第八章 新たな生活

     1

 秀明は分厚いカーテンと窓の隙間から洩れる朝日から、朝の到来を察知した。
 そして、枕元に置いてあった腕時計に眼をやった。
 すると、既に午前八時になっていた。
 それで、秀明は起き上がり、そして、窓の許に行っては、分厚い茶色っぽいカーテンを開けた。
 すると、窓越しに広々とした芝生が敷き詰められた庭と二階建ての洋館が眼に入った。
 その光景を眼にして、秀明は眼を細めた。いずれ、それらは秀明のものになると察知したからだ。
 そして、まだしばらく、窓からの光景を愉しんでいたのだが、やがて、扉がノックされた。
 それで、秀明は我に返り、
「はい!」
 と言っては、扉を開けた。
 すると、お手伝いと思われる女性が、
「お食事を持って来ました。どうぞ、召し上がってください」
 と言っては、朝食が載せられている盆を秀明に差し出した。
 それで、
「ありがとう」
 と、秀明は言っては、盆を受け取った。
 朝食のメニューは、ご飯とトースト、ベーコン、納豆、フルーツといった和洋折衷であった。
 実のところ、今の秀明は今、とても空腹であったのだ。昨夜は新幹線の中でホームで買った弁当を食べたことは食べたのだが、一日に二食というライフスタイルをここしばらくの間、続けていたということもあり、とても腹が減って仕方なかったのだ。
 それで、盆に載せられたご飯やトーストを、もう無我夢中で食べた。朝食は正に二食分はありそうなボリュームであった。それは、正に徳三が秀明は今、腹をすかせているということを見通していたかのようであった。
 ただ、秀明としては、この離れではなく、本邸の方で朝食を食べたかったのだが、それは贅沢な悩みかなと、秀明は思ったりしていたのだが、その時、扉がノックされた。
 それで、秀明は、
「はい!」
 と言っては、扉を開けた。
 すると、そこには徳三がいた。
 徳三は昨夜と同じく、羽織袴姿で、そして、その徳三の様からして、徳三の胸の内を秀明は窺い知ることは出来なかった。
 それはともかく、徳三は、
「よく眠れたか?」
 と、秀明に訊いた。
「はい。ぐっすりと眠れました」
 秀明はいかにも満足したように言った。
「そうか。食事は美味かったか?」
「とても美味かったです。昨日は二食しか食べてませんからね。だから、腹が減って仕方なかったのですよ」
 と、秀明は些か顔を赤らめては言った。
「そうか。それはよかったな。アッハッハッ!」
 と、徳三はさもおかしそうに豪快に笑った。そんな徳三を見て、秀明も些か顔を赤らめては、苦笑いした。
 すると、徳三は部屋の中に入って来ては、畳の上に腰を下ろし、秀明に、
「まあ、座りたまえ」
 それで、秀明も徳三のように、畳の上に腰を下ろした。
 すると、徳三は畏まった様を浮かべては、
「お前はいつ、秀明の死を知ったんだ?」
 と、秀明の顔をまじまじと見やっては言った。そんな徳三の表情には、笑みは見られなかった。
 すると、秀明の言葉は詰まった。何故なら、それは正に秀明にとって訊かれたくない質問であったからだ。また、秀明はそう訊かれれば、何と答えるかを考えていなかったのだ。
 それで、秀明は徳三から眼を逸らせては、言葉を詰まらせてしまった。
 そんな秀明に、
「何処でお前は重秀の死を知ったんだ?」
 と言った。そんな徳三は、秀明に詰め寄ってるかのようであった。
 その問いに対して、秀明は正直に答える気にはならなかった。
 何故なら、秀明が重秀の死を知ったのは、重秀が一夜を過ごした場所に戻って来た時なのだが、その経緯を秀明が話しても、徳三はそれを信じず、それどころか、秀明のことを疑うのではないかと、秀明は恐れたのだ。
 それで、秀明は顔を赤らめたまま、徳三から眼を逸らせては、なかなか言葉を発そうとはしなかった。
 すると、そんな秀明に、徳三は、
「お前は、重秀を殺したんじゃないんだろ?」
 と、神妙な表情で言った。
「勿論ですよ! 僕は兄さんを殺してなんかいませんよ!」
 秀明は徳三をまじまじと見やっては、徳三に訴えるかのように言った。
「だったら、お前の知ってることを何もかも正直に話すんだ。そうしないと、警察だけではなく、わしもお前に対する疑いが晴れないじゃないか!」
 と、徳三は秀明に苦言を呈するかのように言った。
 それで、秀明はこの際、正直に話してみようと思った。何しろ、秀明が重秀を殺していないことは、間違いないのだ。それ故、秀明が知ってることを話すことに後めたさを感じる必要などないのだ!
 秀明はそう思うと、意を決したような表情を浮かべては、秀明と重秀が夜の銀座で出会った経緯を有りの儘話した。
 その秀明の説明に、徳三はいかにも険しい表情を浮かべては、じっと耳を傾けていたのだが、秀明の話が一通り終わっても、徳三は険しい表情を浮かべては、何ら言葉を発そうとはしなかった。だが、徳三は武者震いをしてるかのようであった。
 そんな徳三の様に、秀明はじっと眼をやってたのだが、秀明も何ら言葉を発そうとはせずに、次の徳三の言葉を待った。
 すると、徳三はやがて、言葉を発した。
 そして、その徳三の言葉はこうであった。
「信じられん……」
 すると、秀明は狼狽したような表情を浮かべては、
「それが、事実なんですよ! 僕は嘘をついていません!」
 と、甲高い声で言った。
「しかし、そんなことを警察は信じてくれないぞ」
 と、徳三はいかにも困惑したような表情を浮かべては言った。
「でも、これが真相なんですよ!
 でも、僕も父さん同様、警察は信じないと思っていました。だから、兄さんの死を警察に知らせずに、僕は逃げたのですよ!」
 と、秀明は秀明の思いを分かってくださいと言わんばかりに、徳三に訴えるかように言った。
「だが、そのことを警察に言っても、警察は信じてくれないと思うんだよ」
 と、徳三はいかにも気難しげに言った。
「でも、僕は誰が兄さんを殺したのか、目星がついているのですよ」
 そう言うや否や、秀明は秀明の異母弟が重秀殺しの犯人であるという推理を徳三に一気に話した。
 徳三はそんな秀明の推理を一言も聞き漏らすまいと、じっと耳を傾けていたのだが、秀明の推理が一通り終わると、
「その話も、信じられん……」
 と、秀明から眼を逸らせては、いかにも気難しげな表情を浮かべては言った。
「僕はその推理が正しいと思っています。僕の異母弟は、僕を亡き者にし、父さんの遺産の分け前を少しでも多く受けとろうと目論んだのですよ。それで、僕を殺そうとしたのですが、殺してしまったのは、僕ではなく、兄さんだったというわけですよ!」
 と、秀明はそれが真相に違いないと言わんばかりに、いかにも真剣な表情を浮かべては甲高い声で言った。
 すると、徳三は秀明から眼を逸らせては、渋面顔を浮かべ、言葉を発そうとはしなかった。そんな徳三は、今の秀明の推理の真偽を確かめているかのようであった。
 徳三は渋面顔を浮かべては、なかなか言葉を発そうとはしなかったので、秀明は、
「僕には腹違いの弟がいるのですよね?」
 と、徳三をまじまじと見やっては言った。
 すると、徳三は秀明から眼を逸らせては厳しい表情を浮かべ、何も言おうとはしなかった。
 だが、徳三の沈黙は、秀明の言葉の正しさを物語っていた。もし、秀明の腹違いの弟がいなければ、即座にそう言えばよいのだから。
「僕は母さんから、僕が小学校五年の時に、その話を聞かされました。もっとも、母さんはその弟に関して何ら詳しいことを話すことなく、僕が中学二年の時に死んでしまったのですよ。
 で、僕は母さんの友人だった人に、その異母弟に関して訊いてみました。
 すると、その友人も母からその異母弟に関して聞かされていたとのことです。でも、詳しいことまでは分からないと言ってましたがね。
 でも、やはり僕には異母弟がいるのですよね?
 で、その弟は何という名前なんですかね?」
 と、秀明が言っても、徳三は決まり悪そうな表情を浮かべるだけで、言葉を発そうとはしなかった。
 徳三としては、秀明の話から、重秀を殺したのは秀明ではないという感触を抱き、一安心したのだが、今度は秀明と同じく徳三の血を引いた実子が重秀を殺した聞かせれてしまい、徳三は再び一気に奈落の底に落ちてしまったのかもしれない。それで、徳三は言葉を発することが出来ないのかもしれない。
 しかし、秀明としては、懸命であった。
 何故なら、秀明を殺そうとし、その結果、重秀を殺してしまったその異母弟が警察に逮捕されれば、秀明の徳三の遺産に対する相続分が増える可能性が高まるからだ。それに、秀明を殺そうとした異母弟をこのままにしておけば、また、秀明を殺しに来るのではないかという不安もあったのだ。
 それ故、その不安を払拭する為にも、その異母弟を何としてでも、警察に逮捕してもらわなければならないのだ。その為にも、徳三から異母弟の情報を入手し、警察に話さなければならないのだ。
 しかし、徳三はその異母弟に関して、なかなか話そうとはしなかった。
 それで、秀明はこの時、決意した。
 そう! 自らが警察に出向き、何もかもを洗い浚い話すということを!
 何しろ、秀明が重秀を殺していないということは、間違いなく事実なのだ! それ故、警察を恐れることはないのだ!
 そう思った秀明は、
「父さん、僕は今から警察に行きますよ! そして、僕の知っていることを何もかも話ますよ!」
 そう言った秀明の眼は、まるで燃えているかのようであった。正にその眼は、秀明の強い決意を現わしてるかのようであった。
 そんな秀明をちらちらと見やった徳三は、ほんの僅かではあるが、いとおしく感じた。そして、自らの手で育てていれば、もう少しましな人生を歩むことが出来たであろうと思った。
 しかし、その思いを徳三はすぐ払い退けた。何故なら、秀明を今のような窮地に追いやったのは、元はといえば、徳三であったからだ。だが、徳三はそれを認めたくなかったのである。
 秀明にそう言われても、徳三は渋面顔を浮かべては、何も言おうとはしなかったので、秀明は、
「とにかく、僕は今から警察に行きますよ。そして、何もかもを話しますよ」
 そう言い終えると、秀明は徳三に一礼し、立ち上がると、徳三に背を向けては靴を履き、そして、階段を降りては、外に出た。
 そして、門扉にまで行っては門扉を開け、通りに踏み出した。
 そして、国松邸の高塀に沿ってしばらく進み、やがて、最寄りの駅にまで行っては、新宿に向かった。
 新宿に着いた頃、何処の警察署に行こうかという結論はまだ出ていなかった。もっとも、殺人事件に関して話をしたいと言えば、何処の警察署でも構わないと思ったが、銀座に交番があったことを思い出したので、そこに行くことにした。
 何しろ、重秀は銀座で殺された。それ故、銀座の交番で話をするのが、最も分かり易いと思ったのだ。
 秀明は新宿から地下鉄丸ノ内線で銀座に向かい、程なく銀座に着いた。
 地上に出た時は、秀明は初めの内は、銀座のどの辺りにいるのか、分からなかった。
 それで、横断歩道を渡ったりしていると、やがて、どの辺りにいるのかが分かった。そして、秀明は程なく銀座の交番に着くことが出来た。それは、午前十一時を少し過ぎた頃であった。

     2

 秀明は交番の前に来ると、大きく深呼吸し、自らに気合いを入れては、交番の中に入って行った。
 すると、デスクに座っていた三十位の制服姿の警官が秀明を眼にするや否や、表情を引き締めた。 
 そんな警官に、秀明は、
「昨日、向こうの方で男性の死体が発見されましたよね。その事件のことで話したいことがあるのです」
 そう秀明が言うと、警官は立ち上がり、表情を一層引き締めた。そして、
「それは、どんなことですかね?」
 と、まるで網に入り込んだ魚は決して逃がさないと言わんばかりに言った。
「恐らくその事件で、僕は警察から犯人として疑われてるのではないかと思うのですよ。しかし、僕は犯人ではないということをはっきりと説明したいのですよ」
 と、秀明が言うと、警官は眉を顰めた。
 警官は無論、重秀の事件は知っていた。だが、その容疑者は襤褸を身に付けた浮浪者風の男だと聞かされていた。
 しかし、今の秀明は、高価なスーツを身に付けて、しかも、髪もきちんと洗髪されている為に、秀明と浮浪者とはイメージが合致しなかったのだ。
 それで、秀明にそう言われ、警官はその秀明の言葉は意外だと言わんばかりの表情を浮かべては、
「ちょっと待ってくださいね」
 と、デスクの上にあった電話機に手を伸ばしては何処かに電話を掛けた。
 そして、その電話を掛け終わると、交番にあった折り畳みの椅子を差し出しては、
「まあ、お掛けくださいな」
 と、甚だ丁寧な口調で言った。
 それで、秀明はとにかくその折り畳みの椅子に腰を下ろした。
 そんな秀明に警官は、
「まず、あなたの名前を聞かせてくださいな」
 そう言われたので、秀明は決まり悪そうな表情を浮かべては、自らの名前を言った。
 それを警官はメモをすると、
「では、今度は住所と電話番号を話していただけますかね?」
 と、秀明のことをしげしげと見やっては言った。
 すると、秀明は渋面顔を浮かべては、言葉を詰まらせた。何しろ、秀明は今、路上暮らし身の上なのだ。それ故、秀明が住んでいる住所とか電話番号があるわけがないのだ。
 しかし、秀明は今、重秀の高価な背広を身に付けている為に、警官は秀明の事情を察することが出来なかったのであろう。
 秀明が警官の問いになかなか答えようとしないので、警官は一層表情を引き締めた。警官は秀明のことを胡散臭いと看做したのだ。
 だが、その時、パトカーのサイレンが聞こえたかと思うと、それはあっという間に大きくなり、やがて、パトカーが交番の傍らに停まった。
 そして、疾風の如く、制服姿の警官が三人、交番の中に飛び込んで来た。
 すると、秀明に応対していた警官が、
「こちら方です。件の事件のことで話したいことがあると言われるのは」
 と言っては、秀明の方を見やった。
 すると、三人の警官はすぐに秀明の傍らにまでやって来ては、その中の一人が、
「じゃ、署でじっくりと話を聴かせていただけますかね」
 と、秀明に穏やかな表情と、口調で言った。
 それで、秀明は、
「分かりました」
 と、小さな声で言うと、二人の警官が秀明の両脇を固めるかのような恰好でパトカーの後部座席に乗り込んだ。それは、まるで被疑者を逮捕した時に見られるような光景であった。
 そして、パトカーは出発した。

     3

 パトカーは銀座の繁華街の中を通り抜け、やがて、築地署の前に停まった。
 秀明は二人の警官に両脇を固められたまま、やがて、取調室に連れて来られた。
 そして、テーブルを挟んで、秀明は二人の警官と向い合った。もっとも、その二人の警官は、パトカーで築地署にまでやって来た三人の警官の内の二人ではなかった。
 そんな警官の内の一人、即ち、宗方正則警部は、
「菊川秀明さんとやら、菊川さんは先日、銀座の雑居ビルと雑居ビルに挟まれた狭い空間で路上生活者が身に付けてるような衣服を身に付けた状態で刺殺体で発見された国松重秀さんの事件で我々に何か話したいことがあるとか」
 と、いかにも真剣な表情で話を切り出した。
 重秀の事件を担当してる宗方たちは今、捜査の壁にぶつかってしまったかのような状態であった。それ故、秀明のような人物が現われてくれることを待ち望んでいたのだ。
「そうです」
 宗方の言葉に秀明は率直に肯いた。
「で、それはどういったものですかね?」
 髭を綺麗に剃り落とし、また、髪も綺麗に洗髪され、また、重秀の高価な背広を身に付けている秀明が、まさか宗方たちが探している浮浪者であるとは、宗方でさえも分からなかった。それで、宗方はいかにも興味有りげな様を見せては言った。
 そんな宗方に、秀明は眼を大きく見開き、
「つまり、警察は僕のことをその事件の容疑者と看做し、僕のことを探していると思うのですよ」
 と、いかにも畏まった様を見せては言った。
 だが、宗方は今の秀明の言葉にピンと来なかったので、
「それ、どういう意味ですかね?」
 と、眉を顰めては言った。
「ですから、僕がそうなのですよ。国松重秀さんの事件には、路上生活者が関係していていると警察は推理されてるのですよね?」
 と、秀明が言うと、宗方は眉を顰め、言葉を詰まらせたが、やがて、
「つまり、菊川さんが、その路上生活者だったというわけですかね?」
「そうです。僕は三日前までは、銀座で路上暮らしをやっていました。もっとも、二週間程度だったですがね。で、僕が今、身に付けている背広は、国松重秀さんのものなのですよ」
 秀明がそう言っても、宗方はすぐにその秀明の言葉を信じることは出来なかった。何故なら、今の秀明からは、三日前までは路上暮らしをやっていたということを想像することが出来なかったからだ。
 そんな宗方の胸の内を察したのか、秀明は事の次第、即ち、秀明が夜の銀座で偶然に重秀と出会ってしまってから今に至るまでの経緯の凡そを話した。
 宗方と高野刑事は、そんな秀明の話にじっと耳を傾けていたのだが、秀明の話が一通り終わっても、すぐに言葉を発そうとはしなかった。
 だが、やがて、高野刑事が、
「信じられないな」
 と、些か首を傾げては、呟くように言った。
 すると、秀明はむっとした表情を浮かべては、
「そう言われると思っていましたよ。だから、僕は兄さんの死体を見てすぐに警察に連絡しなかったのですよ。もし、その時、僕が警察に話せば、僕が真っ先に兄さん殺しの犯人として疑われると思っていましたからね」
 と、声高に言った。そんな秀明は、かなり興奮してるかのようであった。
 そんな秀明を見て、宗方は、
「まあ、じっくりと菊川さんの話を聞こうじゃないか」
 と、高野刑事を制するかのように言った。そして、秀明を見やっては、
「で、菊川さんは絶対に、国松さんを殺したのではないのですね?」
「勿論ですよ! 僕がどうして兄さんを殺さなければならないのですかね? 僕は蚊を殺すのも嫌な位の人間なのですよ」
 と、秀明は眼を大きく見開き、甲高い声で言った。
 すると、高野刑事は、
「でも、どうして菊川さんは銀座で路上暮らしを行っていたのですかね?」
 と、高野刑事は些か納得が出来ないように言った。
 すると、秀明は、
「それは色々と複雑な事情がありまして……」 
 と言っては、眼を伏せた。その経緯は複雑なものがあり、一言では説明出来なかったのである。
 しかし、宗方はその経緯の凡そを徳三から聞いていたので、
「つまり、菊川さんの実父である国松徳三さんが、菊川さんを助けてくれなかったというわけですね?」
 そう宗方に言われると、秀明は眼を大きく見開き輝かせた。そんな秀明は、宗方のことを何と物分かりのよい刑事さんだと言わんばかりであった。
 そんな秀明は、
「僕はバーのホステスをしていた母の手によって育てられたのですが、そんな母は、僕が中学二年の時に交通事故で事故死してしまった為に、母の姉に預けられたのですが、その姉の子供から虐められ、その家に居辛くなり、高校二年の時に高校を中退し、働き始めたのですよ。
 でも、どの職場でも長続きせずに、やがて、仕事仲間に貸したお金を返してもらえずに、その仕事仲間がとんずらしてしまい、また、僕の働いていた中華料理店が潰れてしまったのですよ。 
 そんな事情の為に、僕は人生が嫌になり、銀座で路上暮らしを行なうようになったのですよ」
 と、しんみりとした口調で言った。
 その秀明の説明を耳にし、宗方は、
「そういう訳だったのですか」
 と言っては、小さく肯き、そして、
「菊川さんが銀座で路上暮らしをするようになって二週間経った頃、夜の銀座で偶然に国松重秀さんと出交わしてしまったいうわけですね?」
「そうです。兄さんは銀座の高級クラブで飲み、その帰りに辺りで路上暮らしをしていた僕と偶然に出会ってしまったのですよ。三年振り位の再会でした。
 僕はそんな兄さんに、僕が路上暮らしを行なっている身の上を話し、一度でいいから、僕のように路上暮らしをやってみてくださいと頼んだのですよ。母は違うとはいえ、同じ父を持った兄弟なのに、どうして僕と兄さんはこんなに違いがあるのか、僕は兄さんに分かってもらいたかったし、また、僕は兄さんが着てるような高価な背広を着ては高級ホテルに泊まってみたかったのですよ。
 それで、僕は兄さんに無理矢理頼み込んだのですよ。
 すると、兄さんは渋々応じてくれたのですが、こんなことになってしまって……」
 と、秀明はいかに重秀に申し訳ないことをやってしまった言わんばかりに項垂れた。
 その秀明の説明を耳にした宗方は、
「成程」
 と言っては肯いた。
 そして、少しの間、言葉を詰まらせたのだが、やがて、
「では、菊川さんは、何故国松さんが殺されたのか、心当りありますかね?」
 と、秀明の胸の内を探るかのように言った。
 すると、秀明はその言葉を待ってましたと言わんばかりに、
「それがあるのですよ!」
 と、力強い口調で言った。何故なら、秀明はそのことを警察に話す為に、こうして警察にやって来たのだから!
 秀明の言葉を耳にし、宗方は眼を大きく見開き、
「それは、どういったものですかね?」
 と、いかにも興味有りげな表情を見せては言った。
 それ故、秀明は秀明の推理、即ち、秀明の異母弟が重秀と秀明を間違え、殺してしまったという推理をいかにも自信たっぷりに言った。
 宗方と高野刑事は、その秀明の推理に、何ら言葉を挟もうとはせずに、じっくりと耳を傾けていたのだが、秀明の言葉が一通り終わっても、宗方も高野刑事も、言葉を発そうとはしなかった。何故なら、その秀明の推理が正しいのか間違ってるのか、何とも言えなかったからだ。
 だが、やがて、高野刑事が、
「その菊川さんの異母弟は、何故菊川さんが銀座で路上暮らしを行なっていたということを知っていたのでしょうかね?」
 と、些か納得が出来なかのように言った。
 すると、秀明は狼狽したような表情を浮かべた。何故なら、その点に関しては、秀明の推理の中で自信の無い部分であったからだ。
 だが、秀明は、
「恐らく、僕が働いていた『上海苑』関係者に僕のことを問い合わせたのではないかと思うのですよ。僕は『上海苑』の関係者に、僕が『上海苑』を辞めた後、銀座で路上暮らしでもやってみようかと言ったことがありますからね」
 と言っては、眉を顰めた。秀明はそれしか思い当らなかったからだ。
 すると、宗方は、
「『上海苑』の誰にそのことを話たのですかね?」
「チーフの鈴木さんとか、コックの長谷川君ですよ」
「その人たちにそのことを確認したのですかね?」
 宗方は秀明の顔をまじまじと見やっては言った。
 すると、秀明は些か顔を赤らめては言葉を詰まらせた。実のところ、それはまだ確認してなかったからだ。
 そんな秀明に、宗方は、
「鈴木さんたちの連絡先は分かりますかね?」
「分からないですね。でも、鈴木明弘という名前で練馬区のマンションにに住んでいたことも分かっていますよ。それ以外は分からないですね」
 と、秀明は眉を顰めては決まり悪そうに言った。
「では、菊川さんの異母弟に関して、菊川さんは何か情報を持っていないのですかね?」
「何もないことはないのですね。母の友人だった人は、母からその異母弟に関して話を聞かされていて、それによると、その異母弟の母は、僕の母のように水商売に従事していて、僕の父親はその女性を愛人にしていて、その女性がその異母弟を身籠り、父は産むまでは知らなかったと言ってましたね。また、東京で生まれ育ったみたいですよ。僕が知ってるのは、これ位ですかね」
 と、秀明は冴えない表情で言った。そんな秀明は、それだけの情報では、警察でも異母弟に行き着くことは出来ないと言わんばかりであった。
 それで、宗方はいかにも決まり悪そうな表情を浮かべたのだが、そんな宗方に、秀明は眼を大きく見開いた。そんな秀明は、妙案が思い浮かんだと、言わんばかりであった。
 そんな秀明は、
「父さんですよ! 僕の父さんなら、異母弟に関して、もっと詳しいことを知っているに違いありません!」
 と、甲高い声で言った。
「成程。確かにそうだな」
 と、宗方は確かにその通りだと言わんばかりに言った。
 だが、秀明はすぐに表情を曇らせ、
「僕はそのことを父さんに訊いてみたのですが、父さんはそんな僕の質問をはぐらかすようにして答えてくれなかったのですよ」
 と、秀明は些か不満そうに言った。
 そう秀明に言われると、宗方は渋面顔を浮かべた。何故なら、徳三がその異母弟に関する情報を宗方たち警察に話すとは思えなかったからだ。 
 というのは、秀明は徳三に、秀明の異母弟が重秀を殺した可能性に言及したとのことだ。となると、徳三も秀明や宗方のように、確かにその可能性があると思ったに違いない。
 となると、徳三の嫡子を殺したのが、徳三の認知していない実子となるわけだ。
 しかし、それは国松家にとって、大いなる恥曝しとなるだろう。
 それ故、そうならない為にも、異母弟に関する情報を知ってるにもかかわらず知らないと言い、宗方たちの捜査に協力しないことは有り得るというわけだ。
 そう思うと、宗方の表情は、自ずから険しいものへと変貌した。
 すると、高野刑事は、
「その菊川さんの異母弟が、重秀さんを殺したという証拠はあるのですかね?」
 そう高野刑事に言われると、秀明の言葉は詰まった。証拠と言われれば、そのようなものは、何もないに等しいのだ。
 それで、三人の間で、少しの間、沈黙の時間が流れたのだが、やがて、秀明は、
「そいつは、再び僕を殺しに来るようなことはないのでしょうかね?」
 と、些か不安そうな表情を浮かべては言った。
「菊川さんを再び殺しに来る、ですか」
 宗方は呟くように言った。
「そうです。そいつは、本当は僕を殺すつもりだったのですよ。しかし、間違って兄を殺してしまったのですよ。
 それ故、再び僕を狙うのではないかということですよ」
 と、秀明は再び不安そうに言った。
「それは何とも言えませんが……。しかし、絶対に有り得ないというわけではないでしょう」
「それ故、罠を張ってみてはどうですかね。
 つまり、刑事さんが常に僕の近くに身を潜めていては、僕が狙われた時にそいつを逮捕するというわけですよ」
 と、秀明はまるで妙案が浮かんだと言わんばかりに言った。
 すると、宗方は、
「それは妙案だと言いたいところだが、一体いつその人物が現われるのか分からないから、その案は現実的ではないな」
 と、渋面顔で言った。
 すると、秀明は落胆したような表情を浮かべた。
 そんな秀明に、
「それ以外で、我々に話すことはないかな?」
 と、宗方が言うと、秀明は、
「今のところは、これ位ですかね」
 秀明は一応、警察に話したいことは話したので、些か安堵したような表情を浮かべては言った。
「そうですか。で、今後、菊川さんに連絡を取りたい時は、どうすればよいのですかね?」
 宗方にそう言われ、秀明の言葉は詰まった。
 だが、秀明は程なく、
「国松邸に連絡してください。僕はまだしばらくの間、国松邸にいると思いますので」
 これによって、宗方たちと秀明との話は一旦終了した。そして、秀明はこの辺で築地署を後にしたのであった。

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