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今、「森田荘」の前には赤色灯を点滅させたパトカーが二台停まっていた。それは、正に慌しい光景であった。「森田荘」の近くで二十五年住んでる田中三郎と言う六十歳の男性は、「森田荘」の前に赤色灯を点滅させたパトカーが二台も停まってる光景を今まで見た記憶はなかった。
では、一体二台ものパトカーに乗って警官たちは何の目的で「森田荘」にやって来たのであろうか?
その問いに対する答えは特に説明することもないであろう。
即ち、「森田荘」203室に住んでいる堂島正行の死体がつい先程「森田荘」の管理人である皆川肇(70)によって発見されたのだ。皆川は正行がアルバイトをしてる運送会社から正行がアルバイトを四日間無断欠勤し、また、正行の携帯電話の呼出音が鳴るばかりなので、正行の室の様子を見に行ってくれないかという依頼を受けたので、正行の室の鍵を開け、様子を見に行ったところ、六畳間で頭から血を流している正行を発見したので、直ちに110番通報したのである。
それを受けて、所轄所の警官が直ちに六名、現場に急行し、正行の死を確認した。そして、正行の死体は直ちに近くの病院へと救急車で運ばれて行った。そして、正行の室に駆けつけた警官たちは初動捜査の最中であったというわけだ。
正行の死体は直ちに司法解剖された。そして、その結果は頭部を鈍器で殴打されたことによる脳挫傷によるものであった。即ち、殺人である。また、死亡推定時刻も凡そ明らかとなった。それは、四日前の午前十一時から十二時頃であった。
正行の死を受けて、所轄署に捜査本部が設置され、警視庁捜査一課の滝川憲弘警部補(39)が捜査を担当することになった。
初動捜査の結果、堂島正行は「森田荘」203室の正行の部屋の中で被害に遭ったことは明らかと思われた。それ故、犯人は正行の知人であることが自ずから察せられた。何しろ、犯人は正行の部屋に正行と共にいた可能性が高いのだ。そのようなことが有り得るのは、常識的に見て、正行の知人である可能性が高いというものだ。
そして、正行とその場で何らかのトラブルが発生し、犯行に及んだ。その可能性が最も高いと滝川は看做したのだ。
その滝川の推理に基づき、早速、正行の交遊関係が捜査されることになった。
正行は半年前から今のアルバイト先の運送会社で引越し手伝いのアルバイトをやってるとのことだが、正行と一緒に仕事をやってたという同僚たちは皆、正行が殺されるような動機はまるで思い当たらないと証言した。また、アルバイト先では、正行と個人的に親しくしてる者は、誰一人としていなかったとのことだ。
それ故、正行の部屋にあったアドレス帳や手紙の差出人に当ってみようということになった。
だが、何故か正行宅にはアドレス帳はなく、手紙に関しても、友人と思われる者からはまるで見当たらなかったのだ。これでは、正行のプライベートの情報を入手出来ないというものだ。
だが、正行の家族はいるであろう。それで、今度は正行の家族の者から話を聞いてみることにした。
正行の出身は青森県の青森市で、両親は今も健在であった。それで、滝川は早速、正行の両親から話を聞いてみることにした。
だが、正行の両親共、正行が何故殺されたのか、また、その犯人にまるで心当りないと証言した。とはいうものの、正行が殺されるまではどのような人生を送ったのか、即ち、正行の経歴は凡そ明らかとなった。
正行は青森市内の高校を卒業すると、東京都内の某私大に入学し、東京都内でアルバイトをしながら大学生活を行なっていたが、大学三回生の時にギャンブルに現を抜かすようになり、生活費に事欠くようになった。
その為に大学を中退し、アルバイトが本業となった。そして、特定の会社の正社員になることはなく、ずっとアルバイトでやりくりを行ない、現在に至った。それが、今までの正行の人生というわけだ。
だが、正行がどういったアルバイトをやって来たのか、その詳細を正行の両親は知らないとのことだった。
それ故、正行の両親に聞き込みを行なっても、結局、捜査を殆んど前進させることは出来なかったという塩梅であった。
それ故、滝川は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべては、どうやって捜査を進めるべきか思いを巡らせていたのだが、滝川と共に捜査を行なっている若手の来生刑事(28)が、
「あの件はどう説明するのですか?」
と、眉を顰めた。
「あの件とは?」
「堂島さんの部屋に百五十万が入った茶封筒が二つありましたよね」
「ああ。そのことか」
と、滝川は特に感心がなさそうに言った。
「その百五十万が事件に関係してるとは思いませんかね?」
来生刑事は眼を光らせた。
「そりゃ、思わないこともないが……。しかし、もし関係してるとすれば、どう関係してると思ってるんだ?」
と、来生刑事の胸の内を問うた。
「ですから、その百五十万が絡んでトラブルが発生し、事件となったというわけですよ」
と、来生刑事は肯いた。
すると、滝川は些か表情を綻ばせては、
「そりゃ、金銭が絡む殺人事件は枚挙にいとまないが、しかし、容疑者がまだ浮かび上がってないからな。だから、たとえそのような可能性があったとしても、今の時点ではどうにもならないよ」
そう言い終えた滝川の表情は、また元のように冴えないものへと変貌した。そんな滝川は、果してこの事件は解決するのかと言わんばかりであった。
とはいうものの、捜査を進めないわけにはいかないので、正行の近所に住んでる住人たちから今度は聞き込みを行なうことにした。
だが、特に成果を得ることは出来なかった。
それで、滝川の表情は一層曇ったのだが、そんな滝川に来生刑事は、
「ひょっとして、堂島さん宅は、空巣に狙われたのかもしれませんね」
と、渋面顔を浮かべては言った。
「空巣か……」
滝川も渋面顔を浮かべては、呟くように行った。滝川もその可能性は十分にあると思ったからだ。とはいうものの、
「しかし、空巣とて馬鹿ではない。あんな安アパートの住人を狙うだろうか」
その滝川の主張はもっともなことであった。空巣とて正に馬鹿ではない。ターゲットにするのなら、もっと金を持ってそうな相手を狙う筈だからだ。
だが、来生刑事は、
「でも、いくら安アパートの居住者といえども、三、四万位のお金は持ってるでしょう。空巣にとっては、その三、四万とて魅力的だったのかもしれませんよ。それに、堂島さんが住んでいたアパートの玄関扉の鍵はピッキングし易いタイプですよ。あの種の鍵なら、手馴れた者なら、一分もしない内に開けてみせるでしょう。正にピッキングの被害に遭うのは、あの種の鍵なのですよ!」
と、力強い口調で言った。そんな来生刑事は、その可能性は十分にあると言わんばかりであった。
「成程」
と、滝川は来生刑事に相槌を打つかのように言った。確かにその可能性はあると思ったからだ。
そんな滝川を見て、来生は更に語勢を強めた。
「要するに、堂島さんはピッキング犯と堂島さんの部屋の中で鉢合わせしてしまったのですよ。顔を見られてしまったピッキング犯は堂島さんを生かしておくわけにはいかないと思い、犯行に及んだのですよ」
と、来生刑事はいかにも納得したように肯いた。来生刑事は正に真相はこうに違いないと言わんばかりであった。
そう来生刑事に言われ、滝川の表情は思わず緩んだ。確かに、今の来生刑事の推理がもっとも現実味がありそうな気がしたからだ。
とはいうものの、犯人がピッキング犯なら、犯人を挙げることは相当に困難だと思われた。何故なら、それは堂島正行と何ら接点のない人物だからだ。堂島正行と接点のある人物なら、いずれ辿り着けるだろうが、そうでなければそれは正に困難というものだからだ。
それで、滝川の表情は自ずから曇った。そして、来生刑事の表情も滝川と同じようなものへと変貌した。
それで、二人の間にしばらくの間、沈黙の時間が流れたが、やがて滝川は、
「しかし、もし堂島さんの室がもしピッキング犯の被害に遭ったのなら、『森田荘』の他の室も被害に遭ってる可能性もある。もっとも、今の時点ではそういった被害届は警察には出ていないが、一応その確認はしてみる必要はあるよ」
ということになり、早速「森田荘」の住人たちに対する聞き込みが行なわれることになったのである。
すると、201室に住んでいる高村直樹(33)という会社員から興味ある情報を入手した。高村は高村の室にまでやって来た滝川に対して、
「今までにお金とかいった金品物を盗まれたことはないのですが、少し妙に思うことがあるんですよ」
と、渋面顔を浮かべては言った。
そんな高村に、滝川は高村とは違って、いかにも興味有りげな表情を浮かべては、
「それ、どんなことですかね?」
「実はですね。僕は一人でこの室に住んでるのですが、僕がこの部屋を留守にしてる時に誰かが僕の部屋に入ったような気がするのですよ」
と、眉を顰めては言った。
「誰かが入ったですか……」
滝川は再びいかにも興味有りげな表情を浮かべては言った。
「ええ。そうです。その可能性は極めて高いと思われるのですよ。というのは、僕が朝、外出した後、テーブルの上に置かれていた雑誌の位置が少しずれていたり、また、玄関に置かれている靴の位置が僅かにずれたりしてることが今までに度々あったのです。僕はそういった細かいことに気が付くので、僕の思いは正しいと思っています」
高村は、些か険しい表情を浮かべては言った。
すると、滝川は、
「成程」
と、小さく肯いた。そんな滝川に、
「でも、お金なんかが盗まれたわけでもないし、また、確証があるわけではないので、そのことを警察に届けなかったのですよ」
と、高村は些か決まり悪そうな表情を浮かべては言った。
そんな高村に、滝川は、
「しかし、ピッキング犯の侵入目的は、通常、金品物を盗むのが目的だと思うのですがね」
と、些か納得が出来ないように言った。
すると、高村は、
「そりゃ、僕もそう思いますよ。でも、世の中、物好きもいますからね」
と言っては、眉を顰めた。
「物好きですか……」
「ええ。そうです。つまり、他人の部屋がどんな風になってるのか、見ては密かに愉しむというものです。そりゃ、僕は有名人でもないし、また、若い女性でもありません。それ故、そんな僕の部屋がどんな風になってるのか見ても面白くはないと思うのですが、要するに世の中には物好きもいるというわけですよ。そんな物好きには僕たちの常識というものは通用しませんからね。僕たちが考えも及ばない趣味とか愉しみを持っている輩もいるというわけですよ。そして、そういった輩が僕の室に侵入したのかもしれないというわけですよ」
と、高村は些か険しい表情を浮かべては言った。
そう高村に言われ滝川は「成程」と、肯いた。高村の主張は真相を述べてるのではないかと、滝川は思ったのだ。
だが、そんな滝川に高村は、
「でも、妙に思うことがあるのですがね」
と、眉を顰めた。
「妙に思うこと? それ、どんなことですかね?」
「もし、ピッキング犯が僕の室に入ったのなら、僕が帰宅した時に鍵が開いてなければならない筈なのですが、実際にはそうではなかったのです」
そう言い終えた高村の表情はいかにも怪訝そうであった。このようなことが実際にも起こり得るのかと言わんばかりであった。
そう高村に言われ、滝川もいかにも怪訝そうな表情を浮かべた。確かに、高村の言うことはもっともなことだったからだ。通常、ピッキング犯が鍵を開け、室内に侵入した場合、その室を後にする時、わざわざ鍵を掛け直すという行為は行なわれないと思われるからだ。もっとも、その可能性がないとは断言は出来ないが。
それで、その滝川の思いを高村に話してみた。
すると、高村は何とも言おうとはしなかった。
それで、高村に対する聞き込みはこの辺で一旦終え、滝川は引き続き、「森田荘」の住人に聞き込みを行なった。
すると、何と高村と同じような証言を行なった者が後、三人もいたのだ。
この事実は滝川を大いに驚かせた。滝川はまさかそのような証言を入手するなんて、思ってもみなかったからだ。
即ち、「森田荘」201室に居住してる高村以外の三室の居住者が高村のように何者かに密かに室に侵入されたにもかかわらず、何も盗まれてないようだと証言したわけだ。
となると、その侵入者とは、高村が言ったように、正に物好きという輩なのかもしれない。金品を盗む為に他人の室に侵入するのではなく、他人の生活を覗き見す目的で侵入したのかもしれない。
そして、堂島正行はその侵入者と偶然に鉢合わせしてしまい、顔を見られてしまった犯人は正行のことを生かしてはおけぬと思い、犯行に及んだのかもしれない。それ故、その犯人を見付け出せば、堂島正行の事件は解決する可能性が高い。
そう看做した滝川たちは、早速、そのピッキング犯の捜査に取り掛かった。
「森田荘」で奇妙な行動を取ったそのピッキング犯は、ターゲットにしたアパートは「森田荘」だけとは限らないであろう。他のアパートもターゲットにしていた可能性は十分に有り得るだろう。
そう推理した滝川たちは辺りのアパートの居住者に対しても聞き込みを行なってみた。
だが、その捜査は思うようにはいかなかった。「森田荘」の高村たちが証言したような証言はまるで得られなかったのである。
それで、滝川は少し捜査範囲を拡げて捜査してみたのだが、やはり成果は得られなかったのである。
この結果は、滝川たちを惑わした。滝川たちは、「森田荘」に侵入した物好きのピッキング犯は、その食指を他のアパートに拡げていたに違いないと読んでいたからだ。
だが、その滝川の読みは外れてしまったのだ。
それで、滝川は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべては、言葉を詰まらせていたのだが、そんな滝川に来生刑事が、
「僕は『森田荘』の居住者だけがターゲットにされたことと、ピッキングによって開けられた玄関扉の鍵がきちんと閉められていたということが非常に引っ掛かるのですがね」
と、眼を大きく見開いては言った。
そう来生刑事に言われても、滝川は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべては何も言おうとはしなかった。
そんな滝川に来生刑事は、
「以前読んだ小説では、アパートの管理人が悪さをする事件が描かれていたのですよ」
そう言った来生刑事の表情はいかにも気難しげであった。そんな来生刑事は、実際にもそのようなことが起こり得るのかと言わんばかりであった。
だが、来生刑事にそう言われると、滝川は、
「アパートの管理人か」
と、眼を大きく見開き、そして、輝かせた。確かに、そういった可能性は有り得ると思ったからだ。
だが、そんな滝川の表情はすぐに曇った。何故なら、滝川は来生刑事とは違って、実際に「森田荘」の管理人の皆川と顔を合わせ、話をしてるのだ。そして、その時の印象からして、皆川がとてもそのようなことを行なうようには見えなかったのである。
だが、殺人犯の中には、まさかあの人がと思うようなケースは幾らでもある。それ故、先入観で物事を判断するのは、当り前だがよくない。
それで、直ちにその来生刑事の推理に基づいて捜査が行なわれることになった。
といっても、皆川とて馬鹿ではないだろう。皆川が合鍵を使って、「森田荘」の各室に侵入したとしても、素手で部屋の中の物を摑んだり、触れたりはしないだろう。しかし、髪の毛は落ちた可能性はある。もし、皆川が正行を殺したとしたら、正行は多少は抵抗したかもしれない。その時に皆川の髪の毛が正行の室内に落ちたかもしれないのだ。
その滝川の推理に基づいて、捜査しようとしたのだが、その捜査の欠点に滝川は早々と気付いてしまった。というのは、皆川は正行の死体発見者であり、正行の室に入ったのだ。その時に落ちたと言われてしまえば、どうにもならないというものだ。
さて、困った。有力な容疑者は何とか浮かび上がったものの、その裏付けは相当に困難なものとなってしまったのだ。