1 女性の死
西表島は沖縄本島についで、沖縄では二番目に大きい島だが、人口は凡そ二千三百人と甚だ少ない。しかし、それもそうであろう。島全体の九割が森林に覆われて、これといった産業がないのだから。更に石垣島のように、飛行機で行けないこともその理由だろう。また、あまり観光化されていない素朴さが、西表島の魅力なのかもしれない。
それはともかく、西表島を初めて訪れる観光客の多くは、仲間川ボート遊覧とか由布島観光をし、日帰りで石垣島に戻って行くことだろう。そんな観光客には、船浮という名前は、あまり聞き覚えがないことであろう。
船浮とは、西表島の西方に位置し、大原、上原方面から船浮に通じる道路はない。
それ故、船でしか行けない村だ。
そんな事情の為、船浮の住民の数は凡そ五十人という位で、とても少ない。それ故、船浮の小学校は、生徒の数より、先生の数の方が多いとのことだ。
そんな船浮の魅力を知ってもらおうと、地元の住民が観光コースを設定し、観光にも力を入れてる。
船浮の魅力はといえば、のんびりしてるということに尽きるだろう。とにかく、この村は、慌しさがなく、正にのんびり出来る。また、イダの浜という西表島で一番美しいと言われてる綺麗な浜もある。また、近くの海には、沖縄一番のサンゴ礁もある。しかし、そのサンゴ礁も近年の海水温の上昇の為に、その多くが死滅してしまったらしい。
そんな船浮には、民宿が数件ある。
その民宿の一つに赤嶺荘というのがある。赤嶺荘は六畳間が六室だけの小じんまりとした民宿だ。しかし、その六室が満室になる日は一年の内、そう多くはなかった。
そんな赤嶺荘に、三日前から三十の半ば位の女性が一人で宿泊していた。
その女性の名前は、相川莉子で、東京から来てる女性だった。
そんな莉子は、午前十時頃になると、イダの浜とか船浮港で小さな椅子に腰を下ろし、スケッチブックを手にしては、絵を描いている。
といっても、別にプロの画家ではなく、ただ趣味で絵を描いてるかのようであった。
そんな莉子は寡黙な女性のようで、赤嶺荘の者が何かと話しかけても、形式的な返答を返すだけで、余計な話はしたがらないようであった。
接客業に携わるようになって十年になる赤嶺荘の赤嶺喜一(47)はそのように思った。そして、そのようなお客さんに対しては特に話しかけない方がいいことを知っていたので、特に莉子のプライベートのことを根堀り葉掘り訊きはしなかった。
そんな莉子は三泊四日の予定で赤嶺荘で過ごすことになってたのだが、その四日目のことだ。
いつものように、朝食案内をする為に、赤嶺は莉子が宿泊してる室の扉をノックし、
「朝食の用意が出来ました」
と言った。朝食は室の中でとるのではなく、食堂でとることになってるのだ。
しかし、室をノックし、十分経っても、莉子は食堂に姿を見せようとはしなかった。今まではノックすれば、五分もしない位に莉子は食堂に姿を見せたのだが……。
そして、莉子の室をノックして十五分経っても、莉子は姿を見せないので、赤嶺は再び莉子の室の前まで行っては扉をノックした。しかし、やはり、返答はない。
〈まだ、眠ってるのかな〉
ホテルなら、室内電話があるだろうが、この民宿にはそのようなものはない。
それで、再び扉をノックすることにした。
だが、依然として返答はなかった。赤嶺荘では、朝食の時間は午前七時半から八時までと決まっている。それ故、その時間内に朝食を食べてもらわないと、朝食抜きと看做されてしまうのだ。
それで、やむを得ず、マスターキーで莉子の室を開けてみた。
すると、赤嶺は眼を大きく見開いた。何故なら、室の中には、莉子の姿は見当たらなかったからだ。
それで、赤嶺は首を傾げたが、しかし、まだ赤嶺荘を後にしてないことは明らかであった。何故なら、まだ莉子の荷物が部屋の中にあったからだ。しかし、莉子は今の時間が朝食の時間であるということを知っている。それにもかかわらず、何処に行ったのだろうか? 朝の船浮港でも見物に行ったのだろうか? もし、そうなら、その内に戻って来るだろう。
赤嶺はそう思い、まだしばらく莉子の帰りを待ってみることにした。
しかし、莉子は八時半になっても姿を見せなかった。それで、赤嶺は莉子のことを待ち切れず、莉子を探してみることにした。船浮はそう見所が多いわけではない。それ故、莉子のことをすぐ見付けられるであろう。そう赤嶺は思い、外に出ては、莉子ことを探してみたのだが……。
しかし、意外に莉子の姿は、なかなか見付からなかった。赤嶺としては、船浮港周辺にいるに違いないと思っていたのだが、その思いは外れた。それで、イダの浜まで行ってみたのだが、しかし、そこにも莉子の姿は見当たらなかったのだ。
こうなってくると、赤嶺の表情は、些か険しくなってしまった。何となく、嫌な胸騒ぎがしたからだ。そして、その赤嶺の悪い予感が当たってしまったようだ。何故なら、船浮港で五人の人が集まり、その人たちの様は慌しいものであったからだ。
それで、赤嶺は駆け寄っては、
「どうしたのですか?」
と、いかにも心配そうに言った。
すると、観光客らしき三十位の男性が、
「女の人が港に沈んでるんですよ!」
と言っては、指差した。
赤嶺は、その男性が指差した方に眼をやったが、すると、確かにそこに女性が沈んでいた。そして、赤嶺はその女性に見覚えがあった。その女性は、確かに相川莉子に違いなかったのだ!
この事実を目の当たりにして、赤嶺はいかにも強張ったような表情を浮かべた。やはり、恐れていた不安が現実のものと化してしまったからだ。
そう思うと、赤嶺は警察の到着を待たずに、その場で下着姿になると、一気に海に飛び込んでは、海底に沈んでいる莉子を抱え上げ、陸揚げすることに成功した。しかし、莉子が生き返ることがないのは、当り前だった。
莉子の遺体はやがて、救急隊員が運んで行ったが、外見上は、特に他殺の疑いはもたれなかった。
莉子の遺体は解剖されることなく、荼毘に附された。そんな莉子の死は、溺死だった。つまり夜の港を見物しようとして港にやって来たところ、誤って港に転落してしまい、そのまま水死してしまったということだ。それが、警察が下した莉子の死の全容であった。
しかし、赤嶺はその警察の説明に納得が出来なかった。というのも、相川莉子という女性は、慎重な性格の女性で、港から海に転落しては事故死するような女性には見えなかったからだ。それで、八重山署の野島警部(55)に、その思いを話した。
すると、野島は、
「では、何故相川さんは亡くなられたと思ってられるのですかね?」
そう言われると、赤嶺は返す言葉がなかった。まさか、莉子が殺されたと言うわけにはいかなかったからだ。
それで、莉子の死は、事故死として警察に処理されたのだが、納得が出来なかったのは、莉子の従兄弟の角田良治だった。良治は大学を卒業後、定職につかずに、フリーターをしながら、気侭に暮らしている三十歳の男性だった。そんな良治は、推理小説好きで、自らでも推理小説を書く位であった。そんな良治は、子供の頃から莉子と遊んでいて、とりわけ親しかった。そんな良治は、感情的にも、莉子の死が万一殺しによってもたらされたのなら、その可能性が少しでもあるのなら、莉子の死の真相を明らかにしてやろうと、自ら西表島にやって来たのだった。
莉子が宿泊していた赤嶺荘に姿を見せた良治は、赤嶺にまず莉子の従兄弟だったという旨を赤嶺に説明した。
すると、赤嶺は、
「この度は誠に不幸が発生してしまい……」
と、言葉を詰まらせた。そんな赤嶺は、まるで莉子が死んだのは、赤嶺の責任であるかと言わんばかりであった。
そんな赤嶺に、良治は、
「莉子さんの死亡推定時刻は、午後十時から午前零時頃となってるのですが、そんな時間に莉子さんは外出したのですかね?」
と、些か納得が出来ないように言った。
「さあ、その場面を見ていたわけではないので、何とも言えません。でも、寝苦しい夜でしたから、外出したのではないかと思います」
「そして、港で足を滑らせて、海に落ち、溺死した、ですか」
「警察はそのように結論づけてますね」
と、赤嶺は言っては小さく肯いた。そんな赤嶺は、警察がそう看做せばそうなのだろうと言わんばかりであった。
そう言われ、良治を言葉を詰まらせた。というのも、この時、良治の脳裏には自殺ではないのかという思いが脳裏を過ぎったからだ。莉子は悩みを抱えていて、西表島にやって来た。あるいは、死ぬつもりで西表島にやって来た。そして、その思いを遂に実行した。それが、莉子の死の真相ではなかったのかということだ。
それで、良治はその思いを赤嶺に話した。
すると、赤嶺は、
「よく分からないですね」
と、決まり悪そうに言った。
「莉子さんは、何か悩んでるようには見えなかったですかね?」
「さあ、よく分からないですね。相川さんと長々と話をしたわけではないですからね。でも、相川さんは寡黙な女性だったというような印象を受けましたがね。で、相川さんは、船浮に絵を描きに来たと言ってました。実際にも、相川さんの部屋には、船浮周辺を描いたスケッチブックが残されていましたからね。そんな相川さんが自殺したとは僕には思えないのですがね」
それが、赤嶺の思いであった。
良治はその後、まだしばらく赤嶺から話を聞いたのだが、今の時点では、何故莉子が死んだのか、よく分からなかった。それで、今夜、港に行って、港から足を踏み外して、海に落下し、溺死するということが、現実に起こり得るのかどうか、確かめてみることにした。
だが、その調査は成果をもたらさなかった。船浮港周辺は夜になっても、漆黒の闇夜というわけではなかった。しかし、うっかりと足を踏み外し、海に落下して溺死するという可能性も有り得ると思った。
それで、明日、船浮に居住してる人たちから話を聞き、それで、成果を得ることが出来なければ、もはや莉子の死の捜査は終結するしかないと思った。そして、実際にもそうなってしまったのだった。