれない。
 その女性が言葉を発そうとはしないので、秀明は、
「もしもし!」
 と、強い口調で言った。
 すると、女性、即ち亡き重秀の妻の早苗は、
―菊川秀明さんという方ですか……。
 と、蚊の鳴くような声で言った。
「そうです。僕のことを知ってるんじゃないですかね。で、僕は今、とても急いでいるんです。それ故、早く徳三さんを電話に出してください!」
 と、秀明は声を荒げて言った。何しろ、大阪から東京への電話である為に、長電話は出来ないのだ。持ち合わせている小銭は多くはないのだ。
 そんな秀明の語勢に押されたのか、早苗は、
―少々お待ちくださいね。
 と、丁寧な口調で言ったかと思うと、保留のメロディが流れ始めた。
 そんなメロディを苛立ったような表情を浮かべては耳にしていたのだが、程なく秀明の眼が輝いた。徳三が、
―もしもし。
 と言ったからだ。
 それは、久し振りに身にする徳三の声であった。
「僕です! 秀明です!」
 秀明は甲高い声で言った。
 すると、徳三の言葉は詰まった。そんな徳三は、秀明の出方を窺ってるかのようであった。
 それで、秀明は、
「今、兄さんはどうしてますか?」
と言っては、重秀の死をまだ知らない振りをしようかと思ったのだが、その思いをすぐに振り払った。何しろ、今は悠長なことは言ってられないのだ。小銭は残り少なく、また、無駄金は使いたくなかったのだ。
 それで、秀明は早速本題に入ることにした。
「父さんに訊きたいことがあるのですよ。それは、僕には弟がいるのかということです。もっとも、僕とは母親が違う弟ですが」
 秀明は眼を大きく見開き、好奇心を露にしては言った。
 すると、徳三は、
―どうしてそんなことを訊くのかな。
 と、素っ気ない口調で言った。
「今はその説明をする時間がありません。でも、とにかく、それを知りたいのですよ!」
 秀明がそう甲高い声で言っても、徳三は何も言おうとはしなかった。
 それで、秀明は、
「やはり、いるのですね!」
 と、声を荒げては言った。その徳三の沈黙は、その事実が正しいということを物語ってると思ったからだ。
 すると、徳三は、
―お前は、今、何処にいるんだ?
 と、今の秀明の言葉はどうでもよいと言わんばかりに言った。
「そんなことはどうでもいいです! それよりも、今の僕の質問に答えてください!」
 と、秀明は再び声を荒げては言った。
 だが、徳三は秀明の質問を無視するかのように、
―お前は東京の銀座で路上暮らしをしていたのか?
 と、些か声を上擦らせては言った。
 すると、秀明の言葉は詰まった。秀明は訊かれたくないことを訊かれたからだ。
 そんな秀明に、徳三は、
―重秀を殺したのは、お前なのか?
 と、冷ややかな口調で言った。
 その問いは、徳三が秀明に最も訊きたいことであったのかのようであった。
 その秀明が思ってもみなかった徳三の言葉を耳にして、秀明は思わず頭に血が上ってしまい、
「違います! 僕は殺してません!」
 と、声を荒げて言った。
―それ、本当か?
 徳三は信じられないと言わんばかりの口調で言った。
「本当です! 嘘はついてません!」
 秀明は力強い口調で言った。そして、
「嘘はついていません! 誓ってもいいです!」
 秀明はそう言うしかなかった。
―しかし、警察はお前のことを疑ってるぞ!
 そう言われ、秀明は一層苦渋の表情を浮かべた。
 秀明は元はといえば、警察から重秀殺しで疑われてると思い、大阪にまで逃げて来たのだ。
 しかし、警察に疑われているというのは、秀明の想像上でのことであり、その事実を確認したわけではなかった。しかし、今の徳三の言葉でそれが事実であることを確認したわけだ。それで、秀明の表情は、そのように変貌したのである。
「でも、僕は殺していません!」
 秀明は声を荒げては、そう言うしかなかった。
―じゃ、警察にそう言えばいいじゃないか。そうしないと、警察は一層お前のことを疑がうぞ! お前が重秀を殺したから、お前は逃げてるんだと!
 そう言われ、秀明の言葉は詰まった。確かに、そう言われてみれば、そうだと思ったからだ。
 しかし、
「僕以外に警察は疑ってる人物はいないのですかね?」
 と、苦渋に満ちた表情で言った。
―そこまでは知らん!
 しかし、いつまでも警察から逃げられるものじゃないよ!
 だから、殺していないのなら、一刻も早く警察に身の潔白を示すことが、今のお前にとって、一番大切だろ!
 と、徳三も声を荒げて言った。
 そう徳三に言われ、秀明は言葉を詰まらせてしまったのだが、そんな秀明に徳三は、
―今、金は大丈夫なのか?
 徳三は秀明のことを心配するかのように言った。
 そんな徳三には打算があった。
 徳三は秀明から重秀を殺していないと訊いて、大いに胸を撫で下ろしたのだ。何しろ、秀明が徳三の血を引いている実子というのは、事実だ。それ故、たとえ忌み嫌っている秀明であっても、殺しを犯してよい筈はないのだ。
 もっとも、徳三は秀明の言葉を全面的に信じたわけではなかった。
 しかし、秀明をこのままの状況に放置しておくと、秀明は本当に何らかの犯罪を犯してしまうのではないかと、徳三は危惧したのだ。
 それ故、秀明をそのような犯罪を犯させない為にも、秀明に多少の金を与えては、秀明を保護してやろうと、徳三は目論んだのだ。
 その徳三の言葉に、秀明は心を動かされてしまった。何しろ、今、秀明の有り金は既に二十万を切っているのだから。
 それ故、その二十万が無くなれば、もはや逃走資金も底を尽いてしまうのだ。そして、新たに金を得る手段は、まるで無かったのだ。
 それ故、今の徳三の言葉に、秀明は大いに心を動かされてしまったいうわけだ。
「大丈夫ではありません」
 と、秀明は即座に言った。
―だったら、これからどうやって暮らして行くんだ?
 徳三はいかに秀明を気遣うかのように言った。
 そう言われ、秀明の言葉は詰まった。確かに、秀明は今後の当てなど、まるでなかったからだ。
 そんな秀明に、徳三は、
―今、何処にいるんだ?
「大阪です」
―大阪? どうして大阪なんかにいるんだ?
 徳三は納得が出来ないように言った。
 すると、秀明はまたしても言葉を詰まらせた。
 そんな秀明に徳三は、
―とにかく、一度こっちに戻って来るんだ。金は、わしが少し位助けてやるから。
 それに、お前は重秀を殺してないんだろ。だったら、警察にはっきりとそう説明するんだ。警察だって、状況証拠だけでは逮捕しやしないさ。だから、心配するな。
 それに、さっきも言ったが、警察から逃げていれば、一層疑われるぞ! それに、警察は優秀だから、いつまでも逃げ切れるものじゃないさ!
 だから、こっちに戻って来るんだ。
 それに、お前の為に、わしがアパートを借りてやってもいいぞ。
 と、徳三は秀明に訴えるかのように言った。
 徳三はそう言ったものの、それは、秀明の為にそう言ったというよりも、徳三の為であった。先述したように、秀明を今のまま放置しておくと、新たな犯罪を犯してしまう可能性があるのだ。徳三はそう看做したのだ。
 それ故、秀明の新たな犯罪を阻止する為にも、秀明に金銭的援助を行なう必要があると判断したのだ。
 思い掛けない徳三の言葉を耳にし、秀明は呆気に取られたような表情を浮かべた。
 秀明は徳三に金を無心する為に電話したのではなかった。秀明の異母弟に関する情報を入手する為に電話したのだ。
 ところが、徳三は秀明の疑問に答えようとはせずに、金銭的援助を申し立てて来たのだ。
 秀明は五年前に初めて徳三に会い、そして、徳三を脅し、徳三から五百万せしめたのだが、その時に秀明に見せた徳三とは、まるで別人であるかのような徳三が、今、存在してるのだ。
 何故徳三はそのように変心してしまったのだろうか?
 しかし、今はそのようなことを考えている余裕はなかった。何しろ、電話は後少しで切れそうなのだ。
 それで、秀明は、
「父さんが僕に金銭的援助を行ってくれたり、また、アパートを世話をしてくれるというのは、本当ですかね?」
 と、確認してみた。
―わしは嘘は言わん。だから早くこっちに戻って来るんだ。
 もう五時を過ぎてるが、今日戻って来ても構わんぞ。今なら、大阪から東京行きの新幹線は出てる筈だ。
 だから、今日戻って来るんだ。今日戻って来れば、うちに泊めてやってもいいぞ。
 そう徳三に言われ、秀明の表情は思わず綻んだ。しかし、今の徳三の言葉を耳にすれば、それは当然といえるだろう。
 それ故、もう迷うことはない!
 即ち、今から東京に行き、国松邸の中で、ふかふかの布団の上で眠れるというわけだ。
 そう思うと、秀明は満面に笑みを浮かべてしまった。そして、
「じゃ、今から戻ります!」
 と、声を弾ませて言った。
―分かった。じゃ、今夜は眠らずに待ってるよ。
 と、徳三が言った時に、丁度電話は切れてしまった。
 それで、秀明はやむを得なく、送受器を置いた。
 だが、秀明は今、全身に喜びを表わしていた。そして、思わず小躍りしてしまったのである!
 だが、この場でいつまでも喜びを噛み締めてるわけにはいかない。何しろ、秀明は今日の内に国松邸にまで行かなければならないのだ。
 そう思うと、秀明の足は自ずから地下鉄難波駅に向かって歩き始めた。
 そして、難波から地下鉄御堂筋線で新大阪駅にまで行き、新大阪駅のホームに着いた時は、午後六時半を少し過ぎていた。
 しかし、まだ午後六時半を少し過ぎたばかりだから、東京駅にまでは、午後十時頃までは着きそうだ。これなら、何とか午前零時までは、国松邸に着くことが出来るだろう。

     6

 秀明はのぞみの自由席席に腰を下ろすと、その二分後にのぞみは新大阪駅を滑るように後にした。すると、秀明は思わずうとうとしてしまった。
 そして、いつの間にやら、京都に着いた。  
 すると、少なからずの乗客が乗り込んで来た。
 秀明は今まで二人掛けの席に一人で座っていたのだが、京都駅から乗車した中年の婦人が秀明の籍の席に腰を下ろした。
 秀明は京都までうとうとした為か、少し意識がはっきりとして来た。
 すると、自ずから徳三が言ったことが思い出されて来た。それは、徳三が秀明に金銭的に援助だけではなく、アパートの世話までしてやると言ったのだ。
 これは、以前の徳三なら、考えられないような心境の変化であった。以前徳三は、秀明のことをまるで犬畜生のような扱いしか示さなったのだ。
 それなのに、何故徳三はそのような変化を見せたのだろうか?
 それに関して、秀明は少し考えてみることにした。
 すると、それは、重秀の死が関係してるのではないかという思いに至った。
 重秀は何者かに殺され、その犯人は秀明ではないかと、警察は疑ってるのだ。つまり、徳三にとってみれば、徳三の後継ぎを殺されてしまい、その犯人は徳三の血を引いた秀明だと疑われてるのだ。
 これは、徳三にとって、甚だショッキングなことであろう。
 しかし、重秀を殺したのが、秀明だと確定したわけではない。
 それで、秀明に重秀を殺したのかと、徳三は訊いた。すると、秀明はそれを否定した。
 徳三はその秀明の言葉を全面的に信じたのかどうかは分からないが、秀明が犯人でないのなら、多少の金銭的な援助を行なうことは、秀明が殺人犯であったことに比べれば、どれ程ましなことか。そう徳三は思ったのではないのか?
 まあ、そんな具合ではないのかと秀明は思った。
 そして、そう思うと、秀明は納得したのか、些か満足そうに肯いた。そして、五分程、そのような表情を浮かべていたのだが、その時、秀明は突如、強張った表情を浮かべた。何故なら、秀明はその時、とんでもないことに気付いたからだ。
 そのとんでもないこととは、国松家の長男である重秀が何者かに殺され、今はこの世にはいない。更に、重秀夫妻には子供はいない。 
 となると、重秀が相続することになっていた徳三の遺産は、秀明に転がり込んで来るのではないのか? 秀明はそれに気付いたというわけだ。
 また、夫の妻は、義父の遺産を相続する権利がないということを誰かに聞いたような記憶があった。となれば、徳三の遺産が全て秀明のもになるというわけにはいかないものの、重秀が死んでくれたお陰で、秀明の相続分が増える可能性は充分にあるだろう。
 もっとも、秀明はまだ、徳三から認知されたわけではない。しかし、重秀が死んだことを受けて、秀明は徳三から認知されるかもしれないのだ。
 そう思うと、秀明の表情は、思わず笑みが浮かんでしまった。
 そして、徳三が今になって秀明に対して親切になったというのも、そのことが影響してるのではないかと思った。即ち、重秀が死んだ為に、秀明を正式の子供として、また、相続人として認めざるを得ないと徳三は思い、徳三の秀明に対する態度が豹変したのではないのか。
 秀明はそう思ったのだ。
 となると、重秀が死んでくれたことは、不謹慎な言い方になるかもしれなが、秀明にとって幸であったと言わざるを得ないだろう。
 そして、秀明はこの歳になって、初めて幸運というものに恵まれたと実感したのである。
 何しろ、秀明は生まれて以来、不運続きであった。秀明は今までの人生を思い返してみても、幸福だと思った時期は、殆どなかったのだ。しかし、今、幸運というものをやっと手に入れたと実感したのである。
 車窓から流れ行く光景を眼にしながら、秀明はひしひしとそのように感じたのである。
 それで、秀明はしばらくの間、恵比須顔であったのだが、この時、秀明の表情は、突如、強張った。何故なら、秀明の異母弟のことを思い出したからだ。
 豊子の話や柳沢佳代子の話から、秀明に異母弟がいることは間違いない。
 となると、その異母弟も、秀明と同様、徳三の遺産を相続する可能性はある。そして、その異母弟はいずれ、秀明の前に姿を見せ、徳三の実子であり、そして、徳三の遺産を相続する権利があることを主張する可能性は充分に有り得るだろう。
 だが、その異母弟は、秀明を殺そうとした男であり、また、重秀を殺した男なのだ。
 それ故、徳三の遺産を相続する権利など、ある筈がないのだ。即ち、異母弟は重秀を殺したことにより、相続人としての権利を喪失してしまったのである。
 しかし、まだ異母弟が重秀を殺したと証明出来てはいない。それを証明しない限り、欠格者とはならないだろう。
 異母弟を徳三の遺産相続欠格者とするには、まず秀明自身が自らの身の潔白を証明し、そして、異母弟のことも警察に話さなければならない。
 そうすれば、異母弟は警察に追い詰められ、自らの犯行を自供せざるを得なくなるだろう。
 そう思うと、秀明の表情には、改めて笑みが浮かんで来た。異母弟が警察に逮捕されれば、その分だけ、秀明の相続分が増加するからだ。即ち、そうなれば、徳三の遺産相続人は、秀明一人になるだろう。
 となれば、あの国松邸も秀明のものになるのではないのか?
 そう思うと、秀明はまるで夢を見てるかのようであった。
 そのような思いで、秀明は東京に着くまでの時間を過ごすことが出来たのだ。
 即ち、重秀が死に、その犯人が異母弟だったことが、秀明に幸運をもたらしたということを秀明は改めて実感したのである!
 やがて、秀明はのぞみから降車した。その時は、午後十時を少し過ぎていた。
 国松邸に行くには、山手線で新宿まで行き、そこから、小田急線に乗り換えなければならない。午後十時を過ぎたといえども、山手線は一日の仕事を終えたサラリーマンたちで混雑していた。
 それはともかく、秀明はやがて小田急線に乗り換え、国松邸がある最寄りの駅に何とか十一時半までに着くことが出来た。
 電話番号帳なんかで調べた国松邸の住所を元に国松邸を初めて訪れたのは、今から五年程前であった。その時も、丁度今のように、夏が始まろうとしていた季節であった。
 五年前に国松邸を訪ねた時は、随分と勇気を必要とし、また、胸がドキドキしたものであった。何しろ、三十五年という長い年月が経過したにもかかわらず、一度も眼にしたことのない実父に会い、そして、実父を脅し、金をせしめなければならなかったのだから。
 しかし、今は五年前と勝手が違っていた。何しろ、秀明は今、徳三から正式に招待を受けているのだから。
 それ故、秀明は堂々とした足取りで国松邸に向かったのである。

     7

 駅から五分程歩いて、国松邸の前に着くことが出来た。
 この辺りには、正に豪邸が建ち並び、正に秀明とは別世界の人たちが暮らしていた。
 しかし、いずれ秀明は、その別世界の人の仲間入りを果たす可能性は充分にあるのだ。
 そう思うと、秀明は満面に笑みを浮かべざるを得なかった。
 しかし、その秀明の笑みは、徳三の前では控えた方が無難であった。何しろ、徳三の大切な跡取りであった重秀に死なれてしまい、哀しみに沈んでいるに違いないからだ。
 そんな徳三の前で笑顔を見せるのは不謹慎であり、また、徳三の秀明に対する心証を悪くしてしまうに違いないのだ。そして、そのことは、秀明にとって好ましくないのだ。
 国松邸の門扉の前に立つと、秀明は大きく息を吸い込み、インターホンを押した。それは、午後十一時を少し過ぎた頃であった。
 秀明がインターホンを押すと、すぐに、
―はい。
 という男の声が聞こえた。その声は、まさしく徳三の声であった。
 それで、秀明は真剣な表情を浮かべては、
「僕です。秀明です」
 と、溌剌とした声で言った。
―秀明か。ちょっと待ってくれ。
 そう徳三が言って二分程経った頃、門扉が開き、すると、そこには羽織袴姿の徳三が立っていた。
 そんな徳三に、秀明は、
「夜遅く申し訳ありません」
 そんな秀明のことを、徳三は何ら表情を変えずにじろじろ見やったが、
「まあ、中に入ってくれよ」
 と、落ち着いた口調で言った。
 それで、秀明は生まれて初めて、国松邸の中に入った。
 だが、夜の為に、所々に薄暗い水銀灯が仄かな明かりを放ってるだけで、邸の様子を確認することは出来なかった。しかし、国松邸は豪邸であるということは十分に理解出来た。
 それはともかく、秀明が連れて来られたのは、本邸ではなく離れの方であった。その離れは小さな二階建てで、徳三たちが日頃寝起きしてないことは明らかであった。
 それで、秀明は些か不満そうな表情を浮かべた。まさか、秀明はこのような離れで今夜、泊まることになるとは思っていなかったからだ。
 そんな秀明の思いを徳三は察したのか、
「この部屋は重秀が使っていたんだよ。だから、不満はないと思うよ」
 そう徳三に言われ、秀明は些か表情を綻ばせた。
 というのも、一昨日まで秀明は銀座の浮浪者だったのだ。
 それが、昨日は銀座の高級ホテルに泊まり、そして、今夜は本邸に比べれば、見劣りするかもしれないが、きちんとした布団の上で眠れるのだ。それ故、不満など言うのは、贅沢だというものであろう。
 それで、秀明は、
「ここでも構わないですよ」
 と、穏やかな表情と口調で言った。
「そうか。じゃ、早速部屋に案内するよ」
 と徳三は言ったが、徳三と共に行動したのは、離れの入口までであった。
 その離れは、一階は倉庫のようになっていて、部屋はなく、部屋は二階にあるだけらしかった。そして、その二階に続く階段までしか、徳三は秀明と共にしなかった。
 徳三は秀明に、
「この階段を上がった所にある部屋が、今夜の君の寝床だ。まあ、ゆっくりと眠ってくれ。
 本当は秀明から話を聞きたいんだが、何しろわしは年寄りだから、夜更かしは出来ないんだ。だから、明日、話を聞かせてもらうよ。
 それに、秀明は今夜は疲れてるだろうから、ゆっくりと眠りたいだろう」
 と言ったので、秀明はとにかくその指示に従った。
 秀明は徳三に一礼すると、徳三は秀明に背を向けて、秀明の許から去って行ったので、秀明は徳三に言われた通り、せまい階段を上がってニ階に向かった。
 二階に着き、扉を開けると、そこは十畳程の畳の部屋で、畳の上には既に布団が敷かれていた。また、エアコンもあり、また、トイレと洗面所も備わっていた。
 秀明はといえば、とにかく布団の上に大の字になった。そして、大きく息をついた。
 そんな秀明の表情には、笑みが溢れていた。何しろ、秀明は生まれて初めて実父の邸の門扉から中に入り、そして、邸内でこうやって時を過ごしてるのだから。
 もっともこの部屋は本邸の中にあるのではない。しかし、国松邸の中にあることは間違いないのだ。五年前なら、この部屋の中でさえも、徳三は決して秀明を中に入れはしなかったであろう。
 にもかかわらず、秀明を部屋の中に入れたということは、秀明を徳三の正式な跡取りと認めたからではないのか。
 そう思うと、秀明は改めて笑みが浮かんで来た。
 とはいうものの、秀明は疲れていた為に、いつの間にやら、眠りに落ちてしまった。そして、朝まで目覚めることはなかったのだ。

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